第3話 サワーがつないでくれたもの
サワーがつないでくれたもの(1)
都心の繁華街に勤務地があるからといって、金曜日の夜が来るたびにバーでグラスを傾けるという夢のような暮らしを満喫できるわけではない。
落ち着いた空間と美味しいカクテルは、まさに贅沢の極み。当然ながらその代金は高い。場所が都心ならなおさらだ。社会に出て間もない人間が気軽に遊べるような世界ではないのである。
そしてなにより、敷居が高い。
第2話で書いたとおり、私は妙な形でバーデビューを果たしたが、やはり、近隣界隈のバー探索をたった一人で決行する勇気はなかった。初めての店をひとり訪れ、たおやかな仕草でカウンター席に座る……、という理想を掲げてはいたが、街中でショーウィンドーに映る己の姿を見れば、それが身の程知らずの野望であることは自分でも分かる。
私が背の高い美人顔だったら、見知らぬバーのドアを開けて「こちら、初めてなんだけど、いいかしら」なんて言っても絵になるかもしれないが、小学六年生の背格好をした童顔が同じことをやったら、「お子ちゃまは来ちゃだめだよ」などと言われるのが関の山だ。
職場の先輩陣に行きつけのバーに連れて行ってもらって、その店のマスターと顔なじみになってきたらいよいよ一人で……。そんな展開を脳内シミュレーションしながら、じっと先輩陣の動向をうかがっていたが、あいにく私の期待する状況は一度たりとも実現しなかった。
十人余で構成されるチームの面々は、五、六歳年上の先輩からおじさん世代の上司に至るまで、揃ってつつましやかな庶民だったからだ。都心のきらびやかな街に勤務地があるからといって、そこに勤める人間が皆「きらびやか」な給料をもらっているわけではないのである。
お洒落なバーが街中にひしめき合っていても、職場の連中が「仕事帰りにみんなで一杯……」と言い出すと、行き先は必ず騒がしいチェーン店の居酒屋だった。二次会ですら居酒屋系の店なのだ。
同じチームに女性が数人でもいてくれたら、たまにはお洒落な場所で飲み食いする機会もあったのかもしれない。しかし不幸にして、私のチームはことごとく殿方で占められていた。まさに多勢に無勢。
おまけに、当時の私は一番下っ端の新人という立場なのだから、発言力などあるわけがない。
私の勤め先は全般的に男社会だった。今はもう少し女性職員の数も増えているかと思うが、その当時は、私が所属していたチームのみならず、どの部署も女性は多くて数人という有様だった。三十人ほどいる課が完全な男所帯、というケースもあった。実にむさくるしい限りである。
働き始めて間もなく、中肉中背の四十代前半の上司に連れられて、関係部署に挨拶回りに行ったのだが、そのひとつがまさに男所帯だった。
上司の後ろから背の低い私が顔を出すと、先方一同は無言のまま、一様に怪訝そうな視線を向けてきた。なんだか怖そうだなあ、と縮こまると、そこの長らしき人間が憮然とした顔で、「女の人連れて来るなら、前もって教えてくれなきゃ」と、私の上司に文句を言った。
その間に、突然立ち上がった数名が、壁だの書棚だのに貼られた水着姉さんのポスターをベリベリとはがし始める。残りの者はため息交じりにノートパソコンを閉じる。どうやら壁紙がエロ画像だったらしい。
明らかに当惑している彼らと、バツの悪そうな顔をしている私の上司。ここで私が「あ、すぐ帰りますんで、お構いなく」などと軽口のひとつも叩ければよかったのだが、新人にそんな機転を利かせる芸はない。
私は、自分の名前と極めて短い挨拶文だけを口にして、上司と共にそそくさとその場を後にした。
これからこの部署の人たちと仕事で関わるのかと思うと、一気に憂鬱になった。
セクシー水着のポスターが問題なのではない。男所帯を満喫していた彼らにとって、私はおそらく、楽しい職場環境を蹂躙しにやって来た悪魔のようなものだ。間違いなく煙たがられるばかりだろう。
