天使のおしごと

ROTTA

1.佐藤浩二

ある冬の日。

仕事が入ったと言われて、その天使は小さい鞄をひとつ携えてここへやって来た。


何山だったか忘れたが、人の手など入っていないような、とにもかくにも暗い山奥。鬱蒼と木々が茂り、空気もどこかじめじめとして気持ちが悪い。今日は晴れだったはずだよなと、上を見上げる。重なり合う葉の間から、水色の空が見えた。確かに晴れだ。


はあ、とひとつため息をつく。こんなところ、仕事でなければ絶対に来ていない。

もっとましな場所にしてくれたら良かったのにーーー


「わ、いてて」


もう何度目か、羽根が枝に引っかかり、はらりと抜けた。自慢の羽根なのになあと心の中で呟く。上の奴らは、仕事のときは羽根をしまってはならないなどとどうして決めたのか。

仕事が終わったら手入れをしなくてはと思いつつ、目的の人物を探すべくきょろきょろと視線を動かした。


「お」


少し歩くと、それはすぐに見つかった。

暗い緑や茶色の中に、鮮やかな水色の服が見える。

ーーー倒れている人間と、それを見下ろすように立っている人間だった。


時々羽根を枝に引っ掛けつつ、つかつかとそちらへ歩み寄る。どうも、と声をかければ、その人物が顔を上げた。


「やー、お待たせしてすみません。天使です」

「天使、さん……」


少しだけ驚いたものの、すぐににこりと笑ってその人物は軽く会釈した。なんとも感じの良さそうな青年だ。


天使は足元を見下ろした。湿った枯葉の上に、人間が仰向けに眠っている……ように、死んでいる。その顔は目の前の青年と全く同じ顔、身につけているのは全く同じ水色の半袖、これまた同じジーンズ。

ーーーそう、この二人は同一人物だ。


立っている方の青年は倒れている青年の魂である。もっと俗な言い方をすれば、「幽霊」と言ってもいいかも知れない。


「やっぱり僕は、死んだんですね」


青年が同じく足元を見下ろして、言った。

そうです、と応えながら、天使はその表情を一瞥する。哀しいような、ほっとしたような……いやむしろ、何も感じていないのかも知れないような、何とも言えない顔だ。


「……えー、確認させてもらいますよ。お名前、佐藤浩二さん、二十三歳…」

「はい」

「死因は凍死……で、自殺ってことでいいですよね」

「ええ…そうです。天使さんて、凄いんですね。僕、何も言ってないのに」

「あー、いや…資料が来るもんですから」


天使は鞄のクリアファイルから、ぺらりとA4サイズの紙を取り出してみせた。

ここに、自分が担当する死亡者の基本情報が載っている。


天使の仕事は、死者の魂が迷わずあの世へ旅立てるように導くことだ。その死者が、今回はこの青年ーーー浩二だったということになる。


「しかしまあ、綺麗なもんですね」


天使は資料を鞄にしまいながら、言った。


「きれい?」

「下の、あなたが」

「ああ………、」


浩二の口元が、少しだけ緩んだ。


「できるだけ、綺麗な終わり方がいいと思って。真冬に半袖で一晩寝れば、いいんじゃないかと思いましてね」

「でも、寒かったでしょう」

「ええ、まあ……けど、いいんです。眠くなってからは、そう辛くはありませんでしたから」


そう言って、にっこりと笑う浩二。


自殺者の担当になる度に、天使は思う。今回の場合は寒さだが、死ぬための苦痛に耐えるくらいなら、生きるために頑張ればいいのにと。

死ねばその先はない。生きていれば、ある。これだけ耐えればと思うのと、この先にも苦しみが続くのだと思うのとでは、意識も違うだろうけれど。


「……さて、何かして欲しいことなどなければ、あの世への道へお連れしますけど」

「して欲しいこと…」

「ええ。誰かの顔を見たいだとか、自分の体を誰かが見つけるように手配して欲しいだとか」

「そうですね、」


浩二がしばらく逡巡する。

いや、迷っていると言った方がいいのか。恐らくもう答えは出ているのだろうが、それを実行に移すかどうか悩んでいるらしい。


「……迷うなら、やっておいた方がいいですよ。もうこんな機会もないですからね」

「はい。あの、では………」





*****





ーーー机の上に、金色のネックレスが置いてあるはずです。それを、取ってきて頂けませんか。


そう言われて、天使はここへ足を運んだのだった。

羽根を使ったから厳密には足を運んだ、とは言わないのかも知れないが「来た」ことには変わりない。


そこは、ワンルームのマンションだった。

とても片付いている……と言うよりも、生活感がない、と言う方が合うように思う。

部屋の端にはシングルベッドが、そして中心には地べたに座って使う机が置かれ、その周りにはクローゼットと空の棚がある。テレビが置けそうな台もあった。


来てみて、まず思った。がらんとしすぎている。

静かな部屋に、カーテンの隙間から弱い光が差し込んでいる。その薄暗い明るさが、部屋の寂しさをさらに助長しているように思えた。


この部屋には、「中身」がない。家具はあっても、そこに入っているものや乗っているものがなかった。文具もなければCDや本の類もない。これならまだ、モデルルームの方がごちゃごちゃしていると思う。


