第109話 逃げろ

 誰かが耳元で囁いた“逃げろ”と、おそらくその声は俺の中に潜む野性の勘ってやつだ。

 俺はその声に従い走りだす。

 やはり俺の勘は当たっていた、校舎から飛びだした俺の姿を、三階の教室の窓からアイツが見ていた。

 ヤバイ! 早く逃げないと捕まってしまう。

 昔から逃げ足が早いといわれた、この俺よりもアイツの方が駿足なのだ。

 とにかく学校から逃げだし、駅まで逃げ延びて電車に乗ったら俺の勝ち、今日こそアイツに捕まらず、無事に帰宅したい。

 だってぇ〜俺は帰宅部なんだぜぇ!

 そんなことを考えていたら、背後から足音が聴こえてきた。しかも全力疾走の足音だ! 俺は追跡者から逃れるため、さらに必死で走った。

 学校の通用門を抜けて、四角を曲って細い路地に入ったら、ゴミ箱の裏に身を潜める。このままアイツが通り過ぎてくれることを、神さまに祈りながら……アーメン。


「ナオト見っけ!」


 あっけなく見つかってしまった。小癪にもアイツが得意そうに笑ってやがる。

 一ノ瀬香奈いちのせ かな、十六歳。高校の同級生にして、ご近所で幼馴染み。俺はこの世に生まれてから十六年間、ずーっとこの女にストーカーされている。

 俺のいくところには当然のように香奈が居る。周囲からもカップルみたいに思われているが、断じて違う! 香奈は彼女ではないし、俺も彼氏じゃない。――てか、無人島に二人で流されたとしても……こいつの彼氏だけは願い下げだっつーの!!

 どこが嫌いかというと、いつも俺につきまとって、オカンみたいでウザイところ。おまけに成績もスポーツも俺より上だし、容姿だって悪くないくせに、この俺にめっちゃ執着してやがるから、キモチワル。

 こいつがいるせいで、学校の女子が誰も寄ってこない。まあ、アマゾネス(香奈)と戦ってまで、俺を彼氏にしようとする勇者はうちの学校にはいないだろう。

 香奈がいる限り俺の青春は真っ暗だ! だれか助けて!!

「なんで隠れてても見つかるんだ?」

「絶対に逃げられないわよ。ナオトにはGPSが……」

「えっ!?」

「なんでもなぁ〜い」

 香奈は慌てて口を押さえて誤魔化したけど、いつも監視されてるような気がする。

「もう俺につきまとうなっ! ストーカー女めぇー!!」

「なんで?  香奈とナオトは“運命のカップル”でしょう」

「ちげぇーよ!」

 こいつとは同じ日に同じ産院で生まれた。乳児室のベッドが隣同士だったせいで母親同士が友達になって、今では家族ぐるみのお付き合いだ。

 毎年、俺らの誕生日にはお互いの家で二回お祝いして貰っている。バースデーケーキのろうそくをいつも二人で吹き消してきた。それが両家では当たり前の行事みたいになってしまっている。

 香奈は一人っ子で、俺には五歳下に弟がいるが物心ついてから「お姉ちゃん」と香奈のことを呼び、兄貴の俺よりも懐いている。うちの母親も香奈が気に入っていて、週末には二人でご飯を作ったりして、嫁姑ごっこをして楽しそう。

 将来、俺たち二人が結婚して家族になることに、なんの疑問も持っていないようで……怖い。てか、大人になったら嫁くらい自分で探すから、勝手に話を進めるなっ!

 アニメじゃあるまいし、幼馴染だから最後は結ばれるなんてフラグを勝手に立てられたら、こっちが迷惑なんだ。

「運命とか関係ない」

 俺はそんなの認めないからっ!

「ねぇ、知ってる? 自分の意思では変えられないから運命っていうんだよ」

 まるで信仰のように“運命のカップル”だと信じてやがる。これ以上の議論は不毛だ!

「あっ、香奈の頭に毛虫がついてる」

「嘘っ? ヤダ、取って、取ってぇーっ!」

「よっしゃ〜」

 毛虫を取ると見せかけて、デコピンをお見舞いしてやった。

 香奈が驚いて尻餅をついた隙に、ふたたび逃走する。わき目も振らず全力疾走だぜ。

 いつの間にか、周りが創りだした、俺らの“未来のビジョン”に全力で抵抗してやる。そのために俺は今日も香奈から逃げて、逃げて、逃げ続ける。

 俺が逃げると香奈が追いかける。香奈が追いかけるから俺は逃げる。無限ループでそれを繰り返す日々なのだ――。


「はぁはぁ……やっと逃げ切った……」

 俺は息を切らし、駅の改札を抜け、階段を下りてホームへ向かう。やれやれ、これで逃げ切ったと安心していたら――。

「ナオト遅いよぉ~」

 アイツがホームで手を振っている。

「嘘だろう? 俺の方が先に駅に着いてるはずなんだ」

「アタシ、近道しってるもーん」

「チートかよ!」

「へなちょこ」

「もうぉ~イヤだぁ――!!」

 俺は頭を抱えてしゃがみ込んだ。

「ナオトって、昔から鬼ごっこ好きだよね? また明日もやろう!」

 嬉しそうな顔で香奈がいう。

 俺の逃走劇って、香奈からしたら鬼ごっこだったわけ? ありえねぇーっ!!

 つーか、俺と香奈の鬼ごっこは、このまま一生死ぬまで続くかもしれない。もしも、香奈の方が俺から逃げようとしたら、今度は俺が鬼になって全力で追いかけてやるっつーの! 逃げろ! 逃げろ!!

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