漂流図書館の料理人
深水千世
どんなに規則正しい家でも事故は起きるもの 〜Accidents will happen in the best regulated families〜
世の中には横道に惹かれる人種がいるものだ。
大勢の人が歩く大通りをつまらなく感じ、あえて路地裏を歩こうとする者もいれば、普段は平穏を望んでいるのに魔が差して横道に迷い込む者もいる。
彼女は間違いなく後者のほうだった。穏やかな日常が一番だと信じてやまない。レアリティ、つまり珍しく稀なことに価値を見出すよりも、堅実な生き方をしたいと願う。二十歳になったばかりという若さだが、冒険心には乏しい。
だが、この日はいつもと何かが違っていた。
彼女はいつもなら見向きもしない横道に目をやり、ずっと足をとめている。別にそこを通ったからといって近道になるわけでもないし、人通りの多い道をこのまま進んだほうが安全でもあることはわかりきっていた。
それでもなお彼女を引き止めたのは鈴の音だった。
チリィン……チリィン……。
そんな金属の鳴る音が暗がりの向こうから聞こえたのだ。
「……聞こえる」
思わず一人呟き、眉をひそめる。
「まただわ……」
この頃、彼女はことあるごとに鈴の音のような幻聴に悩まされていた。目覚める間際だったり、お風呂の中だったり、時間はまばらでいつ聞こえるかはっきりとはいえない。病院に行こうか迷っても、症状がいつ出るかもわからず困っていたところだった。
最初に聞こえたのは数ヶ月前だ。それからは数日に一度、いや、数週間に一度だったかもしれないが、忘れた頃に聞こえてくる。ほとんどが鳴ったと思ったらすぐに止んでしまう。
ところが、この日は朝からひっきりなしに聞こえていたのだ。いつの間にか何かが悪化したんだろうか。そう辟易していたところだったのだが、まさに今、横道の向こうから今までで一番はっきりとした鈴の音が聞こえてくるではないか。
しかし、あいにく霧がたちこめて先が見えない。道の先を隠す濃霧をいまいましく思いながら目をこらす。彼女は北海道の中でも道央と呼ばれる地域に住んでいたが、この日は道央全域を覆うような記録的な濃霧だった。ニュースでは朝からキャスターが繰り返し車の運転に注意を促している。視界が遮られ、雪もないのに、まるで吹雪の中にいるような恐ろしさだ。
だが、彼女にはそれでも車を出さなければならない理由があった。母親の経営するスナックで出すお通しを作って届けるというのが、日課だったのだ。この日も、近くの駐車場に車を停めて、店まで保冷バッグを抱えて歩いていった。
スナックは飲み屋街の大通りに面しているものの、こじんまりとしている。
カラオケをすれば店の外に歌声が丸聞こえになるほどだ。しんと静まり返った大通りの片隅で、『スナックひなた』という看板が霧にぼやけていた。
「悪いわねぇ、
店に入った彼女を『ひなた』と呼んだのは、母の
こういうときの母は、それなりに美人だと日向は思っていた。スッピンの小さなシミに加齢の残酷さを感じることはあるけれど、こうして着飾っているとなかなかのものだ。
事実、真朝は三十九になるが、日向といると姉妹に間違われることもある程度には若々しかった。いや、日向が歳のわりに落ち着いて見えるせいかもしれなかったが。
「霧で前が見えないんだもの、怖かったわ」
そう言いながらカウンターに保冷バッグを置く。
「今日のお通しはなに?」
「うどの酢味噌和えと厚揚げの煮物。昨日、お客さんからもらったうどだから、お礼言っておいて」
「わかった」
お通しを冷蔵庫に移しながら母親を盗み見た。
