強行軍
人が美しいと感じる自然を、眼前にこれでもかと言う程見せつける森林を、マサト達は西へと進んでいた。
昨日はマサトの体調も考慮して五十キロ程進んだところで休息を取った。
そして、ようやく体調を取り戻した彼ならば、今日にはこのボスケ森林を抜ける事が出来るだろう。
初夏の気候に森林の精気は活性化し、まぶしい太陽の光を受けて緑の葉を嬉しそうに広げている。それに伴い濃くなる緑の香り。この森が最盛時期に向けて急激に成長している事を感じずにはいられなかった。
そんな森の中を、軽やかに、それでも素早く駆け抜ける影はマサト。
倒木や小川などの障害物をものともせず、一定の速度で、だが常人に魔法無しでは出せない速さで移動を続けている。
そんな彼の両肩には、ガイスト化したアイシュとユファがそれぞれ腰掛けている。彼女達も新緑の息吹を感じて気持ち良さそうだ。
「良い気持ちだねー魔獣も出ないし」
流れる髪に指を通して、その体に目一杯風を受けるアイシュが独り
「うむ。流石に比較的好戦的な夜行性魔獣は、今鳴りを潜めておるからの。活動して居るのは草食系の魔獣が殆どじゃろう。それに……」
ユファもまた、その美しく風に流れる銀髪を撫でつけながら、周囲を見やりアイシュの言葉に返答する。
「それ、今マサトが腰にしておる太刀。それにはガリナセルバンの血がベッタリじゃ。魔獣は自分よりも明らかに強い魔獣の匂いを感じると、それに自ら近づいてくるような事はせん」
ユファはマサトが腰に差す太刀を覗き込むようにして説明した。
「血……だって?でもあの時に付いた
走りながらもマサトはその時の事を思い浮かべて答えた。
本来三日月流剣術の技、その殆どは公に使用される事が無かった。
千年も続く平和の中、歴代の使い手も表立ってその技法を使う事等無かったのだが、不幸にもこの数日、マサトは存分にその技を行使して来た。それが熟練度となり、より効率的に魔力と気力を使用する事で、少ない運動量でも最大の効果を発揮する事が出来る様になっていたのだ。
スツルト自治領を出た直後こそ「飛影」を維持しての長距離移動には体力も勿論、その技を維持する為に精神力をもすり減らした物だが、それも随分と軽微な物になっていた。
それにより周囲の景観を改めて見る事も、彼女達の会話に自然と入っていく事も可能となっていたのだ。
「フフ……血では無いな。厳密にはガリナセルバンの魔力、その残り香がその太刀にこびり付いておるのじゃ。それが周囲の魔獣を寄せ付けぬ原因となっているのは間違いないの」
つまり正確には、魔獣の血に含まれていた魔力が太刀を洗い流した後も付着しており、それを感じ取った周囲の魔獣はマサト達に近づくことを避けているのだ。
「へぇー……便利なんだなー」
マサトは感嘆の声を漏らし、そっと腰の太刀に手をやる。この太刀は一昨日の戦闘で随分と活躍してくれたものだ。有名な太刀ではなく、極普通に大量生産された一般品だが、彼にとっては既に愛刀となりつつあった。
「確かに今は、役に立っておる。じゃがガリナセルバンよりも強力な魔獣に感知されれば厄介じゃぞ。奴らは縄張り意識が強い。その太刀の気配を感じ取れば、一も二も無く襲って来るじゃろう」
彼女は意地の悪い笑みを浮かべてマサトにそう告げた。
「それは勘弁してほしいな」
マサトも苦笑いを浮かべてそう答える。強力な魔獣になればガリナセルバンよりも厄介な特殊能力を有する物もいる。単純な攻撃力、体力以上に苦戦する可能性があるのだ。
「それにしてもユファって物知りだね。感心しちゃうなー」
アイシュがユファへ驚きに感心を有した視線と言葉を送る。確かに彼女の博識は、マサト達のあらゆる疑問に澱みなく答える物でその底が知れない。得手不得手があるのかさえも解らない程だ。だがその理由は、当然と言えば当然の物だった。
「フフフ。千年も要職に就いておれば
サラリと事も無げに答えるユファ。その言葉には別段特別な感情は込められていない。
だがマサトには改めて気付かされた事があった。
千年も生きると言う事。そしてそれはどういった心情となるのだろうかと。
人はユファ程長寿では無い。この世界の平均寿命が約八十歳。間違いなく彼女よりも先に他界する。
