第7章 第8話

 「キアル」



 名を、呼ばれた。ひび割れ、かすれた声だ。

 それでも分かる。

 それが、大好きな人の声だと。もう二度と、聞くことが出来ないと、諦めていた声だと。


 キアルの、足が止まる。

 彼の手を引いて逃げていたセイラは、そんなキアルをいぶかしげに見つめた。

 キアルは、2人で逃げてきた方向を、じっと見つめていた。何かを待つように。焦がれるように。



 「キアル、早く逃げましょう?」



 声をかけてもキアルは動こうとしない。ただ、首を横に振って、



 「あなたは、逃げて下さい」



 そう答えるだけ。

 セイラは困り果てたように少年の頑なな横顔を見つめた。一体、どうしてしまったというのか。



 「キアルぅぅ」



 その時、再び声が聞こえた。さっきより近い場所で。

 その声はセイラの耳にも届き、人のものとは思えない声の響きに、皮膚を粟立たせる。

 セイラは、キアルが見つめる視線の先を見た。


 林の方から何かがやってくる。

 最初は小さな点。

 しかし、それはみるみる内に大きくなって、髪を振り乱し駆けてくる女の姿となる。



 「母さん……」



 キアルは微笑み、足を踏み出した。

 母が迎えに来てくれたのだ。早く行かなければならない。

 その手を、誰かがつかんだ。緩慢な動作で、その手の主を振り仰ぐ。



 「キアル、だめよ!あれはもう、違うものだわ」



 必死に言い募り、震える手を伸ばして少年の細い手首を掴む。

 だが、彼はそれを振り払い、母と信じるモノに向かって再び歩き出す。

 ソレは、もうすぐ近くまで来ていた。



 「キアル……イトシイ、キアル」



 腕を広げ、ソレはキアルを抱きしめた。



 「母さん、帰ってきたんだね……」



 キアルも嬉しそうに、その抱擁を受ける。すがりつくように、母親の体を抱きしめながら。



 「アイシテルワ、キアル……ズット、イッショ、ニ」


 「うん。母さんと、ずっと一緒にいるよ。ずっと」 



 幸せそうに、キアルが笑う。

 ソレは、愛おしそうに少年の頭を撫で、そして、



 「アナタハ、ワタシガ、タベテアゲル。ズット、ズット、イッショニ、イラレル、ヨ、ウニ」



 彼女は笑った。狂った笑顔で。



 「キアル、逃げて!!」



 セイラは叫ぶ。だが、少年は動かない。

 喰われても、いいような気がしたのだ。母親と、ずっと一緒にいられるなら。母が、そんなに望むのなら。

 キアルは、そっと目を閉じた。

 その時。


 ぞぶり……


 そんな音がした。肉に、何かがのめり込んだような音。

 だが、不思議と痛みもなく、なぜだろうと思った瞬間、声がした。



 「キアル、そんなに簡単に自分の命を諦めるな」



 涼やかな、声。キアルの良く知る声が。



 「ア、ア、ナ……ゼ?」



 そんな声と共に、母親の体から力が抜けた。彼女の体がキアルから離れていく。



 「シェンナ、あなたの本当の望みは、キアルを喰う事なんかじゃ無いはずだ」



 優しい、優しい雷砂らいさの声。諭すように、労るように。

 恐る恐る、目を開ける。

 そこには母親と、雷砂が居た。



 「シェンナ、あなたの望みは?」



 優しく、優しく、雷砂が問う。

 戸惑うように、シェンナの瞳が揺れた。欲望に、染まりきっていたはずの瞳が。



 「ノ、ゾミ?ワタシノ……」



 呟くようにそう言って、彼女の瞳がキアルに向けられた。欲望の消えた、清らかな眼差しで。

 呆然と、自分を見つめる息子の顔を、じっと見つめる。


 愛しい子。

 自分の命より何より、彼女が愛した宝物。そんな大切なものを、たべてしまう事なんて出来やしない。

 彼女は優しく瞳を細め、微笑んだ。



 「望みは一つだわ、雷砂」



 なめらかな声が、唇を滑り出た。以前と同じ、優しく暖かな声。

 キアルは凍り付いたように、母親の姿を見つめている。

 正確には、彼女の胸から不自然に突きだした血塗れの腕を。

 その手は、どくん、どくんと動く、小さな肉の塊を掴んでいた。


 シェンナは、動きの制限された体で出来る限り腕を伸ばし、指先で息子の頬に触れた。

 その指先の感触に、はじかれたようにキアルが顔を上げ、母を見上げる。

 彼女はしっかりと、息子の今にも泣き出しそうな瞳を見つめ、愛おしそうにその目を細めた。



 「私の望みは、キアルの幸せ。キアルが生きて、幸せになってくれること。それだけだわ」



 微笑み、息子の頬に伸ばしていた手を、己の胸を貫き、心臓を握る手へと移し、両手で包み込んだ。



 「もう、いいわ。雷砂、私を終わらせて」


 「助けられなくて、すまない」


 「謝らないで。あなたのお陰で、私は愛する息子を、傷つけないで済んだわ。それだけで十分。ありがとう。そして、ごめんなさい」



 辛い役目を押しつけてごめんなさい、とそんな彼女の心が伝わってきた。

 雷砂は一瞬目を閉じ、それからキアルの顔を見る。

 殺さないでくれ、とその瞳が訴えていた。母さんを、殺さないで、と。



 「ごめんな、キアル……」



 そう言うことしか、出来なかった。どんな手を使ったとしても、彼の母親を助けることは出来ない。

 彼女を救う手段はただ一つ。

 その命を終わりにしてあげることだけだ。



 「いやだ、ライ。やめて……」



 いやいやするように、キアルが首を振る。



 「キアル」



 そんな息子を諭すように名前を呼んで、シェンナは柔らかく微笑みかけた。

 そして、目を閉じる。



 「さあ、お願い」



 そう言いながら、雷砂の拳を包んだ両手にそっと力を込めた。

 それを合図に、雷砂はぐっと拳を握る。彼女の心臓を掴んだままの、その拳を。

 手の中の、小さな肉の塊を握りつぶした瞬間、彼女の体がびくりと震えたのが分かった。

 腕を引き抜き、みるみる内に力を失うその体を後ろから抱き留め、地面に横たえる。

 彼女はじっと、息子の顔を見上げていた。

 その唇が、小さく動く。愛しているわ、キアルーと。

 そして。

 彼女は少しずつ存在を薄くし、黒い塵となり、跡形もなく消えた。

 その身に纏っていた、服の切れ端さえ残すことなく。


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