04
京子が電話を取った瞬間、僕らの間には張り詰めた空気のようなものが現出した。僕は京子に対してどのような言葉を口にしたのか覚えていない。それくらいに僕はその空気というものを強く強く意識していた。だから学内の待ち合わせ場所に京子がやって来たとき、僕は言いようのない安堵を覚えた。
「どこで食べる?」
それが京子の第一声だった。僕は一度スタート地点に戻る必要があると思ったので、春に京子と再会したあの食堂に行こうと提案した。
食堂に着くまでの間、僕らは色々なことを話した。思わず雄弁になってしまう話題もあれば、付いていけずに沈黙してしまう話題もあった。それらの話は束の間の空白を埋めるためという感じはなかったので、必然的に空白期間を無視するような形になった。京子と最後に会ってからの僕の生活は笑い話にできるような楽しいものではなかったし、京子も特別スリリングな生活を送っているというわけではないようだった。
一つのテーブルに向かい合って座り、日替わり定食を注文した。ここまでは並んで歩いてきたせいもあって、僕はこの日初めて京子の顔をまじまじと見た。気後れするわけではないが、話をどう切り出すか迷った。僕は撮り溜めた写真たちを無言でテーブルに置き、仕草で京子に示した。京子は気だるげな手つきで写真を受け取り、やはり気だるげな手つきで僕に返した。僕がこれまでの経緯を語り始めてからも、京子はあまり気乗りのしないような感じで聞いていた。
「それで、モデルが欲しいわけね?」
僕はこくりと頷いた。京子は考え込む態度を示したが、ちょうど僕らの食事が運ばれてきたのでその流れは一度途絶えた。
食事を終えて各々の支払いを済ませると、僕らは再び並んで大学までの道を戻った。京子はさっきの話を追いかけることをせず、さして重要でもないような話題を持ち出してきた。僕は京子が何を考えているのか分からず、少しばかり苛々とさせられたが、大学に戻って別れる段になって、京子が
「さっきの話、少しだけ時間をちょうだい」
と言ったので、僕は安心して全てを委ねることができた。
その三日後、携帯電話に知らない番号から電話がかかってきたので、面倒なことに巻き込まれそうな予感がしながらも僕は電話に出た。相手が若い女性だったので勧誘の類ではないなと思ったが、まさかそれが京子の紹介してくれた女の子とは気付かなかった。定期試験を前にして憂鬱な気分が頭をもたげていたのが、一度に吹き飛んでしまった。僕は勉強するのを止めて、すぐに大学で待ち合わせることにした。こんなに早く、しかも女性を紹介してくれるとは思わなかったので、僕は京子にお礼の電話をかけたが繋がらなかった。
大学には沢山の人間がいるので驚くようなことでもなかったが、待ち合わせ場所にいたのは僕が初めて見る女性で、彼女も僕のことを知らないと言った。自販機コーナーで二人分のコーラを買うと、僕らは近くにあった椅子に座って、他愛のないことを話した。京子が彼女にどんなことを話したのかは分からないが、僕は女友達の欲しい凡庸な男子学生ということになっていた。僕がカメラのことを口にすると、趣味でやっているんですよね、と彼女は言った。全体的に情報が歪曲しているようにも思えたが、何はともあれ写真のモデルになってくれる相手ができたことは嬉しかった。
話はよく盛り上がって、その日の夜にでもどこかで食事をしようということになった。僕は手持ちのお金に余裕がなかったので、後でどこかで合流しようと提案したのだが、彼女が渋るので仕方なく一緒に自宅に帰ることになった。
彼女は残念ながら背丈が低くモデルとするには物足りない気もしたが、可憐な雰囲気があってよく笑う子で、魅力的ではあった。僕が一人暮らしであることを知ると、実家から大学に通っている彼女は羨ましいと言った。そんなものなのかと僕は思いながらも隣の部屋が空室だと冗談交じりに教えてあげると、二人で一緒に住まないかと言ってきた。僕はどきりとしたが、知り合って二時間もしないうちの冗談には奇妙な重みがあるなと、そう思っただけだった。
