不可能図形の住人

塵芥

第1話 声をなくした男



ある朝、僕は突然声を失った。

何が起こったのか見当もつかない。いつも通りの1日を終え、いつも通りに就寝し、いつも通りに目覚めた筈なのに、声だけが、いつも通りではなかった。自分では声を出しているつもりで、骨を伝う音は僕の耳に届いているのに、他人には僕の声が微塵も聞こえないらしかった。職場に行くと皆に心配され、病院に行けと言って半ば強引に早退させられた。そうして病院に行ったは良いものの、どんな検査をしても医者は首を傾げるばかり。原因がわからないらしい。


「どこにも異常はありませんよ」


医者はバツが悪そうに言う。一応薬を出しておきます、なんて言って、一体何の薬を出すのやら。当たり障りのない定型文を口にする医者を前に、僕は途中から話を聞くことをやめた。処方箋を受け取り、診察室を出て、会計を済ませに窓口へ行く。


「お困りですか?」


3570円の受診料。4000円を出して、100円硬貨が4枚、10円硬貨が3枚、釣銭として僕の掌に落ちたとき、そんな言葉を耳にした。掌から顔を上げると、表情の見えない受付の女がこちらを見ていた。


「お困りなら、こちらを受診してみるといいかもしれません」


言って、女は名刺サイズの紙を1枚差し出した。

Kiichi OAT 鬼一眼々

それだけが書かれていた。


「あの、これ、」

「12番でお待ちの佐々木様」


問おうと声を出すと、やはり僕の声は他人に届かないようで、1つの仕事を終えた女は次の仕事を呼んでいた。僕は問うのも馬鹿らしくなって、足早に病院を後にした。


「鬼一眼々……」


誰かの名前だろうか?それにしては随分と禍々しい字面だ。鬼の眼。これが名前だとすると、その横に書かれたKiichi OATは会社名か何かだろうか。これだけの情報で、一体どこに行けというのだろうか。住所も何も書かれていない、この紙切れを頼りに……


「Kiichi OAT……あ!」


大通りに出て、スタバのある角を曲がって、それから少し歩いた先。何の気なしに顔を上げると、雑居ビルのフロア案内に紙切れにあるのと同じ文字列を見つけた。


「そんなバカな」


適当に歩いて、適当に目をやった先に目的の場所があるなんて、天文学的確立にもほどがある。カミサマなんてものが存在するなら、きっとそいつはお調子者の適当なやつだ。


「入って、みるか……」


その雑居ビルの3階に、その鬼一眼々とやらが営む何かがあるらしい。他にアテもないし、とりあえずという気分で僕は階段を上がってみることにした。エレベーターの無い5階建てのビル。上ると、曇りガラスが張られた茶色のドアにKiichi OATの文字。


「あのー……」


ドアノブを捻り、扉を押すと、そこには、


「うわあ!」


長身の男が至近距離に立ってこちらを見下ろしていた。驚いてドアノブから手を離す僕の代わりに彼は扉を開け、どうぞというような所作で入室を促す。


「あの、あなたが……鬼一眼々さん?」


問うてみて、そういえば僕の声は誰にも届かないのだったと思い出す。慌てて筆談のためにスマートフォンを取り出そうとすると、


「私は真神狼。眼々はむこうだ」


言って、男は部屋の奥を指し示した。


「え?!あの、あなた、僕の声が聞こえるんですか?!」

「そんなことはどうでもいい。入るのか、入らないのか」

「は、入ります!」


僕が室内に踏み込むと、背後で静かに扉が閉まった。

室内はよくある探偵事務所のような趣きだった。部屋の真ん中辺りに来客用と思しきソファーとテーブル。その向こうの窓際には、探偵が座りそうな少し大きめの椅子と机。その椅子には、日本人女性の平均より少し小柄な人影が1つあった。


