小さな娼婦編 第44話

 短い黄金の髪をなびかせて、雷砂は走る。

 その勢いにすれ違う人が目を見張ろうとも気にすることなく。

 向かう先は、愛しい人の待つところ。今の雷砂が、帰るべき場所。

 たった一晩、その顔を見なかっただけなのに、もう恋しい。彼女の顔を見て、声を聞いて、その体温を感じたい。


 もう、眠ってしまっただろうか。


 日は落ちて、暗くなって来た空を見上げて思う。

 もし待ち疲れて眠ってしまったなら、眠る彼女の傍らで彼女の寝顔を見ながら過ごすのも、きっと楽しいに違いない。

 そんなことを考えながら、雷砂は唇の端に笑みを浮かべた。


 止まることなく、随分長く走った。

 そうこうする内に、ここ数日で随分見慣れた建物が見えてくる。

 起きているだろうか、寝ているだろうか。

 彼女のことを想い、足を速める。

 そうして見上げた2階の窓に愛しい人の人影を認めて、雷砂は微笑んだ。


 段々と近づき、彼女の細かな表情が分かるくらい近くに来た雷砂に、やっと彼女が気がつく。

 彼女は菫の瞳をかすかに見開き、それからとろけるように笑った。ほっとしたように、本当に嬉しそうに。

 それから、声を出さずに口を動かす。おかえりなさい、と。


 雷砂も同じように、ただいま、と返して、少しでも早く彼女の元へと急ぎながら思う。

 いつだったか、こんな事があったな、と。


 あれは、まだ二人が出会ったばかりの頃。草原の傍らの小さな村で。

 あの時もやはり、宿の二階から彼女はこんな風に雷砂を見ていた。

 宿に入り、階段を上る。



 (オレは、いつも待たせてばかりだ)



