have read an All

@satoru_arasi

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 ここはフィクションの臨界点だ。

 ここより先にフィクションは存在しない。

 一つの到達点として打ち止めされている。

 ゆえに、この線を越えた先には模倣の模倣の模倣の模倣の模倣だけが浮遊している。

 あなたがどういった言葉を書き記そうが、その表現には先駆者がいて、新しさは喰い尽されている。

 オリジナリティの崩落。

 わたしの希薄化。

 普遍性。




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 これは私の書く、最後の物語だ。

 私は物語ることを望まない。

 読点を、句点を、段落を刻むことを嫌悪する。この言葉を綴ることでさえ、自らの首を締めることとなんら変わりがないではないか。その一文字が私を震わせ、その一文節が私を盲目にし、その一文は私を服従させる。それらすべてがリズムを刻み、物語が生まれる。そして、たった一つのその物語が私を殺す。

 この文字列は本当に私が打ち込んでいるのだろうか。

「きっとこの世に初めて生を受けた物語だけが、純粋な愛を知っていたに違いない」

 これは私の憧れた一人の作家が遺した言葉だ。

「物語るという営み。人が生まれ、友と語らい、愛するものと身体を重ね合わせる、その隅々にそれは芽を生やす。人類が物語を紡ぎ始めてから、どれだけの時が経っただろう」

 一体いくつの寓話が子どもたちの心を安らかにしてきたのだろうか。

 一体いくつの神話が愛の逢瀬を決別せしめてきたのだろうか。

 一体いくつの伝承が人の死を規定してきたのだろうか。

「物語とは、自由の名の下に存在するのだと、ぼくは信じる」

 聖書が電子化されてから百年ほどが経ったらしい。グーテンベルクより拡散した紙の本の伝統は、やがてタブレット端末に印字される電子書籍へと変化を遂げ、子どもたちは下を向いて詠唱し続ける。液晶に映る有難い言葉、自動的に翻訳される神の教え、神の原初性、手触りのない新約聖書。

 ――きっと、困惑しているのだ。

 わたしはまずあなたをどういった言葉で出迎えればよいのか、その答えを考えあぐねている。結論のみをこの場に置き去りにしても、あなたに意味が伝わらなければ仕方がない。しかし、語れば語るほどに私は自分自身が言葉を紡ぎ、繋げる作業に恐れを見出すことになる。もしや矛盾の糸に雁字搦めになってゆく私が数秒先には待ち構えているのではないか。不確かさが苛むように。

 少なくとも、私たちの背後には永遠と続く物語の隊列が生き生きとした血色で命を灯し続けている。だから本当をいうと、あなたに語るべきことは一つもないのかもしれない。でも、それではいけない。

 あなたはいま、すべてを読むことが可能な時代に生まれたのだから。

 あなたはすべてを読むことができる。

 人類が生み出し得る物語であるならば。

 人類のフィクションを余すことなく。

 伝えたいことはまだ整理できていないけれど、もう少しだけ待っていてもらいたい。

 その前にあなたにはすべてを読んでもらおう。




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「あなたの小説を読んで、作家を志すようになりました」

 展示された詩宮伝承の作品の原本をまじまじと眺めていた私の許に、一人の少女がやって来てそう言った。互いがその唐突さに驚き、少女は何か失態に気づいたように慌てて一歩後ずさる。私はといえば、母親に叱られた娘のように背筋を伸ばし、目を剥いて疑問符を浮かべているざまだ。裾の長いコートをひるがえし、少女に面と向かった私はその幼さが残る表情に、隠しきれぬ緊張を見つけ出した。

「あ。いや、えっと、その。……もしかして、アルツァ・シュタインさんですか……?」

 そして、小さな口から零れ出たその言葉に、少女の目的を推測する。

 ファンだ。私のファンだ。それも女の子。女の子のファンだ。

 逸る心をじわりと沈め、私は笑顔をつくろうと試みる。いささかぎこちないことは許容範囲内としておく。はいそうですよ、と返事をし、少女の緊張を少しでも和らげるために柔和な雰囲気を纏おうと努力する。なにせ、面と向かってファンと話をするのは初めての経験なのだから、勝手が分からない。

「いきなり話しかけてしまってごめんなさい。わたし、あなたのファンなんです。あなたの参加するディスカッションを直に聞いてみたくて、初めてSFコンベンションに来てしまいました」

 少女の容姿はまだ幼さの拭いきれぬ時期にある女性のそれではあるけれど、そこから内面までを推し量ることは難しい。ハイスクールの女の子にありがちな「楽しきは共有せよ」の精神に則っているようには見えず、それはつまり、孤独を意味する。

 孤独――私の用いるこの語に棘はない。過剰な協調も孤独も、私に批難する権利はないだろう。それでも賞賛を送るだけの器量は持ち得ているつもりだ。つまり、この思春期の只中を生きる少女は、友人たちと楽しみを共有する以上にSFというジャンルを愛し、この場を訪れたのだ。一人の作家として、そんな少女を愛おしく思わずにいられるだろうか。

「半年前、初めてあなたのデビュー作を読みました。感動しました。あれ以来何回も読み返しています。なんかもう、色々すごくて……。なにより、あれは、

 私にとって、至上の褒め言葉だ。

「SFが好きなの?」

 それは確認のための一言。あまりにも短い私の言葉は、少女を突き放したように聞こえたかもしれない、それでも私は本心から零れるただ一つの言葉を期待して問いを投げかけたのだった。

「はい、大好きです」

 ただ純粋にSFを、そして、小説を愛する少女がそこにはいた。

 有ろうことかその少女は私の物語を読んで、紆余曲折を繰り返すであろう長い人生の中に展望される、一つの夢を見てくれているのだ。こんなに嬉しいことがあるだろうか。

 作家になれてよかったと、幾度目の幸せを噛みしめる。




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 アルツァ・シュタインと呼ばれた私は、新人のSF作家という肩書の元に、年に一度開催されるSFコンベンションに招かれていた。ロサンゼルスで開催された今年度のコンベンションは、私がゲスト参加する初めてのコンベンションでもある。

 去年の初めに新人賞を頂き、晴れて作家デビューしたのが二四歳の誕生日を迎えたばかりの頃であり、かなり早咲きの作家だと周囲から口々に言われた。ネットを通じたファンレターはいくつか貰っていたけれど、先述したようにこうしてファンの人と向かい合うのは初めての経験だ。少女にとって、私と遭遇したのは想定外の出来事であったようで、どうしたものかとあたふた戸惑う様子が年齢に似合った反応で微笑ましい。とりあえず握手を求められたので喜んで応じる。小さな手のひらだった。

「一昔前なら、ここでサインでもしてあげられればよかったんだけど……」とふと呟いた私の言葉に、少女は不思議そうな顔を見せる。サインとは何かを訊きたげな表情だ。この少女にとって、サインいう言葉は契約書などに記す署名、という以上の意味を持っていないのだろう。

「昔は――。昔っていっても、具体的には私の生まれる少し前の話だけど、まだ紙の本が発行されていた時代にあった風習みたいなものよ」

 紙の本。デッドメディア。紙の手触り。

 私たちはページをめくる心地よさを知らぬ世代だ。

「紙の本があった時代の風習……ですか?」

「そう。例えばあなたが私の本を買って持ってきてくれれば、私はそのページのどこかにオリジナルの署名をしてあげるの。昔はそういう一筆が特別な価値を持っていたのよ。紙の本が消えるに従って、一緒になくなっちゃったみたいだけど……」

