一夜かぎりの。

みるね

第1話

 波の音が大きくなってきた。風は僅かにベトつき、潮の香りも強くなる。海に来たのなんていつ以来だろうか。

 夜の海は思っていたよりも断然真っ暗で、小さい頃に家族で遊びに来たときのような、小学校の臨海学校のときのような眩しさはどこにもなかった。

 

 仕事でデカ目のミスをやらかし、始末書の書き直しやらなにやらで残業残業残業。

 上司は素知らぬ顔で、同僚は気を遣うふりをしながら帰宅し、暗くなった定時後の

オフィスに光るマイPCモニタはまるで日没後の残照だった。残念賞なのだった。

 すでに良い感じに出来上がっているのであろう同僚からの酒の誘いを断って、自宅とは反対方向の電車でここまで来てしまった。

 

 こんな勢い任せの行動に後悔がないと言えば嘘になるけれど、たとえ無意味でも、いつもと違うなにかをしている自分に小さな高揚感を覚えているのは確かで。

 とりあえず波打ち際まで行ってみましょいと、舗装された地面から砂浜へ踏み出す。

 革靴の中に砂が流れ込んできて気持ち悪いったらありゃしないぜ。

 それでもそのまま歩き続ける。

 海までの距離は50メートルくらいだろうか。

 

 波際、海水に指先を漬ける。夏の夜の海は思ったよりも冷たかった。

 そして、なんだかテンションが上がってきた俺は革靴と靴下を脱いでポイした。さらにズボンを膝上まで捲り上げてオールグリーン。

 一気にスネのあたりまで入水した。

 刺さるような冷たさと、足指の間をにゅるりと通る砂の感触に、俺は叫んだ。うっふぉいとかひょおおいとか叫んだ。

 ちょっと楽しかった。5秒くらい楽しかった。

 だけど、当たり前だけど、いくら昔のことでも、いくら記憶になくても、海に浸かったときの感覚なんて体が覚えてしまっている。

 すぐに飽きてしまった。

 

 足湯ならぬ足水で頭が冷えたのか、急に押し寄せてきた虚無感に一気に帰りたくなった。

 ああ、なにやってんだろ、ってなった。

 しかし、終電の時刻はとうに過ぎてしまっている。始発まで駅前でもぶらつこうと、靴を履き、海を背にして歩き出す。

 

 ふと、視界の端になにか黒いものがうつった。

 近づくとそれはどうやら人間で、砂浜にポツンと体育座りして海を見つめている。

 俺よりもやや年上だろうか、どこか影のある女性だった。

 こんな場所に他人がいるとは思ってもみなかった俺は恐怖と気まずさの入り混じった気持ちになった。

 というかまずいじゃん、さっきの一人水遊びとか発狂とか全部見られてんじゃん。

 とはいえ自分から近づいたからにはそのままスルーというわけにもいかず、あのー、えーと、などと言って話しかけてみる。人生初めてのナンパがこんなシチュエーションになるとは夢にも思わなかったぜ。

 彼女の第一声「何してたの?」への答えには全力の苦笑いで返すことしかできなかったが、彼女は意外にも饒舌で、夜の浜辺で二人、しばらくの間話し続けた。

 

 彼女の話を要約すると、ここに来たのは恋人に振られたからで、不治の病に侵されたヒロインが入水自殺するという映画のラストシーンに憧れてここまで来たものの、死ぬ気にもなれずにただ海を眺めていた、とのことだった。

 恋だとか愛だとか、感情をどこか遠くに置き忘れてきたのかな。

 そう言う彼女に、それって大人になってから海に浸かったときの感覚に似てますよね。と言ってみたら苦笑いの仕返しが飛んできた。

 

 だけれどそうなのだ。なにも恋愛に限らずとも、何か大切なものを忘れてきたという感覚は心のどこかで燻っていて剥がすことができない。

 まるで靄のかかったコンタクトレンズのように、あの頃の眩しさから俺を遠ざける。

 目の前の闇が晴れることはない。

 それなら後ろの闇に突っ込んでみよう。もしかしたら取り戻せるかもなんて思わないけれど。

 

「死んできます」と歩き出す俺を、彼女は「死んでらー」と見送った。

寄せる波、返す波、寄せる波、返す波、その神秘的な一定のリズムの間に、1歩、2歩、3歩、4歩、確かな歩みを滑り込ませる。

そうして砂浜につけた確固たる足跡は、波の前では一瞬で消え去り、そのあまりの潔さに思わず笑った。

 スーツに下着に、染み込んでくる海水は驚くほどに冷たい。

 しかしどうしてだろう、着の身着のまま入水し沖へと向かう俺の心は無駄に熱かった。

 やがて頭上まで海中に沈む。やはり真っ暗な海の中にも眩しさは残っていない。

 苦しい、苦しい、苦しい。

 苦しさの反対側にも苦しさがあった。

 マイナスの反対にプラスがあるとは限らなかった。

 それでも――

 俺は歩みを止めない――

 

 

 

 ――――

 ――

 そして、俺は普通に生きている。

 誰かに救助されることも、岸に流れ着くこともなく、普通に歩いて戻ってきた。

 理由もなくゆっくりと空を見上げてみる。

都合よく流れ星なんか流れない。

 びしょぬれになった俺を哀れに思ったらしい彼女は、海沿いにあるホテルに泊まった。同じ部屋ではあったが何もなく、砂浜での饒舌な彼女はどこへやら、これといった会話すらなく夜は更けた。


「なんだか、八方塞がりだよね」


 寝る前に彼女が言った一言が頭に残っている。

朝、目を覚ますと彼女の姿はもうなく、その代わりに見つけたものはテーブルに置かれた小さなヒトデとメモだった。

 メモに彼女の名前や連絡先が書いてあることをうっすらと期待したが、そこには「流れ星」と一言書かれているだけだった。

 

 

 こういうのを一夜かぎりの関係とかいうのかなと思うと、大人への道を一歩進んだ気がする。

 その道の先に、あいかわらず光は見えそうになかった。


「風邪ひきませんように」


 小さなヒトデにありのままの願いを込める。

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