なんじを知れ 〜Know thyself〜

 目が覚めると、日向は真っ先に見慣れぬ天井に絶望した。

 夢であってほしい、夢のような昨日だが、夢ではないらしい。携帯電話も真っ黒な画面のままだ。

 泣き疲れて眠ってしまったせいか、瞼が重かった。浴室に行ってお湯を出すと、顔を洗う。


「……ひどい顔」


 瞼が腫れ、人相がすっかり変わっていた。目の周りをマッサージしていると、ほんの少しはマシになった気がする。

 天窓からは眩しい日差しが舞い降りている。栞は時空を越えて漂う場所と言っていたが、館には朝はきちんと来るらしい。

 やっぱり夢なんじゃないかと思えた。漂流する図書館なんてありえないし、ナンセンスだ。だが、あのミセス・ハドスンが目の前で消えたのはどう説明したらいいんだろう? 考えすぎて頭が痛む日向は、とりあえず昨日渡された服に身を包んだ。

 彼女は恐る恐る入り口の扉を開けて外をのぞき見た。廊下には朝の空気がひんやりと漂い、静まり返っている。忍び足でロビーに向かうと、外へ通じる扉の取っ手に手をかけた。小さく息を整え、ゆっくりと開ける。差し込む光の眩さに目を瞑り、そして無理やり瞼をこじ開けた。


「……あぁ」


 日向を襲ったのは二度目の絶望だった。

 玄関から伸びるアプローチの先、敷地の外には道どころか地面すらなかった。ただ真っ白な先も見えない靄で覆いつくされていたのだ。よく見ると、この館は敷地の外はすべて靄で包まれているようだった。


「やっぱり帰れないのか」


 肩を落とし、彼女はのらりくらりと部屋に戻る。一体、どうして自分がこんな目にあわなくてはならないのか。


「あぁ、お母さん、心配してるかなぁ。いや、多分烈火のごとく怒ってるよなぁ」


 部屋に戻った日向は、閉じられた扉の音をぼんやり聞きながらため息をついた。

 彼女は部屋に戻ったあと、サロンに手を伸ばした。ここで料理人になるよりさっさと帰りたいが、巻いておかないとあの栞という少女ににらまれそうで面倒だ。いまいち巻き方がわからないが、紐をぐるぐるとウエストに巻きつけて『こんなもんだろう』と締める。

 そのとき、軽くノックの音がしてエドガーの爽やかな笑顔が見えた。


「日向さん、おはようございます」


「おはようございます」


 消え入りそうな声で俯く。瞼の腫れたひどい顔を他人に見られたくなかった。


「よく眠れましたか?」


「そう見えます?」


 思わず憎まれ口をきくと、エドガーが声もなく笑う。


「見えませんね。……失礼」


 彼はかがむと、サロンの紐を慣れた手つきで巻きなおした。結び目はみるみるうちに、さきほどのものより格段綺麗になる。余ってだらしなく降りていた紐の先も、まるで折り紙のように器用に折り込まれた。


「こうして、紐の先は中にしまってくださいね」


「あ、ありがとうございます」


 どこを見ていいかわからず、ただただ俯いてエドガーのよく磨かれた革靴を見つめる。

 彼は身を起こすと、夕べのミセス・ハドスンが持ってきたカートをのぞき込んだ。


「食欲はなかったようですね」


「はぁ」


「では、こちらは私が下げておきましょう。夕飯抜きではさすがにお腹がすいたでしょう?」


 思わずお腹をさする。言われてみると、そんな気もしてきた。絶望の中でも腹が減ったかなと感じるんだから、思ったより自分は大丈夫なのかもしれない。たとえヤケクソでも、なんだかそう思えることが心強かった。


