『遥かなる海辺より』(人魚の歌にまつわる小さなお話)

ふしじろ もひと

第1章(プロローグ)

 大陸の北端に位置する伯爵領スノーフィールド。1年の半分にも達する冬にも終わりが近づきつつあったある夜、この都市を警護する重鎮ノースグリーン卿の屋敷で祝いの席が開かれた。卿の愛娘セシリアの16歳の誕生日を祝したものだった。

 その目覚しい功績により爵位を授けられたエドワード・ノースグリーン卿だったが、貴族に列せられたことに驕ることなど一切なく、実質を尊ぶ暮らしぶりに変わりはなかった。母を亡くした娘に激務ゆえかまってやれずにいる自覚を持つ父は、体面を優先しがちな貴族の宴席の通例などには目もくれず、平民だった頃と同様娘にとって最も近しい人々によるごく内輪の会を催し続けてきた。そして2年前からのこの祝宴は、陰謀により命の危機へと追い込まれていたセシリアを救った人々への、父娘の感謝を示すものにもなっていた。

 だが、今宵の宴はもう一つの点でも特別なものだった。2年前のその謀略の結末に関わる件で彼らは近く旅に出ることになっていたが、長時間に及ぶ綿密な打ち合わせを終えた一同をそのままもてなす慰労の会も兼ねていたのだった。

 大広間で食卓を囲んだ客は7人いた。ノースグリーン卿と同様スノーフィールドを警護する要職を勤める若きホワイトクリフ卿と、スノーレンジャーと呼ばれる実働部隊の5人の若者たち。そしてセシリアより2つも年下ながら、ホワイトクリフ卿と大陸の反対側から解毒の花を持ち帰り、旅の間に習得した薬師の技で、毒の後遺症が残る少女の治療を献身的に続けている少年ロビンという顔ぶれだった。


 心づくしの夕食が終わると、やおらホワイトクリフ卿が立ち上がり、人柄丸出しの生真面目さで格式ばった口上を述べた。

「ノースグリーン卿。セシリア嬢のめでたき日を祝うにあたり、私からささやかなる品をお贈りすることを許されたい」

 執事が進み出て恭しく差し出したのは、羊皮紙に書き写された楽譜だった。非凡な笛の才を持つセシリアの顔が輝いた。

「貴君が作曲を嗜まれるとは存じ上げなんだ」

 ノースグリーン卿のいかにも感に堪えぬといった様子に、青年貴族は端正な顔に苦笑を浮かべた。

「いや、そちらの方は残念ながら。音楽好きの両親にはずいぶん嘆かれたものですが」

「では、これは?」

「我が家の書庫に遺されていた楽譜の写しです。曽祖父が集めた曲の一つで、今から百年ほど昔のものです」


「吹いてみてもよろしいでしょうか?」

 読み込んでいた楽譜から顔をあげたセシリアに、ホワイトクリフ卿はうなづいた。

「どなたか竪琴をお願いできませんか」

「私でよろしければ」

 スノーレンジャーの紅一点たる魔術師メアリが立ち上がり、セシリアの傍らに移り楽譜を覗き込んだ。諜報を担当する盗賊出身のアンソニーが、おどけた仕草で口笛を吹いた。

「手に負えるでありますか?」

 美貌の魔術師は額にかかる金髪をかきあげ、小柄な茶髪の若者をじろりと睨んだ。

「音楽の素養なしで魔術師が勤まるとでも? それなくして古の言葉と韻律を使いこなせるはずがありませんわ。まあ鍵穴専門のあなたには想像の外でしょうけど。それに……」

「なんだ?」

 5人のリーダーを勤める赤毛の戦士アーサーが声をかけた。

「どうやらこの楽譜を書いた人物にも魔術の素養はあったみたいですわね。主旋律のパートの音の使い方に呪文体系と似たところがありますわ」

「おいおい、大丈夫だろうな。魔法はこりごりだ!」

 メンバー随一の剣士リチャードが長身をかがめ、耳を押さえながら顔をしかめた。ちょうど1年前、ワーウルフに噛まれた彼は獣化の魔力をからくも解いてはもらえたものの、長い間狼の耳や尻尾が生える後遺症に悩まされ、ようやく症状が治まったばかりだったのだ。

