雨の夜の出来事

苺大福

雨の夜の出来事 一話完結

 あれは雨の夜だった。僕は塾をサボった。

 参考書で埋め尽くされたバッグを背負い、家のドアに鍵を掛けようとしていたとき。僕は本当に何となく、塾に行くのが嫌になった。勉強が嫌いになったのでも、他にすべきことが見つかったのでもなかった。今でもその理由を答えることは、できない。

 だけど、僕は家の門をくぐった。行く当てなどなかった。塾以外ならどこでもよかった。

 冷たい雨が降っていた。ビニル傘を持つ右手が冷たかった。何もこんな日に出歩くなんて馬鹿みたいだな、ってちょっと思った。だけど家には引き返さなかった。

 歩道を歩く僕の脇を、車が水しぶきをあげて走り去ってゆく。


 家を出て十分ほど歩くと、僕は変なものを目にした。


 それは、黙ったまま雨に打たれていた。

 道の端に倒れ、うつ伏せ、ピクリとも動かなかった。初めは、犬の死体か何かと思った。だけどそれはすぐ間違いだって気付いた。小さいながらも、それは人の形をしていた。全長20センチくらいだったけど、足があり、手があり、そして頭があった。そうだったら、何かの人形だろうかと思った。

 立ち止まり、僕はそれを拾おうと腰をかがめた。ビニル傘を肩で支えながら、道の端にうずくまった僕は、びしょ濡れになったそれを持ち上げた。思いの外に温かくて、正直驚いた。だけどもっと驚いたのは――


「誰ですか?」


 人形は僕の方をくるりと向くと、その小さな口を開いた。

 名前を聞かれたので、僕は自分の名を名乗った。

 すると、それはニッコリと微笑んだ。生きている。

 パズルを解くときのように、僕はそれをまじまじと見つめてみた。

 スケールはものすごく小さいが、全体のバランス的には、人間の女の子に似ている。湿った髪の毛は、見事なまでに色素が抜け落ちている。ウサギの毛のように真っ白だった。日の光に当たったら、それは綺麗に光りそうだ。でも、今は悲しそうにしおれてる。

 彼女はロールプレイングゲームに出てくる魔法使いのような、上と下が繋がった、だぼっとした服を着ていた。今は泥まみれになってしまっているが、もともとは真っ白だったのだろう。

 そんなとき、僕の手のひらの中で、彼女はぶるっと震えた。


「大丈夫? 寒くない?」

「……ちょっと寒いです」

「それなら、ここ入れよ」


 僕は、彼女の小さな身体を僕が着ているパーカーのフードの中に入れた。普段は使わないけど、やっと役に立ったような気がした。


「ありがとうございます」


 耳元に近くなったからだろうか。さっきよりも、彼女の声が聞き取りやすくなった。

 あ、そう言えば。


「君は何て名前?」

「わたしですか?」

「うん」


 そのときだった。ほんの一瞬だけど、雨の音がやんだような気がした。


「――てる美」


 小さな彼女は、確かにそう言った。

 彼女を放っておくわけにはいかない。僕は歩いてきた道のりへと向き直った。

 相変わらず、冷たい雨が降り続いていた。信号機のランプが濡れたアスファルトの上で、まるで滲んだペンキのように反射していた。車がそれを引き裂いてゆく。


「明日は晴れるといいなぁ……」


 思わず僕はそう呟いた。だけど、何の返事もなかった。


 ………………


 僕は家へと帰った。三十分くらい前に閉めたばかりの鍵を開けようとすると、がちゃと無機的な音がした。僕を出迎えてくれるのは沈黙のみだ。「おかえり」の声など、僕にはない。お父さんもお母さんもいない。誤解されては困るが、仕事で、今は家にはいないという意味だ。僕も「ただいま」という意味がない。僕にとってこの建物は、家であっても家庭ではない。

 ビニル傘を折り畳む。上下に振ると、慣性によって水しぶきが飛んだ。一通り水気を取り終えると、僕はそれを傘立てに無造作に立てかけた。


「おうちに着いたんですか?」


 パーカーの中から、てる美が僕に話し掛ける。多少寝ぼけた声だった。多分、今まで眠っていたのだろう。ここまでに至る道のりで、雨音に混じり、時々寝息が聞こえていた。


「ああ」

「素敵なお家ですね」


 パーカーが引っ張られることによって、僕の首にてる美の体重が掛かる。それによって僕は、彼女の動きを感じる。てる美は今、ちょこんと顔を出しているようだ。でも、鏡でも見ないと確認することはできない。僕が後ろを向くと、パーカーは元あった方と逆を向くから。当然だけど。


「そうか?」

「ええ、とっても」


 てる美が僕の家の何を見てそう思ったのかは知らないが、取りあえず僕は、てる美を自分の部屋へと連れて行った。


 ………………


 てる美をフードの中から取り出し、僕は勉強机の上へと彼女を置いた。それから、上着代わりのパーカーを脱ぐ。案の定、フードの中は、彼女の泥だらけの服によって同じように泥だらけになっていた。まあ、別に洗うのは僕じゃなくて洗濯機だけど。