「眼々、来客だ」

「お茶淹れてよ、狼」

「お前の趣向で、ここにはコーヒーしか置いていない」

「じゃあコーヒー」


ぼそぼそとした聞こえ辛い女の声がした。椅子のうえの人は言うと立ち上がり、窓の向こうの光を背後に歩いて来る。


「座りなよ、客人」

「え、あ、はい」


扉側のソファーに僕が座ると、その人は向かいに腰を下ろした。


「ほら、コーヒー」

「ああ」


真神と名乗った男は光のような速度でコーヒーを淹れてきて、テーブルにカップを3つ置くと女性の隣に座る。


「あの、僕、病院でこれを貰って、」


とりあえずあの名刺を出して、テーブルに置いた。向かいの女性は僕の言葉を聞いているのかいないのか、聞こえているのかいないのか、よくわからない様子でカップを手にして水面を見ている。


「あ、えっと、あの、」


聞こえていない可能性を考慮して、僕が筆談の用意をしようとすると、


「聞いているし、聞こえているよ。うちの名前は鬼一眼々。早く続きを話してよ」


と、彼女は、鬼一眼々は言った。


「……今朝、目覚めたら声が出なくなっていたんです」


僕はカバンの中を探るのをやめ、出されたコーヒーを一口啜った。


「いや、正しくは、僕には聞こえるんです。でも、他の人には僕の声が聞こえない。声が出せないと思われて、さっき病院に行きました。でも、原因はわからなくて……そしたら、受付でこの名刺を貰ったんです。ここを受診すると良いって」


記憶を呼び覚まそうとするとき、ヒトの視線は無意識に宙をさ迷う。そうした僕の視線がその必要を失い、真正面に戻ったとき、鬼一眼々の真っ黒な眼が穴をあける勢いでこちらを向いているのに気付いた。


「異変に気付いたのは、今朝?」

「はい」

「昨夜、最後に誰かと話したのは?」

「寝る前に彼女と電話をしました。その時は普通に会話ができていました」

「そうか。ひとつ、訂正しておきたい」

「?」


鬼一眼々は足を組む。ショートヘアだったものが伸びるのをそのままにしたような長い前髪の間から、虚無のような黒い眼が見える。


「ここは“受診”するような場所ではない」

「え、ああ、はい。そんな気はしていました」

「じゃあ、何だと思う?」

「……えーっと、」

「……」

「探偵、事務所?」

「……」


鬼一眼々ががっかりしたように少し肩をすくめると、不揃いな髪の先が鎖骨の辺りで遊ぶ。彼女は隣の男の方に身体を傾け、


「なあ、狼」

「なんだ?」

「やっぱり名前が悪かったかな?」

「いや、それ以前の問題だろう」

「……」

「眼々、多くのニンゲンはお前のように察しがよくできていない」


真神狼の言葉が僕にはこちらを見下しているように聞こえて、あまりいい気分ではなかった。しかし、目の前の2人が一体何者で、何を生業にしていて、これから僕にどのような利益をもたらすかわからない以上、僕には何を言うこともすることもできなかった。


「まあ、そんなことはどうでもいい」


自分から振っておいて、鬼一眼々は唐突に話題を振り切った。


「君、名前は?」

「佐藤です。佐藤太郎」

「佐藤さん、今夜、君の家に行っても?」

「はい?」

「君の家に行っても良いかと聞いている」


鬼一眼々はコーヒーを飲み干すとソファーから立ち上がり、元居た窓際の椅子に戻っていく。まるで、この話はこれで終いだとでも言うように。


「声の原因はだいたい見当がついたが、確証がない。それを今夜確認する」


椅子に座ると、机の上にあった紙に彼女は何かを書き始めた。それを合図に真神狼も立ち上がり、出口に向かうと扉を開け、こちらを向いた。


「“診察”は終わりだ。今夜、また会おう」

「はい?」

「……帰ってくれて問題ない。料金は今夜、結論が出てからだ」


名前の通り、まるでオオカミのような黄色い瞳が、男の顔の上であからさまな作り笑いを浮かべていた。


****


「寝る前に異常はなく、起きたら異常を来していた。そうなれば睡眠中に問題が発生したとみる以外にないだろう」


「普通に考えてね」という嫌味っぽい言葉を付け足して、鬼一眼々は言った。夜の11時。そろそろ寝ようかと思っていたとき、僕の自宅である安アパートの一室で来客を告げるチャイムが鳴り響いた。まさかと思いドアの覗き穴から外を見ると、本当にあの2人が立っていた。