「さぁ、いきましょう」


 エドガーが扉を開けて外に促す。


「文章様が朝食を一緒にとのことですよ」


 昨日の文章の目を思い出して、思わず唇を噛み締めた。彼のすみれ色の目に見つめられると、すべて見透かさそうな気がして怖かった。


 漂流図書館というだけあって、この館は廊下の壁まで本棚で出来ていた。重みで地盤沈下でも起こしそうだと呆れていると、エドガーが前を歩いたまま話しかけてきた。


「文章様との食事が終わりましたら、厨房に案内します。しばらくは私が助手をつとめるようにとのご命令ですから」


「助手? 大げさですね」


「まだあなたは、どこに何があるかわからないでしょう?」


 まぁ、それはそうだ。深いため息を漏らし、日向が彼の広い背中を睨んだ。


「エドガーさん、たとえ私がここにい続けるとしてもですよ? 料理人だなんていうほどの腕はまだありませんけど」


「おや、ご謙遜を」


「いや、本当に。だってまだ専門学校も卒業してないんですから。調理師の免許だってまだないんですよ」


「大丈夫ですよ。文章様の呼び鈴が聞こえたということは、あなたには出来るということです」


「どうして言い切れるんです?」


 眉間に皺を寄せた直後、日向はびくっと立ち止まる。エドガーが歩みを止めて振り向いたのだ。


「文章様だからでございます」


 穏やかな顔で、こうもきっぱりと断言されると何も言い返せない。


「……何者なんです? あの文章さんって。この館は何です? それに、昨日のミセス・ハドスンはどこに消えたの?」


「文章様の言うとおりですね。質問は一つずつをおすすめしますよ。まぁ、答えは逃げませんし、必要なときに自然と知るでしょう」


 すっとまた彼が歩き出した。まるで猫のように足音ひとつたてない足取りだ。

 日向はふと、昨日の彼の言葉を思い出した。


「エブリなんたらってやつね」


 わけにはいわれがつきものだ。日向は肩をすくめて彼についていったのだった。


 日向が通されたのは明るい日差しで満たされた一室だった。壁はやはり本棚になっているが、一面だけは普通の壁になっていて、暖炉がある。そしてもう一面はすべてガラス張りで、そこから外に出れるようになっていた。

 中央には長いテーブルがあり、純白のテーブルかけの上に並ぶ燭台や花瓶の向こうに、文章の爽やかな顔がある。彼は既に朝食に手をつけているらしかった。


「おはよう。ひどい顔だね」


 朝一番になんて言いようだとは思ったが、言い返せる状態ではないことを思い出す。


「すみませんね、不細工で」


「まぁ、三十秒もたてば見慣れるよ」


 否定もせず彼は素っ気無く言うと、手で「座りなさい」と椅子を示す。

 大人しく座ると、思わず「おや」と眉を上げてしまった。目の前には洋風の館に似つかわしくない小さな釜と重箱膳、そしてお椀がある。


「本日は特別に長谷川久栄はせがわひさえ様が作ってくださいました」


 エドガーの説明に、文章が上機嫌でこう付け足した。


「君は日本人だからね、和食のほうがいいかなと思って、平蔵へいぞう殿の奥方に無理を承知でお願いしたのだよ」


 膳にはふっくらした炒り卵や梅味噌、そして大根の漬物があり、味噌汁はネギだった。釜の蓋を開けると、お粥の熱気で顔が湿った。


「私が料理人になる必要があるんですか? こんなに美味しそうな料理を作ってくれる人がいるのに」


「ふむ、彼女たちは腕がいいが、忙しいのだよ」


 文章が残念そうに顎をさする。


「久栄殿は平蔵殿一筋でいらっしゃるし」


「あぁ、ご家庭のことで忙しいんですか」


 ふぅんと頷いていると、文章が一瞬きょとんとして笑った。


「あぁ、もしかして知らないのだね。時代小説は不得手かな?」


「へ?」


「君は玄関のプレートを見たかい?」


「あぁ、はい。登場人物を貸し出すとかなんとか」


 あの奇妙な文面を思い出しながら、日向は味噌汁をすする。出汁の香りが鼻腔に広がり、思わずほっとした。

 すると、文章は口元をナプキンで拭いて静かに微笑んだ。


「あの通り、ときどき迷い込んできた者が希望するときは本の登場人物を貸し出しているんだ。もちろん、僕たちもこうして力を借りることがあるけれど。昨日のミセス・ハドスンも久栄殿も登場人物の一人だよ」


