第八話 歴史家皇帝の一手

 美奈皇帝本人が絶大な政治権力を握っていたのは実はそう長くない。新たに制定された青琥憲法のもと、美奈が最高権力者として立憲体制の頂点に立ったのは青琥三年の一月のことになるが、新たな船出は決して穏当なものではなかった。

 東方から嵐がやってきたのは四月の初めのこと。その嵐は福岡のアメリカ大使館にも押し寄せてきた。


 江戸の東帝国政府が、国際社会に対して自らの帝国が神陽帝国の正統な後継者であること、並びに美奈皇帝は僭称皇帝であり西部領土は非公式政府によって不法占拠されていると主張したのだ。


「全く馬鹿げている」

 大使は私の意見には同調しなかった。

「そう切り捨てるのは良くない。確かに東帝国の主張は失当極まりないが、我々がこの状況に関心を持たないほうがより馬鹿げているというものだ」

「……どういうことですか?」

「つまりだね。急激に自由主義改革が成功して経済大国に復興しつつある西部と、今なお独裁制が続いて国際的に孤立している東部、どっちが組みやすいのかということだ」

 無血クーデターを成功させ、新憲法を制定した西帝国を、どうもアメリカ政府は警戒していた。もとより港湾都市であった福岡を首都とし、アジアの玄関口に位置していた西帝国において、美奈皇帝は早くから海商重視策を発表していた。そのことが太平洋地域における商業利権を奪われかねない、というのが政権幹部の間での共通認識だったようだ。

「もとより、両方が食いつぶしてくれてもいいのだがね」

 外交とは駆け引きであり、一種の戦争である。

「大使はこの帝国が我が国にとって重要な貿易相手とはお思いにならない?」

「かつての神陽貿易は我が国の赤字だった。しかも今の皇帝は倹約家と言うではないか。どうせ貿易で利益を上げることしか考えているまい」

 これ以上は私は何も言う気にならなかった。私はこの地域において我が国アメリカと協力するに値する自由主義の国はこの国しかないだろうと考えていたから。


「色よい回答は得られませんでした」

 宰相の東園実世は疲れ切った顔で美奈皇帝に状況を報告している。

「まぁそうだろうな」

 美奈の右隣に控えている秘書の戌亥榮太郎はぼそぼそと呟いている。

「元々今のアメリカの与党は神陽嫌いだし、ひとまず商敵潰しと来るだろうとは思っていたけど、どうしたもんだろう……」

「ったくもう、どうしてどこもうちの味方してくれないのよ! 向こうの言ってることのほうがちゃんちゃらおかしいじゃない」

 左隣に控える使用人のあゆみは憤りを隠せない。

「なんなのよね。僻んでるだけじゃないの、あいつら」

「えぇっとまぁ……」

「気にしなくていいわ。別に向こうの味方をしようとしているわけでもないんでしょ?」

 美奈はじっと難しい顔をして考え込みながら、東園の方を見つめていた。

「はい、それは」

「元はといえば、欧米諸国にとってうちの……いえ、神陽が得体の知れない国なのが原因なのよ。だから余計な疑心暗鬼を生むんだわ」

 ちらっと美奈は右――榮太郎を見やった。

「結局先進国にとってはうちが経済的に力つけられると困るってわけでしょ」

「えぇ、そう思います」

「ならばかくなる上は」

 美奈はぽんと手を叩いた。

「海外旅行をしましょう」

『は?』

 美奈以外の三人の口が揃った。

「そうね、行き先はまずパリね。やっぱりナポレオン好きとしては外せないわ。それからロンドン行って、ローマにも行って……そうそう、忘れちゃいけないのがモスクワ」

「何のんきなことを言っているのよ、あんた」

「ははぁん……俺も乗りました。一度くらい留学って憧れますね」

「それならば外務大臣の大原をお供につけましょう」

 が、やがてあゆみ対それ以外の構図になった。

「はぁ、どうしようかしら。私、海外旅行とか初めてだから、飛行機に乗るとかすごく緊張するわ。……どうしよう、夜も眠れない」

「……なんだかもうどうにでもよくなってきた」

 最近の美奈はよく冗談を言う。きっと榮太郎の影響なんだろうな、とあゆみは結論付けた。


 元々出不精で体も強くなかった美奈は旅行をあまりしないほうで、国家元首であるにもかかわらず世界を飛び回るということはしなかった。そんな美奈にとっては両方の指で数え切れるほど数少ない海外旅行経験の一つが、この青琥三年夏の外遊だった。

