05

 僕らはカメラを持って夜の街へ繰り出した。

 あの日、今度のバイトで初めての給料を貰ってカメラを買ったあの日、僕は京子と一緒にいた。今日はそのカメラを手にして、憧れていた小春と並んで歩いている。僕はファインダーを通して、そして彼女を通して、世界の核心に触れることができるように思えた。そもそも世界とは何だ? 自分とは何だ? 正直に言うと何も分からない。やはりそれは、明確に言語化できるようなものではなくて、もっと根源的な感覚を通してしか感知できないもののように思われた。

 そんな難しいことは抜きにしても、僕は意中の相手と同じ時間を共有できることだけで、もうとても嬉しかった。彼女が僕のことをどう思っているのか、あるいは何とも思っていないのか、それもまた分からない。その分からないことがまた喜びをもたらすのだった。新事態の出来、それだけで僕はご飯三杯はおかわりできそうな気がした。新しい事態に直面することで僕は今という時間を感知できる。世界と向き合うことができるのだ。

……またしても話がずれてしまった。要は興奮しているのだ、僕は。彼女はクールというか無愛想というか、夜の街に出て行くのにもわくわくしたような様子を見せなかったので、あるいは彼女は遊び慣れているのかもしれないと思った。恥ずかしいことに僕は彼女のことをほとんど知らない。最も大事なこと、恋人の有無でさえも。恋人といえば、僕は彼女とどのくらいの距離で接すれば良いのかまだ分からない。純粋にモデルとして接するべきなのか、それとももっと踏み込んでいくべきなのか、僕には心の準備ができていない。でもそれは、彼女と話し合いながら関係を深めていきながら、徐々に模索していくべきものだとも思えた。それは僕の目指す理想の形だった。


「カラオケに行きたいな」


 彼女がぽつりと呟いたので、僕らはカラオケに行くことになってしまった。というのも、僕にはカラオケに行く習慣がなく歌える曲もなかったので、どうしようかと迷った。しかもカラオケボックスというのは考えようによっては異常な空間だ。薄暗く狭い部屋に閉じこもって大声で各々の自己満足を果たす場、それが僕のカラオケに対する印象だ。僕はさすがにそんなことは口にしなかったけれども、彼女は僕が気乗りしないのに気付いたらしかった。それでいて、予定を変える気はさらさらないようだった。

 カラオケボックスに着くと、彼女が料金のコースやカラオケの機種などをあれこれと決め、部屋に入ってからもフライドポテトやジュースなどを内線電話で注文した。


「慣れてるんだね」

「貴方は慣れてないわね。まあ、こんなことに慣れてるくらいで偉い顔してちゃ馬鹿みたいだけど」

「一つ、言っていいかな?」

「どうぞ」

「僕、歌える曲がないんだ」


 彼女はそんなことは問題外だというような顔をした。


「私だってそんなにレパートリーはないし、カラオケなんてハミングしてるだけでもいいんだから。これも表現の一種だと思えば、やる気も湧くんじゃない?」


 見ててご覧というふうに、彼女はいくつかまとめて選曲した。最初に流れてきたのはどこかで聞いたことのあるような洋楽だった。彼女は拙い英語で、途中でハミングを挟みながらも歌いきった。音程の一定した透き通るような声だった。間近で歌う姿を見て、僕はまた彼女のことが好きになった。


「ね、どう?」

「歌ってみる」


 それから僕らは色々な曲を歌った。最新の洋楽から昭和歌謡まで。二人とも最初の方は真面目に歌っていたけれど、途中から面倒くさくなってきてハミングばかりするようになった。それは何故だか、夏の暑さに辟易しながら肌着を脱ぐような、そんな感覚を思い出させた。二時間歌い続けて、歌った曲の履歴のちぐはぐさに二人で笑った。後から見た人がどんな反応をするかを想像して、もう一度笑った。

 バイト終わりに出会って、しばらく歩き回って、僕の家にカメラを取りに行って、電車に乗って街へ出て、二時間歌った。色々なことをしたものだからもう終電が近付いていたけれど、彼女はまだ物足りない様子だった。そこで僕は初めてカメラを取り出した。二人とも酒なんて飲んでいないのに気分が酔っていたのだと思う。彼女はガードレールに座っておどけたポーズを取り、僕は僕でわざとカメラを揺らしながら撮った。そうするとふざけた写真が仕上がって、僕らはますます愉快な気分になった。


「ねえ、もっと歩きましょう」


 だから彼女が自宅まで歩いて帰ろうと言ったとき、僕にそれを断るという選択肢はなかった。

 この前に京子と夜の街に出たときもどこかモラトリアムのような気分を感じていたが、今夜のそれはこの前とは段違いに強かった。僕は単純に彼女と一緒にいたいという気持ちがあったのだが、彼女がどんな気持ちでいるのかはよく分からなかった。とにかく一人で帰路に就くようなことはしたくなかったのだ。けれども、彼女と一夜の関係を結ぶような短絡的な結末も望んでいなかった。この時間がいつまでも続けばという、子供じみた思いだけがあった。

