第7章 第9話
キアルは、ただ立ち尽くしていた。
目の前で、母が消えた。
黒い霞となり、かき消すように。愛していると、そう言い残して。
でも、目を合わせられない。
目を合わせたら、ひどい言葉で罵ってしまいそうだった。
もう、母さんはいないのか、と思う。
もう、あの優しい声を聞くことはなく、愛しそうに見つめてくれることもなく、暖かく抱きしめてくれることもない。
死んでしまった。
死んだ後の、体さえ残さずに。
悲しいのに、涙が出ない。
体の中が、空っぽだ。何も残っていない。何も。
どうしていいのか、分からなかった。
ふと、すぐそばに人の気配がした。
その人は囁く。
雷砂が母さんを殺したのだ、と。
(憎め)
その声が、耳元に憎しみを吹き込んでくる。
(殺せ)
憎しみと殺意が、胸の奥からわいてくる。
何も持っていなかったはずの手に、固い感触。
持ち上げてみると、家にあるはずの包丁だった。母さんが、いつも使っていた包丁。
それを使って母を殺した雷砂に復讐するのは、とても理にかなっているように思えた。
(さあ)
声が、促す。雷砂を刺せ、と。殺してしまえ、と。
キアルは、のろのろと顔を上げて雷砂を見た。
何だか泣きそうな顔をしてるな、と思う。いつもの雷砂からは想像できない顔。
(あいつに悲しむ権利なんかあるのか?)
いや、無い。母さんの死を悲しむ権利があるのは自分だけ。
キアルは、何かに操られるように、足を踏み出した。
俯いたままの、キアルを見つめた。
何と声をかけていいのか分からなかった。
それしかなかったとはいえ、自分は彼の母親を殺した。憎まれても、仕方がない事をしたのだ。
キアルの後ろ、少し離れたところにセイラが見えた。
気遣わしそうに、雷砂を見つめる眼差しに、少しだけ救われる。
彼女に力なく微笑みかけ、それから再びキアルを見上げた。
魔鬼と化していたシェンナの体は、空気に溶け消えてしまった。彼女を死に追いやった右手を握りしめ、ゆっくりと立ち上がる。
どんな非難も受けるつもりだった。自分はキアルに、それだけのことをしたのだから。
不意に、キアルの体がぐらりと揺れた。
途端に、彼の周囲をイヤな気配が取り巻くのを感じた。
(なんだ?)
意識を集中しじっと見つめると、うっすらと透けるように、あの男の姿が見えた。
雷砂に見られていることに気づいたのか、紅い瞳が雷砂を見返す。
良く気づいたねー彼の唇がそう動き、弧を描いた。楽しくて仕方がないと、そう言うように。
次の瞬間、キアルがゆるゆると顔を上げた。その瞳が雷砂を射る。憎しみと、殺意をたたえて。
雷砂は雷に打たれたようにその場を動くことが出来なかった。
キアルが、ゆっくりと雷砂に向かって歩き出す。その歩調はだんだんと早くなり、そして。
キアルの様子がおかしいことに気づいたセイラが走り出したときにはもう遅かった。
走る勢いのまま、キアルは雷砂にぶつかり、その手に持っていた包丁の刃はなんの抵抗もなく、雷砂の腹に吸い込まれた。
痛い、とは感じなかった。ただ、その部分が焼けるように熱かった。
キアルを、見る。
目が、正気ではない。その目を見ただけで、あの男に唆され、操られたのだと分かった。
自分を刺したこの行為が、キアルの意志ではないことが分かり、少しだけほっとした。
膝から力が抜け、体が崩れ落ちる。腹に刺さった包丁が、ずるりと抜けた。
「雷砂!」
セイラの、悲鳴のような声。
大丈夫だ、と答えたいのに声が出ない。目を動かし、彼女の姿を探す。
だが、彼女を見つける前に、もう一度包丁を振り上げる、キアルの姿が映った。
キアルの様子がおかしいと気づいたのは、彼が雷砂に向かってふらふらと歩き出した時だった。
それまでは、雷砂の様子が余りに痛ましく、彼女ばかり見ていたから気づくのが遅れたのだ。
自分を罵りながら走る。
あんなにのろのろした動きなら追いつける、そう思ったのもつかの間。
キアルは徐々に歩くスピードを速め、そして体ごと雷砂にぶつかった。
次の瞬間、雷砂がゆっくりと、膝から崩れ落ちるのが見えた。
「雷砂!」
悲鳴のような、声が漏れる。
早く、そばに行かなくては、と精一杯の早さで前へ進む。倒れた雷砂へと再び振り上げられた刃物が光るのが、視界の中に飛び込んできた。
心臓が、凍りつく。
「だめ!やめて!!」
叫びながら、間に合えと祈りながら走る。
まるで、スローモーションの様に時が進む。
少年の持つナイフが少しずつ動き、雷砂に近づいていく。
普通に止めようとしても間に合わないーそう判断したセイラは、少年の腰に抱きつくように飛びついた。
斜め後ろから体当たりをされた少年は地面に押し倒され、その手から刃物が弾け飛ぶ。
セイラはそのまま押さえつけるように馬乗りになった。
暴れて振り回される両腕をしっかり押さえつけて、文句を言ってやろうと少年の顔を見た瞬間、彼の様子がおかしいことに気が付いた。
狂気に捕らわれているような、錯乱しているような。
とにかく普通ではなかった。
腕を振り上げ、力一杯頬を張る。
「しっかりしなさい、キアル!」
そう言いながら、もう一度、手のひらを振り抜くと、少年の動きが止まった。
「あ、れ?おれ……」
キアルは何が何だか分からない様子でセイラを見上げた。
「もう、大丈夫みたいね」
そんな彼の様子にほっと息をつき、それからはっとしたように雷砂の方を見た。
雷砂は地面に倒れ込んだまま、2人を見ていた。ひどい汗だし、顔色も悪いが、その顔には笑みが浮かんでいた。
「は……すごい張り手。痛そうだ」
ははっと笑い声をあげて、すぐに表情がゆがむ。
セイラは慌てて雷砂に駆け寄った。雷砂は、左のわき腹をきつく押さえたまま、セイラを見上げた。
「雷砂、ひどい血だわ」
腹を押さえる小さな手が流れ出る血で真っ赤に染まっていた。
「大丈夫。見た目ほどひどくないよ。なにか、縛るもの無いかな?止血だけはしとかないと」
そう問われ、セイラは迷うことなく自分のスカートの裾を破いた。
長く帯状に破いた布を差し出すと、雷砂は器用にそれを腹に巻き付け、ぐっときつく縛る。
ひどくないとは言っても痛いのだろう。
縛る瞬間に、彼女の顔が微かにゆがんだのが分かった。だが、すぐに笑顔になり、
「スカート、ごめんな?セイラ。今度、弁償する」
そう言う雷砂の体を、自分に寄りかからせる様にして抱き寄せた。
「そんなのはどうだって良いから、ほら、寄りかかって少し休んで?」
「そう?じゃあ、少しだけ」
雷砂は素直に体の力を抜くと、その身をセイラに預け、しばしの休息を味わうかのように、ゆっくりと目を閉じた。
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