「素敵ね」

 凱旋門を目の前にして、西神陽帝国皇帝の「演説」が始まった。

「この凱旋門ってのは、元々ナポレオンがアウステルリッツの三帝会戦に勝利した記念に建てられたものでね……まぁ完成したのはナポレオンが亡くなってから随分後の話なんだけど――」

「はいはい、陛下。続きはフランス共和国大統領の前でなさってください」

「えっと、ちょっと待って。あぁまずパリの話をするからその予行演習ね。元々パリはローマの植民地ルテティアという」

「はいはい、知識の確認は脳内でどうぞ」

 皇帝と秘書が不思議なじゃれあいをする横で、外務大臣の大原誠三は秘書の尊大な態度に冷や汗をかいていた。

 さて、肝心の「皇帝外交」であるが、一言で済ますのであれば大成功と言ってよかった。

 皇帝自ら足を運んだという事実に加え、各国の歴史を諳んじる若き女帝に、ヨーロッパの指導者達は好感を得た。そして輸出入両面での貿易協定に、文化交流協定、さらに「皇帝」というヨーロッパにはとうの昔にいなくなった存在の権威をもって紛争の調停に成功したりもした。

 余談であるがフランスでは「ナポレオン好きのお嬢様」、イタリアでは「アウグストゥス好きのお嬢様」、ロシアでは「エカチェリーナ好きのお嬢様」と新聞に書かれていたらしい。


 こうして美奈が数々の実績と、念願の歴史観光の思い出を引っさげて福岡に帰ってきた頃は国内の風向きが変わっていた。

 さすがにヨーロッパ諸国を――特にフランスだのロシアだのを味方にしたとあってはアメリカも黙って見ているわけにはいかず、すったもんだの末で協力体制を築くこととなった。

 アメリカ人にはわからないと思うが「皇帝」という地位は舐めない方がいい――ヨーロッパでの美奈の成功を信じられない大使に向かって私が放った言葉である。もっとも長い歴史を持たず皇帝のいた歴史も無いアメリカ人の多くにとって、古い歴史を重んじるこの皇帝を理解することは容易ではなかった。


 問題はまだ終わっていない。

「外圧の心配はなくなりました。しかし東帝国は依然としてあのような主張を続けています。どうしますか?」

「どうって?」

「潰しちゃえばってことでしょ」

 祖父の東園の言葉を榮太郎が補充した。

「今なら外国が味方してくれます。まさか東と組む勢力は出てこないだろうし、今のうちに潰せるものは潰しておいたほうがいいのではないかということです」

「中国とか東に味方したら面白そうね。あそこは体制的にはうちより東に近いし、アメリカよりも商売敵としてうちを一番嫌いそうなのはそこよ。最近ロシアとも仲悪いらしいじゃない」

「いや、さすがにそれは無いと思うのですが……」

「まぁね。ただ私はそれには反対する」

 ちらっと美奈は左――あゆみを見やった。

「仲が悪くても姉妹は姉妹。武器を突きつけて殺そうとは思わないわ。そうよね、あゆみ?」

「えぇ、まぁ……」

「でも、偽者呼ばわりはこのままじゃ続きますよ。このまま無視しろといっても、また向こうに近づきかねない国もありますよ」

「大丈夫よ、戌亥。冷静に考えて、なんで向こうがこんなこと言い出したか考えるの」

 美奈は人差し指と親指で輪を作った。

「今金が無いからよ。貧困に苦しむ兄弟国に救いの手を差し伸べる。うちの印象上がるじゃない」

「……ちょっと待ってください。そんなことしたら金が無くなるたびに、たかられる羽目になるじゃないですか」

「いいじゃない、それで。ちょうどいいお得意様ができるんだし」

『な、なんだって!』

 祖父と孫が声をそろえた。

「経済的にはうちが上。工業製品の質も、商業サービスの質もうちが上。蜜柑みたいな南国のものはうちのほうが生産量多いし、漁業も南からの魚はうちが抑えられるわねぇ。だとすれば東帝国はどこから買ったら一番安いし良い物手に入るかかはわかるでしょ?」