 僕らは帰り道の色々な場所で写真を撮った。電柱にしがみついた彼女を撮ったり、踏切を渡る彼女を線路の上から撮ったり、川を眺める彼女の横顔を撮ったり。、そのときに僕が考えていたのはいかに彼女の魅力を引き出すかということで、魅力を引き立てるためには写真の腕前ももちろん大事だけれど、それと同じかそれ以上に雰囲気を作ることが大事だというのが分かった。また、僕のやりたいことと彼女のやりたいことを一致させる必要があり、無言のコミュニケーションを僕らは交わした。

 そうこうするうちに、僕らはあっという間に彼女の自宅に帰り着いた。そこはオートロック付きのマンションで、親が勝手にここを選んだのだと彼女は不満を漏らした。それは当たり前のことなのに、僕には彼女に両親のいることが不思議に思えた。彼女の両親を想像することは、赤ん坊の姿から今の彼女のことを類推するのと同じように困難なことだった。それはつまり、彼女がもうすっかり大人の女性として自立していることを意味しているのだろう。


「せっかくだから上がっていきなさいよ。私の書いたものを見せてあげるから」


 彼女はそう言ったが、僕は出会ったばかりの女性の家に上がることはモラルというかマナーというか、そんなものに反するのではないかと思えたので断った。彼女も無理強いはしてこなかったので、僕らはマンションの前で別れることにした。


「さようなら」

「さようなら。また、連絡するわ」


 僕はさっき交換したばかりの彼女の電話番号を思い出しながら、こくりと頷いた。

 結局、僕は一人で家路に就くことになった。思い立ってカメラのデータを見ると、今夜だけでも二百枚以上の写真を撮っていた。最初のでたらめな写真、途中のでたらめな写真、最後のでたらめな写真。どこまで見てもでたらめな写真ばかりだったが、美しい女性がモデルということもあって写真が輝いて見えた。

 と、カメラの液晶画面に水滴が落ちてきた。その直後にごろごろとした雷の音が聞こえてきた。咄嗟に振り返ると、彼女のマンションはまだそう遠くない位置に見えた。

 こうして僕は、結局は彼女の部屋に上がり込むことになったのだ。






 小春は僕を案外あっさりと受け入れると、すぐにミルクを温めてくれた。彼女の部屋は広くて、どこか持て余しているような感じもしたが、リビングの床に座っている僕には部屋の全貌は分からなかった。あの部屋の扉を開ければ、どこかの男から貰ったブランド物のバッグや靴や化粧品なんかが山のように出てくるかもしれない。あるいはその扉の奥では男が寝ているかもしれない。

 そんなことは単なる妄想だったが、もし現実であったとしてもおかしくはない。それくらいに僕は彼女のことを神秘的に感じていたのだ。


「はい、ミルクおまたせ」


 だから彼女が持ってきた白い液体のことを、牛乳ではなくミルクと言うことにちょっとした喜びを感じた。牛乳という単語は、あまりにも日常的過ぎたから。

 僕らは最初、黙ってミルクを飲んだ。僕はこの部屋に入ったときからずっと心がもやもやとしていて、それは僕がどうして前言を撤回してここへ来たのか、それを説明したい衝動に駆られていたからだ。それはもちろん、僕のことを理解してほしいという衝動でもあった。僕はぽつりぽつりと、自分のことを彼女に語った。


「単なる口実にしては話が出来過ぎてるわね。いいわ、信用する」


 彼女は笑ってそう言ってくれた。でも、僕はまだ話し足りなかった。


「僕のこの性格というか、性癖とでも呼ぶべきものをどう思う?」

「変わってる。傘を差せば解決するようなものじゃないのね?」

「うん。僕がどうしてそうなってしまったのか、それを解明するまでには一生かかっても無理かもしれない」

「どうにかする必要はないのかもしれないわ。もしかして百万人に一人の選ばれた人間かもしれないじゃない。日照りの国で一生働き続けられる貴重な人材よ」


 それが彼女なりのユーモアらしかった。僕はにっこりと笑ったが、彼女は真剣な表情をしていた。


「この国で生まれたからといって、この国で生きていく義務はないわけでしょ。そんなの学校で習った覚え、ないでしょう」

「まあ、そうかもしれない」

「政府というものは国民のために成立しているわけだけど、貴方個人のために存在しているわけじゃないんだから、自分の幸福を願うなら月の裏側でだって生きていく覚悟が必要なのよ」

「……」


 彼女があまりにも真剣に僕のためを思って言ってくれているので、僕は思わず沈黙してしまった。ここでは彼女のどんな言葉も重みを持つし、僕のどんな言葉を羽のように軽くなってしまうように思えたから。