彼女の親族、友人、忠臣。その他の知人達が先に逝く様を、彼女はどういった気持ちで見送って来たのか。
思わず口から零れそうになった疑問を、マサトは慌てて呑み込んだ。
悲しくない訳が無い。寂しくない訳が無かった。
それでも生き続けると言う事はどういう決意に寄る物なのか。生物の本能なのかそれとも特別な理由があるのか。マサトには思い至る事が出来なかった。
「それ、森ももう終わりじゃ」
無意識にユファの事へ思いを馳せていたマサトは、指を前方に差し嬉しそうに言う彼女の言葉で我に返った。
視線を前方に向けると、確かに木々の密度が薄らいでいる。日々強さを増す陽射しが、先程より明らかに多く差し込んでいた。それは大森林の終わりを示唆していた。
「これで魔獣を気にしなくてもいいねー」
ヤレヤレといった感でアイシュが呟いた。確かに一番の危険地帯は通り過ぎようとしているのかもしれない。
「甘いの、アイシュ。この先に広がるプラティア平原には、ガリナセルバンに勝るとも劣らぬ魔獣が生息して居るのじゃぞ」
だがユファは含み笑いを零しながら、意地悪くアイシュにそう言った。
「えー!まだそんな所が続くのー!?」
本当に
だが、長時間の緊張は精神力を多分に削り取る。アイシュの愚痴も解らない話では無かった。
「フフフ。じゃが安心しろ。この森ほど遭遇する機会は無いじゃろう。まず、魔獣の事は考えぬでも良いじゃろうな」
含み笑いを崩す事無く話すユファに「もー」と膨れ面を見せるアイシュ。冗談と言う程楽観的ではないが、必要以上に危機感を煽る物では無かった様だ。
彼女達の話を聞きながら進んでいる内に森は完全に途切れ、一面に広大な原野が広がった。若干の起伏があるその平原は、全面芝生を敷き詰めた様に青々とした絨毯が広がっている。逆に言えば障害物や遮蔽物が無く、身を隠す所が全く無いと言い変える事も出来る。
それが直線で約四百キロにも及んでいるのだ。
一時声も出せずその光景に目を奪われるマサトとアイシュ。遥か北には、ボスケ森林の地下を通っていた交通路が地上へと復帰して、遥か西へ続いていた。
「時間は惜しいが、こうも身を隠す場所が無ければこのまま進むのも得策とは言えぬじゃろうな。ここは日没まで休息を取り、夜を待って再度進むのが良い様に思うが」
時刻は午後三時。日没までには三時間ほどあった。
遠く北を走る交通路。森林より顔を出したばかりの方角に眼をやりながらユファはそう言った。
彼女の視線は交通路を捉えている。しかし厳密には森の地下を通り丁度地上へと顔を出す場所に作られた小さな建物を注視していたのだ。
ここからでは、本当に小さな建造物が建っている様にしか見えない。だがそれは交通路を警備し、時には取り締まりも行う詰所であった。
例え魔魂石で守られ、殆ど外敵からの被害を考える事が無いとは言え、それも百パーセントそうとは言い切れない。それにこれも確率は低い物の、交通路上でのトラブルが起こるかもしれない。
もしフォレリス自治領、ピエナ自治領どちらからも距離があるこのプラティア平原で何かあった場合、迅速に行動を起こす事が困難な事を考えて、ボスケ森林側と遥か西にそびえるオーラクルム山脈側に一ヶ所ずつ詰所が設けられており、そこには各自治領から派遣された魔法士が常駐しているのだ。
彼等の行動スケジュールは流石のユファでも知り得ないが、交通路に沿って定期的な見回りが行われているだろう事は容易に想像がついた。その巡回に見つかるのは面白くない。
幸いマサト達が辿り着いた地点はその詰所から遠く離れ、更に後方の森林には多数の魔獣が生息している事から、安易に特定される事は無い。だが前面に広がる平原を横切るとなればそうもいかないだろう。
常道で行けばやはり夜を待っての行動が望ましいのだ。
マサト達は森の中へ百メートル程戻り、そこにあった開けた場所に腰を下ろした。
丁度太陽が抜ける場所に在るらしく、日の光が差し込みそこだけが明るく暖かな一帯を形成している。まるで
「マサト、お主はこのままここで休息を取るのじゃ。すまぬが夜を待って再度出立する。ここからは夜通し歩いて貰う事になるからキツイぞ」
