ボスケ森林

 巨大な月が上空の覇者となっていた。そのせいで星も瞬く事が出来ないでいる。

 その月明りに照らされて浮かび上がった一つの影が、如何にも舗装されていない荒れ果てた道を高速で移動している。

 歩道はおろか街灯も無い。当然民家も無ければ自動販売機も無い。

 今マサトは三日月流剣術「飛影」を使い、常人のそれを遥かに超えたスピードで非管理区域を疾走していた。

 彼等は予定通り、夜の訪れを待ってスツルト自治領を発った。

 スツルト自治領内で「隠密」を使い監視の目を欺き、そのままスツルト自治領を出ると同時に「飛影」を使用して高速移動を開始した。

 それから一時間。マサトはスツルト自治領の西方約五十キロの所へ到達していた。

 流石にマサトの体力は激しく消耗していた。周囲に「人」の魔力がない事を「索敵」で確認して、マサトはその場に座り込んだ。

 「飛影」もまた魔法では無い。三日月流剣術「隼」の応用技である。

 自身の気力と魔力を練りこみ、爆発的な瞬発力で攻撃する「隼」。その技程瞬発力は無いが、代わりに持続力を持たせたのが「飛影」である。

 だが魔法では無く肉体を酷使する以上、マサトの体力にも限界はある。

 激しく両肩で息をつき、玉のような汗を額に浮かべたマサトは疲弊していた。

 しかし無理した甲斐があると言う物だ。

 わずか一時間で、スツルト西方五十キロに到達している等、流石のカムラン自治領主も想像つかないだろう。

 座り込んだマサトの遠く前方には、一筋の光が東西に延びている。

 あれこそが魔魂石に守られた道路、そして線路である。

 等間隔に設置されているのであろう魔魂石が淡い光を発し、幻想的な光の道を暗闇に浮かび上がらせている。

 向かって右手、東にはスツルト自治領がある。マサトが駆けて来た方角だ。

 そして左手、西にはボスケ森林に囲まれたフォレリス自治領があり、更に西方に広がるプラティア平原を渡り、その先でそびえるオーラクルム山脈を抜けた所に目的地であるピエナ自治領がある。

 フォレリス自治領は丁度このオストレサル大陸中央に位置し、手付かずの自然が残るボスケ森林に囲まれた美しい自治領だ。

 スツルト自治領より西方五百キロ、大陸中心に位置しているにも関わらず、この大陸の中心的役割を果たす事が無かったのはまさしくその森林による。

 中型以上の魔獣が確認されている森林地帯が周囲を取り囲んでおり、その美しさとは裏腹に第一級危険地帯に認定されている。魔魂石に守られている都市部に影響が出る事は殆ど無いが、万一の事を考えると重要な役割を集約する事は出来ない。

 故に他大陸との玄関口であるピエナ自治領、そして強い協力関係にあったイスト、スツルト、ガルアがそれぞれ西と東の自治領を取りまとめていた。

 それによりフォレリス自治領の役割は西と東を結ぶ交通路の中継地となり、周囲の美しさもあって観光地として多くの人々に利用される自治領となっていた。

 スツルト自治領より西方に延びる交通路は、そのフォレリス自治領を経由してピエナ自治領へと向かっている。

 全行程は千三百キロにも及び、徒歩での移動など正気の沙汰では無いかもしれない。

 列車や車両ならば半日で踏破出来る道程も、徒歩では何日かかるか知れたものでは無かった。

 それでも非管理区域を徒歩で進む事に決めたのは、偏にマサトの「飛影」があるからだ。

 マサトへの負担は計り知れないが、それでも一日数百キロの移動が期待出来る。普通に歩くよりも格段に早くピエナ自治領へ辿り着く事が可能だ。

 勿論、何の障害も受けなければ、だが。

 余計なトラブルに巻き込まれない為にも、当然フォレリス自治領に入る事は無い。ここもすでにガルガントス魔導帝国が占領しているのだ。

 これより少なくともピエナ自治領までは野宿を繰り返すしかない。


(あーあ…お風呂に入りたかったなー…)


 アイシュが溜息交じりにそう呟いた。彼女は目を覚ましてから一度も実体化する事を許されていない。マサトの心配もそうだが、ユファが強硬に反対したのだ。


(まだ言っておるのか?マサトがそう零すのなら解らぬでもないが、我等には不要なのではないか?)


 アイシュが愚痴を零すのはこの一時間で数度目だ。それに付いて今まで取り合わなかったユファだが、呪詛の様に繰り返される彼女の呟きを、流石に無視し続ける事は難しくなったのだ。


(違うの、ユファ!そんな事言ってるんじゃないの!)


 一時間ぶりに漸く返って来たユファの返事にアイシュはすかさず食らいついた。


(で、では何だと言うのじゃ?)