 してやったりの顔で美奈はぽんと手を叩いた。

「昔ね、中国の宋は、北方の遼に屈服した際に銀を渡してるんだけど、文化レベルが違うから結局遼国内に宋の製品が流れて送った分以上の銀を回収と」

 つらつら歴史的事実を述べる美奈を横に、あゆみはただ一人暗い顔をしていた。


 その晩。美奈が足を運んだのはあゆみの部屋だった。

「あんたがいらん気遣いしてるんじゃないかと思ってきたわよ」

「気遣いも何も……別にあんたはやりたいようにやってるでしょ? こっちが気を使う必要ないじゃない」

「あははならいいけど」

「だから……ちょっと昔話聞いてくれないかな」

 あゆみは美奈のほうをじっと見つめた。

「私が好きだった人の話のこと」


 初恋の終わりはあっけなかった。

「俺さ沙織様のこと、好きなんだよね」

 そう告げられたのはあゆみが美奈付きの使用人になって六年目の夏のことだった。

「えぇ、沙織様を? あの子性格キツいし……あんたにそんな趣味があるとは思わなかったわ」

 胸が痛みながらもあゆみは冗談で返した。

「お前、皇帝陛下が聞いてたら殺されるぞ」

「あはは。でも、どうして沙織様のことが好きなの?」

 どうしてもそれは知っておきたかった。私が好きな人がどうして他の人を見ていたのかということを。

「なんだろうな……守ってあげたいんだよ」

「えぇ、あんたが沙織様を?」

「うん。俺って小さい頃から沙織様の相手をよくしてたじゃないか。当時はあの子泣き虫だったからなぁ。その頃の印象が強いのかも」

 ただ、と付け加えて。

「今は確かに性格がキツいかもしれないし、それになんてたって……陛下に閉じ込められている状態だけどさ。だからこそ俺がなんとかしてあげたいんだ。俺がやらなきゃ……誰もできないだろ」

「それは責任を背負い込んでいるだけじゃないの?」

 あゆみにとってのささやかな抵抗だった。

「違うよ。あの子を救い出してまたあの頃のように一緒にこの広い世界を走り回りたい……その思いは変わらない」

 あの頃のように、か。

 そこにはきっと、もう私はいないのに。


「どうしてるんだろうな、あの人」

 あゆみの初恋の相手、綿谷修司は帝国分裂の際に沙織がいる東帝国に残った。今は皇族の遠縁として軍人をしているという。

「上手くやれてるといいわね」

 そう言いながら美奈は髪の毛をいじる。恋愛話の類を今まで耳にしてきたことはあったが、なぜだろう今のあゆみの話を聞いてもやもやするのは。

「ふーん……」

 本人が気付いていなくてもあゆみはお見通しだ。

「何よ? 顔に何かついてる?」

「いや、さ……あんたも後悔すんなよ」

「…………」

 政治のことはすぱっとアイデアが思いつくのに、この今はなかなか頭の中がまとまらなかった。

「まぁ、それはいいとして。今回の東の圧力は本当にお金で解決する問題なの?」

「うん。沙織はたぶん政治的な権限はもってないと思う。宰相の山崎あたりが、沙織の私への敵対心を煽って仕向けたんでしょう。でも国際状況がこうなった今、うちに手出しはできないわ」

「そうならいいんだけどね……」

 あゆみにはわかっていたのかもしれない。今はこれで収まっても、姉妹の不和がいずれ破滅を導きかねないことを――。


 青琥三年十月。東帝国への資金援助と同時に双方を正式な独立国家として承認することに合意。こうして帝国の存亡に繋がりかねなかったいわゆる「地位保障問題」はひとまず解決したことになる。

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