僕だけしかいない町

クロタ

第1話 君の名は

 大昔の偉人が言った言葉は、やっぱり間違いだった。いや、例外とでも言うべきかもしれない。


 ともかく今なら、今だからこそ言える。


 本当に正しかったのは彼が言った三番目なんかじゃなくて、二番目の方だったのだ、と。


◇◆◇◆


「お。目が覚めたようだね。やあ、おはよう」

 雑多に物が溢れる部屋の中央。簡素なベッドの上で目を覚ました少女を、不躾にも上から覗き込む。

「あ……お、おはようございます」

 いきなり目の前に現れたぼさぼさ頭の白衣男に虚を突かれたのか、戸惑いを含んだ挨拶を返し、

「……って」

 数度瞬きをした後、

「……誰ですか。あなたは」

「至極ごもっともな質問だね」

 ベッドに身体を横たえる彼女は、至極人間臭い、それでいてこの上なくテンプレートな疑問をぶつけて来た。

「まあ、僕が誰なのかを答えるのはそれほどやぶさかでないよ。まずは自己紹介といこうか」

 彼女の反応に嬉しさでにやけそうになる顔を、なんとか笑顔という形で誤魔化す。

「……そうしてくれると助かります」

 当たり前だが、未だ警戒の色が抜けない様子の彼女に、なるべく敵意が無いことを示そうと努めて朗らかに名乗る。

「僕の名前はヨシノ。君は?」

「……」

 クラスメイトと初めて会話する時並にナチュラルに相手の名前を聞いて、しまったと気付く。

 見知らぬ男と見知らぬ部屋で二人きりという極めて怪しい状況で、軽々しく名前を問うても、より怪しさを増長させるだけではないのか。

「……ソメイ」

「え?」

「だから、ソメイ」

 一瞬生まれた重々しい沈黙に後悔しかけた直後、小さな声で答えるのを聞いて思わず聞き返した。少し苛つかれた。

「そうか……、ソメイ、か」

「何か?」

「いや、良い名前だなって思ってさ」

 と、彼女には返しつつ、心の内では物凄い偶然もあるものだと戦々恐々としていた。主に名前的な意味で最早運命的なものすら感じざるを得ない。

「そうですか……ありがとうございます」

 そうぶっきらぼうに告げた彼女は、背けるように顔を横に向けた。艶のある切り揃えられた短めの黒髪が、微かな甘い香りと共に頬に流れる。

「けれど……分からないんです」

「分からない?」

「その名前以外、何も。自分が何者で、どこから来たのかも、全部」

 そう言う彼女の顔は影で隠れて伺うことはできなかったが、微かに震えるか細い声には、怯えと不安の色が滲んでいた。

「名前以外思い出せない……か。そうか。どこかに頭を強く打ってしまった衝撃で、記憶喪失になってしまったのかもしれないな」

 できるだけ不安を和らげてあげようと親身な返答を意識したが、

「そういえば、私はなぜここに? ……もしやここは私の家なのですか?」

 顔の位置を元に戻してとろんとした二重瞼で見上げてくる彼女の瞳からは、もう不安の色は見えなかった。

「残念だけど……違うよ。そして君が懸念しているような親しい間柄でも僕らは勿論ない」

 その点に関して言えば安心して、と言うのも変な話ではあるんだけどね。と付け足して、改めて詳しい説明をする。

「君は僕の家……つまりここね。この僕の家の前で倒れていたんだ。うら若き少女が何故こんな所で……って、慌てて家まで運んで手当したってわけ」

 けれども残念なことに、

「そう、だったんですね……。命の恩人だとは知らず、無礼な真似を……」

「いやいや、気にしないでよ。寧ろ、記憶喪失だっていうのに落ち着いた丁寧腰ですごいと思うな。うん」

 いや、なんだこの返しは。長い間人とコミュニケーションを取っていなかったツケが回ってきたのか、非常に要領を得ない返しになってしまった。

「すみません。ありがとうございます。……では、その、すみません。無礼ついでにもう一つだけ質問よろしいでしょうか?」

「はは。そんなかしこまらないでよ。そんなかしこまられても、こっちが接しづらくなっちゃうからさ。それで? 質問ってなんだい?」

 気さくな風になるよう聞き返すと、彼女が頭を少し持ち上げるような仕草をしたので、言わんとせんことの全てを悟った。

「ああ。無理に動こうとしなくて良いよ。まだ身体は全然動かないだろう? それに、心配しなくて良い。恐らく頭を打った一過性の症状で、じきに動くようになるから」

 やはり一部嘘も混じっているものの、きちんと事実を伝えて安心させる。ちなみに、身体が動くようになるというのは本当のことだ。

「そうでしたか……良かったです」

 彼女は表情の起伏こそあまり無かったが、安心したのは確かなようで、短く安堵の息をついていた。

「うん。とりあえず、暫くの間は安静に横になっていてね。あと、すまないけど、僕はこれから少しヤボ用があって町に出ないといけないんだ。すぐに戻ってくるから、待っていてくれないかな?」

「え……」

 彼女はまた不安の色を顔に浮かべたが、正直無理もないことだろう。僕だって、身じろぎ一つすら取れない状況下で、見知らぬ男の家に居るというだけでも嫌だ。それなのに置き去りにされるなど、たまったものじゃない。だから、少しでも安心してもらうためにここは一つ、とっておきの一言を言ってあげることにした。


「大丈夫。この家、こう見えて物凄いセキュリティ固いんだよ」


「……」

「……」

 ……あれ。なんだこの沈黙。

「……ぷっ」

 沈黙を破ったのは、意外にも彼女の吹き出した音だった。

「ぷっ……くくっ、あはは」

「な、なんで笑うの?」

「い、いや、何でもないです……ふふっ。私なら大丈夫です。どうぞ行ってきてください」

「……? あ、ありがとう。じゃあ……行ってきます」

 僕が支度を整えて部屋から出るまで、彼女のくすくすという小さな笑い声は止まることはなかった。

 

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