第11話 侵入

 足音を忍ばせて隣の部屋に忍び込む。男兄弟しかいない坂部家では、個人部屋はあっても鍵なんて付いていない。

 兄の部屋は、ほとんど研究室に泊まり込みの兄の物置になっていて、なんとなく埃の匂いが鼻腔をかすめ、くしゃみをしそうになった真一は思わず息を止めた。


 机の上も、混沌を極めていた。様々な書類や書物、筆記用具なんかが散らばっている。でも、狙うは上ではなく、机の中だ。真一は兄の机の引き出しに手を掛けた。やはり、ここは開かない。

 想定の範囲内である。ここで焦ってはいけない。最近の周期的に、次に兄が返ってくるのは明後日の午前中だろう。焦る必要もないがのんびり構えることもできない。思い立ったら待てないのは、唯の短所である。


 引き出しは数字4桁のパスワードで守られている。まさか兄が、自分や親の誕生日を設定しているとは思えない。前の彼女とのひと月記念日をすっかり忘れていたような兄だ、何かの記念日も可能性が少ないだろう。となると、候補は一つである。


「7、1、4、1」


 カチッと音がして、引き出しが開いた。これで開かなければ「0000」からあらゆる組み合わせを試してみなければならないところだったのだが、こうもあっさり開いてしまうと真一は思わず笑ってしまう。


 遥か昔、兄の誠一と二人で「ひみつけっしゃ」を結成した。そこで「ひみつをまもる」ために考え出された秘密の合言葉が兄の「セイイチ」で「セブン、イチ」、「シンイチ」で「シ、イチ」つまり「7141」の組み合わせだ。

 他の場所ならともかく自室の机なんて、開ける可能性が一番高いのは弟の真一であるはずなのに。それでもこのパスワードを今でも使い続けてしまう兄の純真さに苦笑し、また申し訳なくなる。ごめんな、兄さん。心の中で詫びてから、真一は引き出しの中に手を入れた。


 出てきたのは、中に書類が入っていると思われる紙袋が二つ。そのうちの一つは、一旦テープで閉じられた口が乱暴に開けられている。中身は、走り書きのたくさん入った書類の束だ。表紙には手書きの英語で何か書いてある。


「KAHO SERIZAWA…花帆?」


 それは、花帆についての詳細な記録だった。生年月日から現在までの身体測定の結果、学校での成績。

 何故、兄がこんなものを。分厚い書類を詳細に見るのはさすがに気が引けたのでざっと全体を見た。その書類の最後のページは花帆の入院するまでの学校での様子の記録と入院中の脳波の詳細な記録、そして

『モルペウス(仮)の危険性と有用性について、引き続き調査』

という兄の字のメモで終わっていた。



「モルペウス?夢の神の名前だね。パスワードがそれだっていうの?」

「他に、それらしいものは見つからなかった」


 次の日の夜、真一の兄が確実に社員寮の自室に戻ったであろう深夜2時。唯と真一は編笠山研究所に忍び込む。


「ふーん、まだあんたの言ってた『ひみつけっしゃ(笑)』のパスワードの方が脈絡がありそうな気がするんですけど」

「兄だけじゃない、研究所全体で使うパスワードなんだよ。桁数的にも4で済むとは思えないし、メモを見る限り重要そうな単語なんだ」

「ふーん…あ、ここだ」


 唯は立ち止まった。目の前には完全機械式の入所ゲートが立ちふさがっている。


『こんばんは、認証コードをかざしてください』


「え、ちょっと、コードって何よ」


 機械の門番の電子音声に、唯は動揺した。彼女はここもパスワードで入れると思っていたようだが、ここを通過するには社員証に付いている認証コードの複雑な模様が必要なのだ。


「大丈夫だから、静かにしてよ。騒いで警備が来たら大変だろ?」


 真一は昨日一晩かけて作り上げた精巧な模写をかざした。ピッピッ、というささやかな電子音がして、すぐに


『どうぞ、こんな夜更けにお疲れ様です、坂部研究助手』


という音声が流れた。


「え、あんたそれ、どうやって手に入れたのよ」

「うん、兄さんが研究所への就職が決まった日、社員証を見せてくれたんだよ。正確には見せびらかして来たんだけど、もう両親も喜んじゃって。で、僕も嬉しくなって、社員証と兄さんの顔のアップで写真撮ったりしたんだよね。それ引っ張り出してきて、昨日写した。マジで自信作だぜ」

「はー、研究所のセキュリティも、案外ちょろいもんね」

「…僕の才能を、認めてはくれないんだな」


 昨晩は兄の部屋への侵入と偽認証コードづくりのせいで、真一はほとんど寝られなかった。


 真一の兄が研究所勤めと知った唯は、もう今すぐにでも真一を連れて研究所へ突撃しに行きそうな勢いだった。良太がそれをなんとかいさめたものの、真一の兄が次に帰ってくる前に絶対に行動したいといきり立っていた。

 かくして、思い立ってから二日間という準備期間の短さで、真一と唯は深夜2時の研究所の中にいる。

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