モンスター家族にならないために

神無月やよい

モンスター家族にならないために

 人間はお母さんのお腹からおんぎゃーと産声をあげ、産まれた瞬間から、犬や豚でもない【人間】として生まれてくる。

【人間】と名前のついた生き物は、犬や豚などの畜生(動物)とは、最初から全く違う。

世間が言うには、人間とは万物の霊にして、生まれた瞬間から種類が違う。

貴族など階級の区別はあるが、仕事にはそのような区別はあってはならない。

人間からエサを与えられ、お腹をぽんぽんに膨らませ、天気のいい日は外を駆けまわる。

兄弟でじゃれてかみ合い、疲れたらお昼寝する。

これは犬や豚が生きていく様子にして、とても簡単で単純な生きざまだ。

しかし、人間はこう単純にはいかない。

世間に貢献する為に働いている仕事は、とても複雑な事情が入り混じっている。

まず、第一に自分を大事にして、健康でいること。

次に二つ目として、世渡り上手な生き方を探しつづけ、食う・寝る・着る。に不自由ない安全な人生を送る事。

三つ目は、結婚して子供を作り、成人させる事。

これは「ご飯さえ与えていればよい」という訳ではない。

人間としての生き方を両親が教え、子供が成人した際に子育てなど困らぬよう、人間としての尊厳や社会での生活を教えるがもっとも重要だ。

四つ目は、人間が集まれば、やがて国となり、一つの社会が出来上がる。

お互いに公共の発展を考え、行動に移し、安全な社会と幸福に満ちた世間を求め続ける事だ。

この四つの心得を忘れずに、そして一度きりの人生を謳歌おうかする為に趣味を持ち、楽しむといいだろう。


 では、ハッピーライフとは何か?

考えてみよう。

丸いお月様を眺め、団子食うも良いだろう。

桜の木の下で花見したり、音楽を聴いてダンスするのもいい。

それ以外にも、他人に迷惑かけない趣味ならば娯楽ごらくと考えていいだろう。

これらは心身をリフレッシュさせるのに、とても重要で必要な事だ。

仕事が休みの日は積極的に取り入れたほうがいい。

むしろ楽しんで休んでしまうのを第五の仕事と心得てしまおう。

先ほど述べた五つの条件は、社会の一員として自覚のある人間が必ず行うべき仕事だ。

これさえ、十分に行っていれば、社会人としてなんらじる事はない。

しかし、今の時代でこの条件をクリアするのは、ちょっと厳しいかもしれない。

だから、なるべくそういう生活を送れるよう心掛けたいものである。

私が日頃から、口酸っぱく教えている【教育】とは、すなわちこの生き方が出来やすいようにアドバイスしているに過ぎない。

教育の定義は突き詰めて考えていくと非常に奥が深い。

単純に文字の読み書きを教えれば良い。というものではないからだ。


 文字の読み書きはただの一部分に過ぎない。

教育分野は非常に多岐に及んでいる。

もっと言えば、人々が生まれ持っている能力を発達させて、より仕事がやりやすいよう進化していく事こそ、教育の本質といえるだろう。

人間が持つ天性の才能は、いわば土の中に埋まっている種のようなものだ。

ならば、いずれ芽が出るのは至極、当然の現象といえる。

しかし、その芽が出てすくすくと順調に成長するかどうかは、こまめに手入れするかどうかで変わってくる。

すなわち、手入れの良し悪しが深く、その成長に影響を及ぼす。といっても過言ではない。

教育というものは、その人が持つ能力を育てる事であり、人間として生を受けてから、大人になるまで。

両親の言動によって育てられ、もしくは学校の先生によって導かれ、

あるいは世間を騒がせた事件に誘導され、その時々に流行した文化の影響を受けて人格は形成されていく。

性格の良し悪しともいうべき、出来・不出来はこれら教育の成果によって決定される。

とりわけ子供時代に見聞きして、習慣となった事柄は心の奥深くに染みこみ、たやすく矯正きょうせいする事が出来ない。

ならばこそ、習慣は第二の素質といってもいい。

【三つ子のたましい百まで】のことわざ通り、人間の価値とは、まさに両親の家庭教育次第とも言える。

だからこそ、両親は子供に対して、軽はずみな言動をとらないように日頃から気をつけたい。


 ところが最近の世間における父母をみると、どうだろう?