 彼女が発した言葉の勢いにユファはやや気圧された。


 シュタッ!


 アイシュはユファも目を見張る程一瞬に間合いを詰め、彼女の両手を取った。


(良い、ユファ?女の子がお風呂を我慢するなんて有り得ない事なの。決してあってはならない事なの。いえ有り得ないわ!あなたも女の子なんだから、それは解るよね!?解るでしょ!?解ったわよね!?)


 ユファは何か、軽い既視感デジャヴを感じていた。封印していた何かが目を覚まそうとしている、そんな感覚だ。

 そしてマサトはギョッ!としていた。彼にはこれから何が始まるか想像できたのだ。

 ユファは対応に困り「ああ…」とか「うう…」と言う様な呻き声しか返す事が出来ない。完全に持て余していた。


(ユファもホントはお風呂我慢してるんだよね?我慢してるでしょ!?ううん、良いの。無理しないで。私には良く解ってるんだから。解ってる筈よね?解ってるわよ!)


 アイシュの一方的な攻撃でユファはすでにグロッキーだ。

 マサトにはアイシュがそこまで入浴に拘る意味が解らなかったが、恐らく過度なストレスの捌け口として入浴を求めているのだと解釈した。

 アイシュの攻撃にユファが耐えてくれている内に打開策を見つけなければならない。

 マサトは街で買った地図を広げ周囲を調べ、フォレリス自治領方面におあつらえ向きの物を発見した。


(アイシュ!もう少し行けば廃棄された入浴施設がある。源泉を使用した天然温泉の様だから入浴は出来そうだ。そこまで我慢してくれ)


 この言葉に、もう少しでKOだったユファは救われた。アイシュの顔がパァーッと明るくなる。


(ホントに!?わかった!そこまで我慢する!)


 先程までとは打って変わり、アイシュは鼻歌交じりに機嫌を取り戻した。





 アイシュの機嫌が再び傾かない内に温泉へと到着する為、暗闇の中マサトは更に「飛影」を駆使し、遠く見える光の道を頼りにひたすら西へ疾走した。

 暫くするとボスケ森林に踏み入った。ここから交通路は森林の地下を走り目視する事が出来ない。

 本来ならば地下を進む方が時間的短縮になるのは明らかだが、一本道の上に逃げ道が無い地下道は選択できなかった。何よりも森林を抜けるまで地下を走るのでである温泉施設を通過してしまう。

 コンパスを頼りにひたすら森林を西に向かうマサトの速度は流石に激減する。

 それでも「飛影」で常人以上の速度を保つマサトは、恐るべき速さで木々を抜けていった。

 だがそれも長く続かなかった。

 温泉施設まで僅か数キロと言う距離で、マサトの体力に限界が来た。


(マー君…大丈夫?)


 アイシュが不安気に声を掛ける。

 マサトがここまで無理をしているのは、半分彼女にも責任があるのだが、実際は予定通りとも言える。

 この強行軍は前提で成り立っている。全行程千三百キロなのだ。無理をしなければ何時辿り着くか予測もつかない。

 何よりもユファが一刻も早く皇都セントレアか、安全に連絡の取れる場所に辿り着かなければならない。時間的猶予も無いのだ。


(ああ、大丈夫だ!)


 膝に手をやり、荒く息をついていたマサトだったが、彼女の言葉に勢いよく顔を上げてそう微笑んだ。

 明らかな空元気なのだが、幼い頃からの修練で、マサトの体は動かしながら回復を図る様に鍛えられている。

 疲労困憊ひろうこんぱいなのだが足を止める事無く進むマサト達の目の前に、廃棄され古ぼけた温泉施設が見えて来た。

 ここまで魔獣に出会わなかった事は幸運と言うより他なかったが、マサトにそれを感謝する余裕は流石になかった。

 この施設が廃棄されたのはここ数年で傷みはそれほどない。ただ原生林の強い生殖力により、すでに蔦が巻き付きつつある。後数年もすれば樹木に埋もれてしまうのだろう。

 幸い建物の中にも魔獣は存在しておらず、マサト達は目的の温泉へと到達した。

 男湯、女湯、混浴とあるのは何処の世界も一緒であり、出来るだけ危険に対処し易い様、ユファが混浴の使用を提案した。


「えー!マー君と、こ、混浴!?」


 だが混浴に慣れている若者など早々いない。実体化したアイシュは目一杯異を唱える。


「なんじゃ、アイシュ。嫌なら入らなくて良いのじゃよ?」


 そう言ったユファは、マサトの前だと言うのにお構い無く全裸となり、スタスタと湯船の方へと歩いて行った。


「ちょ、ちょっと、ユファ!」


 彼女のこの行動には、流石のアイシュも慌てふためいた。

 そして硬直するマサト。些か彼には刺激が強すぎた様だった。


「ちょっと…マー君…?」


 それに気づいたアイシュがマサトの方へとにじり寄る。


「いや!待て!今のは不可抗力だろ!?」


 それに併せてマサトが後退る。アイシュの圧力プレッシャーに押され、マサトは壁際まで追いやられた。そのままアイシュの連続攻撃ラッシュが見舞われようとした時、湯船の方からユファの声が聞こえた。