今は夕方の五時。いつもだったらこれから掃除を始める頃なのに、もう最後の仕上げのグラス磨きをしている。
「今日はやけに早いのね」
「うん、まぁね。ちょっと人が来るのよ」
母はいつも通りに振る舞っているが、声から緊張が感じ取れた。どことなくそわそわしているようにも見える。
「ふぅん」
その様子から、おそらく『
日向の父はとうに他界している。母が誰と付き合おうが勝手だが、どちらかというと日向とのほうが年が近い。娘としては少々複雑な相手だ。
「ねぇ、お母さん。今日、例の音がすごいんだけど。心療内科に行ったほうがいいと思う?」
そう言っているそばから、耳の奥で鈴のような音がかすかに響いている。
「耳鳴りじゃないの? 耳鼻科でいいわよ」
真朝はグラスから目をそらさずに言い放つ。だが、日向は素直に首を縦に振ることができなかった。
「耳鳴りじゃないわよ。キーンって音じゃなくて、風鈴みたいな音がするんだから」
口を尖らせた日向に、真朝が肩をすくめる。
「困ったわねぇ。あんた以外に聞こえないんでしょ?」
そうなのだ。確かに鈴の音はする。かといって実際に聞いたのかと言われると断定できない。音がした瞬間、咄嗟に周囲の人にきいても誰も鈴の音などしなかったと口をそろえて言うのだから。
「とにかく、明日の朝まで聞こえるようだったら耳鼻科に行ってごらんなさい」
「うん」
母が『とにかく』という言葉を使うときは『絶対』の命令なのだ。それをよく知る日向は渋々頷き、空の保冷バッグをカウンターの下におさめた。
「それじゃ、先に帰ってるね」
「うん。明日は学校?」
「そうよ。月曜だもの」
「あぁ、そうか。休みなく働いていると曜日の感覚がなくなっちゃっていやぁね、もう」
今日は日曜日。飲み屋街でもほとんどの店がしまっている中、このスナック『ひなた』だけは開業している。それが自分の調理師専門学校の学費のためだと知る日向は、少し心苦しくなった。
「無理しないでね」
「わかってるわ。あんたも気をつけて帰りなさい」
こうして、日向は店を出て家路についていたのである。
そしてその途中、横道の前で鈴の音に気づき、彼女は足を止めたのだった。
「行ってみるか」
彼女はやがて、音に誘われるように、暗い道に足を踏み入れた。
もし、その場に真朝がいたら止めていたに違いなかった。真朝は普段と違うことをするのを嫌う保守的な性格だった。だが、娘の日向は普段は落ち着いているように振舞っていたが、実際のところ無鉄砲なところがあった。
霧のせいで前が見えないが、この道を行けば、すぐに大通りの隣にある中通りに出るはずだ。車に戻るまで少し遠回りになるが、寄り道したと思えばなんてことはない。
ぽつぽつと雨が降り始め、次第に衣服を湿らせていく。まつ毛に雨粒が当たるのに目を細めながら、急ぎ足になった。
湿ったアスファルトの匂いを嗅ぎながら、日向は違和感を覚えた。いつまでたっても中通りに突き当たらないのだ。戻ろうかと思ったが、何故か振り向いてはいけない気がする。
ぞくりとした。背中が冷たいのは雨に濡れたからではない。慣れない横道を行くほうが後ろを向くよりも簡単に思えるのだ。
自分の軽率さを後悔し始めた頃、日向の足が止まる。そこにあったのは中通りではなく、煉瓦を敷き詰めたアプローチと巨大な扉だった。
日向は、霧の中にそびえ立つ洋館の入り口に突き当たったのだ。
「こんな家、あったっけ?」
口にしながら唇がひきつる。
あるわけがないのだ。ここは飲み屋街。古いビルがひしめきあい、色とりどりの看板や錆びついたシャッターはあっても洋館などあるわけがない。
では、これは何だ?