そしてドアを開くと開口一番に鬼一眼々はそう言ったのだった。


「……上がらせてもらっても?」


ドアを開いた状態で僕が固まっていると、かなり短気かもしれない彼女が言った。僕は慌てて


「どうぞ」


と言って道を開けたけれど、そうしてからなぜ僕がこんな風に畏まらなければならないのかと少し不満に思ったりした。けれど、なぜか従ってしまう圧迫感が彼女にはある、というのが事実だ。


「じゃあ、寝ろ」

「はい?」

「結論はさっき説明しただろう?だから早く眠ってもらいたいんだよ」


靴を脱ぎ、部屋に入った彼女が言い放つと、僕の返答も待たずに後ろに控えていた真神狼が部屋の電気を消した。確かに風呂に入って歯も磨いて、布団も敷いてあったのでワンルームのその部屋ではもう寝られるのだけれど。あまりの唐突さに唖然としたが、明かりの消えた暗闇の中で、さっきから一言も発しない男の瞳孔がおよそ人間のそれとは思えない勢いで開いていることに対する薄気味悪さが勝っているのが現状だった。

僕は黙って布団に入る。鬼一眼々は髪から服まで真っ黒で、真神狼は野生動物のように息を殺している。今日出会ったばかりの人の横で眠れるか心配だったけれど、彼らの気配の薄さに、気づけば微睡み始めている自分が居た。


「ああ、やっぱり“彼女”か」


眠りに落ちる間際、夢の淵でそんな声を聴いたような気がする。


****


翌朝、目覚めると彼らの姿はなかった。


「……おい、どういうことだよ」


スマートフォンの時計は朝の9時過ぎを示していた。完全に仕事は遅刻。昨夜、彼らが来る前に設定したはずのアラームは鳴らなかった。


「あいつら……」


とりあえず会社にメールを入れて、ラインを見ると通知が23件。僕はそれに返事をしながら私服に着替えると、あの事務所に行くべく自宅を後にした。


****


「では、昨夜の観察をもとに得た答えを説明しよう」


この事務所は西向きらしい。午前のこの場所は陽が入りづらいようで、人工の明かりに照らされる様子は不自然だ。ソファーに昨日と同じ配置で僕を含めた3人が座ると、鬼一眼々は口を開いた。