 かくいう私も、紙の本が途絶えた世代を生きるものの一員だ。

 名著『フィクションの歴史』に由ると、二〇一五年を境目に電子書籍市場が急速な拡大を遂げ、紙の本のシェアを凌駕し始めたのだという。中世ヨーロッパの囲い込み政策ではないけれど、当時はよく「電子書籍が紙の本を食っている」といった具合に警鐘が鳴らされていたそうだ。マーケット展開当初は電子書籍の影響は無視できないまでも紙の本を絶滅に追い込むほどの力があるとは多くの人が信じていなかった。しかし、生まれながらにタブレット端末を当たり前のように携帯する世代が人口の多くを占める様になってから変革は起こった。

 書店が消えゆく様は、紙の本の行く末を如実に表していた。

 減じていく発行部数。増加していく電子書籍マーケット。

 そんな歴史の到達点にRiH《=Reader in Heads》は産声をあげた。

「RiHを使用する以外の読書なんて、手続きを取って図書博物館にでも行かなくちゃ、普通は経験できませんよ」

 少女の言うとおりだろう。

 私が生まれる少し前、科学は一つの到達点を見出したのだと、学生時代の授業では散々聞かされたものだ。今の時代を生きる私たちに、脳内アプリケーションの概念なき世界は想像するに難い。

「紙の本には触ったことある?」

 私は少女にそう問うた。

「エレメンタリースクールにいたころ、体験授業の一環として、一度だけあります。わたしの家族はあまり読書をしないから、おじいちゃんたちが読んでいた紙の本も保存してなくて、そのとき初めて触ったんです。なんだか面白い感覚でした。いつもは脳内で読んでいる小説が、紙にインクで印字されているなんて、すごく不思議でした」

 少女はにこやかに語る。

 例えば百年前に生きた人たちがこの少女を見たら、どう思うのだろうか。聖書がようやっと電子化されたばかりの世界の住人は、フィクションに対して私たちとは異なる思想を抱いていたのだろうか。ページを繰ることになれていない私は、その心地よさを実感できない。これがページを繰ることなのか、という小さな感慨とともに、博物館で古い化石を眺めるような心がたゆたう感覚。

 ふとそこで、私は名案を思い浮かんだ。カバンの中から専用の布で包まれた物質を取り出し、少女にも見えるようにその包装を解いていく。そこには一冊の本が収まっている。デッドメディアと呼ばれて久しい情報媒体。紙の本。

「……それってもしかして」

「そう、そのもしかして。私の記念すべきデビュー作。手続きとお金の用意さえあれば、製本を請け負ってくれる業者は今でもいくらか残っているのよ。そのうちの一つに依頼して製本してもらったの」

 でね、と一言挟んで私は本の表紙をめくりながら「あなたの名前は?」と唐突な質問をぶつける。いきなり何を、と問いたそうな顔を浮かべるけれど、質問に質問で返すのに躊躇いがあったのだろうか、メアリ・ストーンです、と素直に答えてくれた。都合よく携帯していたボールペンのキャップを外し、さらさらと文字を書き綴る。

「アルツァ・シュタインより、メアリ・ストーンへ」

 ファンのためにサインを書くのは初めての経験だ。本来ならば、じっくりと考えて決めるべき筆記だけれど、思い切って感覚に任せて記述した。インクの書き残りを指でそっと拭う。さらさら、というべきか、ざらざら、というべきか、非常に曖昧な手触りが指先を伝って感覚神経に伝達される。これが紙の本の手触りか。

 少し恰好をつけすぎたかもしれない。それでも私は満足している。休暇を利用してわざわざ私の許を訪れて来てくれた少女へ、ささやかながらプレゼントになればいいと思ったのだ。「あなたの小説を読んで、作家を志すようになりました」と伝えてくれた少女。私の書いた物語が一人の人間に影響を与えた。かつて私が、憧れの作家のようになりたいと夢見ながら物語の構想を練ったように。

 いつかこの瞬間を誇れるように、これからもフィクションを連ねていこうとこの時の私は強く思った。

「このことは秘密だからね」とささやきながら、私は彼女に本を手渡した。




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