第2章
第2章 第1話
草の匂いに、むせ返りそうだった。
こんなにも濃い草の匂いをかいだのは初めての経験だった。
不安な気持ちを押し殺しながら目を開けると、今までに見たことの無い数の星が、目の前の空に浮かんでいた。
そのまましばらく、身動きもしないで星に見入っていたが、不意に自分の置かれた状況の異常さに気がついて小さな体を硬くする。
眠りについた時は、家の中にいたはずだった。
あまり馴染みの無い親類がこぞって集まり、いつに無く騒がしい、自分と母の家の中に。
白い服を着せられ、青白い顔をしたまま眠る母。
話しかけても答えてもらえず、悲しくなって泣き出しても抱き上げてはもらえなかった。
そのまま泣き疲れ、冷たい母の隣で眠ってしまった―そのはずだった。
それなのに……。
今いる場所は何処なのか。少なくとも家の中ではない。
家の中にこんなに美しい星空があるはずもないのだから。
恐る恐る体を起こし、辺りを見回してみる。
暗くてほとんど何も見えはしないが、むき出しの足に触れるのは柔らかな布団の感触でも、フローリングの固い感触でもない。
手を伸ばして触れてみるが、そこにあるのは夜露に濡れた草であり、ザラリとした大地であった。
どうしていいかわからずに途方に暮れる。
このまま再び横になって休むわけにもいかない。かといってどこに行っていいかも分からない。
いつも守ってくれていた母はもういない。
ただ隣にいないだけでなく、もう永遠に失われてしまったのだということを、幼いながらに理解していた。
もうこの地上のどこを探しても、無条件に守ってくれたあの優しい母はいないのだ。
どんなに手を伸ばしても泣き叫んでも、暖かくてほっとするぬくもりに抱きしめられることはもう二度とない。
空を、見上げる。
無数の星に飾られた、今までに見たどんな空よりも美しい夜空を。
涙が一筋、頬を伝った。
もう涙も枯れたと思っていた。
だが、そんなこともなく、瞬きもせずに空を見つめたままの瞳からこぼれた液体は、止まることも知らずに柔らかな幼い頬を濡らし続けた。
どのくらいそうしていたのか。
膝を抱えて草の上に座り、一心に空を見続けていた瞳が地上に降りてきた。
おびえたように自分の周囲を見回す。
嫌な気配がした。
何かが草を踏んで近づいてくる音がする。
それは決して大きな音ではなかったが、己の息遣いしか聞こえてこないような静かな夜には十分すぎるほどの音だった。
少しずつ、近づいてきているようだった。
地面を踏む音も、草をかき分ける音も、刻一刻と近くなる。
逃げなければと思った。ごく自然に、本能的に。
このままここに座り込んでいたら喰われるだけだと。
だが、足が動かなかった。
指一本すらも動かない。
ただ、見開いたまま閉じることのできなくなった目だけが、近づいてくる何かを探して彷徨う。
目の前の、高く茂った草の茂みが揺れていた。
風のせいではない。
何かが、もうすぐそばまで来ているのだ。
次の瞬間、それは草をかき分け、姿を現していた。最初は鼻先が、次いで大きな顔と前肢が。
獣は、目の前に獲物を認めて足を止めた。
それは、いつか母と一緒に見た図鑑に載っていた虎という獣にとても良く似ていた。
だが、決定的に違うところもあった。
毛皮の色も違っていたが、なによりその獣の額には黒々とした長い角が一本生えていた。
その一角の獣は、すぐには襲い掛かってこなかった。
その場に足を止めたまま、逃げもしない小さな獲物を興味深そうに見ている。
容易に手に入りそうな獲物に喜んでいるのか、それとも思った以上に小さな成果にがっかりしているのか。
ネコ科特有の虹彩をした黄金色の瞳からはその感情をうかがい知ることは出来なかった。
震える事さえ出来ずに、まるで蛇ににらまれた蛙のようにその場に縛り付けられていた。
恐ろしいのに、怖くて仕方ないのに、目をそらす事さえ出来ない。
唸り声のような音を喉の奥で鳴らしながら、獣が一歩、足を踏み出した。
その瞬間、金縛りが解けたかのように体が自由になった。
飛び上がるようにして立ち上がり、獣に背を向け駆け出した。地面を転がるようにして、自分にできる精一杯の速さで。
すぐ後ろで獣が動き出す気配がする。
必死に走った。
だが、スピードも体力もまるで足りない。
すぐに息が切れ、足を止めたくなる。
しかし、足を止めたらその場で自分の人生が終わってしまうことは分かり切っていた。
理屈ではなく、本能で。
分かってはいても、体は悲鳴を上げていた。
もう走れないと、心臓が、足が訴えかけてくる。
ふいに、足がもつれた。
身体が宙に浮き、柔らかな草に頬を擦りつけるようにして転がった。
そのままなすすべもなく体は何回転も地面を転がり、やがてその動きを止めた。
もう、立ち上がる気力は無い。
頬を地面に押し付けたまま、近づいてくる獣を見つめた。
まるで急ぐ様子もなく、ゆっくり近づいてくるその姿に逃げても無駄だったのだと悟る。
獣は逃げる獲物を追う間もまるで本気を出していなかった。
本気を出さなくても捕まえられる獲物だと分かっていたからだ。
あのまま逃げ続けていたところで、追う側がちょっと本気を出したらすぐに捕まってしまったに違いない。
逃げ切れるはずがなかったのだ。幼い子供が、野生の成獣を前にして。
獣は一歩ずつ近づいてくる。もう逃げないのかと様子を窺うようにゆっくりと。
もう、どうやっても逃げられる状況ではなかった。助けてくれる人もいない。
諦めたように身動きもしないまま獣の大きな口を見ながら、痛いのは嫌だな―そう思った時、誰かの声が頭の中に響いた。
『なぜ、呼ばない?』
その声は問いかけてくる。
何を呼べばいいの?-声に出さずに返すと、誰かは再び声を響かせた。
『死にたくなければ呼ぶがいい。お前の半身を』
声が頭の中に響いた瞬間、その名前が口から飛び出していた。
幼いころからずっと一緒だった親友の名前。
「狼(ロウ)!!」
瞬間、目の前に迫っていた獣の姿が消えた。
何かに弾き飛ばされたのだ。
そいつの大きさに匹敵するほどの体を持った何かに。
それは、月の光が集まって形になったかのように美しい銀色の毛皮を持った、堂々たる体躯のオオカミだった。
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