「……………」


天使は机の上に置かれたネックレスーーーではなく、その隣に置かれていた紙を手に取った。

原稿用紙が、何枚分か。ボールペンで丁寧に文字が書き連ねてある。



かおるへ

君がこの手紙を読むことがあるのかは分からないけれど、一応、書いておきます。


この間、君は僕に「どこかへ行ってしまえばいい」って言ったよね。そんなことを言ってから僕が本当に「どこか」へ行ってしまったから、君はびっくりしているんじゃないかな。

もしかしたら、僕が姿を消したのは自分のせいかもって思うかも知れない。

でもね、僕が言いたいのは、「気にしなくていいよ」ってことなんだ。

だってもともと、僕は「どこか」へ行こうと思っていたんだから。


本当はね、ずいぶん前から君の心が僕に向いていないことに気づいてた。

もう僕は、必要とされていないんだなぁって。僕は君が好きだったから、一緒にいさせてもらってたけど。ずっと考えていたんだ。君にはもう、僕は必要ない。そして考えた。僕を必要としてくれる人なんて、いただろうかと。


そしたら、気づいたんだ。

ああいないな、って。

じゃあ、生きていても虚しいだけなんじゃないかって。


ここで頑張って、何になるんだろう。何にもなる気がしなかった。

意味がないのに生きているのは、ただ辛いだけだと思った。


結論は出ていても、なかなか踏ん切りがつかなかったんだけど。

何ていうか、君の「どこかへ行ってしまえ」って言葉を聞いて、ああもういいや、って思えたんだ。


君の言葉が、僕の背中を押してくれたんだよ。


そんなわけだし、本当に気にしなくていいからね。

僕は怒ってなんかいないし、恨んでもないよ。家族のもとへ行くだけさ。

君はそっちで幸せになってね。さようなら。


P.S.

長くなってごめん。



「………こんな紙に書いてるやつは初めて見たな」


天使は原稿用紙の束を丁寧に整えて、元の位置に戻してから、もう一度部屋を見渡した。

この紙。少し飾ったような文章。彼は小説でもやっていたのだろうか。ともすればきっと、あの棚には文庫本でもずらりと並んでいたのだろうと思う。今はこれだけ何もないとなると、もう売るか捨てるかしたらしいが。