 日向が耳を疑っていると、文章が軽くため息を漏らした。


「それにしても彼女たちは一緒に食事をしてくれないからつまらないよ。日向なら大丈夫かな」


「ちょっと待ってくださいよ! 登場人物って、あのミセス・ハドスンは仮装じゃないんですか?」


「いや、本物だが?」


「そんな話、信じられると思う?」


「昨日、消えるのを見ただろう? それでも信じられないのかい?」


 ぐっと言葉につまる。確かにあれは説明のしようがない。だが、ナンセンス。限りなくナンセンスだ。はい、そうですかと簡単に信じられるような話ではない。

 すると彼は「やれやれ」と胸ポケットからあの呼び鈴を取り出した。


「まったく『The proof of the pudding is in the eating』とはこのことだね」


「プルー……プルーン?」


 きょとんとした彼女の背後で、いつの間にか来ていた栞が仏頂面で呟いた。


「プディングの味は食べてからって意味よ。論より証拠ってこと」


 文章が呼び鈴を手の中で転がしながら、「ふむ」と唸っている。


「日向。君は会ってみたい登場人物はいるかい?」


「……そんなこと言われても思い浮かばないです」


「映画でもオペラでもいいが」


「いや、まったく浮かびません」


「君には趣味ってものはないのかい」


 半ば呆れたような文章だったが、日向は真面目な顔でただ頷いた。

 彼女にとって趣味といえるものは料理くらいのものかもしれない。いや、それだって仕事で忙しい母の代わりに引き受けているのだから趣味というより半ば仕事のようなものだ。

 本も読まない。映画も演劇も観ない。スポーツはからきし。音楽も流行の曲くらいは知っているけれど自分から聴こうとも思わない。そんなものだからカラオケに行っても歌える曲がないくらいだ。真朝や友人たちには「若年寄」だと笑われたりもしたが、別にそれが悪いことだとは思っていなかった。

 ただ、もし自分が死後の世界の一歩手前に本当にいるのなら、もう少し色んなことに挑戦してみるべきだったろうか。

 そんな後悔に襲われていると、エドガーが助け舟を出した。


「小さい頃に読んだ絵本で覚えているものはありますか?」


 しばらく考え、そして「あぁ」と顔を上げた。


「ピーター・パンかな」


「ほう」


 文章が片方の眉を吊り上げた。


「何故か無性に好きで、絵本を何度も母に読んでもらったわ」


 そう言いながら、真朝の朗読を思い出す。幼心にもそれがひどく棒読みだとわかっていた。けれど、彼女はそれでも嬉しかったのだ。

 店を開けるのは従業員に任せ、自分を寝かしつけてから真朝は出勤していた。彼女が隣にいてくれるだけで、なんと嬉しかったことか。それだけに一人になりたくなくて、どんなに瞼が重くても寝まいと頑張っていた自分が我ながら健気だと思った。

 ふと夜中に目覚めると、いつも母がいなくて泣いてばかりいたことを思い出される。そんなとき、母が読んでくれたピーター・パンの絵本を抱きしめ、その棒読みの声を思い出して眠りについていた。

 母の声や温もりを思い出し、日向はじんと熱くなった目元を慌てておさえた。

 いつも仕事ばかりで寂しかったけど、それが他の誰でもない、自分のためだと日向は知っている。ただ寂しがるだけの子どもでもない。けれど、母がいなくても平気なほど大人でもなかった。

