1―2

 ――自分は何かを探している。

 その思いは、物心ついたときから、アステリウスの心に巣食っていた。

 それが何なのかは思い出せない。ただ探しているということだけがわかる。もどかしくてたまらなかったが、手がかりになりそうなこともまた思い出せない。ひとまず、その思いは封印し、彼は家業であった軍人の道を選んだ。

 思い出せない焦燥感は、戦場で敵を斬っているときだけ薄らぐような気がした。特に出世などは望んでおらず、毎日好きな酒さえ飲めればいいと考えていたが、民衆にとっては不幸なことに戦が続いてしまったため、彼は図らずも武勲を重ねてしまい、とうとう将軍にまで上りつめてしまった。

 命じるのも命じられるのも苦手な彼は、そもそも軍人には向いていなかったのかもしれない。何かに縛りつけられることも厭ったために、周りから寄せられる縁談も、のらりくらりとかわしつづけた。しかし、彼をわずらわせる些事は、増えることはあっても減ることはいっこうになかった。

 とにかく誰でもいい、自分を剣を使う以外の仕事から解放してくれる有能な人間が欲しいと考えた彼は、そのような人間ではなかったそれまでの副官――彼より年長の男だった――を解職して、軍内部から新たに希望者を募った。

 自分のような変わり者の副官になりたがる物好きはそうはいまいと踏んでいたのだが、彼の予想以上に応募者が集まってしまった。全員と面談するのを面倒くさがった彼は、書類選考をして数を五人まで絞り、そこでようやく一人一人と直接会うことにしたのだった。

 彼のかつての上官で、当時同僚だった将軍の一人グシオンは、そんな彼の一連の行動を、呆れ果てたように傍観していた。いわく、希望者の中から副官を選ぶのではなく、自分が使いたい人間を選んで副官に任命すれば、それで済む話ではないか、と。


「選ばれる側にも選択の自由は必要だろう」


 彼がそう反論すると、グシオンは痩せぎすな顔を歪めて笑ったものだ。


「そんなものはない。実は俺も近々副官を替えようと思っている。いい人材が見つかったのでな」


 口には出さなかったが、彼はグシオンに目をつけられたその人間に深く同情した。

 彼自身、一度ばかりの面談で、自分の希望どおりの人間を見いだせるとは思っていなかった。だが、自分の下で働きたいとあえて応募してきた者なら、今までのお仕着せの副官たちよりは少しはましだろう。

 彼は適当な日にちを決めて、自分の執務室にその五人を呼び出し、面談をした。と言っても、書類選考の時点でそれぞれの身上も職歴もすでにわかっていたので、実際したことと言えば、顔を見ることと世間話をすることだった。

 三人目までは、いずれも彼の武勇に対する憧れを語り、それゆえに彼の下で働きたいと思ったのだと説明し、万が一選ばれなかった場合でも、こうして面談していただけただけでありがたいと目を潤ませた。まるで判で押したように同じだったので、事前に打ち合わせをしたのではないかと疑いたくなったほどだった。

 かなりうんざりしはじめたところで、約束の時間に四人目が来た。それがライルだった。

 士官学校を出たばかりというライルとは、そのときまでまったく面識がなかった。顔を一目見て、どこかに女と書いてあっただろうかと書類を見返してみたが、どこにもそのような表記はなかった。別にどのような顔をしていても、機能に問題がなければかまいはしなかったが、軍隊にいるよりは舞台にいるほうが相応しいのではないかと、このときばかりは彼も人並みの感想を持ったのだった。

 ライルは他の応募者と同じように一礼し、挨拶の言葉を述べようとした。彼はそれを、右手を上げてあわてて制した。


「私はおまえが誰かわかっているし、何のためにここへ来たかも知っている。私がおまえを呼び出したんだからな。訊きたいのは一つだけだ。ライル、おまえは私の副官になったら、まず何がしたい?」


