Chapter6 ②
そこは狭い部屋の中だった。
天井も床も深紅のビロード張り、部屋の両端には小さな扉。
向かい合わせの長椅子が二つあるだけで、部屋はなぜか小刻みに揺れている。
……そうか、ここは部屋じゃなくて馬車の中だ。
「レイ。どうした眠いのか?」
ぼうっと床に目を向ける僕の額に、白くたおやかな手がそっと当てられる。
「熱があるのか? 馬車の遠出は堪えるからな。あと少しでペンヴリオに着く、もうちょっと辛抱してくれよ兄弟」
兄弟、懐かしい言葉だ。
その言葉をかけてくれた人は、もうこの世にはいない。
いないはずだ。
「……そうだよ、リリィ姉さんは死んだんだ」
「ん? なんだ、目を覚ましたと思ったらずいぶん不気味なことを言う。私はここだ、この通りピンピンしているぞ?」
僕の右隣で、濃いジンジャーブロンドの髪を揺らして綺麗な女性が笑う。
白と赤の軍服が勇ましい。
肩からたらした黄色の帯には、彼女の武勇を称える色とりどりの勲章がぶら下がっている。
僕と面差しの似た、しかし瓜実顔の女性。凛とした表情で僕に向きあい、彼女は肩をすくめてみせる。
。
「姉さん?」
「そうだ、お前の姉リリィだぞ」
男勝りの豪快な口調と、軍帽代わりに頭に戴く銀とサファイヤの
見間違うはずがない。僕の姉だ、リリィ・アルプソークだ。
そして今は……
「ペンヴリオへ向かう途中。〈黒い霧〉に備えて」
「その通りだ。母上様がお城を動くわけにはいかんからな。
腑抜けの水軍共をシャッキリさせるためにも、我ら姉弟が出て行かんとな」
リリィ姉さんは豪快に笑ってから、ふっと顔をかげらせため息をつく。
「アデルも一緒に来られたらよかったのだろうに。
ま、エドマンドのジジイが危篤なれば致し方あるまいよ、なにせ奴の実父だ。
しかしいったい、何度危篤に陥れば気が済むやら、一向に死ぬ気配がないぞあのジジイ」
姉さんの付き人、いや、リリィ王女の騎士であるアデルは遅れて来ることになっていた。彼女の父であるレティヒェン伯爵が持病の発作で死にかけているためだ。
もっとも姉の言うとおり、アデルの父親が今死ぬことはない。
というか三年後でも、年に数度寝込みながら平気で生きているのだから呆れる話だ。
とにかくここにアデルはいない。
シンディはお城に残してきた。軍の行動に一介の侍女の出る幕はない。
カルネは……
あれ、カルネって誰だ?
「しかし、この天気は嫌になるな。
戦争中もカムリの雨には閉口させられたが、こんな日ぐらい晴れててもバチはあたらんだろうに、なぁ」
リリィ姉さんはカーテンを持ち上げ、のぞき窓から外をうかがっている。
今日の天気は雨と霧。
西部地方、カムリの地は年の大半が雨か霧、そして年の三分の一は雨と霧という湿った季候をしている。
僕らの目的地であるペンヴリオ。そこはカムリの中心であり、今はプリダイン連合水軍(海軍)の本拠地でもある。
プリダイン島の西岸にあって、深い入り江といくつも連なった丘に守られた難攻不落の城砦都市だ。
僕らは水軍の指揮を執るためそこへ向かっていた。
数日前にカムリ地方の沖合に姿を現した〈黒い霧〉は、近寄る船を飲み込みながら徐々に海岸に接近しつつあるらしい。
〈平定戦争〉以降まともな戦いがなかった水軍の兵士たちは、完全に浮き足立っでしまい、今やまともにその任を果たしていないと聞いている。
だからこそ僕ら姉弟が……といっても僕はまだ十四歳、軍務のほとんどは姉が担っている。ともかく僕らが先頭に立ち、彼らを鼓舞しなければならない。
「たかが霧、恐るるに足らず」
「その意気だ兄弟。所詮ちょっと色がついただけの霧に過ぎん」
兵士たちにかける言葉を探す僕に、リリィ姉さんが意気の入った相づちを打つ。
しかしすぐに、彼女は注意するように剣の柄を叩き、優しくも厳しい声で僕をたしなめる。
「だが侮ってはいかんぞ、彼の霧は現に何艘もの軍船を沈めている。
中に如何な化け物が棲むか知らんが、侮ってかかれる相手ではないのも確かだ」
「でも姉さん。負ける気は無いんでしょう?」
「もちろんだ兄弟!