夜の行軍は、そこが例え見通しの良い平原であっても危険な物だ。そして身を隠す事が出来ない平原では、それこそ広範囲に注意を裂く必要があり、遮蔽物の多い森林を行くよりも多分に神経をすり減らすかもしれない。
ただ単に西へと向かっている訳では無い。これは逃避行とも言えるのだ。
「ああ、わかった。俺はこのままここで休ませてもらうよ」
そう言ってそのまま頭の後ろに腕を組み横になるマサト。
随分と慣れてきたとはいえ、流石に体が悲鳴を上げているのは間違いなく、すんなりと深い眠りに入れそうだった。
「じゃー私とユファで周囲の警戒ね」
淡い光を発してアイシュが飛び上がる。
「そうじゃな。範囲を分けよう。お主は南側、我は北側を監視する」
二人は頷き合って、ユックリとマサトから離れて行った。
遥か北の方角に、東西を真っ直ぐ横切る淡い光が浮かび上がっている。
フォレリス自治領とピエナ自治領を繋ぐ交通路に設置された魔魂石の放つ淡い光だ。
それはまるでマサトの征く手を指し示す様に、一直線に西の彼方へと続いていた。
周囲は完全なる闇。だが昨日までの暗闇では無い。
未だ顔を出していない月に変わり、今は満天の星が彼の征く道を照らしている。
だがそれも正確では無い。星の光に彼の踏みしめる大地を照らす程光量は無い。
しかし遠方に走る交通路、そして地平線近くまで見る事が出来る星々の瞬きが、夜目になれたマサトには十分すぎる程の光量となって足元を把握させているのだ。
仮眠を取って体力的に余裕の出来たマサトは「飛影」を使い一気に森を後にした。
すでに十数キロを走破している彼の眼には、未だ何も映っていない。
彼の目指すその先には、ピエナ自治領からより東方を隔てる様にオーラクルム山脈が横たわっている筈である。だが今はそれすらも見えない。
ただ暗闇を走っている彼にしてみれば、本当に進んでいるのかどうか不安になって来る。
行けども行けども同じ光景が続く。僅かな地形の変化がある筈だが、いかなマサトでもこの暗闇で遠方まで見渡す事は叶わない。そして解る範囲の景色はただただ草原と言う事だけであった。
もしこれが彼一人の行軍ならば、進む事を諦めていたかもしれない。いや、進んでいるかどうかもわからない状況では、そこから戻る事も儘ならない。行軍を辞めて、日の昇るのを待っていただろう。
だが幸いな事に、彼にはアイシュとユファが居る。
彼女達の存在が、彼に沸き起こる不安を一掃してくれる。
一人では無いと言う想いが、彼の足を先へ先へと進ませるのだ。
マサトは彼女達と時折会話をする事で、何とか心の平静を繋ぎ止め、無人の夜野を高速で移動していた。
それから一昼夜、彼はほとんど休むことなく動き続けた。
別に後ろから追跡者が来ている訳でも無い。周囲に魔獣の気配がある訳でもない。
だが彼はほとんど休むことなく動き続けた。
体力的に「飛影」を常に使用し続ける事は不可能だ。随分と自身の気力と体力を把握して来たマサトが上手くペース配分を行い、それにより長期で休憩を取る事も無く進める様になったと言う事もある。
また、今周囲に感じる事は出来ないが、ユファの言う通りこの平原にも注意すべき魔獣は存在する。
「この辺りには大蛇が出没するのじゃ」
魔獣メガロシュア。魔獣ランクは五。巨大な蛇型の魔獣、所謂大蛇だ。
だが魔獣である以上、唯の蛇と言う事は無く、胴回りは平均で直径1.5メートル、全長で20メートル弱程もある。剣魔法は使用しない物の、強力な盾魔法を使用し、特に自己強化魔法と防御障壁が非常に厄介な魔獣である。
ただでさえ素早い蛇の動きに、自己強化魔法を行使する事で更に尋常では無い動きを可能にする。レベル五からなる防御障壁は強固で、並の魔法士ではダメージを与える事さえ厄介な魔獣である。
「しかもただの大蛇だけでは無いぞ」
彼女の話では未確認だが、このプラティア平原に「主」と呼ばれる規格外の大きさを持つメガロシュアが存在すると言う。
その胴回りは2mをゆうに超え、全長は30mに
だが目撃情報が極端に少なく、正しく伝説の魔獣となりつつある。
ポテンシャルで魔獣ガリナセルバンを上回るメガロシュアは、マサトが己のテリトリーに入れば間違いなく襲って来るだろう。