 ライルは紫水晶のような瞳でじっと彼を見つめると、そうですね、と言った。


「閣下のその鬱陶しい髪をかして、一つに結ぼうと思います」


 あ、これだと思った。もうこの黒髪の青年以外に、自分の副官はありえない。

 彼は腹を抱えて笑い転げ、訝しそうな顔をしている未来の副官に、もう帰っていいとやっとの思いで告げた。

 残る一人の面談はもうする必要はなさそうだったが、もしかしたらライルを超える回答が返ってくるかもしれないと思い、一応会った。が、ライルとは同期で、ライルよりは多少落ちるがそれなりに見目麗しい金髪の青年から返された答えは、アステリウス様のご指示を仰ぎますという何の面白味も独創性もないものだったので、たいへん失望してすぐに帰した。こんなことならライルで面談を打ち切って、気分よく終わりにしておけばよかったとさえ思った。

 最後の一人を退室させた後、彼はただちに人を使ってライルに副官決定の旨を伝え、軍の事務方に任命状の作成と副官の登録とを依頼した。物ぐさな彼にはありえない驚異的な早さだった。

 型破りな彼のすることに、今さらとりたてて驚く者はいなかったが、それでも士官学校を出立ての若者を将軍が自分の副官に任命したのは異例中の異例だった。ライルにとっては夢のような出世だったといえよう。

 しかし、彼が副官にと見こんだ青年はやはり尋常ではなかった。先ほど面談に訪れたばかりの執務室に再び現れたライルの手には、櫛と紐があった。

 よろしいでしょうかと副官になりたての青年は慇懃に訊ね、彼は笑いを噛み殺しながらよろしいと重々しくうなずいた。


「失礼いたします」


 ライルは彼が座っている椅子の背後に回ると、触れたら血がつきそうだと言われる彼の髪を丁寧にくしけずり、用意してきた紐で器用に結んだ。そういえば、他人に髪をいじらせたのは、もうこの世にはいない乳母が最後だったなと、彼はふと思い出した。

 作業を終えると、ライルは彼の正面に回り、直属の上官を真剣な表情で眺めた。五人の面談者の中で、この青年だけが最初から彼の目を見て話をしていた。そういうところも、彼がライルを気に入った理由の一つだったかもしれない。


「満足か?」

「はい。ですが、二度とこのような真似はいたしません」


 この青年でも無礼な真似をしたという自覚はあるのかと意外に思っていると、ライルはまたしても彼の予想を飛び越えてきてくれた。


「髪を結んだ閣下は、誰にもアステリウス様だと認識されないでしょう」


 仕事が減るかどうかはわからないが、退屈することだけはなくなった。

 執務机に突っ伏して笑いながらそう思った。




 そのようなわけで、紅蓮の将軍アステリウスは、ライルの美貌ではなく発想を大いに気に入り自分の副官に任命したのだが、この副官が実はごくまっとうな意味でも使える人間であったことが、数日も経たないうちに判明した。

 ライルは彼がしたいこと、したくないことを完璧に見抜き、したくないがやらざるをえないことだけを言葉巧みに彼をおだててやらせ、したくないことは自分でうまく処理してくれた。

 ああ、自分はこういう人間が欲しかったのだと、このときばかりは心の底から感謝した。士官学校を出たばかりのこの青年は、どういうわけか、彼の意を汲むのに非常に長けていたのである。

 ライルを副官にしてからというもの、彼をわずらわせる物事は圧倒的に減った。彼は剣と酒とに集中でき、毒と嫌味と刺激に満ちたライルとの会話を楽しんだ。すべてはよい方向へ向かっているように思われたが、予想外の弊害が現れた。


 ――何かを忘れている。


 長い間、雑事に忙殺されてきたその思いが、一挙に噴き出してきたのである。

 相変わらず、それが何なのかは思い出せないままだった。これほど強く気にかかるのだから、きっと忘れてはいけないことだったのだろう。多少の小競り合いはあったものの、大きな戦はなかったのも関係したかもしれない。気がつけば、彼は常にそれについて考えるようになっていた。

