Chapter6 目的と過去は交換される

Chapter6 ①


「……だからかくかくしかじかなわけだよ」

「ふむふむ、つまりまるまるうしうしということですの?」

「うんうんそんな感じ」



時刻は昼下がりを越えて、そろそろお茶の時間にさしかかるころ。

場所はおなじみ、貴族寮の談話室。


ティーテーブルの一面でヒザを交えて話すのは、洗い立ての服に着替えたカルネと、制服の上に豪華なレース織りショールを羽織ったニカ。


彼女たちとテーブルを挟んで反対に、三人揃って服装の変わらないアデル、シンディ、そしてヒルデ講師が座っている。

眉間に寄ったシワまで三人いっしょだ。


ヒルデ講師が「お話」の場所に寮の談話室を選んだのは、人目を気にしなくていいようにとの配慮からだった。

この時間、寮は閑散としている。生徒も付き人も出払っているせいだ。


事態を説明しようとする僕とカルネの試みは思った以上に難航した。

事の複雑さと非常識さが度を超していたためだ。

幸い、僕らが音を上げる前に強力な助っ人が押しかけて、もとい参加してくれた。


そう、ニカだ。彼女は僕の危機を聞きつけ、講義も従者も振り払って駆けつけてくれた。

頭の良さと回転の速さなら、ニカにかなう人間はめったにいない。

豊富な知識を駆使し、彼女は他の人物とカルネとの橋渡しをしてくれている。


「ええ、飲み込めましたの。つまり皆さん、こういう事ですの」

ニカはカルネから聞いたことをまとめると、頭を抱える三人に要領よく説明する。


彼女が参加してから一時間ほどか。

全員に説明できたのは、まだ僕が知っている範囲だけだ。でもそれすら僕とカルネは苦戦したわけで、まったくニカには頭が上がらない。


「なる、ほど? ということは今のレイには、私たちが知るレイと、どこかから来た……神とが一緒に入ってるということか」


「ですの。レイ兄さまは身体からはじき出されて、今は幽霊みたいになってますの」

ようやく半分ほど理解したらしいアデルに、ニカは誇らしげにカルネの左隣を指してみせる。


でも残念、カルネが済まなさそうにニカの肩を叩く。

「あー、お嬢。レイ君そっちじゃなくてお嬢のとなり、そっち」


「ですの!?」

『うん、ごめん』


カルネの隣は狭かったので、僕はニカの右隣に腰かけていた。


「ははぁ。では、その辺に本物のレイ様がいらっしゃる、と」

口に手を当てたシンディが指差すのは、僕のさらに右隣。


「離れすぎでしょシンディちゃん。レイ君とお嬢を近づけたくないのはわかるけど……」


「はい、喜劇芝居はその辺でけっこうですよ。要点をまとめさせてください」

情報を扱うならこの人物だ。

ヒルデ講師は軽く手を叩くと、テーブルに置いた小さな黒板にチョークを走らせる。


「一つめは、レイさんの身体には、いま二人の人物が、つまりレイさんとカルネさん? がいるという事ですね。

 二つめは、これはまだちょっと信じがたいですが、そのカルネさんは神さまで、よその世界から来た、と」


黒板にシルエットを二つ描き、ヒルデ講師はその下に小さく注釈を入れる。


「そして三つめ、カルネさんは元の身体に返りたいので、二人をつなぐ〈絆〉の正体を探っている、と」


シルエット同士を線で結び、ヒルデ講師はふむと首を傾げた。


「ここまでは理解できました。でも、現在の状況についての説明はまだ不十分ですね。なぜレイさんは、もしかするとカルネさんもですけど、命を狙われているのでしょうか」


「それについてはボクから……」

講師の疑問にカルネがおずおずと手を上げる。


「ボクが……ああ、つまりカルネが狙われる理由については心当たりというか、たぶん間違いない理由があるんだ」


カルネはヒルデ講師から黒板を借りて、そこに二つの単語を書く。

さらにちょっと考えて、彼女はそれに僕らにもわかる言葉を添えた。


〈Xtroybero:反抗する者〉〈Toyfelon:邪神たち〉


「読みはシュトロイベロ、トイフェロンだね。

 どっちもグループの名前だと思って。ボクら神、正式には〈想神族ヴァーンネロ〉っていうんだけど、ボクらはこのグループのどちらかに属している」


