第69話 命の光
たまらなく居心地が悪かった。できれば走ってここから逃げ出したい。
古くて陰気な産院の待合室、大きなお腹の妊婦が二人と癌険だろうか中年の女性がひとり、そして未婚なのは私だけ――。
お腹の中には新しい命が宿っている、選択肢はひとつ、生むか、生まないか、今の私には産めない……今日は中絶の相談でここへやってきた。
最初から分かっていた、彼が本気じゃないことを……上司の娘と付き合っているという噂だったし、仕事ができる彼なら、きっと出世コースに乗れるだろう。それには私の存在は邪魔になる、だから妊娠したなんて……口が裂けても言えない。彼のことが好きだから困らせたりしたくない。
ごめんなさい。私の中の小さな命、あなたを生んであげられないの。
小さい頃に両親を交通事故で亡くした私は、母方の祖父母に育てられた。高二の時にお祖父ちゃんが癌で逝った。去年、寝たきりだった、お祖母ちゃんまで死んでしまった。とうとう私は
大学卒業して就職した会社の取引先の営業マンが彼だった。会社の受付している私に彼から声をかけてきた、ずっと素敵な人だと思っていたので嬉しかった。
何度かデートして、その内、私のアパートに泊りにくるようになった。ちょうど妊娠したかも知れないと思っていた時期に、彼は海外出張で日本に一ヶ月いない、その間に処置しようと思った。
妊娠したなんて告げたら、まるで結婚をせがんでいるようで嫌だった。
それに私には親も兄弟もいないし、きっと彼の両親は結婚に反対するだろう。以前、付き合っていた人の家族には、私が孤児だからと結婚を断られた。
受付に名前を呼ばれるまで、消毒薬の臭いのする産院で私は目を瞑っていた――。
「よっこらしょっ」
誰かが隣に座ったようだ。
「あなた、何週?」
大きなお腹を抱えた妊婦が、私を見て微笑んでいた。
「えっ?」
「あたしは38週で臨月なのよ。もうお腹が重くて重くて……上向いて寝られないわ」
「たぶん7週くらい……」
「つわりが始まったらご飯が食べられないし、吐いてばかりでツライけど頑張ってね。赤ちゃんのためだもの」
「ええ……」
勝手に産むと思われているようだ。
「あっ!」
妊婦が急にお腹を押さえた。
「大丈夫ですか?」
「今ね、赤ちゃんが蹴ったの。元気に蹴った。早く生まれてきたいんだね」
幸せそうに話す妊婦の言葉に、私は罪悪感で心が
「だけど、戦争が始まるなんてイヤね」
「戦争?」
「
何いってるんだろう。湾岸戦争は1991年、私が生まれた年である。25年前に戦争は終わってるじゃないの。
「今年の5月に
育児休業法って、今はどこの企業も導入されてるし……その時になって、私は気が付いた。産院の中の様子が少し違っているのだ。建物の中が真新しくなって、壁紙もソファーも新品だった。妊婦たちのファッションやメイクが今どきの
「千代の富士が通算1045勝、凄いわよねぇ~」
いったい今は何年? ここはいったいどこなの? 信じられないことに……目を瞑っている間に、過去へタイムスリップしてしまった。
「お腹の赤ちゃんは女の子なんだって、名前は
心美、それは私の名前だ! 横に座る妊婦の顔をマジマジと見た。それは私が五歳の時に交通事故で亡くなった、仏壇の上で遺影になってる、私を生んでくれたお母さんの顔だった。
じゃあ、お腹の中にいるのは……この私なの?
「お腹の赤ちゃんは私の宝物よ。大事に育てたい」
その言葉が木霊のように耳の中でリフレインする。きつく目を瞑った、そして目を開けたら、また元の世界に戻っていた。
お母さんは私が中絶しないように、過去の世界からメッセージを届けにきてくれたんだ。その後、逃げるようにして産院から私は飛び出していった。赤ちゃんは生む! 絶対に生むからお母さん安心して、ひとりでだって私が育ててみせるから。
あなたの血を未来へ受け継いでいくわ――。
海外出張から帰った彼に、拒絶される覚悟で妊娠したことを告げた。
まさか信じられないことに、彼は大喜びしてすぐにでも結婚して、二人で子どもを育てようと言ってくれた。彼の両親にも会ったが、孫が生まれることに大喜びして、ふたりの結婚を心から祝福してくれた。
そして彼のお母さんが「私も子どもの頃に火事で家族を喪い、心細い思いをしながら子どもを育ててきた。赤ちゃんが生まれたら育児を手伝うから、安心して生みなさい」と言ってくれた。
まるで自分の娘のように、私のことも可愛がってくれる。
結局のところ、上司の娘と付き合ってるというのは噂で、単なる高校の同級生だったらしい。あんなデマに惑わされて、大事な命を殺さないで良かった。そのことをお母さんがタイムスリップして、私に分からせようとしてくれたんだ。
――今、私のお腹の中で『命の光』が輝いている。
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