自席に戻ると、さらに別のことが気になった。
もしかすると、自分の所属するチームの面々も、実は同じような気持ちを抱いているのではなかろうか。メンバーが男ばかりなら、うっかり誰かがエロ話を始めても、皆でゲラゲラ笑って終わってしまうが、私が入ったせいで、上司や先輩陣はきっと窮屈な思いをしているに違いない。
彼らに、仕事仲間として受け入れてもらうのは、かなり大変なんじゃないだろうか。優秀な人間なら、アウェイ感たっぷりの場であろうと、その能力で己の価値を周囲に認めさせることも容易だろう。しかし、私にその可能性は全くない。
出来の悪い新人は、実務がスタートする前から、すっかり凹んでしまった。
実際、これまでセクハラ問題とは無縁で過ごしてきたらしい上司や先輩陣は、私とどう接するべきか、いろいろ思案していたようだった。
初めは皆、警戒モード全開で、まるでハリネズミに触るかのごとく、おっかなびっくり私に話しかけていた。慣れ慣れしかったのは、第2話に登場したクソ男だけである。
しかし、幸いなことに、奴以外は皆、極めて親切な人たちだった。彼らは、ぎこちないながら、懇切丁寧に仕事を教えてくれ、何かと気を遣ってくれた。
まだ仲間には入れないようだが、友好的なだけでもありがたい。てっきりマイナスから始まる人間関係だと思っていたのだから、状況は予想以上に良好と考えていいだろう。どうやったら気心知れる間柄になれるだろうか。
その問題を少しずつ解決してくれたのが、カジュアルな酒の席だった。「アルコールは嫌いではない」とカミングアウトしたのをきっかけに、上司や先輩たちは「仕事帰りの一杯」にも私を混ぜてくれるようになった。
庶民派の彼らと行くのは、職場近くの安い居酒屋ばかり。出てくる酒と言えば、発泡酒に、臭い日本酒、そして、薄いサワーが関の山。しかし、そんな安酒が互いの距離感をさらに縮めてくれたのは間違いない。
数回ほど一緒に飲んで分かったのだが、男性陣は、女の私が何を不快に思うのか分からないのが不安だったらしい。
取りあえず不快感を与えそうなものは身の回りから撤去したんだけど……、と彼らは言った。やはり、私が入る前は水着ポスターかなんかを貼っていたのか。
しかし、そんなことはどうでもいい。大雑把な私は、あまり細かいことは気にならないタイプだ。互いにざっくばらんに話せるほうがよほどありがたい、と伝えると、先方は少し安心したようだった。
少々ぎこちないが、いい人たちだなあ。あまり彼らに気を遣わせないようにしなければ。早いところ「使えない新人」を卒業して、独り立ちしなくてはならない。
アルコール分がほとんど感じられないサワーを飲みながら、出来の悪い私も、決意だけは人並みのものを抱くようになったのだった。
ところが、職場でざっくばらんな雑談ができるようになってしばらくすると、ひとつの問題が発生した。
仕事面では恐ろしく気配り上手な上司が、時折、不用心にも私のプライベートに踏み込むような発言をするのだ。
人当たりの良い彼は、部下の面倒見がいいと評判だったのだが、時々、憎めないニコニコ顔で、些細かつ微妙な内容を、私にさらりと尋ねてくる。そして、私の回答が己の期待と違っていると、やんわりとしたトーンながら、持論まで展開してくるのだった。
彼に嫌がらせの意図が全くないのは酒の席で確認済みなので、単に、彼の頭の中で、無難な話題と避けるべき話題の区別がついていなかっただけなのだろうと推測される。
四十代前半という年代のせいなのか、親子ほどの年の差がそうさせるのか、彼は私に対して、徐々に「お節介おじさん」の正体を現し始めた。
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