第9話
『――どうして投げてくれないんだよ!』
そう誰もが俺を糾弾した。
『――お願いだから、投げてくれ!』
そう誰もが俺に懇願した。
そうやって誰かに必要とされることが、その時の俺には何よりも恐ろしかったのだ―――。
小学五年生で出会ってバッテリーを組むようになって以来、俺と開人の野球人生は、まさに順風満帆ってヤツだった。
チームもほぼ負け知らずで、やがて全国一の称号まで手に入れた。
俺が『ヨウ』だから、開人の『カイ』と合わせて、ウチの少年野球チームの面々が誰ともなしに呼び始めた『妖怪バッテリー』という名前。
ピッチャーの俺は、既に当時から小学生にあるまじき速球を投げてたし、キャッチャーで四番を張っていた開人は、小学生には見えない大柄な体格と卓越したバッティングセンスが武器だった。
どこへ行っても俺たちは『怪物』だの『バケモノ』だの口々に呼ばれ、ゆえに、同じチームのヤツらが面白半分に呼ぶ『妖怪バッテリー』の名は、行く先々で瞬く間に浸透していった。
それが全国区になったことで、少しでも驕りの気持ちが無かったと云えば嘘になるだろう。
当然、俺と開人には有名中学からのスカウトが来たが、これからも同じチームの仲間と一緒に野球がしたいからと、当然のように二人そろってそれらを蹴り、他の皆と共に地元の中学へ進学した。
鳴り物入りで入部した中学の野球部では、一年生ながら当然のようにレギュラーに選ばれた。
そのことに対するやっかみもあったのだろう、更に真奈とのこともあり、あれやこれやと言いがかりを付けられることなどしょっちゅうだったし、例のごとく上級生から“ウップン晴らし”を受けることだってあった。
けれど、周囲には気心の知れた仲間もいたし、ちゃんと俺の力を認めて支持してくれる上級生だって当然いてくれたし、何だかんだあったところで、それなりに居心地は悪くなかった。
誰に何を言われようがイビられようが、何があったところで隣りに開人さえいれば何だって出来ると思っていた。
試合でも順調に勝ち星を重ねてゆき、さあこれから、という……まさにそんな時だった。
練習中、俺の球を捕球しそこねた開人が、腕を骨折させてしまったのは―――。
あの頃の開人は、日に日に球速を増していく俺の球に、本気で恐怖を感じ始めていた。
それも当然のことだろう。中学一年生の時点で既に、俺の投げる球の速度は150km/hに届かんとしていたのだから。
ただでさえキャッチャーの体感では、実際の球速よりも速さが増して見えるものだ。それが150km/hともなれば、恐怖を感じても全く不思議じゃない。
更に捕球には、それが速くなればなるほど、動体視力もハンパなく要求される。
普通の視力と違って動体視力は鍛えれば上がるが、それでも、あの伸び盛りだった俺が球速を上げていくペースには、おいそれとは追い付けなかったことだろう。
迫りくる白球の恐怖を克服し、かつ、球の軌道を追えるほどにまで動体視力を鍛えない限り、俺の投げる球を捕球することは絶対に出来ない。
開人は誰にも言わず、一人で必死に、それと戦っていたのだ。
その気持ちを押し殺しながら、騙し騙しで日々の練習をこなし、試合をもこなしていた。
だが、俺は一切、そのことに気付きもしていなかった。
その時、ただ俺は浮かれていた。このうえもなく浮かれていただけだった。
『見ろよ開人! 俺の球、また速くなった気がするんだ!』
そんなことを言っては事あるごとにピッチング練習に開人を付き合わせ、目に見えて球速を増していく自分のピッチングに浮かれ、どこまでも有頂天になっていた。
そんな俺に文句も言わず毎回付き合ってくれていた開人だから……それが当然だと自惚れていた。
俺が投げることで、それを受けさせることで、開人をどんなに苦しめていたかも知らないで。
だから、あれはなるべくして起こったこととも云えるのかもしれない。
俺の投げる球を開人が捕る。
それを当然のことと思っていた俺の驕りによってもたらされたのだ、と。
その日の開人の様子がおかしいことには、俺も何となく気が付いてはいたのだ。
しかし、『何でもない』と言い張る開人の言葉を鵜呑みにし、それに目をつぶって投げ続けた。
その結果、ふと訪れた開人の捕球のブレを突いたかのようなタイミングで、俺の投げた球が開人の腕を直撃した。よりにもよってプロテクターのカバーしきれてない部分へ、まさに狙いすましたかの如く過たずに。
――その瞬間、俺の頭は真っ白になった。
周囲は色を失くし、静寂に包まれ……ただ目に映るのは、苦痛に歪む開人の表情だけ。
そこで初めて、自分の投げる球が人を傷付ける凶器にもなり得るものであるのだと自覚した。
自覚させられたのだ、否応も無く。
続いて圧し掛かってきたのは、自分が親友を傷付けたのだという、その事実だった。
しかもその理由は、ただ自分が投げたかっただけ、という極めて利己的なもの。
――俺が、もっと開人の様子を気遣っていれば……! 投げたいだけの自分よりも開人を優先させていれば、こんなことは起こらなかったのに……!
