第2章 第3話

 風を切ってシンファは草原を走っていた。

 草原を渡る風が強く吹き始めている。

 湿った空気を感じて、嵐になるかもしれない-と思う。

 嵐の前には巣穴に帰っていないと身動きできなくなるかもしれない-そんな風に考えながら、シンファは足を速めた。


 一人であればあっという間にたどり着いてしまう集落への道のりがやけに長く感じた。

 何しろ、今のシンファは傷ついたオオカミを口にくわえ、その背中には小さな子供を乗せているのだ。

 まだ子供のいないシンファには、誰かを口にくわえて運ぶという経験自体少なかったし、背中に誰かを乗せて全力疾走したことも数えるほどしかなかった。


 背中に乗っているのが、普段から親の背に乗りなれている獣人の子であればまだましであっただろうが、今シンファの背中に必死にしがみついている子供はそうではない。

 おそらく、こんな経験は初めてだろうし、何しろまだ幼い子供なのだ。

 本人に聞いたわけではないし、はっきりしたことは分からないが、恐らく生まれてから5年経つか経たないかといったところだろう。


 まぁ、ギャーギャー泣き騒がれないだけまだまし、なんだろうな-そんなことを考えながら、シンファは少しだけ足を速めた。

 極力連れの負担にならないように注意しながら。


 少し先に、目印の木が見えてきた。

 部族の男たちが集落の周りの木につけている縄張りの印だ。

 草原に住む各部族ごとに違った印を持つので、間違えることはない。あの印が見えてくれば、集落までは目と鼻の先だ。


 ほっと息をつき、その拍子に落としそうになってしまったオオカミを慌てて咥えなおす。

 その間も、銀の獣はじっと動かず、おとなしくしている。

 身動きすることがシンファの負担になることを、ちゃんと理解しているのだろう。

 だが、理解してはいても、中々出来ることではない。

 仲間でもない者にこうやって運ばれることは、たとえ傷ついているとはいえ屈辱を伴うはずだ。

 強く、誇り高い獣であればなおさら。

 そして、シンファに咥えられ、運ばれているこのオオカミは、正に強くて誇高く、加えて並はずれて美しく賢い獣であった。


 惜しいな-と思う。もしこの獣が主を定めていないのであれば、我が物としたかった-と。

 残念なことにこの誇り高きオオカミはもうすでに、主とする者を定めている。

 もちろんその主とは、シンファの背中にへばりついている雷砂らいさのことだ。

 二人の間にある絆に気が付かないほど、シンファも鈍感ではない。

 雷砂がシンファに身を預けているからこそ、このオオカミもそうしているのだ。

 シンファを信用しているのではない。己の主を信じているが故だ。


 そうやって考え事をしている間に、いつの間にかライガ族の集落に着いていた。

 まだはずれなので人影はないが、中心地になればたくさんの巣穴が集まる、草原の中では1、2を争う大きな集落だ。


 まずは、叔父上に相談するか―シンファはそう考えて、進路を中心地から少し東に取る。

 シンファの叔父はライガ族の長であり、拾った荷物をどうするか、判断を仰ぐ必要があると考えたのだ。

 背中の子供を引き取るにしろ、どこかへ帰すとしても、一度は族長に会わせなくてはならないだろう。

 それに、族長のジルヴァンは博識で、たくさんの国の言葉を知っている。

 彼ならこの子供がどこから来たのか、分かるのではないかとシンファは考えていた。


 しばらく進み、乾いた草を組んで出来た『パロ』と呼ばれる住居の前でシンファは足を止めた。

 その場に、背中の荷物と咥えていた荷物をそっと降ろす。



 「雷砂」



 幼子の、呼びなれない響きの名前を呼び、色違いのきれいな瞳がこちらを向くのを待つ。

 雷砂は、オオカミの銀色の毛皮を抱きしめた後、おずおずとこちらを見上げた。



 「少し、ここで待っていてくれ。ここは我が部族の族長の家だ。お前たちを族長に紹介したいが、今の姿のままでは目通り出来ない。私が身支度を整えて帰ってくるまでの間、少しの間だけ、ここでじっとしていてほしい。いいな?」



 じっと見上げてくる雷砂の表情に動きはない。だが、理解した証拠に、小さな頷きを返してきた。

 無表情で可愛げは無いが、素直で賢い―シンファは小さな客人にそんな評価を下す。

 もし、雷砂の行き場所がどうしても見つからなければ自分が面倒をみてもいいとシンファは考えていた。それ故の無意識の評価でもあった。



 「いい子だ。では、行ってくる」



 そう言い残して、シンファは叔父の巣穴の裏手にある、自分専用の巣穴に向かう。

 シンファのパロは、叔父の物より二回りほど小さい、こじんまりとしたものだった。


 入口の布を鼻先でかき分け、中に入る。

 それほど大きくはない住居なので、獣化したままでは身動きすら出来ない。

 だが、それでいいのだ。ここは、獣の姿の時に住む場所ではないのだから。


 すっと息を吸い込んで軽く目を閉じ、意識を集中する。

 獣の姿が蜃気楼のように揺らぎ、次の瞬間には全く別の姿がそこにはあった。


 それは一糸まとわぬ若い女の姿だった。

 黒く艶やかな髪は腰の辺りまであり、ぬけるような白い肌の背中を隠している。

 開かれた瞳は少し青みがかった黒。

 意志の強そうな顔立ちの凛々しくも美しい女だった。


 彼女は大股で部屋を横切り、奥にある木彫りのタンスから服を取り出し素早く身に着けた。

 そして、小走りに家を駆け出ると、族長の家の前へと向かった。

 走りながら、先ほどと変わらず、シンファの言いつけどおりに待っている一人と一匹を認め、微笑む。

 足音に気が付いたのだろう。雷砂が振り向き、その眼をまあるく見開くのを見て、笑みはさらに深くなった。



 「雷砂、きちんと待っていられたな。偉いぞ」



 声をかけると、今度は小さな口がぽかんと開いた。

 その驚きようが可笑しいやら可愛いやらで、シンファは思わず吹き出してしまった。


 雷砂はびっくりしすぎて笑われていることにも気が付かない。

 無意識に出てしまったのだろう手を、シンファの方に伸ばしてきたので、膝をつき、その手が触れやすいようにしてやる。

 小さな手が、確かめるように髪に触れ、頬に触れる。

 シンファは微笑み、気が済むまでしたいようにさせてやった。


 最後に、色違いの瞳がシンファの瞳を覗き込む。

 瞳の色は、人の姿でも獣の姿でも変わることはない。

 雷砂は、さっき見た瞳と同じ色をしているので、やっと少し安心したようだった。



 「気が済んだか?」



 怖がらせないように優しく問いかける。小さな頷きが返ってくる。



 「私が誰だか、もう分かるな?」



 重ねて尋ねた。今度の問いには小さな声が返ってきた。



 「シンファ」


 「よし」 



 頷いて笑い、小さな体を抱き上げた。びっくりしたように瞬きを繰り返す様子が少し可愛いと思った。

 そのまま、族長のパロへ向かう。途中、地に伏せている銀の獣の前で足を止め、



 「お前の主をしばし借りるぞ。危険な目にはあわせないから、安心してここで待っていてくれ」



 そう言うと、オオカミは分かったとばかりに小さく鼻を鳴らし、ゆったりとくつろいだ様子で前肢に顎を乗せた。

 その様子を了解ととり、シンファは雷砂を抱いたまま、パロの入口の布をかき分け中に入った。



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