第十一話 綺想曲を終える時
青琥五年七月。元老院選挙敗北の責任を取って退陣した東園内閣に代わって新たな内閣が成立した。
新内閣の下では市民経済の建て直しと信頼回復が急務だった。その新内閣にとってはこれまでのように美奈皇帝が上から関与してくることは好ましいことではなかった。
皇帝の政治的関与を控えてほしい――その要望を伝えるために向かった新宰相の神崎義弘はあまりの畏れ多さに足を震わせていた。
が、当の美奈はあっさりと神崎の要望を受け入れた。
「現在の政治混乱の責任は私にもあります。それならば私は発言を控えて、今一度宰相を中心に行政を運営していってもらいたいと思います」
美奈に情熱を知っていた神崎にとっては予想外の答えだったようだ。だがこの頃の美奈には既に政治への関心は薄らいでいた。
「私が出張っていたことによってできなかったことがたくさんあると思います。市民のためにそれらの政策を実行してください。それが皇帝からの勅命です」
新憲法の施行からわずか二年半だった。
かつては自由の守護者として、新しい時代の象徴として美奈は絶大な人気を誇っていた。しかし大原汚職事件に始まり、大改革をめぐる議会空転、不況への無策……彼女は失策を犯しすぎてしまっていた。当初は皇帝として市民の前で演説をしたりした美奈であったが、市民の目は冷たかった。やがて、美奈は人前に出る機会も少なくなっていった。
「私、もうダメかも……」
やがて美奈はどんとんふさぎ込んでいってしまった。
「そんなことないよ、美奈。今は不景気だからみんなイライラしているだけだって。時が経てば、収まるよ」
今までは順調だったこともあり、皇帝として明るく気さくに振る舞ってきた美奈だが、元々は根暗で自分を卑下しがちな性格であった。そのことを幼なじみのあゆみもよく知っていたので、今までも度々励ますことがあったのだが、今回は今までにない落ち込みようだった。
「なんでよ。なんでなのよ。私は今までこの国のためにと思って頑張ってきたのに、今や誰も私を信用してくれないじやない。ヘタレ、嘘つき、ペテン師、無能……」
体の力が急に抜けて、美奈はガクッと崩れ落ちた。あゆみは慌てて美奈の元に駆け寄った。
「やっば私、人間として何かが欠けてるわ……」
あゆみはしばらく何も言わずに、美奈の話を聞くことにした。
「強権的な父に対抗するために、私は勉学と策略を身につけた。そして父が亡くなったら、これ見よがしに彼の政策を撤回した。……確かにうちは民にとって良い国になったのかもしれない。でも結局のところは、民を利用した私の自己満足に過ぎなかったのかもね」
あゆみは今すぐに言い返したかった。そんなことはない、と思いっきり否定したかった。でも今はあえて何も言わない。
「父に脅え、父の圧力に屈した沙織からは目を逸らして、私をイジメル人にはずっと脅え続けて……。私はちっぽけな人間。自分一人可愛がってあげられない、しょうもない人間。他の人を幸せにできるわけないわ。一人の女の子として、幸せな奥さんになることも夢見たけど、所詮私には叶わぬ夢。心が壊れてしまった、頭と策略しかない女にはそんなことはできない。夫も子も不幸にするだけですもの」
やがてあゆみは気付いた。あえて何も言わないのではなく、本当に自分が何も言えなくなってしまっていることに。
「だから、だから……せめて皇帝としては立派な人間でいたかった……。こんな私でもまっとうに務められることだと思ったのに……。だから何もかも犠牲にして、名皇帝たろうと頑張ってきたのに……。でも結局は、国民にも信用されなくて、あなたとの約束も守れそうにない。私は誰一人の幸せにも貢献できない……。ねえ、あゆみ、教えて……?