「昨夜、睡眠に入った君に口づける女が居た」


言うと、彼女は昨日と寸分違わぬ所作でコーヒーを啜った。


「……は?」

「厳密に言えば、君に口づける女の幽霊が居た」

「幽霊?」

「ああ」


突然の発言に僕は思わず苦笑した。幽霊だって?何を突然、非科学的な。


「君は今、この女は何を突然非科学的なことを言い出すのだと思っているだろうが、これは紛れもない事実だよ」

「事実?何を突然、ありえないでしょう?」

「いいや、あり得る」


女の隣から、自然界の逆光の中の黄色い瞳がこちらを見ている。人間じゃないような瞳孔の開き具合をした、オオカミのような瞳が。


「君は女癖が悪いようだ。今は何人の彼女が居るんだい?10人くらい?」

「おい、一体なんの」

「ひっきりなしに騒いでいるカバンの中のスマートフォンには、彼女たちからの声が届いているのだろう?」

「いい加減にしてくれ、名誉棄損で、」

「そして5か月23日前に別れた女は2か月13日前に心を病んで自殺した」


苦笑に全てを流そうとした僕だったが、その具体的な指摘を前に閉口せざるを得なくなった。


「その女が、君から声を奪った犯人だよ。“愛を囁く相手は自分だけにして欲しい”とのことだ」

「……それで、」

「?」

「それで、どうやったら僕は元に戻るんです?」


平静を装ったつもりだったが、存外僕の声は震えていた。


「彼女の言うとおりにすればいい。他の女との関係を全て切り、生涯彼女のことだけを考えて生きればいい」

「そんなこと!」

「……」

「そんなこと、できるわけないだろう!」


怒鳴って立ち上がると、不自然なめまいがした。黙って話を聞いていた真神狼が立ち上がり、部屋の電気を消す。薄暗くなった部屋に、僕の目の前に、見覚えのある女の影がぼんやりと浮かんだ。それの両腕が僕の首に伸ばされ、違和感のある息苦しさが沸き上がった。


「そんな、こと……」

「随分と酷い別れ方をしたそうじゃないか」

「うっ」

「“金が無いならお前はもう要らない”、“遊びだったのに、本気になって”だったかな?」


いつも使う僕の言葉を寸分違わぬ形で再生する女の黒い眼は、吸い込まれそうなくらいの黒を模している。


「くるしっ……」

「放しておあげなさい」


鬼一眼々が言うと、息苦しさがふっと消え失せた。


「結論は以上だよ。今回はこちらによる解決は不可能な事案だったため、捜査費と人件費のみの支払いで」


それだけを言って、鬼一眼々は昨日のように立ち上がると窓際に戻っていく。僕は、僕の血液が頭に集中していく音を感じる。


「ふざけるな!こんなことに、」

「客人よ」


黙ってソファーに座っていた男が、口を開いた。


「何をそんなに憤怒している?」


窓からの光によってできた男の影が、頭の影が、イヌ科の生き物のような形に変化していく。ぬるりと動く影の造形に寒気がして男を見ると、ニンゲンの姿のそれは獰猛な肉食獣の顔をしていた。


「捜査をし、真実を見つけ、解決策を提示した。こちらの仕事は完遂された。早々に立ち去れ。さもなくば、」


僕は男の牙を見た。そこから記憶は途切れ、気が付いたら大通りのスタバの前に立っていた。恐怖に叫んだ僕の声は道行く人々に伝わっていて、このことを誰かに話したくて手に取ったスマートフォンの連絡先には誰のものも登録されていなかった。それから僕はあの事務所に行こうと何度か試みたけれど、終ぞそれがなされることはなかった。


****


私の名前は真神狼。“狼”は“オオカミ”ではなく“ロウ”と読む。わけあって彼女に貰ったこの名前を名乗り、人間社会の中、彼女の傍らに寄り添って暮らしている。


「他人の領域に入るのにノックの一つもしないなんて、呆れる程に無粋な男だったね」


ビルの隙間から夕陽を眺める眼々の横に行くと、彼女は唐突に、ひとりごとの様にそう言った。眼々の机の上にある紙には、何かの数式を解いたと思われる数字とギリシャ文字の複雑な羅列がある。答えを出したそれに対して彼女は完全に興味を失ったようで、窓の向こうで沈もうとしている太陽に手を翳して遊んでいる。


「つまらない話だった」


彼女の真っ黒な髪と眼と服が、夕日の赤に照らされて死んだ血液のような色をしている。一方、血色の悪い頬は、少し生き物らしい色に変わっていた。


「もっと面白い話はないものかなあ」


かつてヒトを食らう老狼だった私が、今、こんなニンゲンの小娘と共に暮らしているなど、あの剣術の達人が聞いたら笑うだろうか。


トントン……


「来客のようだよ、狼」

「ああ、そのようだな」

「今度はドアの真横に立っててみなよ。きっと客人は驚く」

「お前がそういうなら、そうしよう」


私とこの小娘の2人、この場所でニンゲンの手に負えない案件を扱う何でも屋を始めて、もう8年が過ぎていた。

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