②笛と肉
「開けろっ! 今すぐここを開けろォ!」
もう一刻の猶予もない!
確信した根津は跳ね起き、背後のシャッターに飛び掛かった。
役立たずの拳に膝蹴りを加え、銀色の蛇腹を連打する。明日との間に立ち塞がる障壁に、何度も何度も額を身体を叩き付ける。
だが、重々しく閉じたそれは開かない。
むしろ叩けば叩くだけ、暴力的な金属音を目印にし、近付いてくる。
じっじっじっ……と無数の砂袋を引きずるような音が。
重く擦れた「奴等」の足音が。
「お願いします。助けて、助けて下さい……」
頬を伝う汗に連動し、シャッターに猛進していた拳が下降線を描く。腰の脇に垂れた手が、
情けなく懇願する根津に、嘲笑を抑えられなくなったのだろうか。
笛の
どうやら「奴等」は、目的地に到着したようだ。
端に寄れ……! 背後を
一秒でも速く状況を把握し、適切な行動を
それ以外に生き残る道はない――。
頭では、頭では理解している、理解しているのだ。
だが、身体は動かない。
首は見事に凍り付き、臆病な視線と言えば、シャッターの表面を上下するばかり。回れ右はおろか膝を震わすことさえ出来なくなった足は、ただただ棒切れのように硬直している。
動け! 動け!
半ば恫喝するように念じ、根津はガタガタと鳴っていた歯を噛み締めた。隙あらば固まろうとする首に力を込め、目玉を積載した頭を背後へ向けていく。
灰色のアスファルトがない。
遠浅。
遠浅だ。
視力が限界に達するその地点まで、肉色の遠浅だけが広がっている。
ぐちゅぐちゅ……とのたうっているのは、念入りに
予想通りでありながら想像を超えた光景が、根津の頭の中を白く塗っていく。
肉の幹と化したカーブミラーには、呆然と立ち尽くし、口を半開きにした男が映っていた。恐怖を抱くことすら許されなくなったその姿は、津波や火砕流を目の当たりにしたかのようだ。
棒立ちの根津を
足の裏を
建造物の輪郭が二重、三重にもぶれ、窓と言う窓に細かい亀裂が走る。続いてマンホールの蓋が一つ、また一つとふらつきだし、ごおっ! と怪物の咆哮が世界中に轟いた。
咆哮?
いいや、マンホールから肉が噴き上がる音だ。
油田のように溢れ出す肉が、鉄製の蓋を打ち上げ、打ち上げ、打ち上げていく。
家々を見下ろすほどになった肉の噴水は、あたかも
乱舞する放物線が空中を塗り潰し、びちゃびちゃと水っぽい着地音が地表を覆う。四方へと飛散した奴等は我先に電柱を駆け上がり、綱渡りの会場になった電線をお椀型に
正面には
上を向けば、肉を鈴なりにした電線。
前後左右の水溜まりには油田から放物線が飛び込み、水柱を乱立させている。
間違いない。
奴等は根津を包囲しようとしている。
正解と喝采するように笛の
獣の瞳だ。
歴史上最も多くの視線を浴びただろう根津が味わったのは、透明な壁に激突したような衝撃だった。ペンライトに囲まれたアイドルはこんな光景を見て、こんな圧力を受けるのだろう。
ちぃ……! ちぃ……!
交差点中からチワワのように甲高い鳴き声が上がり、根津を威嚇する。ただでさえ腰の引けていた根津は背後を踏み、待ち構えていたシャッターに肩をぶつけた。
背中が小さく弾むと同時に伝わってきたのは、ぐにゅっ……とした感触。
そして、カイロのように身体の芯まで染み入る温感。
柔らかく、温かい――。
硬く冷えたシャッターでは、ない。
見たくない。見たくないのだ。
けれど、顔は背後に向いていく。
転落を恐れながら、谷底を覗き込まずにはいられないように。
はぁ……はぁ……。
息を潜めたはずの口から白煙が漏れ出し、目の前を霞ませていく。
少しずつ視界を
そう、カーテンのように
「うう……あああ……」
ぶつ切りの悲鳴を笛の
「来るなっ! 来るなァ!」
肉の雨をまともに浴びた根津は、狂ったように全身を叩き、叩き、叩く。
腕に胴に鞭のような平手を浴びせ掛け、四肢を這い回る奴等を払い落とす。
手の数が足りない。二本では対抗しきれない。
一匹払っている間に三匹、いや一〇匹まとわりついてくる。今の自分を遠くから眺めたら、コイの群れに投げ込まれた
ちぃ……!
無駄な努力を続けている内に、仕事熱心な奴等が根津の両足を包み込む。刹那、足首から火箸を突き立てられたような熱さが走り、半分奴等に埋もれた顔面を激しく歪ませた。もしかしたら、アキレス腱を食いちぎられたのかも知れない。
意思とは無関係に足が曲がり、根津の顔面を舗道に叩き付ける。
嫌だ……! 絶対に嫌だ! あんな姿にはなりたくない!
根津は割れた絶叫を響かせ、
迫り来る運命を追い払おうと、シャッターに電柱に身体を叩き付ける。
だが、奴等は逃がさない。
横断歩道から電線からマンホールから続々と群れ集い、根津を包み込んでいく。奴等と奴等の隙間から垣間見えるカーブミラーには、肉のミノから左目だけを覗かせるイモムシが映っていた。
ちぃ!
手際よく梱包を終えた奴等は、
肉と肉の隙間から見上げる雲が、台風時のようなスピードで流れ去っていく。辛抱の足らない数匹がつまみ食いを始めると、肉のミノの中にミシンそっくりの音が響き渡った。
かたかた……と連続する振動に呼応して、足首を襲ったあの熱さが全身を突く。一二月の雨に体温を奪われていた身体が、人肌のぬるま湯に浸かっていく。恐らくは緋色のぬるま湯に。
ちぃ! ちぃ!
肉の油田を乱暴に掻き分けた奴等は、根津を下水道に運び込む。その瞬間、蜂蜜の海を思わせる重く粘っこい水圧――いや肉の重さが、根津の全身にのし掛かった。
何千匹、何万匹もの体重を背負った身体が、深く暗い地の底へ沈んでいく。
マンホールの入口から垣間見える街灯が、どんどん離れていく。
光が、光が行ってしまう!
ピンホール大まで縮んだ灯りに手を伸ばそうとしても、四肢は奴等に固められている。助けを呼ぼうと口を開けば、途端に奴等が喉の奥まで
肺に、肺に息が行かない……。
氷水を注入されたように脳が冷え、視界が
さくっ……。
目を覚ませと言うのだろうか。
半目になった根津の耳元で、レタスを食いちぎるような音が鳴る。
重く垂れていた
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