僕はアパートの前で待っているようにと言ったが、彼女はそれを無視して僕の後に付いて階段を上ってきた。トイレを貸してくれと言うので僕は仕方なく彼女を家に上げて、財布にお金を補充した。質素な生活を送っていることが幸いして、僕は荷物で散らかった部屋に他人を上げる愚行を避けることができた。トイレから出てきた彼女がカメラを見てみたいと言ったので、僕はさすがに少し押し付けがましく感じながらも、早くも手垢に塗れたカメラを見せた。触れようとするのを寸前のところで押しとどめ、手と手が触れた。すると彼女は指を絡めてきて、その手が二の腕の方へ上がってきて、気付いたときには僕の顔を両手で掴んでいた。ごく自然な流れを装って、彼女は僕に口づけをした。僕はすぐに彼女の身を引き離すと、ここから出て行ってくれと強い口調で言った。ビンタの一発でもお見舞いしてやりたいところだったが、僕はさすがに女性に手を上げるようなことはできず、玄関先に身体を押しやるのが精一杯だった。
彼女を追いやった後に残ったのは、ざわざわとした奇妙な気持ちだった。久しぶりに女性と口づけしたことで気持ちに火が点いてしまったことが腹立たしかった。それにしても、それにしても! 京子はどうしてあんな女を僕に紹介したのだろう? 行き場のない怒りを抱えたまま、僕はしばらく部屋の中で立ち尽くした。
「野崎くんの覚悟を試したの」
翌日、学内の静かな場所で僕と京子は待ち合わせた。
僕の追及に真正面から立ち向かう京子の眼光は、責め立てているはずの僕がどぎまぎとさせられるほどに鋭かった。
「覚悟を試すって、そんなことをして何になる?」
「さあね。でも野崎くんって本当に、本物になりたいのね」
それは僕があの子を追い返したことを言っているらしかった。もしもあの場でそれ以上の何かが起これば、京子はどんな反応を示しただろう? 彼女はそれを期待していたのだろうか?
「今回のことは謝るわ、ごめんなさい。だから今度はちゃんとしたモデルを紹介するわ」
「君自身がモデルになるって言うんじゃないだろうね」
「まさか。でも、良い考えかもしれないわね。それで、今度紹介する子の名前、知りたい?」
「まあね」
「小春っていうの」
瞬間、京子の言葉が僕の胸を貫いた。聞き間違えたのか? いや、そうではないらしかった。
「こ、小春……?」
「そう。今日のバイトが終わる頃にカフェに来る予定になってるから、そのつもりでいて」
「京子、君は……」
京子が妖艶ともいえる笑みを浮かべた。
その表情からはどこか底がないようなものを感じて恐ろしかった。
その日の僕は動揺してしまって、お釣りを間違えたりコーヒーをこぼしてしまったり、散々な有り様だった。オーナーに体調でも悪いのかと訊かれたので、この後女の子と会うことになっているのだと素直に告白すると、青春ねえ、とだけ言って許してくれた。
いつものように清掃を済ませると、それを見計らったかのように店の前に女性の姿が見えた。そこに立っているだけなのだが、小春のまとっている雰囲気とでも言うべきものが店のガラス越しでもよく分かった。何というか、僕が出てくるのを待っているのだろうが、それでいて僕とは関係なしに存在しているようでもあり、自信のようなものが透けて見えた。彼女は自分の美しさをよく知っているのだ。
全ての仕事を終えて僕が店から出ると、彼女はちょうど煙草を吸っているところだった。
「ちょっと待ってて」
彼女はそれだけ言うと、僕への関心というものがまるでないかのような振る舞いをした。手持ち無沙汰な僕は、思い切って彼女の顔を見つめることにした。そんなことをしては嫌がられるかとも思ったが、彼女はやはり僕には関心がないというような態度を示して、夜空に向かって煙をくゆらせていた。僕は今までに煙草を吸う女の子と親しくなったことはなかったし、自分でも吸ってみたことはなかったから、彼女にとってこの時間がどれだけ大切なものなのか、その実際は僕には分からなかった。ただ単に絵になりそうだと、そう思うに留まった。
いよいよ煙草が短くなってくると、僕はそちらの方に興味が向くようになってきた。携帯灰皿に捨てるとしたら好ましく思えるだろうし、その辺に捨てたとしてもそういう性格だからと許せそうな気がした。果たして、彼女は側溝に煙草を落とした。それが店の前に煙草を捨てないように配慮したのか、単なる彼女の癖なのか、僕には分からなかった。
