ピン逃げ

目撃者


 私は橋を隔てたある家の前に立っていました。すると、誰かが、その家の呼び鈴を押して、すぐにその家の裏側に回って行きました。しばらくして家の主らしい初老の男が出てきて、あたりを見回して、私の前に立ち、口汚く罵るのです。どうやら、主人は私が悪戯をしたと思っているようです。私は無実であり、誤解であることを説明しました。誰かが、呼び鈴を押してそのまま裏口に回ったことを告げました。すると、主人はぷい、と踵を返して家に戻って行きました。

 それから半日が過ぎると、その家の奥さんが、買い物から帰ってきました。戸を開け、ただいまを言ってから、すぐさま奥さんは家を飛び出してきました。

 しばらくするとその奥さんは警官を連れてやってきました。そして警官と共に家に入って行ったのです。あたりは慌ただしくなってきました。人だかりもできてきます。警官の数も増え、規制線が敷かれました。

 奥さんが出てきました。警官数名を引き連れて、家の裏側に回りました。何やら話して、また戻ってきました。

 白い布に包まれた担架が運ばれて行きました。事件が起こったのは明白です。私には思い当たることがあります。あの、呼び鈴を押してそのまま裏に回った男。あの男が関わっているに違いないのです。そのことを告げるべく、近くに立っている警官に話しかけました。すると、その警官は私を無視して何処かへ行ってしまいました。ちら、とこちらを見て、さも面倒な仕草を見せながら家の中に入りました。私はこんなものか、と思いました。忙しいんだし、かまってられないのだろう、と。

 その時です。私の目の前を身に覚えのある男が通り過ぎていきました。あの時呼び鈴を鳴らした男です。その男はそのまま群衆の中に紛れて、現場を見ていました。

 私は一部始終を見ていたのです。あの男は呼び鈴を鳴らしてから、家の裏側に回り、塀を乗り越えて庭から家に侵入しました。そして、懐から新聞紙に包まれていた包丁を取り出し、刃を新聞紙に包んだまま一方の手に持ちました。それから慌ただしく部屋の中を物色し始めました。棚を次々にひっくり返し、何かを探していました。わずかな間に見つけるつもりだったのか早くも焦り始めました。そして、戻ってきた主人と鉢合わせしたのです。

 口論が始まりました。どうやら主人はその男と顔見知りだったようで、ひるむことなく怒鳴り続けていました。男は一旦床に置いた包丁を手に取り、新聞紙をはぎ取りました。脅すためでした。男は主人に要求しました。主人は断固拒否し、さらに何も持たぬまま取り押さえにかかりました。勇敢でしたが、刺されてしまったのです。主人は断末魔を見せることすらなく、すぐに動かなくなりました。男は狼狽することなく、新聞紙で刃物を丁寧に包み、懐に入れ、悠々と部屋の物色を続けました。しばらくして、ある棚から紙切れ一枚を取り出し、無造作にポケットに突っ込みました。目的を果たした男は主人の遺体を一瞥すると、さっさと家を出ていきました。

 その男が群衆に紛れて様子を窺っているのです。大胆にも罪を恐れるそぶりすら見せません。人でなしです。

おまわりさん! あの男です。わたしは目撃者です! 

 私はそいつのそばに行き、指を差して、目いっぱい叫びました。

おまわりさん! こいつです。人殺しです! こいつはこのまま逃げる気です。逃げて、人々の中でのうのうと暮らすつもりです!

 誰も私の声に耳を傾けません。このままだと人殺しが社会に埋没してしまうかもしれないのに、人々は全く無関心でした。私は孤独でした。一人ぼっちです。この犯人でさえ、私の存在に気づいていないのです。

おまわりさん!

おまわりさん!

おまわりさあん!

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