あいさつ

20才 美容師見習い


 前の夜遅くまで、カットの練習をしていたせいで、寝不足のまま、私は朝、電車に乗り込みました。私が利用している駅から店のある駅までは下りになるので、朝のラッシュには巻き込まれないのですが、席はすべて埋まっており、私は吊革につかまっていました。

(もっと店の近くに引っ越そう)

そんなことを考えながら、私はうつらうつらしていました。ふと、私は、ドア横に持たれて、メールを打っている、背の高い、若い男が目に留まりました。

(誰だっけ。どこかで見たんだよな。それにしてもきれいな顔の男の子だな)

 私はちょっと見惚れてしまいました。すると、私の視線に気づいたのか、その人が私に目を合わせてきました。私は思わず、にっこり笑って会釈しました。向こうは少し面食らった様子で、固まっていました。おそらく記憶をたどっていたのだと思います。そのうち、私の目的の駅に到着して、私はもう一回会釈して、降りてしまいました。

(たぶん、お店のお客さんだろう。しかし、あんなにスタイルが良くてかっこいいお客さん来たことあったっけ?)

 私は下っ端なので、お店のお客さんすべてを把握しているわけではありません。それに、先輩が担当しているお客さんだったら、挨拶ぐらいしとかないと…私の失礼な態度は店の評判に直結することだってあるのです。

 店に到着してからは新人の仕事をてきぱきとこなさなければなりません。ヘルプとして、お客さんのシャンプーをしながら、私は朝の出来事を思い返していました。それを見透かされたのか、先輩に小言を言われました。私は神妙に聞いた後で、先輩に尋ねてみました。

「あの、今日わたし、電車で見たことある人がいたので思わずあいさつしちゃいまして、たぶんお客さんだと思うんです」

「どんなひと?」

「背が高くて、しゅっときれいな顔して…」

 先輩は心当たりがない、と言いました。そんな人が来てたら絶対話題になってる、と。

(うーん…どこだっけ…絶対見たことあるんだよな研修の時? 専門学校の時?)

 私はいろいろ過去の記憶をたどりました。しかし、どうしても思い出すことができないのです。まさか、全くの見知らぬ人にあいさつしてしまったとか? それを思うと恥ずかしさのあまり顔を覆いたくなりました。

 日が経ち、さすがにそんなことも忘れていたある日、私は帰ってぼんやりとテレビを付けました。思わず息をのみました。私があの日、電車の中で、知り合いだと思って思わず声をかけてしまった男の子が画面に映っているのです。私は気が抜けました。

(これかー、そりゃ、見たことあるはずだわ)

 私は部屋で一人、赤面してしまいました。売出し中の若手俳優が撮影所まで電車を使って移動していたのを、私は知り合いのつもりで一方的に挨拶してしまったのです。それも満面の営業スマイルで。

 翌日、私は先輩にこのことを話すと、店のみんなにさんざんいじられる羽目になりました。恥をかいた分、誰かその俳優のスタイリストに繋がらないか、と望みをかけました。せめてその人を通じて謝っておこうと思ったのです。しかし、それは叶いませんでした。

 しばらくして、私はまたしても似たような失敗をしでかしました。今度は、店の近所に住む芸能人が店の前を通りがかった時、思わず窓越しにあいさつしてしまったのです。これにはすぐ自分のミスに気が付きました。店の客になっているのはその芸能人の奥さんだったのです。後日その奥さんを担当している先輩に事情を話すと、先輩はもう知っていました。

「今度、私が謝っていたと伝えてください!」

「あー大丈夫。私が店の者が失礼しました、と言ったら、奥さんは笑ってたよ。芸能人だからそういうの慣れてるってさ」

「よかったー」

「でも、あんた、誰彼構わず挨拶しちゃうの、気をつけなさい」

 私はしばらく、これらの出来事のせいで店の有名人になってしまいました。でも、私は店に馴染むことができたし、先輩もより親身にいろいろ教えてくれるようになりました。お客さんから声をかけられることも増えました。

 それから半年ほど経ったある日、私は寝不足のまま電車に乗り込み、目をしょぼつかせながら、ぼんやりと吊革につかまっていました。相変わらず下っ端の私は忙しく店の雑用をこなし、終業後に一人居残りでマネキンを使ってカットの練習をしたりで、帰宅が遅くなりがちでした。

 私はふと目線を感じ、その方向に顔を向けました。あの若い俳優にまた会ったのです。

「おはようございます!」

と、反射的にあいさつしてしまいました。向こうが何か話しかけてきたら、事情を説明すればいいのだし…

あ?…

私はある事実に気がつきました。先日、その若い俳優が事故で死んだというニュースを店の女性週刊誌で見たのです。私は忙しくて、だいぶ遅れて知りました。

「えーショックー」

「あんた挨拶したんでしょ? ちょっと怖いね」

「確かに少し気味悪いですね…」


 その若い俳優が、笑顔で、私に近づいてくるのです。

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