後悔が常に俺を苛んだ。
そして俺は投げられなくなった。
それは、あと一つ勝てば全国大会出場決定、という、そんな矢先のこと―――。
『あと一つ……あと一つなんだから……!』
マウンドから逃げ出した俺に、誰もがそれを言った。どうにかして俺に投げさせようとした。
『おまえは投げられるじゃないか』
骨折した開人は当然のことながら戦線離脱せざるを得ないが、何の怪我も負ってない俺が、なぜそれを拒むのか、と。
『試合に出られない開人のためにも、おまえは投げるべきだ』
誰も彼もが、俺を口々に責め立てた。
なぜなら、開人が抜け、更に俺までもが抜けたらば、その時点でもう勝利など無いことが明白だったからだ。
一年生にして既に俺はエースだったし、そして開人は四番だった。
俺たち二人に代われる選手など、チームには誰一人としていなかったのだ。
しかし、それを充分に分かっていてさえ、俺は頑ななまでにマウンドに立つことを拒んだ。
ただ怖かったからだ。
投げることが、もう怖くて怖くてたまらなかった。
俺が投げたら、またそれを受ける誰かが怪我をする。
そもそも、一年生の開人が四番のみならず正捕手の座まで射止めていたのは、制球が不安定な俺の全力投球を確実に捕球できるキャッチャーが、他に誰一人として居なかったからなのだ。
その開人が捕れなかった以上、他に捕れる人間などいるはずもない。
キャッチャーの構えたミットにボールを投げようとする自分を、想像するだけで手が震えた。わけもなく呼吸が乱れて息苦しくなった。
全力投球する自分に、恐怖というものを初めて感じた。
『――おまえのせいじゃない』
俺も怖かったんだ、と……以来、練習にも顔を出さなくなった俺に、ようやっと開人が打ち明けてくれた。それまで抱えてきた想いのすべてを。
『どんどん成長してくおまえの球に、ついていけなくなる自分が怖かった。平気なカオして構えてみせながら、今度こそ捕れなかったらどうしよう、洋に何て言えばいいんだ、って、いつも内心おろおろし通しだった。そんな自分がもどかしくて、イラついて、なのにどうすればいいかも分からなくて、ただ焦ってるばかりだった。だから……これも結局は、そんな自分の弱さが招いたことなんだろうな』
そう言いながら視線を落とした先にある白い包帯を、俺は直視できなかった。
自分が付けてしまった傷など、見るのも苦しい。
だがそれ以上に、打ち明けられた話のショックの方が、その時の俺には大きかった。
それほどの恐怖と苦しみとを抱えていた親友を気遣ってやることもできなかった、のみならず、気付いてさえもいなかった、そんな自分の不甲斐なさに大きく打ちのめされたのだ。
いくら言葉を尽くして『おまえのせいじゃない』と慰められたところで、むしろそれは、俺のせいである事実を突き付けるダメ押しにしか聞こえなかった。
『だから、洋が気にすることじゃない。それに、こんな怪我すぐ治るしな。なにせ俺は、頑丈なのが取り柄だし』
