少年少女はお魚の夢を見るか

第1話




「ねえねえヒロちゃん、聞いて聞いて~♪」



 ――まーた始まったよ、真奈まなの『聞いて聞いて』が。

 軽く心の中でウンザリとしつつ、しかし俺は、わざわざ読んでいた参考書から視線を上げて、その声が聞こえてきた方向を振り返った。

 そうしないと、俺が視線を向けるまで延々、『ねえねえ聞いてよー!』と袖を引っ張られウルサイくらいに纏わり付かれるハメになるのだ。――ということを、もういい加減コイツとの付き合いも長くなった俺だからこそ、充分に心得ている。

 振り返ると、予想に違わず。

 相変わらずの何を考えてるのかわからないくらいニコニコ満面の笑顔が、すぐ近くから俺を覗き込んでいた。

 コイツは、いつもそうだ。

 こうやって他意の無さそうなニコニコ笑顔でもって、他人を煙に巻いては容赦なく自分のペースに巻き込んでゆく。

 付き合いの長くなった俺に対しても、その例に洩れず。

 繰り返すが、かれこれ長くなったコイツとの付き合いも、そろそろ十年になろうとしているのだ。

 コイツ――柏木かしわぎ真奈まな。最も付き合いの長い、俺の幼馴染み。

 だから知ってる。

 コイツがこうして俺に『聞いて聞いて~♪』と持ちかけてくるからには絶対、聞くほどでもない全くもってどうでもいいことか、もしくは、人の気を動転させるくらいに突拍子も無いこと、そのどちらかに決まっている、って。



「真奈ね~、やっぱりねえ……」

 俺が振り向いたと同時、それを合図にしたかのように、その独特な間延び口調で真奈がニコニコ勝手に話し出す。まだ俺が、『聞いてやる』とも何とも返事などしてないのに。――まあ、それもいつものことだが。

 何も言わない俺のことなど気にも留めてない風に、しかもどことなくウットリとした表情でもって、真奈は続ける。

「やっぱり、お魚になりたいの~」

「………ああそうかよ」

 聞いた途端、思わず脱力。

 ――人の勉強してる手をワザワザ止めさせてまでする話なのか、ソレは……!