カルネは、ボクはこっち、と〈反抗する者〉を丸で囲む。


「このグループは仲が悪くて、見つけ次第相手をぶっ殺しにかかる間柄なんだ。レイ君やボクを狙った黒騎士は……」


〈邪神たち〉から線を引いて、カルネは新たに〈Xafton:眷属たち〉と書き加える。


「このシャフトン、平たく言うと〈邪神たち〉の子分だね。

 黒騎士はこれだったんだ。だから、ボクの命を狙ってきても何も変な所はない」


「なんで仲が悪いですの? もしや戦争でもしてるんですの?」


ニカの不思議そうな顔に、カルネはてへっ、と情けなく笑って答える。

「まー戦争っちゃ戦争だね。食べ物を取り合ってるようなものだけど」


「食べ物ですの? カルネ様は神なのに、何かを食べないといけないのですの?」


「うん、主に人間、とかかな」


「「「は(いですの)!?」」」

全員が一斉に椅子を鳴らし、カルネから距離を取った。

アデルは剣を抜く寸前だ。


『カルネ、ちょっとちょっと』


僕にたしなめられ、カルネはあわてて周りをなだめる。


「ごめんごめん、今すっごく説明を飛ばしたから…………

 あのね、確かに〈人間〉を取り合ってるけど、別に頭からバリバリ食べちゃうわけじゃないよ。

 ボクらが欲するのは人間の〈想いの力〉、ボクらが〈想素ヴァーネルム〉と呼ぶ力なんだ」


「そ、その〈想いの力〉とはどういったものですの?」


「願いや願望、あるいは欲望。簡単に言うとそんな感じ。

 人間が何かを望むと、世界を変化させる力がそこに寄ってくるというか、とにかく実際の力となって人間に宿るんだ。

 それがボクらの食べ物なんだよ」


「で、ではまさか、カルネさんは願いを吸い取ってしまうのですか?」

紅茶を手に引き気味のシンディに、カルネは首を横に振る。


「ううん、吸い取るというより相乗りだね。

 何かを願う人間に寄り添って生きるんだ。それがボクら〈想神族〉。便宜上は神と名乗ってるけど、生き物なんだよ」


とりあえず食べられないとわかって、全員が浮かせた腰を下ろした。


人騒がせな奴だ、とカルネをにらんでアデルは紅茶をすすり、ついで疑問を口にした。

「人間を取り合って戦争をしている? なぜだ?」


「寄り添う方法が、〈反抗者〉と〈邪神たち〉ではちょっと違うんだよ。

 〈反抗者〉は人間社会に干渉しない。人間の好きにやらせるべきだと思ってる。でも〈邪神たち〉はそうは思わない。

 だからケンカになるんだ」


「その、〈邪神たち〉とやらは、人間をどう思ってるのですか?」

カルネから取り返した黒板を何やらカリカリしつつ、ヒルデ講師は興味のある顔をする。


「彼らは人間を家畜、つまり人にとっての牛とか豚と同じに思ってるみたいだね。だから病気にならないよう、全滅しないように管理する。

 人間本来の生き方させてたら、戦争だの疫病だのですぐ滅ぶと思ってるらしいね」


「聞いてるかぎりでは〈邪神たち〉の方がよっぽど神さまっぽいですの」


「お、お嬢は鋭いなぁ」

ニカの言葉にカルネがニヤッとした。今のを聞いてほしかったのかな。


「じゃ聞くけどお嬢。神さまがお嬢の隣にいっつも貼りついてて、ああしろこうしろ、あれはするなこれはするなって言ってきたら、正直どう思う?」


「それは……ちょっと鬱陶しいと思うですの」


「でしょ? それを平気でするのが〈邪神たち〉のやり方なんだよ。

 自分たちの考え押しつけてくるし、気に入らない人間は即ボッシュートするし、行く先々の世界で〈邪神〉呼ばわりされても文句言えないって」


ペラペラとよくしゃべるカルネに、アデルが我慢がならないとばかりにカップで皿を叩く。

「さっきから貴様は、王子の声でよくわからん事を言いおって気色悪さに鳥肌が立つぞ。

 だいたい、貴様の口調は妙に軽くて不愉快なんだ」」


「ごめんちゃいアデルちゃん」

てへっと笑って舌を出すカルネ。


謝る気が感じられないどころか、あからさまに挑発してくる態度にアデルのこめかみが震えている。

どうもこの二人は、馬が合わないらしい。


「そもそもだ!

