森の洗礼
「これは…いかんな…」
苦々しい表情を浮かべてユファは呟いた。
夜の帳と木々の造り出す陰が、闇をさらに暗闇と化している。
もし月夜でなかったのなら、間違いなく一寸先ですら闇の世界であっただろう。だが今宵も夜空の覇者となった
月灯り以外光を発する物が何もない世界で、ガイストと化したユファの淡い光体はさながら
マサト達が今野営を行っている所は、フォレリス自治領の東方百キロに位置するボスケ森林奥地に当たる。
温泉施設を早朝に発ったマサトは体力の続く限り「飛影」を用い、険しい森の中を二百キロ走破した。このままいけば明日にはフォレリス自治領を通過し、ボスケ森林を抜ける事が出来る予定である。
ここまで魔獣の類には一切遭遇せずに来れた。正に奇跡である。
しかし日中に現れる魔獣は主に草食の物が多く、真に気を付けなければならないのは夜間であった。闇夜に紛れて活発化する肉食魔獣は厄介この上ない。
そして今、ユファはその夜行性魔獣の接近を感じ取っていた。
先程聞こえた地響きの音。かなり遠くで発生した物の様で、此方まで振動が届く事は無かった。深く眠りに就いているマサトもそれに気づいた様子は無い。
だが間違いなく森林に響き渡ったその音は、活性化した中型以上の魔獣が発した物だろう。
姿も見えず声も聞こえないが、だからと言って安全だと言える距離では無い。
魔獣はその体躯が大きくなればなる程、
確認できない程遠方に魔獣が居たとしても、マサト達のいる場所が行動範囲から逸れているとは断言できないのだ。
巨木の根元に出来た小さな穴にその身を埋める様にして、未だマサトは寝息を立てている。彼の中ではアイシュも休眠状態を取っており動き出す気配はない。
(そなたまで眠り込んでどうする…)
そう呟き小言の一つも言いそうになったユファだが、それを溜息に変えて
そもそも今夜も休む様に言ったのは誰あろうユファだったのだ。
ピエナへの行程は大きなアクシデントも無く順調と言って良かった。
ここで仮眠を取るのも予定通り。明日の間にこの森を抜けられれば、行程の半分を消化した事になる。
森の中で取る休息は、魔獣に遭遇する危険を
夜の森を徘徊する魔獣の恐ろしさは万人の知る処。それゆえ追跡者がいたとしても森の中、殊更夜の森を強硬に移動する様な愚は犯さないであろうと考えていたのだ。
だがその危険はマサト達にも同じ事が言える。
物事は思考の中だけで完結される様な通りには進まない。
今までは全く魔獣との接触は無かったが、流石にその幸運も続かない様だ。
月灯りを浴びた小型魔獣と思われる影が二体、ユファの前方に姿を現した。
強靭な体躯を持つ猫科の魔獣「プレザティグレ」だ。
今ではペットとしてでしか存在しない猫科の動物を、全長二メートル程まで大きくし、巨大で鋭い前歯を持たせた姿をしている。全身を覆う体毛は非常に硬く、全身を筋肉で形成していると見紛う程高い俊敏性を持つ。
「魔獣」と言う名称に反して魔法を使う事は無いが、それを補うかの様な高い生命力を有している。常に
(
再びユファは溜息を深く吐きだした。随分距離があるが、どうやら二匹の魔獣に気付かれた様だった。
彼女の眼前に姿を捉えていても見失ってしまいそうな程、二匹の魔獣は音を消し、気配を希薄にして近づいて来る。肉食魔獣が獲物に近づく時のそれだ。
ユファは深く思案した。マサトを起こすべきかどうかをである。
「プレザティグレ」は、魔獣ランクで言えば三程度。ユファが先制攻撃を掛けてしまえば、ほんの一瞬で勝負が決まる。また、マサトの中で休息をとるアイシュが加勢してくれるならば、尚更それは容易な事だった。
だが、彼女達が実体化したり魔法を使用すれば、先程遠方で地響きを立てた魔獣に間違いなく気付かれてしまう。
魔獣は総じて気配に敏感である。自分以外の動きや音には鋭敏で、それは魔獣ランクが上がる程に強くなっていく。特に魔力の動きには異常な程の反応を見せる事で有名だった。
中型以上の魔獣ともなれば、自分の行動範囲で魔力が活性化すれば否応なく気づくはずだ。そうしてそう言った魔獣の取る行動は一つしかない。
縄張りからの排除である。
肉食魔獣なら、それはそのまま餌の捕食にも繋がる。
幸い「プレザティグレ」が魔法を使用しない事はユファも知っていた。ならばここはマサトの剣技で切り抜けるのが得策だとも考えていた。
だがここ数日、マサトには無理を強いている。付け加えればこれから当分無理を通して貰う必要があった。そう考えると、今ここでマサトの休息を妨げる事が
一瞬。その一瞬の
ユファの想像を上回る驚くべき速度で、二匹の魔獣は彼女達との距離を詰めて来たのである。
「しまった!」
毒づくユファ。すでに魔獣はこちらへ飛び掛かってきている。
即座に彼女は実体化を済ませ、マサトを中心とした半円ドーム型の防御障壁を築いた。
ガギューン!
実体物が防御障壁にぶつかる独特の衝撃音が辺りへ響き渡る。
タイミングは紙一重だったが、プレザティグレの初撃を防ぐ事が出来た。
咄嗟の形成にも拘らず、滑らかに魔法行使をしてのけたユファの実力は本物だった。
だが、完全に後手へと回ってしまった。
「クッ…」
自らの判断ミスと決断の遅さに自責の念が口から零れた。
彼女にも戦闘経験はある。それもマサト達とは比べ物とならない程に。
だがそれは力を制限しての戦闘では無い。そう言う特殊な環境と言う意味では彼女も初陣と言えるかもしれない。
また、決断と言うならば彼女はそれこそ、数えきれない程の決断を下して来た。
しかし一国の為政者として下す決断と、今の状況で下すそれとは余りに判断基準が違い過ぎた。刹那の判断と言う物は、彼女のキャリアをもってしてもそう経験のない物だった。
(本当に…儘ならない!)
だからユファはこの状況を少し楽しんでいた。彼女の口角が僅かに上がる。
直接手を下す戦闘。己の判断ミスと決断の遅さ。
この千年の間、そう言った物とは一切無縁で過ごして来たユファにとって、今の状況は「楽しい」と思える物だったのだ。
自分の気持ちがこの場において不謹慎だと認めつつ。
それでも彼女は楽しんでいた。
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