 文章はそんな彼女の様子に気づかぬようで、「よし、ではそれにしよう」と栞に手招きをする。


「栞、ピーター・パンはどこにあったかな」


「西の塔の五階ですわ。すぐにお持ちします」


 そう答えると、栞はすっと部屋を出て行く。その小さな背中を見送りながら、文章が言った。


「栞はこの漂流図書館の司書なんだよ。何か読みたい本があったらあの子にきくといい。彼女の頭にはどこに何の本があるかすべて記憶されているからね」


 メイドでも仕立て屋でもなく、司書だったのか。そんな驚きに日向の目が丸くなる。

 まだ館のほんの一部しか見ていないんだろうが、それでも既に膨大な所蔵量だというのに、それを記憶しているとはにわかに信じがたかった。


「まぁ、栞が戻るまで朝食を済ませておきなさい。西の塔は少し遠いから戻るまで時間があるだろう」


 一体、この館はどれだけ広いんだろう。うっかり出歩いて迷子になったら行き倒れるかもしれない。日向は途方に暮れながら、エドガーがお茶を運んでくるのを見ていた。

 朝食を終えても、文章とエドガーは何も話さない。文章は目を閉じて両手を組んでじっとしているだけだった。


「あの……」


 傍らに立つエドガーに、日向はためらいがちに話しかけた。


「栞さんが司書なら、エドガーさんが執事なんですか?」


「いえ、そんな大層なものではありませんよ。清掃人か、小間使いといったところです。なにせ人手がないもので、なんでもこなします。広い館ですからほとんど清掃で一日が終わるんですが」


「ここってどれくらい広いんですか?」


「きりがないほどです」


 まったく答えになっていない。しかし、エドガーの言葉には人をバカにしたようなところはなく、それどころか大真面目のようだった。


「あの、漂流してるって言ってたけど、今はどこらへんにいるんでしょう?」


「存じません。いつの時代の世界のどこを通り過ぎているかは、私にはわからないのです」


 日向はぐっと声を低くして囁く。


「文章さんにも?」


「さて、主の胸のうちは私にはもっとわかりかねます」


「はぁ」


 ちらりと文章を盗み見ると、彼は閉じていた目を開けて、すみれ色の瞳で日向を見据えた。


「そんなに帰りたいのかね」


「もちろんです!」


 日向が思わず腰を上げた。


「私、これからなんですよ? 学校でいろんなこと習って、就職して、恋も結婚もして、全部これからだったのに、どうしてあなたに呼ばれたからってここで料理人にならなきゃならないの? どうせ料理人になるなら、ここじゃないほうがいいに決まってるでしょ」


 そうまくしたてた彼女に、彼は深く頷いた。


「まぁ、そうだろうね。ただ一つ誤解があるようだ」


「誤解?」


「僕は確かに料理人を求めて呼んだ。けれど、たまたま君だったのは、僕が決めたことじゃない。君は、もともと死ぬ予定だったんだよ」

 

 日向の頭が真っ白になった。


「え、どういう意味?」


「君が君の世界にいられなくなったのは僕のせいじゃない。本来、死ぬところだったんだ。君がここに来たのは、実にいろんな条件が重なっていた結果にすぎない」


 淡々とした口調で彼は続ける。


「僕が求めたこと。料理の才能があったこと。そして……君がちょうど死ぬところだったことだ」


 ごくりと彼女は生唾をのんだ。


「私が死ぬところって……そんな……なんで?」


「人が死ぬのは定めだからね、なんでと言われても答えようがない。それに、君がわからないということは死んだときの記憶をどこかにばら撒いてきてしまったということだね。つまり、ここに来た日の記憶を」


 文章がテーブルの上に置いたままの呼び鈴を指でなぞる。


「この呼び鈴は確かに君を呼び寄せた。君にとってはここに来たのは僕のせいかもしれないけれど、死後の世界にまっすぐ行くはずだったのを、ここでもう少し君という人生を歩める上に、戻れる可能性が出来たのだから感謝して欲しいところだ」


「私……私がどうやって死んだのかはわからないの?」


「まだ死んでないよ。死に掛けているけど」


「どっちでも一緒よ!」


 思わず日向が怒鳴る。


「元の場所にかえれないなら、同じことよ!」


 文章の冷静さがかえって彼女を苛立たせた。どうして自分が。どうして突然。そんな理不尽さを彼女は受け入れることができなかったのだ。

 そのとき小さな靴音がして栞が部屋に戻ってきた。


「お待たせしました」


 その手には小さなクリーム色の装丁をした本がある。


「ご苦労、栞」


 文章がそれを受け取ると、日向を見据えた。


「君は本当に知りたいの?」


「え?」


「君がどうやって死んだかだよ。世の中には知らなくていいことだってあると思うけど。自分が死ぬ瞬間なんて見たいかい? 忘れていてかえって幸運だったかもしれないのに」


「そりゃあ、怖いわよ!」


 ぐっと両手を握り締め、彼女が叫ぶ。


「怖いけど、納得できないじゃない。生きてもいないけど死んでもいない状態で『ここでずっと料理人をしろ』だなんて言われて、すぐに返事できるほど順応性豊かじゃないのよ、こっちは」


