夢力に恋する
山田まさお
始まりのプロローグ
プロローグ
疲れていたのか、いつしか眠っていたみたいだ。
機械音に談笑する声、多種多様な詩が意識を半覚醒へと強制させた。
瞳は開けずまだ眠たげな意識で耳を凝らすと、ポーポーと懐かしい昔の蒸気機関車の汽笛が聞こえてくる。
近くの窓が開いていたのだろう。煙のモクモクとした、白煙と黒煙の入り混じった、どっちつかずの煙と共に匂いまでもが混じっていて、とても良い気分がした。
辺りから深刻な会話が洩れてくる音がする。
声からさっするに若そうな男女の声だ。
「恐らく歴代でも一、二を争う力だと思う」
「確かに一刻を争う事態ですからね。急がなければならないでしょう」
「うむ。こやつは昔の約束など覚えておらぬかもしれないが、私は忘れてはいないからな」
漂流人ひょうりゅうびとだとか夢がどうとか天変地異とかの内容で、そんな男女の会話も次第に耳から遠退き始め、今にも落ちそうな意識の中、夢の悪戯なのか、どこか遠い昔の事で幼いころに聞きなれた感がある懐かしい声が聞こえてくる
私はまた夢の世界へと、深く、深く落ちていった……
「さいくんはうさぎがすきなの?」
「うん…… すきだったんだ」
不謹慎だと思いながら、胸がどきどきしてまるで心臓が体から飛び出しそうだった。当時片思いだった憧れの歩みちゃんが今、目の前に手を伸ばせば触れられる距離にいる。彼女と少しでも一緒に居たい為に、夏休みを犠牲にしてまで飼育係になって正解だと思った。
僕の初恋の相手歩みちゃん。彼女を最初に見たのは小学校の入学式の時だから、あれからもう一年半近くになる。少しずつだけど距離が近づいている。
一昨日まではとても幸せな毎日だったと思う。でもそれは一昨日までだ。
何故なら今日で彼女は転校してしまい、学校で飼育していた可愛い兎も夜中に来た台風のせいで、金網が破れ、野良の犬か猫にでも襲われ喰われてしまった。
「おはかつくろっか」
僕は力なく頭を動かした。
最初は彼女との飼育係で区切られた、ほんのささやか時間を共有するだけだったが、やがて兎の世話をするうちに情が移り可愛がり始めた。
それがこの結末だ。誰が悪いとかではない。もちろん大自然には人間がいくら知恵を絞っても勝てないのかもしれない。いずれ僕自身が頭の良い科学者になって自然をコントロールしたり、タイムマシーンを発明して兎を生き返らせる時が来るかも知れない。しかし当時の私は自然の前に、人間がいかに無力かと理解するにはまだ幼すぎた。
泣きながら死んだ兎のためにお墓を作った。
兎を穴に埋めるために、亡骸となった体を小さな掌で抱えると、体積は喰われた分だけ軽くなったが、なぜかずっしりと重たかった。
僕はさよならを言ってあげた。歩ちゃんも兎に何か言葉をかけている。
私は何か大切な事を言った気がするけれど、名前と共に今はもう思い出せない。
穴を埋めてお葬式が終わると、自分の手が土と兎の血で真っ赤になっていた。
小屋に入ったときには既に血は乾いていたが、台風は収まりつつあるとはいえまだシトシトと小雨が降っている。その雨で凝固していた血が融け僕の両掌が血に染まっている。
なんだかとても悲しくなった。
葬式が終わり、歩ちゃんともお別れの時がきた。
こんなことがあったばかりなので、帰路に着く帰り道は二人とも無言だった。
やがてお互いの家の分かれ道まできた。僕は力なく歩ちゃんに永遠の別れを言った。
「歩ちゃん…… さようなら。てんこうさきでも元気にね」
「……うん。さいくんも元気でね。あゆみのことわすれないでね?」
「ぜったいにわすれないよ!」
歩ちゃんは何か言いたそうに口を開きかけたときに歩ちゃんの両親が迎えに来てしまい、ぐずる彼女を犬のように引きずり帰ってしまった。
僕は子供だったけど、もう二度と彼女には会えないとわかっていた。帰り道を独り寂しくとぼとぼと歩いた。物凄く悲しくて我慢できずに泣いてしまった。
涙が頬を伝って鼻水も出てくる。嗚咽も一緒に出始めた。場所を気にせず泣くことは子供の特権だ。泣きながら色々と考えてしまった。
普段は仲が良いのに、いつも父さんと些細なことで喧嘩して、飛び出すように、家を出て行く父さん。
頬を赤く腫らしながら家でひっそりと泣くお母さん。そんな時僕は泣いたりせずに、母が泣き止むように一生懸命に語りかける。
「ねえお母さんみてみて、ぼくさかだちができるようになったんだよ」
「ねえお母さんみてみて、きょうのテストはくらすでいちばんだったよ」
「ねえお母さんみてみて、くつのひもがじぶんでもむすべるようになったよ」
ねえお母さんみてみて、僕はお母さんの前では絶対に泣かないんだよ。だからもう悲しんだり、泣いたりしないで。だからお願いだから泣かない僕の姿を見て。