「安心なさいな。これは感覚に働きかけて、数人で重奏しているように聞かせるもののようですから。おかげで吹くのがとっても難しい曲になっていますけど」

「なぜわざわざそんなことを? 初めから必要な人数を揃えりゃすむことだろ?」

 がっしりした巨躯に剛力を秘めた黒髪の闘士エリックが首を傾げたが、メアリも確たる答えを持たず、ただ肩をすくめるばかりだった。

「セシリア、吹けそうか?」

 心配そうに問う父親に、はにかみつつも娘はうなづき、傍らの女魔術師に頭を下げた。

「お願いします」

 微笑みを返したメアリはセシリアの隣の席に着き、侍従の手から竪琴を受け取ると馴れた手つきで調弦を済ませた。

 侍女が簡素な木製の縦笛を差し出した。母の形見のその笛を、いまだ脚に力が戻らぬ車椅子の少女はそっと唇にあてた。


 竪琴が前奏を奏でた。かき鳴らされる弦から立ち上る音の粒が玲瓏ときらめき、さざめいた。水面に散乱する月の光さながらの竪琴の音が余韻を残して静まったとき、人々はまるで夜の海辺に立ち尽くしているような、そんな心地に誘われていた。

 遠い木霊のように遥かな響きが、広間を包んだ静寂から浮かび上がった。一本の笛が命を吹き込んだその一つの旋律は、優美でしなやかな動きで虚空に弧を描きつつ、次第に音量を増しながら装飾を加えていった。一本の笛の旋律でしかないはずのそれは、だが吹き手の非凡な技を得て、新たな旋律が寄り添うイメージを聴く者に伝えた。旋律に施された魔法の効果だった。虚空に弧を描く相似形の二本の旋律線が醸し出す満ち足りた調和の調べに、一同は陶然と聴き入っていた。

 すると響きに影が差し、二つの旋律が苦しげによじれた。音階を滑り落ちる中で一つが姿を消し、一つだけが残された。茫漠とした空間の中に取り残された一本の旋律のその弱々しい蠢きは、突然の破調に呆然としていた聴き手の心にも暗澹たる翳りを投げかけた。再び旋律が弧を描き始めたが、ただ一本の旋律線によるその動きは、二つの旋律の親密な舞を耳に残す聴き手の欠乏感をむしろ煽り、虚空の広さを異様なまでに実感させた。くり返しと共に旋律は微妙に転調を重ねたが、そのたびに響きは憂愁の色を深め、やがて挽歌と化した。それは単に失われたものを愛惜するに止まらず、自らも含めた万物の滅びの予兆さえ帯びた絶望的な虚無の響きにまで至った。


 やがて旋律が再び転調を重ねながら、音階をゆっくり上り始めた。先ほどの暗転とは逆に時間をかけた、這い上がるような動きだった。それとともに先ほどよりさらに細やかな装飾が加わり、再びかき鳴らされた竪琴の音と相まって音楽に新たな様相をもたらした。二つの同じ旋律による全き調和ではなく、息の長い元の旋律を、新たな息の短い音の動きが取り巻くような印象のものに転じていた。

 それらの短い音の動きは空白を完全に埋めるには至らず、失われた雰囲気を回復することはできなかった。虚無の影も薄らいだものの、脅かすようにつきまとっていた。にもかかわらず、元の旋律はそれらの音の動きの中、再び元の形で舞い始めた。ときに調和を欠き、ときに支えとなる音を失う瞬間にみまわれつつも、自立的な動きを示し続けた。最初より不完全で不安定な、綱渡りのようでさえあるその様相は、それゆえ聴く者すべてに不思議な感銘をもたらさずにおかなかった。

 それはなにかひどく得難い、ありえない形でからくも保たれたかりそめの調和であり、旋律自体の上昇の動きと蠢く短い音たちとの出会いのどちらが欠けても成立しえないものだと、その場の誰もが悟っていた。そしてそのことが絶望を乗り越えようとするけなげな意思と、何らかの出会いに由来する奇跡とさえ呼ぶべきものを避け難く連想させた。誰もがそれを心からいとおしまずにいられなかった。

 ついに人々の思いに呼応するかのように、虚無の影が背後に退き、新たな響きが浮かび上がり曲を締めくくるに至った。それは曲の推移を見つめてきた一同にとって、感謝に満ちた慰藉の響きと受け止められたのだった。


 拍手はなかった。魂を抜かれたような表情の者もいれば目頭を押さえ下を向く者もいた。侍女たちの間から嗚咽の声がもれた。セシリアも涙を浮かべつつ、それでもホワイトクリフ卿に深々と頭を下げた。