 文章が右の眉を上げた。


「君は『Take things as they come』ということわざを知っているかね」


「知らないわよ! 今はそれどころじゃないっていうの。それに日本語でお願いしたいわ、さっきから!」


「物事は来るがままに受け取れ。たとえ不愉快なことでも不平不満を言わずに甘んじて受け入れよという意味だ。今の君にこそ必要なことわざだね」


「ことわざなんてカビの生えた言葉が、一体何の役に立つのよ」


「己に克つための道標にはなるよ」


 彼はテーブルの上に本を置くと、呼び鈴をかざした。


「よろしい。僕としてもやっと来た料理人をそうやすやすと手放すのは惜しいからね。君が納得してここにいることができるなら協力しようじゃないか」


「え?」


「君に登場人物を貸し出そう。ちょうどここにピーター・パンがいる。彼なら空を飛べるから、君がばら撒いてきた記憶を拾い集める手伝いができるからね」


「何を言ってるの?」


「甘んじて受け入れよ、と言っているんだよ」


 文章はそう言うと、すっと呼び鈴を持ち上げ、二回鳴らす。凛とした音が部屋に木霊した。


「話は聞いていただろう? 出ておいで」


 彼の形のいい唇がそう唱えると、本から白い靄のようなものが巻き起こった。


「ひっ……!」


 日向が息を呑む。靄はまるで生き物のようにうねり、やがて小さな子どもくらいの人影になった。そして子どもの人影から更にもう一つ、まるで拳くらいの大きさの人影が飛び出した。


「嘘でしょ」


 思わず漏れた声。

 人影はみるみるうちに枯れ葉や樹液を思わせる色の服をきた男の子と、せわしなく動き回る光になったのだ。


「あぁ、ピーター。ティンカー・ベルに少しじっとしてくれるよう頼んでくれ。眩しくて仕方ないよ」


 苦々しげに言う文章に、男の子がケラケラ笑う。


「無理だね。ティンクは滅多にじっとしてないもの」


「まぁ、そうだとは知っているがね」


 苦笑して、彼は「おいで」とピーターに手招きをする。


「文章、僕を呼ぶなんて、何か面白いことでもあるの?」


「あぁ、あるさ。まず、あそこで目をまん丸にしている人を見てごらん」


 文章とピーターが揃って日向を見る。彼女は顔を真っ赤にして、呆然としているのだった。


「はは、ワニに怯えるフック船長みたいな顔をしているね」


 ピーターと呼ばれた男の子が笑うと、眩しい明りがひときわ忙しなく彼の周りを飛び回り、そのまま廊下へ出てしまった。


「ティンクはその子が気に入らないってさ」


「まったくあの子はやきもち焼きで困ったものだね」


 文章がくすりと笑みを浮かべ、日向を見つめる。


「日向、これで信じられるかい?」


 名前を呼ばれてハッとすると、彼女が「いや、でも……どうやって……」と震える声を漏らした。


「ジョン・レノンだったかな。『想像してごらん』と歌ったのは」


 文章が細い顎をさする。


「説明するには僕の祖母の話からしなければならないんだがね。まぁ、手短に言うと、僕は想像したことを大抵現実にできるんだ」


 ぽかんと口が開いたまま、日向は首をかしげた。「どういうことよ」と言いたいのだが、言葉が出ないのだ。

 文章がくすっと唇の端に笑みを浮かべた。


「もちろん、幾つか例外はあって、こうして本の登場人物に会いたいと願えば会える力はあっても、もう死んだ者には会えなかったり、人の心はままならなかったり、万能とはいえないけれどね」