 やがて、彼は心の中で一つの結論を出すに至ったが、その結論を実現するためには、彼の有能な副官の協力がどうしても必要だった。

 自分の口下手さを自覚している彼は、どう切り出せばよいかずいぶん悩んだ。が、二月前のある春の日の午後、いつものように彼の事務仕事を代わりにこなしているライルの前で、何かを忘れているような気がすると呟いてみたのだった。


「今、何とおっしゃいました?」


 彼の呟きを聞きそこねた副官が、書類を改める手を止めて彼を見やる。


「何かを忘れている」


 椅子に身を預け、窓の外に広がる空を見上げたままの格好で、彼はもう一度、今度はもっと大きな声で同じ言葉を繰り返した。


「飲み屋のツケですか?」

「それは思い出さなくてもいいことだ」

「馴染みの女の誕生日」

「感覚的に近い気がするが、訊ねたことはないな」

「他にあなたが忘れているのを気にしなければならないようなことがありますか?」

「それがわからないから困っている」


 彼は空から目を離すと、ようやく己の副官に向き直った。


「ライル。どうしたらこの忘れている何かを思い出せると思う?」


 副官は驚いたような顔をして彼を見つめ返した。


「あなたにとって、それはそれほど重要なことなんですか?」

「実を言うと、物心ついたときからそう思いつづけている」


 緋色の長い髪を掻きながら、事前に用意していた説明を口にする。


「私は何かを探している。だが、その何かが思い出せない。今までどうにかごまかしてきたが、最近はそればかり考えている。それだけ私も年をとったということかな」

「ご冗談を」


 しかし、副官は一笑に付した。


「そんな科白は、飲み屋のツケを少しでも減らしてからおっしゃってください」


 副官の嫌味は彼の日々の薬味スパイスだった。まったく意に介さずに問い返す。


「で、ライル。私はいったいどうしたらいい?」

「あなたがご自分の行動について私に意見を求めるなんて、よほど深刻なんですね」


 副官はまた嫌味を言ったが、その表情には真剣さが加わっていた。


「しかし、何かだけではあまりにも漠然としすぎています。もっと手がかりになりそうなことは覚えていないんですか?」

「忘れてはならないことだった、としか覚えていない」

「いっそ、そのことも忘れてしまわれていたらよろしかったのに」

「私もそうは思うが、それだけは覚えているのだから仕方がない」


 彼は嘆息して頬杖をつく。


「それで……どうする?」

「私でしたら、気のせいだと思って、思い出すのをあきらめますが」

「意外と消極的なんだな」

「現実的とおっしゃってください」

「つまり、今までどおりの生活を続けるということか?」

「そういうことになりますね」

「だが、私はどうしてもあきらめきれない」

「アステリウス様。本当のところ、あなたの中でもう答えは出ていらっしゃるのでしょう?」


 堂々巡りに、副官はうんざりしたような気色を隠さなかった。


「私の意見があなたの答えに一致しないからと言って、同じことを繰り返すのはおやめください」

「さすがはライル」


 思わず彼はにんまりする。


「では、私がどんな答えを出したかもわかるか?」

「まったく想像がつきません」

「ライル。少しは考えるふりくらいしてくれたっていいだろう」

「私はあなたと違って忙しいんです。あなたの分の仕事もしていますから」

「では、もうすぐおまえを楽にしてやれる。――ライル。私は軍を辞めるぞ」


 一拍おいてから、副官は眉をひそめた。


「何ですって?」

「軍を辞める。おまえは私より出来のいい上官につけ。仕事が減るぞ」

「そんなことはどうだっていいです。軍を辞める? 正気ですか?」

「自分ではそのつもりだが」

「軍を辞めて、それでいったいどうするんです? まさか、その思い出せない何かを探す旅でもなさるおつもりですか?」