彼女は洋館を仰ぎ見る。濃霧に包まれたせいか、それとも相当広いのか、それがどれだけの大きさなのかはわからなかった。
だが、扉の横に金属のプレートがはめ込まれているのを見つけた。そこにこんな文字が刻まれている。
『当館をご利用の方へ。当館で貸し出しできるのは登場人物となります。本の持ち出しはくれぐれもご遠慮ください。貸し出しはお一人様一冊限りとさせていただきます。なおそのあとのことは、当館では一切責任を負いかねますのでご了承ください』
日向は首を傾げる。文面から察するに図書館のようだ。
だが、貸し出しできるのは登場人物というのが理解できない。いや、そもそもこの街の図書館はもっと南にある。飲み屋街には移動図書館すら来ないはずだ。
さらに注意深く扉の周囲を見回したが、金属のプレート以外には何もない。扉の真ん中にあるドアノックハンドルは猫をかたどってあり、金色の目が日向を見つめていた。
耳をそばだててみると、確かに扉の向こうからあの鈴の音がする。今までは頭の中に響いているようで、幻聴じゃないかと疑う自分がいた。けれど、今、その音はハッキリと自分の鼓膜を震わせている。
チリィン、チリィンという音が鼓動と重なって息苦しくなった。
ノックしようか。そう迷ったが、不意に怖くなった。
「やっぱり帰ろう」
咄嗟に元の道を戻ろうと振り返ったとき、彼女は息を呑む。
「嘘……!」
歩いてきたはずの道が、なくなっていた。そこにあるのは霧雨に煙る闇だけ。飲み屋街の横道はおろか、人の気配も喧騒も消えていた。
雨粒が頭皮をなぞり、頬を滑り落ちる。温もった雨の感触にぞくりとした。
「どうしよう」
思わず震える手を組みあわせ、口元を覆った。
どうして何も考えずに横道に入ってしまったのか。一体何がどうなっているんだろう。
咄嗟にジーンズのポケットから携帯電話を取り出す。わななく指でロックを解除しようとして愕然とした。
「……え?」
どう操作しても、携帯電話の画面は真っ黒のまま。
「ちょっと故障? なんで?」
ぶつけたわけでもないし、水に沈めたわけでもない。壊れるような心当たりがなかった。だが、画面は無情にも沈黙を保っている。
母親の店に行く前までいつも通り使用していたはずなのに、よりによってこんなときに故障だなんてと、血の気が引いていく。
「どうしよう、お母さん」
泣き出しそうになったそのとき、扉の軋む音がした。
びくりと思わず肩を震わせて振り返ると、そこには一人の男が立っていた。白と黒の服装からいって執事のようだ。
「おや、やはりお客様でしたか」
「お客様? 私のこと?」
口をあんぐりあけた日向に、彼は丁寧に一礼した。
「ようこそ、
「ヒョウリュウカン?」
日向はごくりと生唾を飲み込んで、穴の開くほど男を見つめていた。
男の年齢は四十過ぎだろうか、いや、五十を越えていてもおかしくはない風貌だった。黒髪に幾筋か白いものが混ざっているし、目元に柔らかな皺がある。印象的なのはその両目が鈍い金色をしていることだった。
「待ってください、私、お客様じゃありません」
混乱した頭でやっとそう言うと、人のよさそうな男が首を傾げる。
「しかし、主がそろそろおいでになるはずだと申しておりました」
瞳の色からして外国人だと思いきや、日本語はすばらしく流暢だ。
「人違いです。だって私、呼ばれてないわ。ここがどこかもわからないのに」
思わず呻くような口調になった。
「ここには……あの、迷ったっていうか、なんていうか、自分でもなんでここにいるのかわからなくて……」
「おや」
彼はふっと穏やかな笑みを唇に浮かべる。
「ですから、それは主があなたを呼んだからでございますよ」
「へ?」
「あの鈴の音が聞こえてらしたでしょう?」
心臓を鷲づかみにされたようだった。
「何故それを?」
「漂流館の者だからです」
「ちょっと待ってよ、漂流館ってそもそもなんですか?」
「ご説明いたしますのでとにかくお入りください」
「いや、でも……」
「寒いでしょう? ずいぶんと濡れていらっしゃる」
さりげなく、男が日向の全身に視線を走らせる。そのとき初めて、日向は自分が思っている以上に濡れ鼠になっていることに気がついた。
いつの間にこんなに濡れたんだろうと、思わずぎょっとして自分の濡れた髪をかきあげた。気がつけば、下着や髪の内側まで湿っている。雨に降られていたのはわかるが、こんなに濡れていただろうか。まるで服を着たままプールに飛び込んだようだった。