「嘘みたい……」


「嘘じゃないさ。ここに朝昼晩の流れや天気があるのも、僕の想像力の賜物だ」


 すみれ色の瞳は日向からピーターに視線を移す。


「ピーター。彼女はね、小さい頃に君が好きだったみたいだよ」


「うん、知ってる。だって違うピーターだけど、同じピーターだからね」


「では話が早い。彼女のいた世界を知っているね。ばら撒いてしまった記憶を拾うのを手伝ってほしいんだよ」


「いいけど、あの子、飛べるかな? 重そうだよ」


「僕の想像力が手助けするよ」


「あぁ、文章が飛べると想像してくれるなら大丈夫かな。ちょっと大人っぽいけど、まだまだ子どもだし」


「だ、誰が子どもよ! それに、そんなに重くないわよ、失礼ね!」


 やっと声が出た。そう思った途端、気が抜けた。日向は椅子の背もたれにのしかかり、「はぁ」と長い息を吐き出す。


「嘘でしょ……」


「嘘じゃないよ」


 そう言ったのはピーターだ。ふわっと浮かび、日向の目の前に飛んできた。


「うわっ!」


「君の絵本のピーターは君が好きだったみたいだから、お手伝いしてあげるよ」


「え? え? 何を?」


「だから、記憶を拾いに行くんでしょ?」


 文章が小さな拍手をした。


「それはよかった。できれば夕方には戻ってきておくれ。厨房に案内するのはそのときにしよう。夕食を作ったら、拾ってきた記憶の話でもしながら、一緒に食べようじゃないか」


 そして立ち上がると、日向のそばに歩み寄った。すっと膝をつき、日向の顔を真っ直ぐ見つめる。


「ねぇ、日向。見つけた記憶の中に、君の求めるものがあるかはわからない。しかも、記憶を回収してしまうということは、元の世界に戻る道標を失うことなんだよ。知りたいと思うの?」


「私……だって、私……」


 暑くもないのに、汗がわきの下を滑り落ちていった。

 死者は現世に戻る道標として記憶をばら撒く。それを拾い集めることは、つまり、ここに来た経緯を知る代償として、いつか帰ることができるかもしれない道を断つ可能性があるということらしい。

 迷いが彼女の心を押しつぶす。ここに来た理由がわかったとして、納得できるだろうか。

 戻れるのか。戻れないのか。どうすればいい。どうすれば物事を来るがままに受け入れることなんかできるんだろう?

 やりきれなさにじわりと涙が滲んだそのとき、部屋の中に眩い光が戻ってきた。それはぐるぐるとピーターの周りを飛び回り、何かを金切り声で伝えているようだった。


「え? 本当かい、ティンク」


 ピーターが目を丸くしている。


「どうした?」


 そう訊ねた文章に、男の子はつんと澄まして言った。


「なんでもないよ」


 文章は何も言わずに右の眉を上げる。ピーターがそれに応えるように続けた。


「本当になんでもないったら」


「……ふぅん、そうかい」


 文章がすっと目を細めた。ピーターが何か隠し事をしているようだとは日向も思ったが、彼はそれを問い詰めようとはしなかった。


「ピーター、彼女を連れて行っておくれ」


「うん、いいよ」


 ピーターが可愛らしくうなずき、日向を見た。


「だけど、やっぱり体が重いかも」


「ふむ。だが、心はまだまだ子どもだから大丈夫だろう。それに、どのみち体ごと連れて行くのは無理だろう」


 なんだか失礼なことを言われている気がする。そう思ったとき、文章が呼び鈴を掲げた。


「日向、ちょっと座ってくれる?」


 言われるままに椅子に腰を下ろすと、彼はまた呼び鈴を一振りする。あの鈴の音が響いた瞬間、耳の奥が痺れるような気がした。


「うっ」


 軽いめまいを感じ、咄嗟に俯いて固く目を閉じる。ぐわんと体が揺れ、一瞬だけ吐き気がこみあげる。慌てて深呼吸してからゆっくりと目を開けたとき、彼女が見たものは自分の頭頂部だった。