「ごめんなさい、これ、私の癖なの。普段からこの部屋の中であれこれ考えているから、お客さんが来たってお構いなしであれこれ考えちゃうの。でも、せっかく生まれた言葉なんだから、どうぞ貴方の心の中で育ててあげて」

「うん、そうするよ。それにしても、俄然と君の書いたものが見たくなってきたな」

「良いわ。ちょっと待ってて」


 そう言うと、彼女はパソコンの設置してあるデスクの下に潜り込んだ。そこに創作物のノートを、子供が持っている宝箱のようなものにまとめて入れているのだと言った。彼女が取り出したのはピンク色の、けれどもごく平凡なノートだった。表紙には何か分類番号か記号のようなものが書いてあったが、彼女がすぐにページをめくったので読み取れなかった。創作ノートに「創作ノート」と大きな文字で書くほど、彼女は単純ではないのだろう。


「ほとんど動物的に排泄したような言葉ばかりだけど、これはその中でも出来が良いと思うから」


 そうやって彼女が示したものは、散文で書かれた詩のようなものだった。


「身を投げる哲学者たち

 彼らは何を思う?

 いつかデイヴが歌ったあの歌のように

 束の間の英雄になることを望んだのだろうか

 もしも君が英雄になることを望むのならば

 その先に行ってはいけない

 飛び降りた先には忘却のダストボックスしかないのだから」


 率直に言って、僕は少しばかり幻滅した。それは僕の死生観、ひいては彼女に抱いている一種の憧れとは異なるものだったからだ。

 僕は彼女について、きっと毒薬を口の中に秘めて、何でもないような、そっと風が吹いたような、そんなときにその毒薬を噛み締めるような人だと勝手に思っていたからだ。この詩はそれとは違って死を肯定するようなものではなかった。

 僕がそんな意味のことを言うと、彼女は少し考え込んでから反論した。


「作者と作品とは等しいものではないし、紡がれる言葉は必ずしも作者の意志を反映したものではないと思うの。私、リストカットなんて怖くてしたことはないけれど、オーバードーズくらいならしたことはあるような人間よ」

「オーバー……?」

「薬なんかと一度に大量に飲むこと」

「睡眠薬でも飲んだの?」

「ソイソース


 彼女はそう言って笑った。どこからどこまでが本気で、どこからどこまでが作り話なのか分からなかった。僕が苛立ちを覚えるよりも早く、彼女は言葉を継いだ。


「貴方はまだ表現者になりきれていないから分からないかもしれないけれど、カメラマンが人間であるとするなら被写体もまた人間よ。何もかもが自分の思い通りにはならないってこと、覚えておいて」


 それはたしかに含蓄のある言葉だった。僕は一時の感情で自分の理想を押し付けそうになったが、しかし、真の理想的な形は、僕の独断で作られるものではなかった。

 彼女とよく話し合って、よく理解を深める。そうすることが本当の理想だったはずだ。だから、僕は素直に感謝した。


「私もいつか心がぶれてしまうかもしれない。そのときは、貴方がしっかりと元のレールに戻して。


 僕と彼女は、ようやく一つの運命共同体になれたようだった。






 彼は朝方になって帰って行った。雨が止んで電車も動き出したから帰ると言って。私は一緒に大学に行きましょうと引き止めたけれど、今日は大学に行かないつもりだからと言って。

 何だか、私は引き止めてばかりのような気がする。特別彼のことが好きなわけでもないのに。彼はどこか、神経質な香りがした。きっと自分の家の自分の部屋の自分のベッドの中でしか眠れないような性格なのだろう。

 ここ最近は夜更かしばかりしていたけれど、夜明け頃に目を覚ましているのは久しぶりのことだった。太陽が昇ってくる、人々がベッドから起き上がる、一日が始まる……。いつかどこかで、誰かが言っていた。辛いこともいつかは慣れるものだよ、と。

 今になってみれば、それは嘘ではないけれど本当のことでもないと分かる。辛いことはいつまで経っても辛いのだ。何が悲しくて何が虚しいのか分からない。そんなことにどうやって慣れるというのだろう。

 ああ、今日もあの人は来るだろう。そしていつものようにだらしないセックスをして、快楽に溺れるのだ。そして、その同じ身体のまま、何食わぬ顔をして人前に出るのだ。私が少女だった頃、それはとても不思議なことだったけれど、実際にそうなってみれば不思議でも何でもないものだ。

 あの人が来るまでに煙草を一本吸い終えられるだろうか。そういえば、禁煙をするつもりでいたのを忘れていた。


「この機会にやってみようかな、禁煙……」


 誰にともなく呟いて、ベランダに立つ。煙草を吸いながら、いつかこのまま飛び降りてやろうと思うことがある。その先に待っているものが本当に忘却のダストボックスなのだとしたら、私は喜んで飛び降りることだろう。もしも生まれたことさえ忘れてくれるのなら、死後にどんな苦しみが待っていたって耐えられるとさえ思う。

 私は、とても苦しいのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る