長時間
勿論、確率は低い物の、警備を行う魔法士達に見つかってしまうと言う事も考えられた。
実に三十時間以上を殆ど休息する事無く歩み続けたマサトは、計算上オーラクルム山脈の麓まで十数キロ、数時間の距離に到達していた。
だが流石に疲労の色は隠せない。マサトの顔にもその表情がありありと浮かんでいた。
「マー君……大丈夫?」
不意にガイスト化したアイシュがマサトのすぐ横に現れた。彼女の淡い光が周囲の闇を照らす。
強行軍を行うマサトは、いざ戦闘になればまともに戦えない可能性がある。
また、魔獣が防御障壁を展開すれば、今のマサトに打つ手は無い。
マサトが移動を行う傍ら、彼女達はいざと言う時に備え魔力の温存を行う為、必要以上に
「なんだ、アイシュ。休んでたんじゃないのか」
今できる目一杯の笑顔で彼女に笑いかけるマサト。ただそれは苦笑いの様になってしまっていた。
「うん……そうなんだけど……何かね……何か聞こえてきたんだー」
ただそれはマサト達も承諾した上での作戦であり、アイシュはそれだけを心配して出てきたという訳では無かった。
「聞こえてきた?俺、何か言ってたか?」
ただ一人、暗闇の行軍ともなれば色々な事が脳裏を
それこそ今まで考えてこなかった事、過去への苦悩、現在の苦労、そして未来への不安。
答えの出ない諸々の事柄が、答えを得ぬまま過ぎ去っていくのだ。
「マー君が感じてる……不安?ってゆーのかな……言葉にならない気持ちとかがね……聞こえてきたの」
ユファの話では、マサトの見聞きする事は精神世界に滞在するユファやアイシュにも伝わるが、彼の思考までは解らないと言う話だった。
たとえ口に出さず思考していたとしても、その事が彼女達に知られる事は無かったはずだった。
「驚いたな。俺、そんなに顔に出てたかな?それとも実は、俺の考えも筒抜けだったか?」
ハハハと乾いた笑いを零してマサトがアイシュに問いかけた。今は「飛影」も使わず黙々と歩を進めていたマサトだが、その額には玉のような汗が浮かんでいる。心なしか頬もこけ、疲労の色はハッキリと浮かんでいる。
そんなマサトの問いに、アイシュは不安を浮かべた笑顔でユックリと首を左右に振る。
「ううん……それは無いよ。マー君がハッキリと意識しない限り、中に居る私達がマー君の声を聞く事なんてできないよ。でも……ね、解るの。長い付き合いだもの。それに……私……マー君の許嫁だしね」
そう言って再び微笑もうとするアイシュだが、今度はもう泣き笑いに近い。
「アイシュ……」
全て見透かされている。マサトはそう感じた。
ただそれは嫌な気持ちでは無い。むしろ自分の気持ちをしっかりと感じ取ってくれている存在に、安心すら感じたのだった。
自然と進める歩が遅くなるマサト。顔のすぐそばを飛翔するアイシュと見つめ合い、ついにはその歩みも停まる。
パァーン……。
それと同時に実体化を果たすアイシュ。
彼女は驚きを浮かべているマサトの頭を優しく抱き寄せその胸に抱いた。
「だから……だからね。我慢しなくていいんだよ。話してくれていいんだからね」
その言葉で、マサトの体は脱力した。
本当に脱力した訳では無い。ただ余分に入っていた力だけが抜けて行き、今までの疲労や心に圧し掛かっていた物が抜けていくのを感じたのだ。
彼女の気持ちに、愛に満たされたマサトは、顔を上げてアイシュを見据え、ユックリと彼女を抱きしめた。
「えっ!ちょっ!マ、マー君!?」
マサトに突然抱きしめられ、軽いパニックに陥るアイシュ。自分で抱きしめるのと抱きしめられるのでは大きく違う様だ。
「ありがとう。ありがとな、アイシュ」
耳元でささやかれるマサトからの謝意。その言葉にはあらゆる気持ちが込められているのが感じられた。
「……うん」
彼女の心もまた、マサトからの愛で満たされていた。
やがて、東の空が白み始めてきた。日の出はもう近い。
夜明けの卵が、目指すオーラクルム山脈の稜線を闇夜に浮かび上がらせた。
そして暁の中、暫しの時を惜しむ様に、二つの影は一つとなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます