第2章(ルヴァーンの手紙)その1

 親愛なるアラン。


 この手紙が届くころ、スノーフィールドは長い冬を迎えているはずだ。首尾はどうなったかと、さぞ気をもんでおられることと思う。その点をまずおわびしたい。

 私は今ルードの村にいる。そろそろ夏が終わりに近づいているところだ。

 ルードの村の人魚には会えた。その歌を書き留めることもできた。同封の楽譜がその写しだ。

 けれど、これは影にすぎない。私が耳にしたのはとてもこんなものではなかった。あれをそのまま書き留めることはできそうにないし、それがいいことなのかも疑わしいと今では思っている。書くべきことがあまりに多く、話をどう始めるか、今だに迷っている始末だ。読みづらい点はなにとぞご容赦願いたい。



 私にも人並みの野心はあった。音楽で身を立てていこうとする者なら当然のことだが、なにか非凡で新しい、目覚ましい音楽を己が手で作り上げたいという思い。スノーフィールドでの成功を足掛かりに、いずれは王都に打って出ようという夢。私の若さでそんな夢を見ぬ者がいるだろうか。だが酒場では給仕をしながら酔客の求めるままに楽器を繰り、金持ちの屋敷では子らの我儘に耐えつつ進捗のないレッスンに明け暮れる、そんな将来の見えぬ暮らしの中、焦燥を募らせた果てに夢を追うことに疲れ、日常に埋没していった者のいかに多いことか。

 そんな私になぜかあなたは目をかけてくれ、同い年だといって友と遇してさえくれた。私にとってどれほど有り難いことだったか、あなたには想像もつかないだろう。成功への夢に加え、この恩義に報いる責務を負った私が音楽に没頭した姿をご存じだったにしても。


 だがそれほどの努力にもかかわらず、思うように成果はあがらなかった。私は焦った。しかもそれは、生活苦の中での焦り以上に厳しいものでさえあった。

 時間も余裕もなかったあのときならば、全てをそのせいにすることができた。自分は単に実力を発揮できずにいるだけだと言い聞かせることもできた。だがもう言い訳は通用しなかった。自分はここまでか、この程度のものでしかなかったのかとの暗澹たる思いに苛まれつつ、私は壁の前であがいていた。


 人魚が棲みついた村があるとの噂を聞いたのは、そんな苦闘のさなかのことだった。


 その村はルードという名前で、大陸南岸の漁の盛んな地域にあるという。その村の小さな入り江に二百年ほど前から人魚が棲みつき、以来ルードは豊漁で栄え、今や周辺の漁村から大漁祈願に詣でる人々も出ているという話だった。しかもその人魚は二百年もの間、全く年をとる様子がないのだと。

 だが旅人の話には肝心の部分が抜けていた。人魚の歌に関する話が全く含まれていなかったのだ。


 古来、人魚といえば惑わしの歌で舟乗りを破滅させる言い伝えで有名だ。私が人魚という言葉を耳にしたとき、真先に頭に浮かんだのもそのことだった。いかなる舟乗りも漕ぐのを忘れ、破滅を目の前にただ聴き入るばかりの魅了の歌とはいかなるものか。その秘密に迫ることができたとしたら!

 私は旅人に食い下がった。相手が当惑するほど何度も尋ねた。それでも歌に関する話は聞き出せなかった。そもそも彼は自分でルードの村へ行ったのではなく、別の者から伝え聞いたにすぎなかった。話した者も聞いた者も音楽に特別関心があったわけではなく、何百年も年をとらぬ麗しき妖魔の姿を興味本意に語らっただけだったのだ。青みを帯びた鱗に身を包み、赤い背びれと緑の髪を持つとかいうその姿を。ああ、なんたることだろう!

 中央図書館の文献にも人魚の歌について具体的に触れたものはなかった。変わりばえしない昔話がいくつか見つかっただけで、ルードの村の人魚が歌ったという記述自体がどこにもなかった。わかったのはその人魚が津波の到来を告げたことで人々が難を逃れ、感謝した村人たちに迎えられ入り江に棲みついたという顛末だけだった。二百年もたっているにもかかわらず、ルードの村の人魚が歌ったことを示す痕跡は何一つ残されていないのだ。その歌が言い伝えどおりの、いや、それこそ鱗一枚ほどにも魅力あるものだとしたら、記録に残されないとはとても思えなかった。


 私の心は決まった。なにがなんでもその人魚に会って、自分で確かめなければならない。惑わしの歌が現実のものなのか、それとも単なる言い伝えに留まるものなのか。もし現実のものなら、その秘密を解明するのは私でなければならないし、たとえ解明できずとも人魚の歌を書き写し持ち帰った最初の人間になることはできる。それだけでも私の名は後世に残るだろう。



 アラン、あなたは驚いているはずだ。確かに私はあなたに人魚の歌のことを話し、ルードへ行かせてほしいと願い出た。そして興味を引かれたあなたが願いを聞き届けてくれたからこそ、私は今ここで手紙を書いている。でもこの手紙に書いていることは、あなたが知らなかった話のはずだから。

 私は大恩あるあなたに嘘をついた。ルードの村の人魚が歌った形跡がないことを隠したばかりか、他の誰かに先を超されてはならないとたきつけさえしたのだから。人魚の歌が実在しないかもしれないことを正直に話せば、そんなあやふやなものにあなたはお金を出してくれないかもしれない。それを私は恐れたのだ。

 本当にすまないことをした。縁を切られてもしかたがないと思う。だがこれだけはわかってほしい。私はそれほど必死だった。そこまで私は追いつめられていたのだ。

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