幻聴

 連れが嫌がるので、煙草をアパートのベランダの端で吸っているのだが、自分のところはよくてもご近所さんには煙や臭いが行って悪いなあと思っていた。一度は禁煙しようと思ったこともある。でもダメだった。ニコチンとタールが俺の脳細胞に侵食し、禁断症状を引き起こす。無理だ! 俺は叫んで、コンビニで煙草を買うはめになる。

 朝昼は我慢しよう。みんなが寝静まった夜なら吸ってもいいだろう。そう思った俺は昼間はなるだけ吸わないようにし、夜中に真っ暗な中で吸っていた。春までは良かった。夏になると、ウチの近所はエアコンを使わないらしくて、窓の開いた家や部屋が散見できた。俺は気が小さい。どうしよう、吸うのやめるかと思ったけれどもニコチンとタールに侵された脳みそがこう言う。「吸え。法律に違反しているわけじゃないんだ。文句が来たり、警察に隣人が相談したらその時考えればいい」そうか、そうだな。俺は開き直って深夜の喫煙を続けた。

 いつの頃からだったが忘れてしまったが、俺が煙草を吸うと決まって「ゴホン、ゴホン」と咳をするオヤジが現れた。最初、偶然だろうと思った。でも違った。毎回毎回、咳をするのだ。「こりゃ、嫌味だな。文句があるなら直接言えばいいのに」俺は呪いの言葉を口にした。数日後、近所に救急車が来た。老人男性だったらしい。その日から咳は聞こえなくなった。呪いの言葉が効いたのだ。いい気味だと思った。

 それから少しすると老婦人の声で「臭いわねえ」「私、煙草嫌い」という声が、俺が煙草を吸っていると聞こえてきた。コソコソコソコソやっている、その根性が気に入らない。苦情が言いたきゃ、ポストに手紙でも書けばいい。なんで直接言ってこないんだ。俺はまた呪いの言葉を口にした。三日後、隣家が焼けた。中から焼死体が二体、発見された。そこに住んでいる老女の姉妹だろうとのことだ。

「敵は消えた。思いっきりタバコが吸える」俺は喜んだ。だがコソコソコソコソ何かが聞こえる。絶妙に俺をイライラさせる声だ。それはもう、タバコを吸っていなくても聞こえる。気が狂いそうになった俺はiPod touchで音楽を聴くことにした。音を音で消すのだ。これはうまくいった。でも私生活で問題が出た。家のチャイムがなってもわからない。電話がなってもわからない。困ってしまった俺は三たび呪いの言葉を発した。

「この世から煙草よなくなってしまえ!」

 タバコさえ吸わなければもう何も問題はないはずだ。事実、「もっと早くそれに気がついていればこんなことにはならなかったのにねえ」という声を最後に幻聴は消えた。

 チャイムがなった。俺は出る。警察官が六名いた。

「……さん。向かいの権田宗八郎さんの撲殺事件と、隣の須賀姉妹の放火殺人事件のことでお聞きしたいんですけどねえ」

「ああ、僕が殺したようなものです。悪魔に頼んだんですから」

「頼んだ? 悪魔? 我々の掴んだ目撃情報によりますと黒いマントを着たあなたが町中を走り回っていたそうですよ」

「悪魔が僕に似ていたんだ。そうだ、悪魔にこう言うお願いもした。『世界中から煙草がなくなれって』どうです、なくなったでしょ」

 俺が聞くと、先頭の私服警官が、

「一本吸うかい?」

 とヘブンスターを取り出した。

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