 王子が〈眷属たち〉とやらに襲われたのは、貴様のせいではないのか?」


「それは私も思ってました」

清書した黒板を周囲に見せ、ヒルデ講師がアデルに相づちを打つ。


「この繋がりを見るに、原因は貴女ではないのでしょうか」


〈邪神たち〉と、その手下〈眷属たち〉から敵対の文字と矢印が伸び、それが一括りにされたカルネと僕に届いているなら、その示すところは明らかだった。


しかし、図を見せられたカルネは小さく首をひねる。

「いやぁ、それだとボクが乗り移る前の襲撃がね、説明つかないんだよねぇ」


そこへシンディが身を乗り出し、僕とカルネを結ぶ矢印を示す。

「この……あ、失礼。この〈絆〉とやらを狙われたんじゃないですか? 以前からレイ様にくっついてたんですよね?」


「その可能性は微粒子レベルで存在しているけど……

 でもボクと繋がってない〈絆〉、〈神衣〉は冬眠状態にある。活動らしい活動もしないのに、〈邪神たち〉が気がつくとは思えないんだよね……」


「つまりレイ兄さまが最初に襲われた理由は、カルネ様には関係ないということですの?」


「うん、正直言って無関係だと思う」

あまり自信がない様子でニカにそう返して、カルネは僕を見た。


『ごめんレイ君、そっちの問題はボクにはわからない』

カルネは心底申し訳なさそうに頭を下げる。


でも僕としては、カルネがここまで話してくれただけで嬉しかった。

『気にしないで、むしろありがとう。敵がいるって言ってくれただけで充分だよ』


『そう言ってくれると、ちょっと嬉しいかな……そういえばレイ君の――』


「ともかくです」

カルネの言葉を、ヒルデ講師の凛とした声がさえぎった。

テーブルの向こうで黒板を皮のケースにしまい、彼女は席を立つ。


「今日の一件について、おおよその関係が掴めました。

 ちょっと信じがたい話ですが、とりあえず〈諜報〉に持って帰って検討します。おそらく明日には校内の一斉検索と衛士による警戒が実施されるでしょう。

 どの勢力にせよ、校内にもめ事を持ち込まれては困りますからね」


背を向けてから何かに思い当たったらしく、ヒルデ講師がふり返る。

「最後に一つだけいいですかカルネさん。あの鎧は何なんです?」


「あれは機装、カラクリじかけの鎧だよ。ボクが元いた世界で作られた兵器だ」


「カラクリの鎧、ですか」


「うん。どこのバカ邪神がこの世界に持ち込んだかは知らないけど、この世界の武器で倒すのは大変だよ。

 でもあのランクなら、十人ぐらいで囲めば何とかなるかも」


「わかりました。衛士たちには、見つけても少数で相手しないように言っておきましょう。

 ではみなさん、失礼しますね」

ヒルデ講師は頭を下げると、静かに部屋から出て行った。


入れ替わりに入ってきた小間使いの少年が、ソバカスの浮いた顔で昼食がいるかと訊ねてくる。


とたんに鳴ったカルネのお腹に、アデルまでもが吹きだした。



 ***



ちょっと遅めの昼食は言葉は少なくとも大いに盛り上がっていた。


みんな腹が減っていたのだろう。

四人はもくもくと目の前の料理に取り組んでいる。


ミートパイを口いっぱいほお張るカルネを見ながら、一人だけ食事のいらない僕はずっと考え込んでいた。


カルネの敵〈邪神たち〉。


皆への説明でカルネが明かした事と、これまでカルネから聞いた言葉とをつなぎ合わせると、彼女が何をしてきたのか、どうしてこの世界にいるのかが見えてくる。


一千を超える世界を渡り歩き、三千年も戦い続けてきた。

戦いの相手が〈邪神たち〉なら、世界を超える旅の理由は、おぼろげながら予想がつく。

そう、彼女の言葉を借りるなら「〈人間〉を守るため」だ。

一千を越える世界にとって、彼女は〈邪神たち〉と戦う存在、神に等しい力を持った救世主だったということだ。


その彼女がここにいる。そして敵も一緒に。

つまり、それはこの世界が〈邪神たち〉に狙われているという事だ。


彼女が妙にあせっていたのは、〈邪神たち〉と戦う力を元の身体に置いてきてしまったからで、それでも僕を気づかっていたのは、人に干渉しないという生き方ゆえか。


もしこの考えが正しいなら、あやまらなくてはいけないのはやっぱり僕の方だ。

僕のつまらない感傷一つ、些細な物忘れ一つで、この世界を〈邪神たち〉から救おうとする彼女の足を引っ張っていたことになる。


今すぐカルネに……


『その推論はおおむね正解だけど、レイ君、あせっちゃダメだよ』

椅子から腰を浮かそうとした僕に、カルネの声が飛んでくる。


『ボクらは〈想いの力〉を使う。

 人の想いってのがどれだけデリケートで壊れやすいかはよく知ってるからね。本人が気づかない部分も』


二人にしか聞こえない声で、カルネは食事をしながら僕に優しく話しかける。

『ボクの見たところ、キミの心の問題は、絶対つまらない感傷でも些細な物忘れでもないよ。

 前も言ったけど、忘れるには忘れるだけの理由があるのさ。その場の勢いでこじ開けたりしちゃいけない。

 それを感じたから、ボクはキミの言葉を待つことにしたんだ』


『でも次に襲われたら?