「百年前のものだというのに、これはまるで私のために書かれた曲とさえ思えます。皆様の支えのおかげで、私はここまでやってこられたのだと……」

 車椅子の少女はこぼれた涙を拭い、再び頭を下げた。

「これほどの曲を選んで下さり、なんとお礼を申し上げれば」

「あ、いや……」

 ようやく我に返ったとおぼしき若きナイトは、狼狽の面持ちで言いよどんだ。

「……白状すると実のところ、この曲がこんなものだとは予想もしていなかった。恥ずかしながらこの私、楽譜には疎くて」

「では、貴君はどうしてこの曲を娘に贈ろうと?」

「それが、奇縁というしかないのです」

 訝るノースグリーン卿に、曰くありげな面持ちでホワイトクリフ卿が応えた。

「申し訳ない話だが、私が書庫で探していたのはご令嬢の祝いの品ではなく、旅路に役立ちそうな事柄を記した文献の類でした。かの中原のヴァルトハール公国やその周辺の地名を含む文書を、昨日の朝からひたすら検分していたのです。

 そんなふうに丸一日過ごした末、曽祖父にあてた一通の書簡を見つけました。添え書きに楽譜も送ると書いてあったので、楽譜棚から探し出したのがこれなのです。送り主の名はルヴァーン。曽祖父はこの人物のパトロンだったようです」

「聞いたことがありますわ。スノーフィールド出身の音楽家で、大陸を旅して各地の音楽を採譜していたとか。でも、妙な話ですわね……」

「なにが妙なんだ? メアリ」

 訊ねるエリックに、メアリはこめかみに手を当てて答えた。

「そのルヴァーンなら、たしか魔術を学んだ経歴はなかったはずですけれど」

「ということは、最初からこの曲自体に魔法がかかっているのでありますか?」

「よしてくれ!」

 アンソニーの言葉にリチャードが後じさった。


「その曲の素性はわからないのですか?」

「もちろんわかっている。だからここへお持ちしたのだ」

 アーサーの問いかけに答えながら、ホワイトクリフ卿は一束の羊皮紙を取り出した。

「この手記によれば、これは今から百年前、大陸南端の海辺の村ルードで採譜されたものだ。それも人間の音楽ではなく、人魚の歌を書き留めたものなのだ」

「ルードの村の人魚? まさか、ホワイトクリフさんっ」

 ロビン少年の叫びが響き渡った。それまで口を出さずに聞いているだけだった薬師の少年が、驚愕に目を見開いて立ち尽くしていた。そんなロビンに、旅路を共にした仲の青年騎士は重々しくうなづいた。

「そう、三百年前にルードの村に棲み付いたあの人魚。三年前にヴァルトハール公国に連れ去られて殺され、かの謀略国家に破滅をもたらしたあの人魚だ」

 一瞬、いいようのない沈黙があたりを支配した。人々の驚愕はそれほどまでに大きかった。


 中原の公国ヴァルトハール。若き簒奪者グロスベルクは配下を数多の国々に送り込み、権力基盤をゆるがす数々の謀略を仕組んでいた。その計略の標的となりセシリアは難病に見せかけるべく毒を盛られ、娘を救おうと必死のノースグリーン卿は国外追放に値する罪に手を染めるよう仕向けられた。そんな卿を追う立場に立たされたのが、未熟さに付け込まれたホワイトクリフ卿だったのだ。

 あと少しでノースグリーン卿は失意のうちに追放され、スノーフィールドは堅き盾を失うはずだった。しかしヴァルトハールの滅亡が伝えられたことで間者たちは投降し、セシリアはからくも一命を取りとめた。人魚に秘められた強大な力に触れたがために自滅した謀略国家ヴァルトハール。その滅びの元となった人魚の遺した歌が、ここでセシリアにより奏せられた因果の不思議に、一同は等しく言葉を失くしていた。


「……それで、その手記にはどんなことが?」

 ようやく口を開いたノースグリーン卿に、ホワイトクリフ卿は申し訳なさそうに両手を広げた。

「始めしか。読み通す暇がなかったので」

「この場にいるのはゆかりある者ばかり。読んではいただけないだろうか?」

「遅くなるとご迷惑では?」

「お願いする」

 他の人々もそれぞれ期待の面持ちで聞く体勢に入るのを見て、青年騎士はうなづいた。

「では読ませていただこう。だがそのままでは言い回しも古くて聞きづらいだろうから、大意を取らせていただくことでよろしいか」

 うなづく一同の顔を見回すと、ホワイトクリフ卿は机に広げた羊皮紙の文字を指先で追いながら古えの手記を読み上げ始めた。青年騎士のよく通る声が静まり返った大広間を流れ始めた。

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