 そのナンノコッチャ分からないセリフを、だから俺はアッサリと聞かなかったことにした。

 そして即座に、この話題を自分の中の“どうでもいいこと”の引き出しに振り分ける。

 振り分けたが最後、これ以上、俺がコイツのタワゴトに付き合ってやる必要は無い。コレッポッチも。

「まあ、頑張れや」

 おざなりに返してやりながら、俺は再び、手元に広げっぱなしの参考書へと視線を戻した。

「うん、そうなの~! 真奈、頑張ることにしたの~」

 だがそれでも、ニコニコと俺を追いかけてくる真奈の声。

 しかし、それを受け止める俺の耳は、右と左が貫通しているうえ渋滞知らずの高速フリーウエイ状態。

 真奈のタワゴトは聞き流すに限る。――ということも、長年の付き合いから、俺は充分に熟知しているワケなのである。

 そんな俺に向かって、なおも真奈は告げた。



「だから真奈も~、ヒロちゃんと一緒の高校、行くことにするね~!」



「―――は……?」



 長年の経験から、真奈のタワゴトに対しては馬耳東風が板に付いてきた百戦錬磨の俺の耳も、さすがにこの言葉に対しては、そうはいかなかったらしい。

 反射的にマヌケな声を上げヤツを再び振り返ってしまってから、そのままピタッと全身で硬直する。

 一瞬だけ、思考も止まった。

「ばっ…、――バカかオマエは!!」

 しかし次の瞬間には、ほぼ呆れ果てた挙句の果てに、何を考えるよりも先に、その言葉がまず口をついて出ていた。

「今になって、なにムボーなこと考えてんだよ!!」

 もはやこの際、“お魚”がどういうルートを辿れば“俺と一緒の高校”に行き着くのかは――それはそれでコイツの思考回路が充分に問題ではあるのだが――全く問題ではない。

 何が問題、って……要はコイツ自身が大問題である。



「オマエは……それ、自分の成績を解ってる上で、言ってやがるんだろうなあオイ……!?」



 俺が進学を希望している高校――というのは、ここら近隣の高校の中では、わりかしハイレベルの部類に入る私立高校だ。

 自慢じゃないが、学年順位トップ十位内にそこそこ食い込んでいる俺でさえ、ようやく併願ギリギリOKとみなされるレベルである。

 対して、真奈の成績は……全学年二百余人中、学年順位ドベ3。



「まず自分のノーミソと相談してからモノ言いやがれ、このドアホ!!」

「だぁいじょーぶっ! 真奈は、やれば出来る子なんでーすっ♪」

「――って、自分で言うか、それを!!」

 確かにコイツは……そうだな、成績こそドベ3だが、頭の回転は悪くない。それは認めよう。

 成績が芳しくないのだって、ただ単に、“これでもか!”と云うくらい徹底的にどこまでもトコトン勉強しない、というだけのことである。

 やらない理由は、当人いわく『つまんない』、ただそれだけ。

 自分でもペロッと言っちゃってやがる通り、確かに『やれば出来る』だろうヤツなのである。

 とはいえども、時期が時期だ。

 二学期も半ばを過ぎ去って、もう秋の終わり…なんていうこの季節は、分不相応な成績の者が一念発起するに適した季節では、断言するが、決して無い。

 そーいう現時点の成績を持ってるヤツなんかが少しばかり発奮しただけで合格できる、ってーんなら、日々マトモに勉強に励んでるヤツらがヤル気なくすぞ大幅に?

 そもそも、そーいうヤツらに対して失礼ってものだろうが。余りにも失礼千万を通り越して、もはや無礼だ。

「悪いこた言わん、考え直せ!」

「えー、やだあ。だぁって野笛のぶえちゃんも『近いから』ってヒロちゃんと同じトコ受けるってゆーしぃ、考え直したりなんかしたら、真奈が淋しくなっちゃうじゃなぁ~い?」

「んなこた知らんっっ!!」

 ――てか、そもそも“淋しい”っつー理由なんぞで進路を決めるなバカヤロウ!!

「だーからぁ、ヒロちゃんが責任持って、真奈を同じ高校に入れられるようにガンバロウ~♪」

「やかましいわ!! どこをどー聞いたらそんな結論に結びつくんだ、キサマのアタマは!! 羽でも生えてんのかよ、このトリ頭!! 年がら年中フワフワフワフワ、浮わっついたことばっかり言ってやがって!! もーいい加減ウンザリだ!! 付き合いきれねーっつの!! 俺は知らんからな!! 何も聞いてない、聞かなかった、だから何も知らん、コレッポッチのカケラだってテメエの事情なんか知るもんかいっっ!!」

「まったまたあ、そぉんな大人気ないー……」

「大人気なんぞ無くたって大いに結構だ!! 俺だって、受験期にオマエと遊んでられるほど、そーそーヒマヒマじゃねーんだよっっ!!」

「なーに言ってんだかっ! ヒロちゃん、どうせ野球関係の推薦でヨユーの特待入学できるじゃな~いっ♪」

「そんなもん、取れてたまるか!!」

 取れるハズもないからこそ、こうして寸暇を惜しんで勉強しなくちゃならないハメになってんじゃねーかよ!! ――という俺の傷心事情を、解ってる上でわざわざ抉ってくれてやがるのかコイツは!!

「とにかく、だ!! 幾らオマエのムチャクチャな頼みごとでも大概は笑って許してやれるよーな大らかで心豊かな器の広い俺でも、だ!! そればっかりは聞いてやれねーなっっ!! ムリムリムリムリ、絶対ムリ!! やるだけムダムダ、いーかげん解れよタコ!!」

「あっ、ヒッドぉぉーイ! そんなに断言しなくたってぇ……」

「断言でもせにゃ、いつまでたっても解らんだろーがそのキサマの軽い脳ミソは!!」

 あまりなまでの俺の“取り付く島もナシ!!”な切れまくった態度に、ほんの少しだけ、不満そうに軽く唇を尖らせてみせるも。

 だが次にはもう真奈は、軽く握った両手のこぶしを口許に当てつつ、うるうるっとした瞳で見上げてくる。

「ヒロちゃん……」

「俺に猫かぶったところで無駄だぞ」

「…………」

 当然、不本意ながらコイツとの付き合いも腐れるくらいに長くなってしまった俺のこと、泣き落とし攻撃にだって既に慣れっこである。

 大概において、こういうポーズをとった時のコイツの涙は、十中八九、ウソ泣きだ。

 案の定、即座に涙を引っ込めて――それはそれでフツーに考えればスゴイ特技だが――今度は、胸の前で会わせた両方の掌を軽く斜めに傾けつつ、必要以上にニッコリと笑ってみせる。