 僕の言葉を待つって事は、そのあいだ君には僕の身体しかないって事なんだろう?』


『んー、キミがどう思ってるか知らないけど、この身体けっこういい感じなんだけどなぁ……

なんてね冗談だよ。その時は逃げる…………約束するよ、今度は我を忘れたりなんかしない。

敵を見くびって突っかかったりとか、もう絶対しないから』


真剣な言葉、しかしそぶりだけは食事に夢中なカルネを、僕はついついからかいたくなった。

『うん。もう二回も突っかかられてるけど、僕はカルネを信用するよ』


『ありがと…………

 そーやって蒸し返す。キミって意地悪だ。

 っと、そうだ、危うく聞きそびれるところだったんだけど、昼何があったの? どうやって機装を二機も潰したの?』


『カルネは憶えてないの?』


僕に問われ、カルネは口からパイを離して上を見る。

『それがね、放り投げられるところから先が、記憶がスッパリ抜けてるんだよ』


『じゃあ思い出せるかぎり話すよ。えっと……』


ちょうどカルネが機装とかいうものに捕まってからのいきさつを、僕はできる限り詳しく話した。

女性になったり、鎧を着たり、変に切れ味のいい剣を持ったり……

正直説明するのも大変だったが、カルネは静かに話を聞いてくれた。


『なるほど、やたら強い女性の騎士への変身か……

 おそらくキミは、持ってた〈神衣〉を必死の想いを使って〈喚装かんそう〉したんだ』


『その言葉! 何度も耳の中で聞こえたよ』


『……うん間違いないよ。

 その声は〈神衣〉の声だ……しっかし女性の騎士ね、当てはまるヤツが何着あるやら。どれも似たり寄ったりだし』


『すごく恥ずかしい格好だったけど?』


『それはボクの〈神衣〉に共通の特徴』

『……いやな共通だね、それ』


呆れる僕に、カルネが苦笑いを返してくる。

『まぁね、そればっかりは仕方がないんだよ。

 とにかく他にもっと、例えば「我はうんたらかんたら」みたいな名乗りとかなかった?』


『いや、憶えてるかぎりではそんな事は……』


そのとき、小間使いの少年がカートを押して部屋に入ってきた。彼は使い終わった食器と、新しい料理の皿とを入れ替えてくれる。


「ほう、今日はウナギが入ったのか?」

テーブルに新たに乗った一皿を見て、アデルが嬉しそうな顔を少年に向けた。

大きめの皿に盛られたウナギのゼリー寄せに、隣ではシンディが喉を鳴らしている。


この料理は、ぶつ切りにしたウナギを塩水とレモン汁で煮て冷やし固めたものだ。プリダインの中南部では家庭の味で、ロマヌスだとちょっと珍しい高級料理になる。


「これを食べるですの? プリダインとロマヌスの料理は理解しがたいですの……」

皿を横目に頭が痛そうなそぶりをするニカ。


まぁ確かに、見た目は全力で美味しくなさそうだ。

煮こごりになったスープは黒っぽい灰色ににごっているし、華も工夫もなく輪切りにされたウナギの身は、正直青白くて不気味だ。


でもこれ、僕は大好きなんだよね。アデルも元気がつくからと喜んでスプーンを奔らせている。


と、意外な方向からニカに賛同者が現れた。

「うわっなにそれ、ホントに食べ物?」


「何を言っている大好物…………いや、そうか貴様・・は違うのだな?」

露骨に嫌そうな顔でウナギを指差すカルネに、こちらも露骨に眉をひそめて口を尖らせるアデル。

テーブルを挟んで、二人の間に火花が散る。


アデルは小馬鹿にしたように鼻を鳴らし、わざとらしくウナギをカルネに勧める。

「ふん、神というわりに舌は肥えてないのか。試しに食ってみたらどうだ?」


カルネは歯を見せた笑顔でそれを押し返す。

