第一話 出会い

 無限の世界がそこには広がっていた。

 足を運ぶことができない遠い世界の物語。

 体験することのできない遠い過去の物語。

 登場人物達は誰もが主人公であった。勝者として輝く者もいれば、敗者として散っていくものもいる。絶対的な力を持つものもいれば、微弱な力しか持たないものもいる。

 一人では物語は生まれない。様々な立場の人間達の思惑が複雑に絡み合って、そこには良質の物語が広がっていた。

 コンコン、と。突然の物音で物語は中断した。

「美奈様、おられますか」

 午後の軽食を従者が運んできてくれたようだ。一言二言会話を交わして、従者は部屋を後にした。

 その部屋の主は青色の着物に身を包んだ少女。長い黒髪の上に乗った大きな赤いリボンが印象的だった。

 ちょうどキリもよかったところだ、とその部屋の主――美奈はケーキを口に運んだ。

「沙織見っけ!」

「あぁ、捕まっちゃった」

「後はあゆみ姉ちゃんだけか。あの人、どこに隠れているかわからないから困ったもんだよな」

「待って、私も行くー。私たぶんあそこだと思うの」

 外からは春の日差しをいっぱいに受けて、子供達が遊んでいるようだ。いつもの光景である。外を覗くことなんてあまりないのだが、この日は気が向いたらしく、美奈はガラス窓の向こうの世界に目をやった。

 木の上によじ登って身を潜めている少女を発見した。おそらく先ほど声のした二人の男女が探している子であろう。今、美奈がいる部屋は二階だからよく見えるが、果たして地上の少年達は彼女を発見できるのだろうか。

 甚だどうでもいいことだった。窓の向こうの世界に興味はない。彼女はケーキを食べ終えると、再び本を開いた。

 従者が皿を取りに来る前に、外では子供達の賑やかな声が聞こえた。


 美奈自身が残した日記によると、それは称烈十一年の六月二十四日。雨の日のことだった。

 誕生日パーティーなる美奈にとっては面倒この上ないイベントが終わり、自室でいつものように読書に勤しんでいた時のこと。

「入るぞ」

 ノックの返答をする前にドアを開けるのは、彼女の父である博喜だけ。そのがっちりした体格の男の傍らに、無表情で直立している少女がいた。

「夕食のときに話したが、お前も十一歳になったことだし、専属の使用人を付けようと思う」

「はぁ……」

「お前のことだから要らないとか言い出しそうだけどな。人を使う、命令するという経験は必要だ。だから彼女はお前のものにする。好きにすればいい」

「いえ、居たら居たで便利なので構いませんよ。で、その子は……」

 美奈は父の横にいる少女を見つめた。記憶が正しければ、確かいつも外で遊んでいる子の一人だっただろうか。

「彼女の両親は有能な役人だったが反逆罪を犯してね、随分前に処刑した。まだ幼かったから助けたのがこの子だ。宮廷の召使としては使い物になるだろうからな」

 ぶるっと、少女が身を震わせたのが美奈にはわかった。

「さっきも言ったが彼女は奴隷、ペットのようなものだ。お前の望むように、好きなように使えば良い」

「陛下、あの……」

「あぁ、すまん。今行く」

 誰かに声をかけられて博喜が部屋を後にしたのは、美奈にとっては幸いだった。これ以上、博喜の言葉を耳にするのは彼女の精神衛生のためには良くなかったからだ。

 部屋に残された少女二人。が、その時間はすぐに終わった。

「……失礼します」

 美奈が声をかけようとする前に、少女は退出してしまったから。


「殿下、軽食をお持ちしました」

 それから、軽食の給仕や夕食の呼び出し、ベッドメイクといった簡単な仕事は彼女が行うようになった。

 部屋の中では本を読んでばかりで周りには気を使わない美奈に、淡々と仕事をこなしていくだけの彼女だったから、会話らしい会話は全然展開されなかった。

「それではし」

「ちょっと待って」

 だがこの日は違った。ちょうど美奈が一冊の本を読みきった後だったからだろう。なんとなく話しかけてみようという気分になったのだ。

「あなた……名前は?」

「秋田あゆみと申します」

「そう。わかってると思うけど私は美奈」

「はい、殿下」

 あゆみは一礼するとそそくさと部屋を後にしてしまった。

「殿下、か」

 次の日も、またその次の日も、会話らしい会話などなかった。

「失礼します」

「…………」

 主人は両親を殺した男の娘。ましてや今まで元気に遊んでいたのに、急に館の中に閉じ込められてしまった。二桁になったばかりの年齢の少女が心を閉ざしてしまうのも無理はなかった。