そうやって気持ちよく笑ってくれる開人に、わけもなく無性にイラッとした。
『練習に出てこいよ、洋。みんな心配してるんだぞ。おまえがいなくちゃ楽しくない、って』
『――どうでもいいよ、もう』
イラッとして、どうにも捨て鉢な気分になっていた。
『俺、野球やめるから』
それを口に出してみたら、ああそうするのがいいなと、なんだか腑に落ちたような感じにもなった。
『野球はやめる。だからもう投げない』
まるで決意表明のように再び告げた途端、ガッと強い力で片方の腕が掴まれた。
『――なんでだよ!?』
怪我していない方の手で俺の腕を力いっぱい掴み上げ、その表情にありありと怒りの色までをも覗かせて、詰め寄ってきた開人が至近距離から俺を睨み付ける。
『どうして、こんなことで「野球やめる」なんて言うんだよ!!』
『「こんなこと」、だと……?』
その言葉を聞くや、カアッと頭に血がのぼった。
『俺の気持ちも知らないで……ただ「こんなこと」のヒトコトで片付けようとするんじゃねえよ!!』
そして力いっぱい掴まれた腕を振り払う。
そのまま勢いに任せて言っていた。
『どうせ、俺の球なんて捕れないクセに……!!』
言い放った瞬間、開人の顔色がサッと変わったのが目に見えて分かった。
だが、もう止めることなど出来なかった。
血がのぼった頭で考えるよりも先に言葉が出てきてしまう。
『おまえが俺の球を捕れなかったから……! だから俺は、こんなにも誰かを傷付けることに怯えなきゃならなくなったんじゃないか! その怪我を見るたび…おまえを見るたび、俺が誰かを傷付ける側の人間だって事実を突き付けられる! 俺の球なんて誰も捕れねェんだってことを思い知らされる! そうやって何でもかんでもビクビク怯えながらこの先ずっと投げ続けていかなきゃならないなんて、考えただけでも真っ平なんだよ!!』
そんな激昂する俺の言葉を。
最後の最後まで口を挟むことなく、ただ静かに開人は受け止めた。
そして『わかった』と、呟くように告げる。
『――なら洋は……俺がいなければ、これからも野球を続けられるんだな……?』
思いもよらない返答に、一瞬なにを言われたのかを理解できなかった。
ヒトコト『え?』と声を上げ、しばしの間、絶句する。
だが、俺の返答を待たずに、『だったら話は早い』と、顔色一つ変えずに淡々と開人は続けた。
『俺が野球をやめればいい。野球部もやめる。俺の顔を見るのも嫌だというなら、おまえの前には極力姿を見せないように努力しよう。――これでいいだろ?』
あまりにもテンポよく流れていく言葉に、俺の思考がついていけない。
『何も、おまえの球を捕るのが俺である必要は無いんだ。俺以上のキャッチャーなんて、今はいなくても、この先いくらでも出てくるさ。続けてさえいれば、いつかは会える』
――おい、開人……おまえは何を言っているんだ……?