「アイシュ、何をしておるのじゃ?お主が望んだ事じゃぞ。余り時間が無い、急げ」


 アイシュはまだ完全に復調した訳では無い。だが彼女の強い要望を汲み取ったユファが特別に了承したのだ。


「それにマサト、お主も早くしろ。少しでも体力を回復させるのじゃ」


 確かに、温泉には疲労回復の効果がある。「飛影」を使用し続け疲労困憊のマサトにはまさに打って付けだった。


「…もう!服を脱ぐからあっち向いてて」


 観念したアイシュが顔を赤らめてマサトに言った。


「お、おう…」


 慌てて壁の方へ体ごと向き直るマサト。背中越しに服を脱ぐ衣擦れの音がする。


「…もう良いよ。先に言ってるから…」


 ユックリ振り返ったマサトの目には、湯船へと向かう上半身にバスタオルを巻いたアイシュの姿が映った。

 カーッと顔が赤くなったマサトも意を決し、服を脱いで湯船へと向かった。





「…はー…気持ちよかったー…」


 念願の温泉を堪能出来てアイシュはご満悦だった。


「うむ…殊の外気持ちが良かったな…」


 ユファも大満足の様だ。

 彼女達は放置されていた浴衣を身に付けて、温泉で火照った体を冷ましている。浴衣から覗くピンクに紅潮した肌が色っぽく、温泉情緒を醸し出していた。


「ああ…疲れが嘘の様に癒えていくよ…」


 そしてここまで無理を通して来たマサトには効果絶大だったようだ。

 流石に彼女達の身辺警護を自任しているマサトは浴衣では無い。

 すでに衣服を身に纏い、スツルトの街で購入した「装備」を身に付けていた。

 魔法士としての力を解放したマサトだが、エクストラである彼は汎用魔法を使えない。使える魔法はエクストラ魔法一種のみ。

 しかしエクストラ魔法は魔力の消費が激しく攻撃力が強すぎる。小型の魔獣にいちいちエクストラ魔法を使っていては、この先の行軍に支障をきたす事は間違いない。

 更には防御魔法も使えない彼は、自分の身を守るのに防具を必要とする。

 本来はその役目をアイシュが担い、今はユファがその任を買って出てくれているが、それでも完全にマサトを守れるとは言い難い。結局自分の身は自分で守らなければならないのだ。

 殆ど魔法で事足りる世界だが、「盾魔法」で防御障壁を使えるのはランク二以上の魔法士から。ランク一の魔法士はやはり身を守るのに防具が必要だ。

 その様な理由で、各自治領には最低一店、武器防具屋イクイップショップが存在する。

 購入した「装備」とはそのまま「武器」と「防具」。

 防具に関しては比較的軽装備の物をマサトは購入した。三日月流剣術は動きに重きを置く剣術。重い装備ではその真価を発揮できない。

 そして武器は太刀と呼ばれる、片刃で若干反りのある刀剣を選んだ。この武器は三日月流剣術と相性が良く、力よりも技、そして速さで斬るタイプの武器だ。

 完璧な装備とは言い難いが、現状ではこれ以上望めるべくも無く、ピエナ自治領までに確認されている小型魔獣ならば十分と言えた。

 時刻は夜半を過ぎ、深夜へ差し掛かろうとしていた。


「丁度良い。一先ずここで仮眠を取るとしよう」


 一心地着いたユファからマサト達へそう告げられた。

 進行予定ではもう少し進む筈だったのだが、マサトの体力、アイシュの状態を考えると無理は出来なかった。更にこの施設ならば野営するよりもマサトの体力回復に効果的だろうと考えての事だった。


「やった!ユファ、明日の朝もお風呂入って良い!?」


 その提案に殊の外大喜びなのはアイシュだった。


「仕方のない奴じゃ。すぐに済ますのならば大目に見よう」


 ヤレヤレと言った風に了承するアイシュ。マサトもその提案に異は無い様だ。


「アイシュはすぐにマサトの中で体を休めるのじゃ。マサトもすぐに床へ着け。明日は早いぞ。寝ずの番は我が請け負うとしよう」


 そう言ったユファは妖精の様な姿である「ガイスト」と化した。しかし珍しく浴衣を着たガイストだ。ユファも浴衣が気に入った様だった。

 アイシュもすぐに光を発してマサトの中へと引きさがった。

 そしてマサトは、今までの疲れがドッと出たのか、瞬く間に深い眠りへと就いたのだった。

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