「へっ?」


「よかった、うまくいったね」


 ピーターがふわりと目の前に浮かんでいる。


「何これ!」


 彼女は自分の体の上に浮いていたのだ。慌てて自分の両手を見ると、向こうの景色が半ば透けて見える。


「さぁ、行こう」


 ピーターの柔らかい手が二の腕をひっぱる。


「ちょ、ちょっと待って! うまく動けない」


 懸命に手足を動かすが、思うように進まない。素っ頓狂な声を上げていると、栞が「網にかかった獣みたい」と小声でぼやいた。言い返すより先に、エドガーが栞を嗜める。


「栞、なんでも口にすればいいというものではないよ」


「そうよ、失礼ね!」


 子どものように口を尖らせてみるものの、思わず「はは」と笑いが漏れてしまった。我ながら生け捕りにされた動物のようだと思えてきたのだ。

 すると文章が目を細める。


「おや、ここに来て初めて笑ったね、日向」


 日向がはぁっと小さなため息を漏らす。


「なんだかもう、何が起こっても驚かなくなりそうだわ」


「それはいいことだ。吹っ切れたほうが的確な判断ができるというものさ」


 文章が唇を吊り上げる。


「僕の想像力で君の魂を体から取り出したんだ。そして妖精の粉を吹きかけてある。これで君は現世に行けるけれど、リスクはもちろんあるから注意してほしい」


「リスク?」


「現世に行っても体がないから、何も触れないし誰にも見えないし、声も届かない。そしてあまり体から離れっぱなしでいると戻れなくなるから注意して」


「わ、わかったわ。タイムリミットは?」


「ピーターが帰りたくなったらさ」


 思わずピーターを見ると、彼はつぶらな瞳を細めている。


「僕だってあんまり本から離れられないんだ。危ないと思ったら帰ろうね」


「う、うん」


「それじゃあ、行こうか。の世界へ」


「ウララ?」


 なんのことだろう。そう訝しく思った途端、日向は悲鳴を漏らした。ピーターの小さな手が彼女を引っ張ってものすごい速さで飛び出したのだ。周囲を回るように飛ぶティンカー・ベルの光がチカチカしている。


「ちょ!」


 まるでジェットコースターのように廊下を突き進み、やがて開いていた窓から外に飛び出す。洋館がみるみるうちに遠くなり、辺りは白い靄しか見えなくなった。


「君がばら撒いた思い出は君にしか見えない。見落とさないでね」


「思い出ってどんなものなの?」


「大丈夫、自然とわかるはずだよ」


 ピーターが愉快そうに笑う。


「どっちに行きたい?」


 そんなことを言われても、見渡す限り、すべてが白い靄だ。だが、なんとなく右手の方向が気になった。


「あっちに行ってみたい……かな」


「よし、じゃあ行こう」


 ピーターが朗らかに笑う。ティンカー・ベルが「いつまで手を握っているの」と金切り声を上げているのが聞こえた気がした。

 一方、小さくなる姿を見送る文章が唇の端に笑みを浮かべている。


「あぁ、いいねぇ。うちの料理人はなかなか退屈しないねぇ。なんとなく、おばあ様に似ているかな。なんとも皮肉だね」


 彼はエドガーに向かって、にっと唇の端を吊り上げて見せた。


「君にとってはここに来たのは僕のせいかもしれないけれど、死後の世界にまっすぐ行くはずだったのを、ここでもう少し君という人生を歩める上に、戻れる可能性が出来たのだから感謝して欲しいところだ」


 さきほど日向に浴びせた言葉をそのまま繰り返し、自嘲する。小さく首を傾げるエドガーに、彼の主は椅子に背を深く預けて囁く。


「さっき、僕が日向にああ言ったけれど、これはまさにおばあ様が僕に向けて言い放ってもおかしくはない言葉じゃないか? それを僕が彼女に言うなんてね」


千歳ちとせ様はそのようなことをおっしゃる方とは思えませんが」


「そうだね。単なる僕のやさぐれた妄想だ」


 文章がふんと鼻を鳴らす。


「わかっているさ。君のもともとの主はおばあ様だってことも、彼女にもどうしようもなかったんだろうってこともね」


 栞がぽつりと口を開く。


「なんだかんだいって、文章様は千歳様に弱いんですね。だから、あの子にもすぐに登場人物を貸し出したのですか?」


 そう言う彼女の口ぶりはやや不満げだった。


「帰ってきてからの本のメンテナンスも結構大変ですのよ」


「すまないね。ただ、なんとなく、まだ可能性があることが、うらやましかったのさ」


 広い部屋に、文章の低い声が木霊して消えた。

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