応答の言葉さえ出せずに呆然としているだけの俺に向かって、そして開人は告げたのだ。
まさに最後通牒のような、その言葉を。
『おまえは絶対に野球、続けろよ。続けなきゃダメだ。――じゃなきゃ絶対に許さない』
開人は、その宣言のとおり本当に野球をやめてしまった。
俺のために野球部をやめ、そして野球そのものまで捨て去ってしまったのだ。
俺は、再び野球部に戻った。
だが、どうしてもかつてのように投げることは出来なかった。
マウンドに立つだけで、眩暈がする、ボールを握る手が震える、鼓動が大きく早く音を立て、呼吸が乱れる。
やっとの思いで投げた球は、とうてい速球とは呼べないシロモノでしかなかった。
それまでの俺を知る皆からは口々に『本気で投げろ』と言われたが、それがこの時の俺の本気だった。
さらに強要されれば、ますます手の震えは増し、呼吸も乱れ、あげく過呼吸に陥るという体たらくを晒すことになってしまった。
そして、誰もが俺に期待することを諦めた。
俺は、そもそも速球しか能のないピッチャーだったから。
速いだけの球は制球力が著しく欠けていたし、変化球を投げさせれば初心者レベル。
速球という唯一の武器を失って、並の――いや、もはや“並以下”と言わざるを得ないピッチャーになり下がった俺など、用無し以外のナニモノでもなかったのだ。
当然、レギュラーメンバーからも外された。
それでも、三年生の夏に引退するまで、頑ななまでに野球部に居続けた。
居続けなければならなかった。
――開人が、そう言ったのだから。それを俺に望んだのだから。
目が覚めたら、そこは自分の部屋だった。
開いた視界に映った見慣れた天井の模様で、自分がベッドに寝ていたことに気付く。
どうしてここに寝ていたのか、咄嗟に思い出せなくて、しばらく目を開けたまま呆然としていた。
「…ああ、起きたのか」
思いのほか耳元近くから響いてきたその声に、一瞬だけビクッとする。
振り向けば、そこに開人がいた。
俺の枕元のあたりで、床に座ったままの姿勢からこちらを見下ろしている。
「大丈夫か? 気分はどうだ?」
「なんで……?」
何だか頭の中の一カ所だけがポッカリ空白になっているようで、自分が何を知りたいのか、何から訊けばいいのか、すべてがもやもやとしていて……だから仕方なく、とりあえずそのヒトコトだけを口に出した。
なんで俺ここで寝てるの? なんで開人がここにいるの? ――そういった疑問をそのヒトコトの中に汲み取ってくれたらしい開人は、「覚えてないのか?」と、少し驚いたような色を覗かせつつも答えてくれる。
「おまえ、投げ終わってグラウンドで倒れたんだよ。気ィ失って。だから、連れて帰ってきた」
「なんで俺、倒れたの……?」
「それを俺に訊くな。――ったく、具合が悪いなら悪いと言っておけよ最初から」
呆れた声でタメ息混じりに言いながら、おもむろに開人が俺の額を小突く。
そこで初めて、自分の額に冷却シートが貼られていることに気が付いた。よく熱が出た時の氷嚢代わりにするアレだ。
そういえば今日は朝からずっと何となくダルかったかもしれない、ということを、ようやく何となく思い出す。
「別に具合が悪かったとかいうワケじゃ……熱があるとも思わなかったし……」
「確かに、微熱っぽいけどな」
そこで開人は一旦言葉を切り、「とりあえず念のため計っとけ」と、傍らに用意しておいたらしい体温計を取り上げ、俺に渡した。
「別に俺、病人じゃねえし……」
「ま、そうだな。投げる前のオマエ、ホント哀れなくらいガッチガチに緊張してたしな。投げ終わって一気に気が緩んだ、ってとこだろ。まさか失神するホドだとは思わなかったけど」
「…………」
「それに、ああいうことがあった昨日の今日でもあったことだし。あれだけ痛めつけられれば、多少の熱が出ても仕方ないか」
「……充分わかってんじゃんか」
「わかってるからこそ、病院に駆け込んだりとか救急車呼んだりとか、しなかったんだぞ。じゃなきゃ、なんで俺が重てぇ思いしてまでワザワザおまえを持ち帰ってやんなきゃなんねーんだよ。日曜だから保健室も開いてねーし、かといって、その場に置いておくワケにもいかねーし……」
――そうだったな……コイツは、こういうとこに気の回るヤツだったっけ……。
言われてボンヤリ思い出す。
そういえば中学時代、先輩に絡まれやすい俺が何事か遭難するたび、開人が何くれとなくフォローしてくれたものだった。部内のゴタゴタをあまり大っぴらにはしたくなかった俺にとって、その開人のさりげない気遣いに、いつも助けられてきた。
――今回も……そういう意味で、また助けられたってワケか。