「冗談、そんなゲ○にしか見えないもの、てーてょうにお断りさせてもらうよ、アデルちゃん」


「アデル、ちゃん、だと? さっきからてめえ……否、貴様っ、郷土の味に○ロとはなんだ!? 

 王子の身体でなければ叩き切ってやるものを!」


「お二人とも、おやめくださいまし……あ、このウナギ美味しい」

どさくさに紛れてウナギをかっさらったシンディが、一口食べるなり頬を染めて幸せな顔をする。さらに彼女は止まらず、左手で二人をなだめつつ右手ではウナギを次々と略奪しはじめた。


それに気づいたアデルが、血相変えて長身メイドの頭を押さえる。

「ちょっとまてシンディ何をしてくれてるんだ!? おいやめろ私の分がなくなる!」


「ちょ、こっちに煮こごり飛ばすなよ! ばっちぃだろ!」


「何が汚いか、何が!」


とうとうウナギの皿を巡って三つ巴の争いが勃発。

ま、取り合ってるのは二人だけで、あと一人はあおって楽しんでる……ん?

『あれ、ニカ?』


ふとニカを見ると、うつむいて何やら震えている。

やがて彼女は腰のホルスターからするりと魔杖ワンドを抜き、そっと唇に当てた。

テーブルの燭台から、彼女に呼ばれた炎の精霊がトカゲのように舌をチロチロさせて集まってくる。


あ、これはまずいぞ。


「そ、こ、ま、で、ですの!!」

可愛い怒声に乗って放たれた精霊たちが、嬉々として古巣のロウソクを爆発させた。欠片一つ残さず、炎となってロウソクが燭台の上から消え失せる。


立ち上がった火柱に、驚いた三人がいっせいに静かになる。火は一瞬で消えたが、それを仕掛けたニカは無言でレースショールを示す。


「ありゃ」『あーあ』


いつの間に飛んだのか、レースにはベッタリとウナギの煮こごりがついている。


「……何か言うことはありませんの?」


「ごめんなさい」「済まなかった」「申し訳ないです」


三人揃っての平身低頭に対し、レースを駄目にされたニカはまだ怒りが収まらない様子でワンドをくるくると弄んでいる。


「まったく、三人揃って大人げないですの。恥を知るですの」


「返す言葉もないな」

「です、せめてお拭きしますね」

シンディがナプキンを手にショールを拭くが、ゼリーは落ちても色は残る。

風景を織りに編みこんだ純白のショールには、名状しがたい黒灰色の染みが広がっていた。

白霧のたなびく湖水地方が、見るも無惨な黒い霧に閉ざされて……


『黒い霧……』

突然、何かがまぶたの裏でちらつく。

昼の時もそうだった。黒い霧という言葉に頭がざわつく。


「黒い霧って?」


カルネが僕に問いかけた声に、向かいに座っていたアデルが椅子を鳴らす。

「黒い霧? レイがそう言っているのか?」


「このショールの模様でしょうか……ああ!」

シンディがすっちょんきょうな声を上げ、手を叩いてアデルを指す。


「もしやレイ様、思い出されたのでは!? 〈あの事変〉の時のことを!」


「何と! レイ、レイ聞こえるか! あのとき何があった――」


「待って二人とも、レイ君苦しんでる!」

血相を変え僕を呼ぶアデルに、カルネが鋭く手をかざす。


その横で僕は、頭が割れるような痛みに耐えかね、床にうずくまっていた。

猛烈に痛い。これは、なんで……


「レイ君落ちついて、今のキミは心とリンクした幻影なんだ。

 心の上げる悲鳴に耳を貸しちゃダメだよ、余計に苦しくなるよ!」


『そんなこと、言っても……ぐっ!』

黒い霧が迫ってくる。

閉じた目の奥で、黒い霧が、異形のバケモノと共に……

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