 そんなことは美奈にもわかっている。だが、自分と同じ年齢の少女が心を閉ざして塞ぎ込んでいる様子を毎日見るのは辛かった。

 何とか彼女は心を開いてくれないだろうか――「本の外の世界」で美奈が久々に興味を持った問題だった。


 鈴虫の鳴き声が聞こえる夏の夜。その日も美奈は本を読んでいた。

 鈴虫に混じって、ピアノのメロディがどこからか聞こえてきたことに美奈が気づいたのは、ちょうど本の区切りにさしかかったところだったからだろう。あまり音楽には詳しくない美奈だが、今聞こえてくる曲は学校でも耳にした曲だったので親しみを覚えた。

 ショパンの夜想曲ノクターン

 せっかくだから身近で聞くのも悪くない。そう思った美奈は珍しく部屋を飛び出し、勘を頼りに音のする方向へと足を運んだ。美奈の予想通り、音源は彼女が暮らす宮殿内の一室だった。

 コンコン。音が止まったところを計らって美奈は扉を叩いた。

「はい」

「ちょっと失礼しますね」

 扉を開けるとそこには彼女の使用人――秋田あゆみが居た。

「えっ……」

「で、殿下!?」

 固まること十数秒。

「いや、あのね」

 先に口を開いたのは美奈だった。

「部屋で本を読んでいたら、ピアノの音が聞こえてきてね、綺麗だなと思って音につられてやってきたの」

「も、申し訳ありません。読書の邪魔になったでしょう」

 ぺこぺことあゆみは頭を下げる。いつもの無表情な彼女と違って、突然の主人の来訪のせいで慌てた様子だった。

「それは構わないわ。それより今はあなたと話がしたいの。そうね……ちょっとお茶汲んできてくれないかしらね」

「はい、ただ今」

 改めて美奈は部屋を見渡してみた。勉強机にファンシーなぬいぐるみ。おそらく年相応の女の子の部屋はこのようなものなのであろう。父の博喜は物のような扱いしかしていないような物言いだったが、部屋を見る限りは一応は人間として十分な生活をできているようで美奈は安心した。

 そして部屋の真ん中にあるピアノ。

「ただ今お持ちいたしました」

 お茶を手に持ってあゆみが帰ってきた。

「どうもありがとう。それにしても、上手いのね、ピアノ」

「そう、ですか……」

 あゆみの顔はあまり冴えない。

「暇つぶし、なんです。私外には出られませんから……。だからこうやってピアノで気分を紛らわせているんです」

「いつから始めたの?」

「最近です。使用人の先輩からいろいろ教わっているんです。このピアノも彼女のお古で……」

「そう……」

 鍵盤にそっと美奈は触れた。

「始めたばっかりであの腕だったら、素質あるのよ、あなた」

「先輩もそうやって誉めてくださるけど、そうなのでしょうか」

「あはは。先輩が言うなら間違いわね。私、耳にはあまり自信がないの」

 くすっと美奈は笑ってみせたが、あゆみの表情は崩れなかった。

「……ねぇ」

 次にこんな機会が訪れるのはいつになるかわからない。だから思い切って、美奈は尋ねてみた。

「私に仕えるのなんて嫌でしょ? 本当はもっともっと遊びたいでしょう」

「そ、そんなことはありません。私は殿下にお仕えするのが仕事です」

「遊びたくても、仕事するしかないんでしょ? あなたはそうすることでしか生きていけないんでしょ?」

 それは紛れもない事実だった。あゆみは、はいと答えるしかなかった。

「じゃぁ、どうせ私に仕えるしかないならさ、もっと楽しく仕事しない?」

「……は?」

 あゆみは真意を測りかねているようだった。

「あのね、私はお父様とは違うの。あなたをペットみたいには全然思ってない。主従関係はあるかもしれないけど、友達として仲良くやっていきたいの。だから私に脅えたり、敵視したりしなくていいのよ」

「…………」

「急にとは言わないわ。でも少しずつでも心を開いてくれると、私は嬉しいな」

「そう……」

 あゆみはしばらく考えた後、

「殿下はそういう人なんですね」

表情を和らげた。

「わかりました、殿下。殿下がそのようにおっしゃるのであれば、お言葉に甘えさせていただきます」

 そして恥ずかしそうにあゆみは笑みを浮かべた。

「私、殿下なら好きになれそうです。お側にいたいと思うようになれそうです」

「えっ、いきなり愛の告白とは参ったわね……なんて」

 うふふと美奈は笑って、あゆみも笑い声を以って返した。

 あゆみの丁寧語がくだけたものに変わり、「殿下」が「美奈様」、そして「美奈」になるまでそう時間は変わらなかった。

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