昨日の今日で腹部にまだ色濃く残っている、あからさまに暴力を受けた所為と判る痕跡を、よりにもよって医者に見られてしまっては、さすがに誤魔化しようも無い。そこで器用に尤もらしい理由を捏造できる俺でもないし、そうなればすぐに学校へ連絡が入ってしまうだろう。挙句の果てには野球部を巻き込むことにまでなってしまう。
「大騒ぎする周りを説き伏せてまで、ワザワザ運んできてやったんだぞ。少しはありがたいと思えよな」
言われるまでもない。俺は素直に「それは大変アリガトウゴザイマシタ」と、まだ横になっている姿勢のままで、頷くように頭だけ下げてみせた。
そして、一応シップ貼ったりして冷やしてはいたんだけどなー何で熱なんて出るかなー…などとブツブツぼやきながら、さきほど手渡された体温計を腋に挟む。
そうしながら、だんだんとこれまでの経緯を思い出してきた。
昨日の練習終わりに星先輩の取り巻きたちにフクロにされたこと。
それを開人に助けてもらったこと。
今日の練習終わりに真奈が乗り込んできたこと。
その所為で星先輩と俺が勝負するハメになったこと。
そして……、
「――また、速くなってたな……」
ふと聞こえてきた呟きに、思わずハッと息を飲んだ。
それを言った開人は、少し俯いて、俺から視線を外している。
そのまま目を伏せ、やはり呟くように、ぽつぽつと続ける。
「おまえの球、さ……俺が知ってたのよりも、ずっとずっと速かった……一球ごとに、ぐんぐん速くなってってさ……あれじゃ、さすがの星先輩だって振り遅れるに決まってるよな……」
俺は咄嗟に何と返していいか分らなくて、ただ食い入るように、そんな開人の姿を見つめるしかできなかった。
「それに、コントロールだって格段に良くなってて……まさか、おまえが三球連続で同じコースに投げられるなんて、あの頃じゃ考えられなかったし……」
開人はそこで口を噤むと、しばらく何の言葉も出さずにいた。
「…でも、それも当然か」
だが、やがておもむろに伏せた瞼をゆっくりと持ち上げて、その双眸を俺へと向ける。
「おまえはおまえで、ちゃんと頑張ってきたんだもんな―――」
その言葉と共に向けられた優しい笑みで、途端、胸に何かがグッと込み上げてきたカンジがした。
何か返したい、開人に何かを言わなきゃいけない。
なのに、口からは何の言葉も出てきてくれない。
そんな自分が悔しくて、そして情けなくて、思わず唇を噛みしめた。
俺だって……ただ漫然と野球部に居続けてきたわけじゃない。
レギュラーを外されようが、周囲からどんなに白い目を向けられようが、頑ななまでに俺はピッチャーであり続けることに拘ってきた。
速球は投げられずとも、少しでも“並以上”のピッチャーにはなれるようにと努力してきた。
それまで、速球を投げられること、開人というどんな悪球でもカバーしてくれる優秀なキャッチャーがいたこと、そこにあぐらをかいて怠ってきた全てのことを、今こそ身につけなければいけないと、俺は自分に課したのだ。
速さが無いならコントロールと変化で勝負するしかないと、変化球の練習にひたすら打ち込み、結果、“初心者レベル”からの脱却に成功した。今や“上級者レベル”にだって片足くらいは突っ込めているんじゃないかという自負もある。
そうしているうちに、やがてキャッチャー相手の投球もアタリマエのように出来るようになった。このくらいの速さまでなら投げても大丈夫だという線引きを、自分の中に見つけることができたのだ。
おかげで、とはいえやはりレギュラー復帰は無理だったけど、控えメンバーとしてなら、時々試合にも出してもらえるまでになった。
速球こそ投げられなくなったものの、それでも俺は、ちゃんとピッチャーで在り続けようとしてきたんだ。
でも……それでも、やはりどうしても速球を投げたくて。どうしても完全には捨ててしまいたくなくて。まだ武器として持ち続けてはいたくて。
なのに皆との練習ではどうしたっても投げられない、その鬱憤を晴らすかのように、家で一人、来る日も来る日も庭の塀に向かって全力で投げていた。
塀の、ちょうどキャッチャーミットの高さになるあたりに印を付け、そこへ向かってただひたすらに投げた。それこそ力尽きるまで何球だって投げ続けた。
投げ続けるうちに、以前よりも更に俺の球は速くなっていったし、同時に、カンペキなまでの制球力だって身に付いた。
以前の俺は、投げる球が速くなればなるほど比例して制球が悪くなっていたものだったが、今の俺なら、ストレートならば全力投球しても的を外すことは絶対に無い。
――開人は……そんな俺のことを、ちゃんと分かってくれてた……!