私にできることって、いったい何なのかな……? あゆみのために、何か私は償えたのかな……?」
その後二人は何も言葉を交わさなかった。美奈はただ静かに涙をこぼすだけであった。
青琥六年三月。
「戌亥、今は暇……よね?」
「ごめんなさい。今週の夕食はなんだったかと思い出しているところなので」
「入るわよ」
美奈が足を運んだ場所は宮殿の彼の部屋ではなかった。
消毒液のにおいで満ちた病院の一室だった。
「もしかして、本当に思い出せないというの?」
「元気でも思い出せないでしょう。陛下は覚えているんですか、先週の金曜日に何を食べたのか」
「あいにくね。私もボケたかもしれない」
榮太郎が体調を崩したのはちょうど一年前の桜咲く季節だった。当初は単なる体調不良かと思われていたのだが、実は余命が一年も無いと言われた重病であった。
そのことを知っていたのは東園前宰相を含む彼の親族と、彼が秘書として仕えていた美奈皇帝だけであった。初めて東園からその事実を伝えられたとき、美奈はショックのあまり何も言えなかった。
今でも疑いたい気持ちはある。ついこの間までやいやい言いながら側で仕事を手伝ってくれていたのに。それが今や病室の中の人間だ。会いに来るたびにどんどん彼はやつれていく。
「ねぇ、陛下」
「何?」
「陛下のやりたいことはできたのですか?」
美奈が政治から遠ざかったことを聞いたのだろう。榮太郎はこんなことを尋ねてきた。
「何だったんだろうね。私のやりたかったことって……」
「俺から見て、ということになりますが」
やつれていても榮太郎は榮太郎だった。頭の切れはまだ失っていない。
「あなたは市民のために良い政治をしたい、だなんて高尚な理想は持っていなかったのではないですか? あくまで民衆はツールの一つに過ぎなかった」
「……どうしてそう思うの?」
「父親を超えたかったからじゃないんですか?」
「…………」
はぁ、と美奈は溜息をついた。自分では自覚していなかったが榮太郎が言うのだ、きっとそうに違いないと美奈は思った。
「歴史家は知っている。誰が歴史を書くのか。誰の書いた歴史が最も社会を再現できるのか。それは民衆に近い立場の人間なんです。その点、あなたの父帝は独裁者で人気がなかった。だからあなたは理想を提示すれば、市民の人気を得られたのですよ。そして歴史に残るような事業を短期間で次々とやってのけた」
「それで……私はお父様に勝てたというの?」
「わかりませんね。これからの人間が判断することですから」
自分はその中に入れないけど――彼の言葉にはそんな思いが込められていた。
「そうだとしたら、なんだか私ってすごく迷惑な人ね。父親が嫌いってだけで振り回してただけじゃないの」
「どうしてそうなるんですか」
少しばかり榮太郎の口調が強くなった。
「あなたは『良い皇帝』になりたかったんでしょ。これだけだと漠然としていて何をやるべきなのかわかりませんが、これが究極の目標なんじゃないですか、あなたの」
「じゃぁさ」
美奈は大きく息を吐く。
「市民から見切りをつけられて表舞台から追い落とされた私だけど、あんたは『良い皇帝』だったと思う? お世辞抜きで」
「六十点ですかね」
大学ではぎりぎり合格点です、と。
「あなたがいなけりゃ前のままで酷い社会だった。ですがあなたは皇帝としては自分の理想を追い求めすぎて、市民の声を拾いきれなかった……そういう面では失礼ですが、お父上と一緒ですよ」
「そうね……」
父親と一緒、だなんて美奈からすれば聞きたくもない言葉だった。だがそれは紛れもなく事実だった。
「ただあなたの父上の理想とあなたの理想を比べると、あなたの理想の方が数段素晴らしかった。だからあなたが居てよかったんですよ」
「そっか……」
「ただね、」
榮太郎にはもうわかっていたのだろう。自分の命がもう長くないこと。いやおそらく……これが最後になるであろうことを。
「俺にとってはあなたは百点満点の『良い皇帝』でした」
「いぬい……?」
「ごめんなさい。最後にこんなこと言うのは卑怯ですし、陛下を苦しめるだけかもしれないですけど……俺はこのまま消えていくのは嫌だから」
「消えていくだなんてそんな……」
――わかっていた。
「陛下みたいにやりたいことは叶えられる、そんな立派な人間になりたいって誓いましたから」
――わかっていたのに。
「陛下、いえ美奈さん。俺はあなたの側を歩んでこられて幸せでした。俺にいろんなことを教えてくれて本当に素敵でした。ずっと、ずっと……好き、でした」
――わかっていたのに!
「俺、あなたに会えてよかった」
「そんな……」
美奈の目からは大粒の涙が零れ落ちた。
「全部……ぜぇんぶ私のほうこそあなたに言わなくちゃいけないことだったのに……」
ぎゅっと美奈は榮太郎の手を握った。
「美奈さん……」
「そっか……こんなにも痛い……。好き、なのに……もっと一緒に居たかった、のに……!」
今まで押さえつけていた感情が一気に流れ出てきて、少女のように美奈は延々と泣き続けた。
青琥六年三月二十六日。戌亥榮太郎は眠るようにしてわずか二十四年の生涯を閉じた。最後に美奈と会ってから二日後の朝のことだった。
『あゆみさんへ。陛下のことをどうかよろしくお願いいたします。陛下の心は傷ついてしまっています。あなたが側にいて陛下を支えてあげてください。彼女の心を……俺が癒やしてあげたかった彼女の心を癒やしてあげられるのはもうあなたしかいないのです。勝手なお願いですが、どうかよろしくお願いします』
「バカかっつーの」
あゆみは榮太郎からの「遺書」を握り締めた。
「あんたが元気に生きていればこんなことにならなかったのよ」
もうどうしようもない。
「あんたがもっと早く美奈に気持ちを伝えてあげていたらこんなことには……」
誰もいない宮殿の中庭にあゆみは一人で立ち尽くしていた。
「ねぇ戌亥さん」
あゆみは空を見上げた。
「美奈はね……あんたが好きだった美奈は……」
美奈は体調を崩しがちとなり、公務にもほとんど出られなくなった。それから長き間にわたって美奈は歴史から忘れられた存在になってしまうことになる。
「私だけじゃ荷が重いよ!」
あゆみは遺書を破いた。とにかく破いた。
「あんたに守ってもらいたかったよ!」
あゆみは破いた遺書の紙くずを桜舞う空へとばらまいた。
(第二部完)
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