たとえ相手がアンヌウヴンの妖精王であっても、この私の率いる軍においそれとは勝てまいよ、かははははははっ!」
リリィ姉さんがそう笑い上げた直後、急に外が騒がしくなった。
いきなり馬車の扉が開けられ、泥と雨とに身体を濡らした兵士が血相を変えてかしずくのが見える。
「王女殿下! 王子殿下! お引き返しください!」
変事にうろたえることなく、リリィ姉さんはサッと立ち上がると兵士を一瞥し、雨に打たれるその肩に声を投げる。
「カムリの兵だな、何事か?」
「ペンヴロが落ちてございます!
霧が……霧が急に迫って……船も人も、馬も飲み込まれ……もう迫っております!
早く、早くお逃げくださいませ!」
兵士の腰の剣に添えた手が震えている。それは寒いせいではないはずだ。
外を見れば、この兵士のようにずぶ濡れになったカムリ兵が大勢、街道の石畳を東へと走っていく。
中には僕らの護衛を馬から引きずり下ろそうとする者までいる。
馬車に報告に来たこの兵士が忠義に厚かったのか、それとも僕らと一緒に馬車で逃げようと思ったのか、それは未だにわからない。
未だに……?
ふいに雷鳴が轟いた。
そして次の瞬間、戸口にいた兵士は横へと吹っ飛ばされた。
「何か!?」
リリィ姉さんが扉から身を乗り出し、僕も後ろから続く。
空が黒い。
西の方から、まるで壁のような黒いものが、どす黒い霧が迫ってきている。
吹き飛ばされた兵士を見ると、腹に特大の鉄杭のようなものが突き刺さ、いや、分断されている。
首はあらぬ方向にねじれていて、傍目にも事切れているのは明らかだ。
「馭者! 何を見た!?」
「霧より杭が飛んで……その者を打ちました」
問われた馭者が、ヒザをカタカタと鳴らしながらもリリィ姉さんに答える。
彼は王宮軍のえり抜き、恐怖よりも姉さんへの信頼が勝る、そんな若者だった。
「致し方ないな……馭者、引き返せ!」
「は、はい殿下!」
迫る霧に怯えながら、馭者は馬に合図を送って車の向きを変える。
その間にも〈黒い霧〉は迫っていた。
今や天にそびえる城よりも高く、こちらに崩れてきそうなほどだ。
そこからは鉄杭が雨のように降り注ぎ、周囲の護衛や逃げる兵士たちを次々と串刺しにしていく。
開いた扉からそれをつぶさに観察しながら、リリィ姉さんが舌打ちをする。
「よくも私の兵を! 霧の奥に何かいるが、ここからは見通せんか!」
ようやく東向きに走りだそうという馬車。
しかし遅すぎた。
ズン、と雷鳴が、いや雷鳴より遙かに強い、地響きに近い揺れが馬車を襲う。
リリィ姉さんは覚悟を決めた表情で、
「これを私だと思え。お前なら大丈夫だと信じている、息災でな。……馬車を出せ!」
そして馭者へ指示を飛ばした直後、姉さんは馬車からためらいもなく身を躍らせた。
「姉さんダメだ!」
馬車から身を乗り出した僕に無言で手を振り、リリィ姉さんは兵士の死体から奪った剣を迫り来る霧に向けて、堂々と名乗りを上げた。
「我は〈イニス・プリダイン〉はスィンダインの女王アルビナの娘リリィ。リリィ・リァンノン・アルプソークなるぞ!