何度か母に語りかけ、時間が過ぎると落ち着きを取り戻して、僕を優しくぎゅっと包むように抱いてくれる。そしていつも同じ言葉を言う。
「ごめんね祭。お母さんがもっと強い人だったらよかったのに」
いつもと同じ言葉をかけられ僕は安心して、お母さんの体を抱き返す。お母さんの体はとても温かく、太陽みたいにやわらかいにおいがする。そのにおいを鼻一杯に吸い込む。胸に耳をあてるとトクントクンとリズムよく心臓が音を鳴らしていて、その音が今まで不安だった僕の心を安心させてくれる。
でも今はそんな優しいお母さんはもういない。お父さんの話では離婚してしまい、さいばんでよういくけんをとったとかいっていた。大人の話は難しいからあまりよくわからなかったけれど、今はもう二度とお母さんに会えないことだけは理解できた。
家に帰ってもお父さんは仕事が忙しく、いつも深夜に帰ってくる。今日も独りでコンビにのお弁当だ。昨日の夜中から続く台風と風に雨音、雷の音が窓を打ち魔物の声に聞こえて怖かった。いつもならお母さんが隣で一緒に寝てくれていたけれど、離婚してから独りだ。怖くて昨日はよく眠れなかったし、電話で父さんも帰ってこれないと連絡があった。こんな悲しい一日は余計に惨めになる。
そんなことを考えながら、買い物の帰り道と思われる楽しげに喋っている家族連れの笑い声が聞こえると、ますます惨めな気持ちになり、泣いているのを気づかれないように傘をぐいと引っ張り、下を向きながら歩いていると、突然物凄い勢いで腕を引っ張られ、その力強さに驚いて振り返った。
「あゆみはぜったいわすないから、さいくんもわすれないでね!」
歩ちゃんは走ってきたのだろう。息を切らせながら額に汗を浮かべ、傘も差していないので自慢の髪もきれいな服も雨でぐっしょりとしている。
僕はあまりにも突然のことに驚いていた。
「イギリスに行っても、あゆみはさいくんのことをわすれないから。だからいっぱいおてがみかくね。だからさいくんもおてがみちょうだいね」
「か、かくよ! へんじぜったいにかくよ! だから歩ちゃんもぼくのことをわすれないでね! やくそくだよ」
あまりにも嬉しくて、嬉しくて涙がでた。この涙は悲しいから溢れ出したのではない。
きっと自分を忘れていない人がいたから。
人の温もりに触れ感激して嬉しくて溢れたと思う。
人が涙を流すのは悲しいときだけではなく、様々な感情で揺れ動くのだと始めてわかった瞬間だった。
二人で一緒に指きりをして約束を誓い合い、歩ちゃんの両親が名前を呼びながら探しているのを二人で見た。
「こんどこそおわかれだね。もうやくそくがあるからぼくはへいきだよ。だからそろそろ歩ちゃんもかえらないと。お父さんとお母さんがしんぱいしているよ」
「うんそろそろかえるね。さいくんの元気がでたみたいでよかった」
突然歩ちゃんが近寄ってほっぺにキスをしてくれた。
僕は驚いたけれどお返しとばかりに、歩ちゃんのほっぺにもキスをした。
二人は始めてのキスに照れ笑いしていたけれど、無性に元気になった。歩ちゃんも転校するのが不安だったのかもしれない。
とっさに小学校の入学祝の記念品で、両親の仲が良かった頃に背伸びして強請って買ってもらい、次の日にお母さんが居なくなった。肌身離さずいつも持ち歩いていた。そんな宝物の万年筆を歩ちゃんに渡す。
優しいお母さんがプレゼントしてくれた、大事な、とても大切な僕の宝物の万年筆。
でももう僕には必要ない。手紙を書くなら自分が持つより、歩ちゃんに持っていてもらいたい。これから異国の地で家族みんなで頑張るのだから。
だから僕にはもう必要の無い代物だ。歩ちゃんにこそ相応しい代物だ。
だからむこうでも頑張ってね。それを見て字を書くとき、たまにでいいから僕を思い出してね。歩ちゃんは独りじゃないよ。
そんな思いを万年筆に込め、思い切り笑顔で手を振る。
今度こそ本当の別れだ。二人は笑顔で手を振りながら約束を心に刻み込み、それでも信じたいと思い彼女が見えなくなるまで手を振り続けた。彼女は何度も何度も振り返り、僕と同じく手を振り続けてくれた。
今度の帰り道は寂しくはなかった。いつの間にか雨も上がり晴れている。満面の笑みで道行く人誰もが振り返るほどだったと思う。家に辿りつき僕はいったいどれほど満面の笑顔だったのだろうかと思い、それをお風呂の中で想像してしまい、静かな家の中で思い出し笑いをしてさらに笑顔になった。今日は独りでもよく眠れると思った。
そういえば以前にもこんなことがあったような気がした。とても大事な過去の記憶。思い出そうとすればするほど思い出せず、やがて意識が途切れはじめ眠りに付いた。
……二人で約束を誓ったあの夏の思いでの日。あれからまだ一通も手紙は届いていない。
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