 言うに及ばず。今度はブリブリっ子モードで“おねだり”のポーズ。

「真奈は信じてるよ! ヒロちゃんなら絶対に、真奈の成績を何とかしてくれるって! だってヒロちゃん、ものすごく教え方うまいもん!」

「俺を買いかぶってみても無駄!」

「………じゃあ、なにをかぶりたいの?」

「誰が何をかぶりたいっつってるかバカモーン!!」

 ――その、小首を傾げて如何にも可愛らしくキョトンと訊いてくる様子が、更に腹立たしいことったらこの上もないんだッてーのーーーーーッッ!!

 もーマジで、なんでコイツの頼み事ごとき一つ断るのに、こんなにまでの労力を無駄に浪費しなければならないのか。

 なので、心の広―い俺様は毎回、コイツの持ち込んできた頼み事の大抵において、ここまでの労力を費やす前にサッサと聞いてやっちまうことにしてるんだけど。…って、それはそれで甘やかし過ぎたか?

「とにかく!! ともあれ、さっきから言ってるよーに!! この件に関しては、オマエが何をどう言おうが俺は一切関係しねえ!! 塾に行くなりカテキョー付けるなりして、オマエ一人で勝手にガンバレ!! ――以上おわりっっ!!」

 まさしくヤツの目の前でガラピシャッとシャッターを下ろすように手ぶり付きで一喝してやると、そのままクルリと方向転換。

 今度こそ改めて、広げっぱなしだった参考書へと視線を戻した。

 そうそう、俺には俺の事情もあるんだ、俺は俺の勉強勉強っ!



「――まったまたぁ……?」



 ようやく勉強モードに切り替わりかかったアタマの向こう側から。

 ふいに耳へと飛び込んできた、そんな声。

 言わずもがな……それは再び真奈の声、だったのだけど……、



 ――思わずピクリと、脳の片スミが反応した。



 既に半分以上、脳ミソごと“真奈の言うことになんか今後一切聞く耳ナシ!!”な状態に切り替わっていたのに……そうなると絶対に、ヤツが何を言ったところで気にも留めなくなるというのに……、

 でも、どことなく不穏な響きをもって、その声は届いてきたのだ。

 だから、脳ミソの中の“思考”じゃなく“本能”って部分で、俺は反応したのだろうと思う。

「ヒロちゃんたら、そぉんなこと言っちゃってぇ……」

 さきほどから全く変わらない真奈の声が、だって、こんなにも全く違ったトーンで聞こえてきてしまうのだから。

 ――まさか、ひょっとして……?

 恐る恐る、コッソリ横目で彼女の表情を盗み見る。

 そこに在ったのは、相変わらずニコニコと俺のことを見つめては微笑んでいる……でも、明らかに普段とは違ったように見える……、



「…………ッ!!?」



 それが視界に飛び込んできたと同時。

 反射的に俺は息を引き攣らせ、ガタッと大きく音を立てながら、その場のもの全て薙ぎ倒すホドのイキオイでもって仰け反っていた。

 ――ヤバイ……!! これはヤバイしっ……!!

 脳ミソからの警鐘に身体が反応する間も無く、ふわりと優しく、俺の手が引き寄せられる。真奈の手によって。

「そんなに謙遜しなくても、わかってるのよ。ヒロちゃんが、口ではどんなこと言ったって、でも実は真奈のこと大事にしてくれてるの」

 一見にこやかにしか見えないのに不気味にハクリョク満点な不敵な笑顔。

 加えて、不自然なまでの優しげな声――むしろ“優しい”を通り越した“猫なで声”とでも言うべきか。

 これまでの長い付き合いの中、折に触れて何度も目の当たりにしてきた俺だからこそ気付ける、いやむしろ俺にしか気付けないだろう、―――。

 そう、コイツは……天使の顔の裏側で、密かに悪魔をも手懐けている。

 きっと、それのオソロシサを最も良く知っているのも、この俺に違いなかった。

 なにせ俺は、真奈が悪魔を発動させる時そのトバッチリを百発百中の確率で食らうポジションにいるのだから。

 気の置けない幼馴染み、なんていうポジションは、何でも見え過ぎて時に困りものだ。おかげで、年々すくすくと元気に姑息に腹黒く育っていくそれの成長過程だって、見たくもないのに見続けていなければならないんだから。