霧の化け物よ、その帳より出で尋常に勝負いたせ!」
そして僕は見た。
霧から巨大な手が、甲冑に包まれ、かぎ爪を生やした手がぬぅっと伸び、最愛の姉を掴み、霧の中へと引きずり込むのを。
僕は見ていただけだった。
「よせっ……やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
霧から細い悲鳴が上がり、すぐに轟音がそれをかき消す。
姉さんを助けに行かなければ、助けなければならない。
心はそう叫ぶが、僕は馬車から動けない。
「王子っ! 背を低くして! 杭がゲブッ……」
御者台で上がった声が轟音にかき消される。
馬車の天井が何かにはぎ取られ、馭者が巨大な手に掴まれて宙を舞った。
それは一瞬のことで、次の瞬間、彼はかぎ爪に握りつぶされて僕に降り注ぐ。血と肉と骨、赤と黒と白と黄色になって、僕の身体を塗りつぶした。
「……あ」
空を見あげて立ち上がった僕の、頬を暖かいものが濡らす。
不穏な空気に馬がいななき、馬車は東へ向けて急発進した。
しかし空からは無数の鉄杭が降ってくる。もう間に合わない。
どうにもならない。守れなかった。そして僕も……
『守りたいか? そう望むか?』
涼やかなその声がどこから響いてきたか、それはわからない。
空全体が鳴ったのか、あるいは僕の耳にだけ触れたのか。その声は天から降ってきたようにも思えた。
『そう望むなら、我の主となるがよい』
「誰?」
問いに応えるように分厚い雲が割れ、一筋の光が僕を照らす。
『我は〈神衣〉、我は〈
守るもの、壊すもの、人が力で成す全ての武勇、その神話の体現者なり。
汝が我の主たるを望むなら、我が名を呼べ』
「……〈騎士〉よ」
天の光が千の鈴の音と共に弾け、小さな星が一つ、僕の手の平に落ちる。
『我は〈騎士〉。守るものは、我が主が願うもの全て』
星が震え、割れ鐘を叩いたような強烈な音を出した。
その瞬間、馬車に降り注がんとしていた杭が全て、溶け崩れるように消えてなくなる。前進を止めた霧の壁が、僕と馬車から遠ざかっていく。
ふっと目の前が暗くなった。
馬車も道も、星も空も消えて、僕は真っ暗なところに放り出される。
『レイ君! 心を強く持って、記憶にそれ以上深入りしないで!』
誰かが僕を呼ぶ。
カルネだ……カルネって誰だっけ?
目の前をリリィ姉さんの
『そっちはダメ! その幻を追っちゃダメだよ!』
誰かが僕を止めるが、僕はそれに手を伸ばしていた。
「なぜ……」
ふり返ると、ビロードのカーテンの向こうで誰かが泣いていた。
赤と黄色のガウン。燃えるようなローズブロンドの上には、プリダイン戴冠王の
「母上様……」
僕は姉さんの冠と剣を手に、カーテンを押し開けた。
そこは母、アルビナ女王の寝室。
大きな鏡に向かい、女王は僕に背を向けて押し殺したすすり泣きを洩らしている。
「レイ来るな。今の私は……」
「しかし母上」
なお一歩を踏み出す僕に、女王は、いや母は手にした杖で床を打った。
「来るなと言っている……頼むから、出て行ってくれ」
鏡に映る姿は、しかし顔の部分だけが陰になって見えない。
「僕は母様が心配で」
「ありがとう。
でもレイ、それ以上近づかれると、私は押さえきれないのだ……
言ってはならない事を……」
顔を見ようと、さらに一歩踏み出す。
その瞬間、母は僕をふり返った。
目から血の涙を流し、悲しみよりも恨みのこもった、まるで悪魔のような顔で。
「レイ、なぜお前なのだ!
リリィではなくなぜお前が……なぜお前が生き残った!?
リリィではなく!!」
その言葉に、僕の中で何かが砕けた。
聞きたくない。
知りたくもない。
その言葉が出た意味などどうでもいい。
ただ全てが崩れ落ちていく。
母も部屋も、姉の残したものも、そして僕自身も。
……
…………
そう、だから忘れた。
受け入れられなかったから忘れた。
姉の死も、母の拒絶も、受け入れたら僕自身が守れないと思ったから、
『我は〈騎士〉。守るものは、我が主が願うもの全て』
だから騎士よ、
『我が主が守りたいと願うならば、我は主から奪うのも厭わぬ。しかし、これはいつか我が主に必要となるもの。しばし我が内に留め置き、しかる時に再び』
ありがとう。
流麗な女騎士が、胸に星抱く乙女が、僕から思い出をそっと受け取り、小さな箱にしまって鍵をかけた。
「コラァァッ!」
懐かしい怒鳴り声で、黒の微睡みに亀裂が走る。
光差す世界から飛び込んできたのは、銀髪にエメラルドの目をした少女。
「よーやく首根っこ掴んだぞ〈騎士〉っ!
んったくもう、ちょっとはスマートにやれよ!