それが無性に嬉しくて、胸が詰まった。
やわらかな開人の眼差しが、本当に嬉しかった。
『俺はおまえを信じてる』
言った言葉のとおり、ちゃんと信じてくれていたのだ。俺のことを。
信じてくれたからこそ、だから構えたミットをコレッポッチさえ動かさずにいてくれたのだ。
今の俺だったら、もう開人を傷付けるような投球はしないと、そう、信じて―――。
――そんな開人が、そこにキャッチャーとして居てくれたから。
だから俺は、星先輩との勝負に投げ勝つことだって、出来たんだ―――!
開人がそう俺に望んだんだから……そう自分に言い聞かせては、俺は俺なりに頑張ってきた。
でも、いつだって苦しかった。いつだって逃げ出したくて仕方なかった。
開人の居ない場所で自分だけ野球を続けることに、俺は何の意味も見出せずにいた。
後ろめたさは常に付きまとっていたし、自分の努力に虚しささえ覚えることだってあった。
けれど今……そんな行き場のない気持ちが、ようやく報われてくれたような気がした。
そんな俺を認めてくれた、開人の、その言葉で。
気持ちで通じ合えたと思った。共に同じ方向を見つめていられた、かつての頃と同じように。
今はもう、それだけで充分だった。
本音を言えば、昔の関係に戻りたい。
同じチームで一緒に野球をして、バッテリーを組んで、同じ夢を目標にして……そうやって、かつてのように一緒に歩んでいけたなら、どんなに嬉しいだろう。
でも、俺にそれを望む資格は無い。
俺たちが距離を置くようになってしまったのは、そもそも俺の暴言が原因なのだ。
開人を傷付け、あげく野球までをも奪ってしまった、一時の感情に任せた心無い言葉。
あれを詫びて許しを得たいと思うのは、どこまでも俺の自己満足でしかないし、いったん言ってしまった言葉を取り消すのだって、もはやどう足掻いても不可能だ。
その所為で野球とは別の道を選ぶことになり、既にそれを歩み始めている開人を、また俺の都合で再び野球へと引き戻そうとするなんて……そんなのは、ずいぶん虫のいい話ではないか。
俺がそれを望むことなど、許してもらえるはずもない。
だから、今はこれだけで充分だ。
野球を続けている俺を開人が認めてくれる――そのことで、俺は満足しなければいけない。
唇を噛みしめて言葉も出せないまま、俺は顔を伏せ、おもむろに手を伸ばすと、開人の腕をぎゅっと掴んだ。
今は何も言うことはない。
でも、言って欲しいと願う気持ちは止められなかった。
――俺に『目ェ覚ませ』と言うのなら……オマエだって同じだろう?
――また野球をやりたくなったんじゃないのか? そうだって、そう言えばいいだろう?
――また一緒に夢を見よう、とでも、オマエから言ってくれりゃーいいだろうっっ!
噛みしめる唇が、開人の腕を掴んだ手が、小さく震えているのが自分でも分かる。
それが治まるまで、俺の気が済むまで、開人は何も言わず、ただそうやってされるがままでいてくれた。
無言で…でも何か物言いたげな瞳で、俯く俺を見下ろしている。
この時の俺には、その視線だけが、なぜかハッキリと感じられていた。
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