「それ、洗った方がいいよね?」


 僕はてる美を指差す。もちろん、僕が言っているのは濡れネズミになったてる美の服だ。曇り空のような色になっている。

 ところが、彼女はかぶりを振った。


「大丈夫ですよ。少しくらい汚れていても」

「いや、尋常じゃないくらい汚れてると思うけど」

「そうですか?」


 僕はてる美にタオルを一枚差し出した。


「……あっち向いてるから。そんなんじゃ風邪引くぞ」


 てる美の上にタオルを被せた。そして僕はてる美に背を向ける。しばらくして、がさごそという音が聞こえてきた。

 真っ暗な部屋。帰ってきたらまず電気を付けるという習慣は、僕にはなくなってしまったようだ。踏切の音は先程からずっと響き渡っているのだが、聞き慣れた所為か今まで気付かなかった。僕の家のすぐ裏を走る鉄道の光が通り過ぎ、ドアのある方の壁に映った僕の影が、走馬燈のように流れていった。


「……あの」


 完全に電車が過ぎ去った後だった。踏切の音も、一つのリズムの外れた余韻を残してぱたりと消えた。僕は振り向く。そこには、タオル一枚にくるまったてる美がいた。

 てる美が脱いだものを、僕は持ち上げた。ずっしりと重く、冷たかった。


「適当にその辺にすわってて。すぐに洗ってくるから」


 ………………


 僕のパーカーは洗濯籠の中に放り込んだ。ここに入れておくだけで、いつの間にか部屋のクローゼットの中には洗濯済みの洋服が並べられる。便利なものだ。


 てる美の服は僕が手で洗う。それにしても、不思議な形をした服だった。何て言えばいいんだろう。どこかの国の民族衣装で、これに似てるのがあった気がする。

 水道水ですすぎながら、ちょっと手に力を入れると、墨汁のような真っ黒い液が流れた。そんなとき、僕は思った。

 この服は、どれほど多くの汚れを吸い込んだのだろう。

 数十分水の中でゆすいだのち、それはびっくりするほど真っ白になった。僕が小さいとき、新潟に住んでいた頃に見た初雪を思い出した。


 ………………


「てる美、綺麗になったよ」


 一通り洗ったあとは、ドライヤーで乾かした。

 自分の部屋へと戻った。相変わらず電気が付いてない暗黒の空間ではあるが、大丈夫。今日は月が綺麗だ……。


「あれ?」


 僕は窓を開けて身を乗り出した。僕とてる美を濡らした雨はいつの間にか上がり、雲の切れ目から、明るい月が、満面の笑みで顔を出していていた。ゆで卵を真っ二つに切ったような、まん丸い月だった。


「あの……ありがとうございます」


 彼女の声に気付き、僕は振り向いた。僕はてる美に服を返す。

 てる美はタオルの中から、真っ白くて細い腕を伸ばし、それを受け取った。身にまとっていたタオルの中で、頭からその服をかぶった。顔を服の首もとから出したとき、水から上がった時のように「ぷは」と息を吐いた。そして、何か安心したような穏やかな表情へと変わった。

 てる美は僕を見上げた。ガラスのような澄んだ瞳が、じっと僕の顔を見つめていた。


「一つだけ……質問をしていいですか?」


 てる美は言いにくそうにいった。


「なに?」

「わたしのこと……なんとも思わないんですか?」

「どういうこと?」

「ほら、わたしあなたに比べてちっちゃいし、それに……」

「それに?」

「う〜んと、え〜っと、つまり……」


 てる美は困ったように首を傾げる。


「……何でわたしみたいなのがいるのか、不思議じゃないんですか?」

「別に」僕は即答した。

「どうしてです?」


 風船の口が緩むように、僕はフッと息をもらした。


「その質問を僕にされても、答えられないからかな」

「えっ?」

「『あなたはどうしてここにいるんですか?』。そう聞かれたら、僕だって答えらんない。だから君のことも、不思議に思わない。分かった?」


 うつむき、少し考えて、


「分かりました」てる美は言った。


 僕はもう一つ笑みをもらした。

 それにしても、窓の外がやけに明るい。僕はまた、窓の方へと目をやった。


「明日は、きっと晴れますよ」


 てる美が言った。


「天気予報では雨って言ってたけど」

「大丈夫です」

「分かるの?」

「はい、分かります」


 そう言うと、てる美は僕に背中を向けた。


「すみません。わたしをつるしてもらえませんか?」

「つるすって?」


 僕は彼女の首辺りに目をやった。洗ってるときは気付かなかったけど、不思議な形をした彼女の服には、小さなわっかが付いていた。キーホルダーのぬいぐるみのようだった。

 てる美の身体を持ち上げると、僕はカーテンレールの端っこに彼女のわっかを引っ掛けた。


「これでいいの?」

「はい」


 僕が手を離すと、てる美はぶらりと宙に浮く。人形が女子高生の鞄にぶら下がるように、てる美は僕の部屋の窓枠にぶら下がった。不謹慎な言い方をすれば、首つりみたいな状態になった。


「明日は、きっと晴れますよ」てる美は、もう一度言った。

「そうか。晴れるといいな」


 月明かりに、てる美の白い髪がきらきら映える。細かい一本一本が光を浴び、お互いに反射し合い、きらきらきらきら輝いていた。


 ………………


 いつの間にか、僕は眠っていた。

 明くる日、まぶしい朝日によって僕は目を覚ました。ゆっくりと身体を起こすと、真っ青な朝空が目に入ってきた。


 そして、てる美はいなくなっていた。


 あれ以来、僕は雨が降るたびに思い出す。

 一人の小さな、てるてる坊主のことを……。

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雨の夜の出来事 苺大福 @Ichigody

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