いきなり記憶を返しちゃってレイ君壊れたらどうすんのさ!」
『我が主は我に相応しきつわものなり。この程度でどうにかなるはずが――』
「うっさい! へりくつ禁止だこのバカタレ神衣! グダグダ言ってると布と糸に分解して再利用すっぞオラァァァッ!」
少女は女騎士を盛大に叱りつけた。
そして荒い息のまま振り向くと、キュッと顔を縮めて気遣わしげな目を僕に向ける。
僕は苦笑しながら彼女に手を振る。
カルネ、ただいま。
「おかえり……無事みたいね。ほら、みんな待ってるから戻ろう」
そうだね、戻ろう。
少女に手を引かれ、僕は〈今〉へと続く亀裂に足をかけた。
***
目に飛び込んできたのは、心配げに見つめる褐色肌の顔。
「レイ、レイ! 起きろレイ!」
「んぁ……アデル。おはよう」
「レイなんだな、お前はカルネじゃなくレイに間違いないんだな?」
アデルは僕の肩をつかんで乱暴にゆさぶる。
と、そこに横から少女の声が飛んだ。
「そこかよ! っていうかボクを信じてないのかよ!」
「当たり前だ貴様を信じられる道理など毛筋ほどもあるものか!」
「んっかぁ! アデルちゃん超ムカつくんですけどマジで」
いったい誰がアデルと話しているのか。
声のする右隣に顔を向けると、そこには小さな光の玉が浮かんでいる。
「これ、何?」
指差した僕に、光の玉が震えて声を返した。
「やっはろー。うっす、ボクだよ。カルネだよ」
「へ、カルネ? なんで?」
「いやなんでもなにも、キミに身体の主導権返しちゃったからさ。
みんなとお話しするために外向きの幻をこしらえてみたんだ」
そう言ってカルネを名乗った光る球体は、ふわりくるりと目の前を一周する。
気がつけばここは僕の寝室で、ベッドの周りにはアデルだけでなくシンディやニカの姿もあった。
皆心配そうに僕を見ている。
「〈騎士〉の力を借りてるんだけど、それでもこの姿で精一杯でさ。
ちょっと違和感あると思うけどそこは勘弁なんだよ」
頭を下げるようにふわんふわん上下する光の玉。
その口調と態度で、確かにそれがカルネだと確信する。
「やっぱり口調で判断するし!」
「いやだって……あれ、カルネ僕の心をまた読んでる……っていうか、僕、身体が戻ってる」
「うん、主導権は返したけど、まだキミと分離してないから。今までと逆になったと思ってもらいたいな」
「なるほど……いててててっ!」
「レイ様大丈夫ですかっ」
ベッドの上で身じろぎしたとたん、全身にピリピリとした痛みが走った。
すぐにシンディが背中に手を添えてくれるが、全身の痛みは収まる気配を見せない。
筋という筋、肉という肉が悲鳴を上げているような引きつった痛み方だ
「カルネ様、レイ兄さまはどうしちゃったんですの?」
ニカの質問に、球体カルネがふるっと輝きを落とす。
「筋肉痛……みたいなものかな。
さっきまでレイ君の身体はボクが無理やり動かしてたから、あっちこっちに無理がかかってたんだと思う」
「筋肉痛って、これ、相当きついよ」
僕は横から苦言を呈するが、意識すればするほど身動き一つ取れなくなる。
腕や足ならともかく、全身どこもかしこも痛むのでは耐えようがない。
「いやーごめん。
あと三時間もすれば収まると思うけど……なるべく動かさないでね、心臓とかもできれば動かさない方が」
「いや無理だろ」
無茶なことを言うカルネにアデルの突っ込みが飛んだ。
たちまち口論になる二人の横で、ニカが筋肉痛なら、と
「レイ兄さま動かないでくださいですの。
ちょっと荒っぽいけどすぐ気持ちよくなるですの」
ニカが精霊にささやくと、何やら不穏な感じの、トゲトゲしたドレス姿の精霊が全身をパチパチいわせながらワンドにまたがった。
「ニカ様、魔法をレイ様にかけるおつもりで?」
困惑顔のシンディにニカは曇りのない笑顔で答える。
「ですの。我が帝国が誇る電撃式治療魔法ですの。
筋肉痛の治療や、あと人格治療などにも効果絶大ですの」
「いやニカ、できれば、それは遠慮したいびやぁぁぁぁぁぁっ!?」
精霊の物々しさに遠慮を申し出たが時すでに遅く、ワンドの先端が僕の手に触れた途端、全身を衝撃が貫いた。
「レ、レイ様っ! レイ様しっかりっ!」
慌てふためくシンディの声を聞きながら、僕はストンと眠りに落ちる。
いや、たぶん気を失っただけだ。
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