「まったくそのとおりだが」


 副官は今まで自分が見ていた書類の束を持って執務机を離れると、それを彼の前に叩きつけた。風圧で彼の髪は乱れたが、頬杖をつくのはやめなかった。


「アステリウス様。あなたはご自分の役職をお忘れですか? 将軍ですよ? この国に五人しかいない将軍のうちの一人なんですよ? そんな手がかり一つ思い出せないもののために、なぜ軍を辞めなければならないんですか?」

「思い出せなかったからだ」


 空いている手で、副官が置いた書類を手慰みにめくる。


「私もいつかは思い出せるだろう、あるいはあきらめられるだろうと思っていた。だが、結局今まで思い出せなかったし、あきらめることもできなかった。ならば、今の生活を続けていても進展はないということだろう。環境を変えたら刺激になって、少しは思い出すかもしれん」

「だからと言って、そんなことのために将軍職を捨てますか、普通」


 副官は額に手を当てて、大仰に溜め息を吐き出した。


「それも、そんな気の迷いかもしれないことのために」

「まあまあ、私は普通ではないのが普通だとおまえも普段言っているだろう。だが、さすがにこの理由では辞職理由にならないな。ライル、何かいい理由はないか?」

「そんなことまで、私に考えさせる気ですか?」

「おまえはまだ私の副官だろう。安心しろ。おまえなら、私が辞めた後は引く手あまただ。グシオンに私がおまえを横取りしたと嫌味を言われたこともある」

「……わかりました。考えましょう。誰もが納得してくれる素晴らしい理由を。引き継ぎも完璧にして、あなたが辞めてもまったく支障の出ないようにしましょう」


 副官の冷静な回答に彼は顔をほころばせかけたが、続く言葉を聞いて凍りついた。


「そのかわり、私も軍を辞めてあなたについていきますから。いいですね、閣下」

「いや、ライル、おまえが辞める必要は……」

「あなた以外に私の嫌味を笑って受け流してくれる上官がいますか? 今さらもうこの言いたい放題の生活を改めることはできません」


 一理ある気はしたが、優秀であるのは間違いないのだ。もしかしたら、自分と同じ被虐趣味を持つ者が軍内にいるかもしれない。


「ライル……考え直せ。私の酔狂に付き合って、おまえが人生を棒に振ることはない」

「酔狂だというご自覚はあるのですね」


 冷ややかに言われて、さすがに彼も顔をしかめる。


「私についてきてほしくないのでしたら、軍を辞めるのはおやめください。どうしても軍をお辞めになりたいのでしたら、私の随行をお許しください。もし私の給金がご心配でしたら、あなたからいただこうという気はさらさらありませんのでご安心を。あなたと同じ天涯孤独の身ですから、蓄えはかなりあります。飲み代に使わない分だけ、たぶんあなた以上に」


 この副官に口でかなうはずもなかった。彼は両腕を組んで唸り声を上げると、副官の整いすぎた顔を窺い見た。


「ライル。おまえはもっと堅実な人間だと思っていたぞ」

「それはあなたの勝手な思いこみというものです。私はもともとこのような人間でしたよ。ただ今までそれを披露する機会がなかっただけのことで」


 場合によっては口以上の武器となる、魅惑的な笑顔で副官は答える。


「さあ、アステリウス様。ご決断を。私に辞職理由を考えさせますか、させませんか?」


 彼は天井を仰ぎ、すぐにうなだれた。


「いくら私が変わり者でも、黙って失踪するわけにもいくまい。――ライル。考えてくれ。なるべく早く」

「最初からはっきりそうおっしゃってくれれば、貴重な時間を無駄にせずに済みましたのに」


 これ見よがしに嘆息すると、副官は彼の前から書類を回収し、また元の仕事に戻った。

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