「それで、どこへ行くの?」
「お腹が空いているなら何か食べよう。そうじゃなければ、少し一緒に歩きたいんだけど」
それが、僕が初めて交わした言葉だった。
彼女は食事をする気分じゃないからと言って、僕と一緒に歩くことを選択した。行くあてのない旅になるだろうと僕は言ったが、彼女は別に構わないと言った。
僕と一緒に歩くとき、彼女は寄り添うでもなく離れるでもなく、絶妙な距離を置いた。そうやって並んで歩き出したところで、僕はようやく彼女と歩いていることの不思議を実感した。彼女が実際に現れるかという不安もあったし、京子が彼女と知り合いであることが不思議でもあった。いずれにしても、京子の考えていることは僕にはよく分からなかった。
「京子に特別に頼まれたの。あの子、とても親しいってわけじゃないけど、嫌な感じはしないし、私もこういうことをするのが面白そうだと思って」
意外にも彼女が先に口を開いた。僕は彼女の言葉を一字一句聞き漏らさないように強く集中した。
「先に言っておくけど、僕は趣味でやりたいんじゃないんだ。本物になりたいと思ってる」
「その本物っていうのは、プロだとかアマチュアだとか、そういう次元の話?」
「……いや、そういうふうに考えたことはなかったな。それを生業にするかどうかは別として、表現者になりたいと思ってる。これは、京子には話したことはないはずだけどね」
「そう、素晴らしいわね」
彼女の言葉には感情がないわけではなかったけれど、その真意がどこにあるのか、少し掴みにくい感じがした。彼女はその美貌もあって学内では有名だったが、同時に妬みの対象にもなっていて、彼女のそういった喋り方が人々には冷たい印象を与えたのだ。
「やっぱり引き受けて正解だった。今、強く確信できたわ。実は私もね、表現者になりたいの」
「それは、僕と同じような意味で?」
「そう」
それがあまりにもあっさりと出てきた言葉だったので、僕はやはり彼女の真意が掴めなかった。しかも彼女は無駄に話すような性格ではないから、僕の方から情報を引き出していかなければならなかった。
「表現するのにも色んな手段があるよね。写真だとか音楽だとか文章だとか、あるいはファッション」
「詩や小説を書いたりするわ」
「どんなものを?」
「今度、見せてあげるわ。今はまとまった形になっていないけれど、悪い出来ではないはずだから」
実際に会話してみると、想像していたよりも彼女は話しやすいし、物事がよく分かっているようだった。僕にはそれが自分のことのようにとても嬉しかった。
しばらく歩いたところで彼女は僕の撮った写真が見たいと言い出した。写真の何枚かをちょうど持ち合わせていたので、それを彼女に示した。彼女はしばらくそれを眺めて、ぼそりと呟いた。
「あまり上手くはないのね」
それが僕に言ったのか単に呟いただけなのか分からなかったので、僕はそれにどう反応すれば良いのか困った。身を引き裂かれるような思いと天に昇るような思いとが、僕の中で渦巻いていたせいでもある。
たしかに今の僕の写真は上手くないかもしれない。だから、それを指摘してもらえることは嬉しかったけれども、同時に自分自身を否定されるようでもあって苦しかった。
「でも、上手いだけの写真なんていくらでもあるから」
僕に気遣ってその言葉を付け足したのか、またしてもそれは分からなかったけれども、僕は都合良く解釈することにした。
「今日はカメラを持ってきてないの?」
「君がモデルを引き受けてくれるって話、昼間に聞いたばかりだからカメラを持ってくる余裕がなかったんだ。普段は大学にカメラを持って行かないから」
「私、明日の午前中は空いているから、時間はたっぷりあるの。せっかくだからカメラを持ってどこか街の方へ出かけましょう」
思わぬ展開になったなと僕は驚かずにはいられなかった。いつかのように夜の街を歩くこと、それも意中の相手と一緒に歩くことは、とてもスリリングな行為のように思えた。
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