 ゆえにヒシヒシと襲いくるイヤな予感に苛まれて俺は、もはやひくつく口許を抑え付けているので精一杯。



「だから、――なのよ、ヒロちゃん?」



 そして、ヤツは。

 ふいに浮かべた極上の笑顔と共に、そんなスサマジク不穏なセリフを。

 あくまでもニコヤカに、アッサリさっぱりキッパリと、言い放ったのである。



「ヒロちゃんは、真奈の面倒を見なきゃいけないの。そう決まってるのっ♪」

「なっ…、なんッ……!?」

 なんでそんなことオマエに断言されなきゃなんねーんだ!! と、ドモりつつも言いかけたセリフが、そのまま喉元に引っかかって、息ごと気勢が止められてしまった。

 だって、見てしまったから。

 言い切る前に、“それ”が目に入ってしまったから。

 言いかけた俺を遮るように目の前で広げられ差し出された、――“それ”は一枚の薄い紙っぺら。

 その紙面の向こう側には、“これ以上はありえない!”っつーくらいに最上級な、だからこそかえって不吉にしか感じられない、真奈のニコニコ超絶満面笑顔。

「ホラ、これ♪ だって、真奈を合格させてくれたら、ヒロちゃん、お小遣い二千円upだよ~ん!」

「んなッッ……!!?」

 なにぃー!!? そんなん初耳だぞコノヤロウ!! と絶叫する代わりに、思わず目の前の紙を引ったくっていた。

 そこには、真奈の言う通り。



『マナちゃんの勉強を見てあげて、見事志望高校に合格させることができたら、

 毎月のお小遣い二千円増量してあげます。

 ただし、マナちゃんが合格できなかったら、

 その時は減額二千円でお小遣いダウンを覚悟しておくように!』



 そんな、母の手による書き付けが……しかも、ご丁寧に押印までされてやがるし……!!

 書き付けを読んで真っ白になった俺のアタマが、それでケナゲに、この現状を打開するべく対応策を打ち立てようと頑張ってはみるものの。

 ――現在の俺の小遣いが月三千円だから……決して多いとは言えないが、というよりむしろ少なすぎて涙も出ないくらいだが、かといって別に真奈の面倒なんざ見るくらいなら上がってくれなくても全くもって構わない……しかし、その所為で二千円も減額されるとなると一月千円ってことになり、それは痛い、痛すぎる……ってーか、今日日の中高生が月額千円で生活できると思ってんのか!! どー足掻いても足りねーよ、足りるハズねーよ、足りるかってんだよコンチクショウっっ!!

 ただでさえ少ない小遣いを、これ以上減額されることになるのは、マジでヤバイ。かなりヤバイ。ヤバ過ぎて死活問題にすらなりかねない。

 高校生になったらバイトが出来る、ということを差っ引いても……あの高校、確かバイト禁止だった上に、運動部に入る予定の俺には、労働のための時間などコレッポッチも取れないだろうことが目に見えて解っている。

 ――つまり結論。

 真奈という面倒事を背負い込むことと後々の自分の経済状況とを比較して、どっちを取るか、っつーことに尽きるワケであり。

 当然、そんなもん俺に選択の余地すら一寸たりとも残されていないのは一目瞭然。

(なんで…なんでコイツは、そーやって外堀から攻めてくんのが上手いんだよっっ……!!)

 しかも最も手薄な穴を的確に見極めて突いてきやがることについては、天下一品。

「じゃっ、決ーまりっ♪」

 声にも出せない内なる嘆きの絶叫に、コイツが気付いてくれることなどあろうハズもなく。

 そうルンルン口調でイソイソと握っていた書き付けを仕舞う――あくまでそれを俺に渡さないトコロがまた小憎たらしい――真奈を眺めやりつつ、俺は。

 もはや逃げ場のない袋小路に追い詰められて諦観の境地に達してしまったような気分になって、深々と一つ、タメ息を吐くと。

 そのまま力なく、参考書をカベに向かって放り投げたのだった。






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