 雷砂は思う。

 そして、どんな時も彼女は微笑んで雷砂を迎えてくれた。待つことをやめず、雷砂の帰りを信じて。

 だが、それはいつまで続くだろう。

 彼女はいつまで、雷砂を待っていてくれるのだろうか。


 自分は子供で彼女は大人だ。

 彼女が大好きで、大切だからこそ、その事を意識せずにいられない。


 もし彼女が待っていてくれたとして、雷砂が急いで大人になったとして。

 でも、雷砂には与えてあげることが出来ないのだ。

 二人の血を引く子供も、家庭という安定も。


 男になりたいと、思ったことなど一度もない。

 だが、彼女と出会い、彼女を好きになって、時々思うのだ。

 自分が男だったら、何か違ったのだろうか、と。

 こんなに不安な気持ちにならず、ただ純粋に彼女を愛することができたのだろうか、と。


 だが、その答えが分かることはない。

 雷砂は女で、それはこれから先も変わることのない事実なのだから。


 ゆっくりと、扉を開ける。

 窓際に、彼女がいた。

 扉の開く音に振り向いて、淡い金色の髪がふわりと揺れる。その瞳が喜びにあふれ、雷砂の顔を映しだした。


 雷砂は彼女を見つめ、揺れる心を押し隠して微笑む。

 彼女を見ると、少しだけ泣きたいような気持ちになる。

 好きで、大好きで、愛しくて、切ない。



 「おかえり、雷砂」



 微笑み、彼女が言う。

 いつもどれだけ心配をかけているだろう。

 だけど彼女がその事に対して文句を言うことはほとんどない。

 いつだって、ただ、おかえりと迎えてくれる。優しい笑顔と共に。



 「ただいま、セイラ」



 雷砂も笑う。言葉で伝えきれない想いを込めて。

 ちゃんと、伝わっているだろうか。

 あなたが好きだと。心から愛しく、大切に思っていると。



 「さ、早くこっちにきて、早く私に雷砂がちゃんと元気だって確かめさせて?」


 「心配した?」


 「そりゃあね。でも信じてたわ。雷砂はちゃんと無事に帰ってくるって。確信していたと言っても良いわね」



 言いながら胸を張るセイラを、雷砂はまぶしそうに見つめた。



 「そっか」


 「そうよ」



 言いながら、近づいてきた雷砂を抱き寄せてた。

 ぎゅうっと抱きしめ、黄金色の髪に頬をすり寄せる。



 「だって、雷砂が私を悲しませるようなことをするはずがない。そうでしょ?」


 「うん、違いない」



 雷砂もセイラの柔らかな体をそっと抱き返し、甘い香りを胸一杯に吸い込んだ。



 「大好きだよ、セイラ。早く、会いたかった」



 彼女の胸に顔をうずめたまま、くぐもった声でその言葉を伝える。



 「ふふ。雷砂からそう言ってくれるなんて珍しいわね」


 「そんなこと……ないと思うけど?」


 「あるわよ。どうしたの?何かあった?」



 ベッドに座りましょうと、彼女が促せば、雷砂は素直にそれに従う。

 まず、セイラがベッドに腰掛け、雷砂がもそもそとその膝によじ登る。

 そして、一時も離れたくないとばかりに彼女に抱きつき、その肩に頬を預けた。


 いつにない、その甘えた仕草に、セイラは少しだけ心配そうに眉をひそめた。これは絶対に何かあったわね、と。

 その何かを、ちゃんと聞き出してあげないと、と思いながらただ優しくその背中を撫でる。

 何度も、何度も、優しく慰撫するように。



 「依頼先でなにかあった?言ってごらんなさいよ。きっと気が楽になるわ」



 歌うように、セイラがささやく。



 「セイラはいつだって、全部お見通しだな」



 苦笑を漏らし、雷砂は顔を上げた。

 そうして間近から愛しい人の顔を見つめ、



 「ね、セイラはオレが、怖くないの?」



 そう問いかけた。真剣に、どこまでも透き通った表情で。

 セイラは柔らかく瞳を細め、雷砂の頬を両手でそっと包み込む。

 そしてまっすぐに、愛してやまない色違いの瞳をのぞき込み、



 「怖い?どうして、私が雷砂を怖がるの?怖くなんかないわ。ちっとも」



 心を込めて、言葉を紡ぐ。

 雷砂は一瞬目を伏せ、それから再びセイラの瞳を見た。

 そして再び問う。



 「たとえばオレが血塗れで、帰ってきたら?」


 「きっと心配するわね。胸がつぶれそうなほど」


 「でも、その血はオレの血じゃないんだよ。みんな、返り血なんだ」



 怖いでしょ?と雷砂が俯く。

 セイラはその顎をすくうように持ち上げて、その頬にそっと唇を落とした。



 「怖くないわ」


 「どうして?オレは怪我一つ負うことなく、それだけの返り血を浴びる、化け物かもしれないのに?」


 「どうしてそんな風に思うの」



 セイラはそんな雷砂の弱ささえ愛しくて仕方がないとばかりに微笑む。



 「あなたは化け物なんかじゃない。あなたは強いだけよ、誰よりも。ただ、それだけじゃない」



 優しく頬を撫で、セイラは思いを込めて雷砂を見つめた。



 「雷砂が他人の血塗れで帰ってきても、私はあなたに怪我がなくてよかったと、そう思うだけ。雷砂が理由もなく血を流す人じゃないことは、私が誰よりも知ってるわ」



 微笑みを深め、目を細める。優しく、愛おしそうに。



 「好きよ、雷砂。大好き。私があなたを怖いと思うことも、嫌いになることも絶対にない」



 雷砂の柔らかな頬を両手で再び挟み、瞳をのぞき込んだ。

 いつ見ても、綺麗な目。まっすぐな意志を感じさせる、美しい瞳。

 その瞳から、雷砂はただ静かに涙をこぼした。

 セイラは黙って顔を寄せ、唇でその涙をすくい取る。

 そして目と目をあわせ、想いを込めて、



 「愛してるわ、雷砂」



 小さく、囁いた。

 その声小さく儚い声も言葉もきちんと雷砂の耳に届いて。

 雷砂の唇が柔らかく弧を描き、その瞳から再び、涙が一粒こぼれた。


 セイラの唇が再び雷砂の頬に触れ、それからその瞳をじっと見つめたまま、ゆっくりと唇同士のキスをした。

 伝えきれない想いを込めて。胸に溢れる愛しさを伝えるように。

 角度を変えて、何度も唇を触れ合わせる。そうして、雷砂の唇の柔らかさをただ感じた。


 すがるように、セイラの服の胸元を握る雷砂の手が愛おしい。

 唇を離し、両手で雷砂の手をとって包み込むと、その指先へそっとキスを落として微笑んだ。



 「私がいるわ。私は、あなたから逃げない」



 まだ小さなその体を腕の中に閉じこめるように抱きしめて。



 「ねえ、私、楽しみで仕方がないのよ?」



 そっと、ささやく。



 「あなたと一緒にいる時間も、離れて過ごす時間も、雷砂の事を思って過ごす時間の全てが楽しみで仕方がない。たとえ、悲しみや辛さがあったとしても、あなたが与えてくれる感情なら、きっとそれも幸せだわ」



 雷砂の黄金色の髪に頬を寄せ、大人よりも少し高い体温を、華奢な体の感触を、己の体の全てで味わう。

 いつか自分の子供を産むことがもしあったとしても、これ程に愛せるか分からない。

 きっと、自分が己の子供を持つことはないだろうが、その事を惜しく思う気持ちはない。

 これからの人生を、雷砂と想い想われ生きていくことが出来るのなら、それだけで十分だと思うから。


 腕の中で、雷砂の体からくたりと力が抜ける。

 眠ってしまったのだ。

 やはりとても疲れていたのだろう。

 耳の側で聞こえる穏やかな寝息に耳を澄ませながら、セイラもまた目を閉じる。


 もう少ししたら、もう少し雷砂の眠りが深くなったら。

 今日はもう、このまま雷砂と一緒に寝てしまおう。

 何よりも安らぎを与えてくれる、愛しい相手の寝息と命の鼓動に耳をすませながら。 


 セイラは口元に柔らかな笑みを浮かべ、抱きしめたままの雷砂の体を優しくゆする。

 雷砂が少しでも心地よく、眠れるように。

 いつか離れる時が来るとしても、今はこんなにも近くにいる。

 その事に、身も心もとろけてしまそうなほどの幸せを感じながら、セイラはただ微笑むのだった。


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