そこまで準備をしているのなら、家具も全部捨ててしまって部屋も引き払ってからにすれば良かったのにと思う。


けれどこの手紙からすると、彼はかおるとかいう女性が心底好きだったようだ。恐らくネックレスも彼女との思い出の品か何かだろう。

彼女が彼を見ていた頃は、この部屋で二人楽しい時を過ごしたのだと思う。

ここへ座って、夕飯でも食べながら一緒にテレビを見たり話したりしてーーー。


だから彼は、捨てることができなかったのかも知れない。ここは、彼女との時間が詰まっている場所だから。


「惚れた方が負け……ってか」


もし、彼女が自分を見ることがなくなった時点で彼も彼女を好きであることをやめていたなら、こんなことにはならなかったろう。


そんなこと、分かっていた。でも、どうしようもなかった。

辛くて辛くて仕方がなかった。

そしてーーーいなくなる道を選んだ。

ここに書かれていないだけで、彼女のこと以外にもいろいろと辛かったのかも知れない。確かなことは分からないが、差し詰めこんなところだろうか。


頭では分かっていても、気持ちの問題でどうにもならないことは、どうしてもある。

ーーーそういうことを乗り越える訓練をするために、ここに生まれてきてるのにな。しかし、それが無理だったのなら、仕方ない。自分は与えられた仕事をするだけだ。


天使はネックレスを手に取った。


浩二に届けに行かなくては。





*****





「これで良かったですか」

「ああ、はい。ありがとうございます」


ネックレスを手渡すと、浩二は嬉しそうに笑った。


「それ、どういう品なんですか」

「かおる……彼女…だった人と、揃いで買ったものなんです」

「……ほお…」


彼女「だった」人。

厳密には、どの意味なのだろう。手紙には、かおるの心はもう浩二にはなくとも、別れたという記述はなかったが。

となれば、自分は死んだから、もう彼女は過去の人という意味なのだろうか。


分からない。もしかしたら、浩二自身もどう言っていいのか分かっていないのかも知れない。


「…これ、つけていっても大丈夫ですかね」

「あー……」


言いつつそれを身につけようとする浩二に、天使は迷う。

本当は、あまりいいことではない。しかし、彼の彼女への想いを知ってしまったから、つけさせてやりたいと思ってしまう。

自分を見てもらえなくなってもなお彼女を想い続ける彼が、哀れで仕方がない。


「……これがひとつなくなったところで、気にする人間にはなんてきっといませんよ」

「…………」


だからいいでしょう、と浩二が言った。

哀しいことを言うなぁと思った。だが、きっとそれは事実だ。それがまた、余計に哀しい。


「……分かりましたよ。ま、大丈夫でしょう」

「ありがとうございます」


浩二が目を細めた。彼が首から手を降ろす。

Tシャツにこんなネックレス。ファッションとしてはどうなんだろうと、うっすら思う。もう少しフォーマルな服なら合ったかも知れないけれど。


「これでもう、いいですか。心残りはないですか」

「はい」

「………じゃあ、行きますか」

「……はい」

「途中までは、僕も行きますから」


天使は浩二に、手を差し出す。浩二がその手を取ると、ばさりとひとつ羽ばたいた。

隣で浩二が「おお」と声を上げる。いつもそうだ。人間は空を飛ぶと喜ぶか、驚くか、怖がるか。だいたい何か反応をする。


天使は浩二の手を引いて飛びながら、彼の遺書を思い出していた。

そういえば、家族のことが書かれていたなと。


「ーーーあ、佐藤さん」

「え、はい」

「ちょっと遺書、読ませてもらったんですけどね」

「あ……ええ」

「ご家族、亡くされてるんですか」

「はい。学生の時分に……」

「……すぐには、そのご家族と会えないかも知れないですよ」

「そうなんですか」

「あなたの場合、ご自分で命を絶ちましたからね。これって実は結構重罪なんで、それなりに…と言うかかなり、贖罪の期間が長いでしょうから」

「なるほど……」

「でも、佐藤さんは人が良さそうですからね。そこを買ってもらえて、少しだけでもその期間が短くなるといいですが」


絶望するだろうか、と少し心配になる。でも言っておかないのはもっと可哀想だから、言った。

浩二の顔を見てみる。……案外、何ともないような顔をしている。


「……でも、いつかは会えるんですよね」

「ええ、それはまあ」

「だったら、いいです」

「え、あ、そうですか」

「はい」


いいのか。本人がいいと言うなら、いいけれど……。まあ、ここでそれは困ると駄々をこねても、遅すぎるのだが。


「…佐藤さんって、」

「? はい」

「摑みどころがないって、よく言われませんでしたか。あとは、変わってるとか」

「ああ………よく分かりますね」


視界が明るくなってきた。もう少しで、目的のところへ着くだろう。

あの光の元が、あの世の入り口だ。ここまで来れば一人でも行ける。

天使はそこを指差した。


「あそこ、見えますか」

「はい」

「あそこへ行くとね、また色々案内してもらえますから。もう、一人で行けますね」

「……はい」


ぱっと天使は浩二の手を離した。彼はもう、天使の手助けがなくとも昇っていけるだろう。


「ありがとうございました」


と頭を下げる彼に、にっと笑って手を振ってみせる。

彼は身を翻して、上へと向かっていった。




*****




天使は、夜の公園で一人ベンチに腰掛けていた。

小さな鞄から携帯電話を取り出して、二、三操作をして耳に当てる。上司に連絡を取るためだ。


「あー、もしもし。佐藤浩二の件、終わりましたんで。………え? あ、はあ、またですか」


天使の眉間に、浅くしわが寄る。仕事が終わったと思ったのに、この辺りで新たな死人が出たらしい。また仕事だ。


「いや、大丈夫です。はい。…はい。分かりました。はい、失礼します」


電話を切ると、ふーー…と深い溜め息をついた。

少し休みがてら、羽根の手入れをしたかったのだが。仕事が入ったのなら、仕方がない。


鞄から資料を取り出した。同じ紙であるが、記載のデータが佐藤浩二のものから書き換わっている。

頭を掻きながら、さらりと目を通す。今度は女だ。


「……行きますか」


鞄に資料をしまうと、天使は周囲に誰もいないことを確認した。

ばさりと羽根を広げ、飛び立つ。次の魂の元へと、向かうために。

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