昔は我が子に教育を行う。いわゆるじゅくやピアノといった習い事などさせたことがない。

それはひとえに家庭教育の重要性を知らず、また単純なものと認識しているからだ。

また、その時々の気分次第のでまかせで子供に接している事も多い。

ありきたりな例を一つ挙げよう。

子供が水たまりの中で転び、泥んこになって家に帰ってきたとする。

「何やってるんだ!」

大抵の母親はそのように厳しく子供をしかるだろう。

しかし、家の柱にぶつかってたんこぶを作って泣けば、どうだろうか?

おでこをさすって「いたいの、いたいの。遠くの山へ飛んでいけ~!」と声をかける。

最後には「こんな所に柱があるほうが悪い!」と怒り、べしんと柱をたたいて子供をなぐさめる。

さて、この二つの違いは、子供にしてみれば、いずれも自分が原因で招いた事故である事実はなんら変わらない。

しかし、泥まみれになれば怒られ、たんこぶを作ったらなぐさめられた。

違いはなんなのか?

結局の所、親には大して深い考えはない。

ただ一時の感情から発した言葉に過ぎない。

なぜなら、服を汚した場合は、母親からみると洗濯する手間を増やされたのだ。

余計な手間かけさせやがって!

そのような感情から、特段深い考えもなく、ただ感情のままに子供を怒鳴りつけた。

しかし、柱にぶつかりたんこぶを作った場合は、母親自身がぶつかった訳ではない。

自身は全く痛くない上に、掃除するような手間もない。

ただ、泣き叫んでやかましい。

静かにして欲しいから、柱に責任転嫁して子供をなぐさめたのだ。

両親の行いは良くも悪くも、ちょっとした対応が子供の手本となり、教えとなる。

たとえ両親にそれほど深い考えがないにせよ、関わり方を突き詰めて考えてみると、他人を怒らせるツボの手本となっている。

さらに言えば、柱にぶつけた場合は、何かあれば他人のせいにして、自分をかえりみなくてよい。

むやみに逆恨みの念を教える事になり、全くありがたくない教育方針とも言えるだろう。

他にもしかる場面についてだが、両親の気分次第でその度合いも変わってくる。

説教する必要があるのに、機嫌が良い時は見過ごし、あまつさえ良かったな。とめる。

給料日前などの機嫌が悪い時は、子供が百点を取って帰ってきたにも関わらず、「約束したおもちゃを買わなきゃいけないじゃないか!」と逆ギレする。

このような理不尽な扱いは少なくない。


 そのような両親は大抵、教育=文字の読み書きが出来ればよい。と考えている。

それさえ学んでおけば、将来は立派な人間になるもの。と思い込み、自分達の言動には、それほど影響を与えないと軽んじている。

しかし、ちょっと考えれば分かるが、言動を教える事は本を読んで、教えるよりもっとずっと心の奥深くに刻みこまれる。

なので、子供への接した方は、絶対に軽く考えてはいけない。

結局の所、子供はいつまでも小さいままではない。いずれは成長して大人となり、社会の一員として働く人となる。

人間にとって必要な習慣を形成するのに、邪魔かそうでないかをよく考え、しつけをおこなうべきだ。

そうでなければ、いずれ母親から犬や豚などのようなモンスターが生まれてくるのは自明じめいだ。

このような人の形をしたモンスターは、ただ安全な場所で高みの見物するだけなら、まるで珍獣をみるようで楽しいに違いない。

しかし社会に出てきた時は非常に迷惑だ。

万一にでも、当事者になった際は、対応にかなり頭を悩ませるだろうから困ったものである。


初出:明治九年十月 「家庭叢談 第九号」

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