彼女は、それに気づかないでいた自分にも驚いていた。道を失って慌てていたにしても奇妙だ。そう眉をしかめたとき、無愛想な女の子の声が飛んできた。
「なにを玄関先でちんたらやってんの」
扉を押し開けて一人の少女が現れた。メイドのような格好をしているが、小柄で童顔のせいか十歳ほどに見える。金髪を顎のあたりで切りそろえ、目の覚めるような青い瞳をしていた。彼女も外国人のような見た目だが、そのぼやくような言葉は滑らかな日本語だった。
「さっさと入って。ここで押し問答したって時間の無駄」
可愛い顔をしているものの、表情というものが乏しい。男が対照的な柔らかい声で言う。
「どうぞ。それにあなた一人では帰ることはできないでしょう」
ぐっと言葉に詰まる。もと来た道もわからなくなり、携帯電話もつながらない。おまけに髪も服も濡れていると意識した途端、体にまとわりつく感触が気持ち悪くなってたまらなかった。
「……じゃあ、あの……お邪魔します」
こうして日向は『漂流館』と呼ばれた洋館に足を踏み入れることになったのである。
玄関を見渡し、彼女は思わず感嘆の声を漏らす。そこは円形のホールになっていて、真正面に大きな階段があった。まるで名高い教会のようにアーチを描く天井には美しい壁画と丸い天窓がある。
なにより彼女を驚かせたのは壁一面を埋め尽くす本だった。驚いたことにこの家の壁はほとんどが本で埋め尽くされていたのだ。
口をあんぐり開けて突っ立っている日向に、男が微笑む。
「我々は通称『漂流館』と呼んでおりますが、主のつけた名前は正式には『漂流図書館』なんですよ」
その聞きなれない名前に、彼女は「はぁ」と生返事をしながら天井を仰ぎ見た。自分の声が響き、がらんとした空間に染み入る。
丸い天窓から日差しが降り注いでいる。その眩しさに目を細め、彼女は「ん?」と怪訝な顔をした。
「ちょっと待ってよ。おかしくない? 今、何時です?」
慌てて少女に問い詰める。
「おかしいですよ。私、店を出たの夕方ですよ? それでなくても雨と濃霧で暗かったのに、どうして天窓から日差しが?」
すべてがおかしい。心細さに目から涙が溢れてくる。
「ここはどこなの? 私、どうしてこんなところに来ちゃったの? お願い、タクシーを呼んで。元の場所に帰して!」
言葉が止まらないのは畏怖のせいだった。喋って不安を吐き出さなければ、その場に立っていられない気がした。一体、何がどうなっているのかわからない。ただひらすら怖い。行き慣れた飲み屋街で迷子になることも、こんな見知らぬ洋館があることも、夜のはずなのに差し込む太陽もあり得ないことなのだ。
「帰してよぉ……」
ひっと声を漏らして泣き崩れた日向の耳に、穏やかな男の声が飛び込んできた。
「面白い質問だね。ここはどこなんて考えるのは久しぶりだ」
そう言ったのは、執事ではなかった。声の主は落ち着き払ってこう続けた。
「そんなに慌てず、質問は一つずつしなさい」
声のするほうを見上げると、階段の上に一人の男が立っていた。ブルネットに鮮やかなすみれ色の瞳。顔立ちは華奢で青白かった。声は低く、まるで呪文を唱えるような口ぶり。
「ほら、『Every why has a wherefore』というからね」
「エブリ……?」
あまりに発音がよすぎて聞き取れなかった。日向が呆気にとられていると、執事の男が口を開く。
「日本語でいうと『わけにはいわれがつきもの』といったところです。何事にもそれぞれ相応の事情や理由があるという意味ですな」
執事の顔を見上げると、誇りに満ちた声で囁いた。
「あのお方が漂流図書館の主、
名前からして日本人らしいが、顔立ちはそうは思えない。まるでそんな日向の思考を見透かしたように文章が肩をすくめた。
「僕は日本人とイギリス人のハーフでね。日本語を話すのは久しぶりだ。うまく話せているかな?」
「え? えぇ、お上手です」
ぽかんとしながら頷くと、「それは結構」と階段を降りてきた。まるで猫のようにしなやかな足取りだ。
「この漂流図書館は活字中毒の祖母が建てたものだ。ようこそ、我が館へ」
近づいてきた彼をしげしげと見つめ、日向は「はぁ」としか言えなかった。
なんと妖しい目元をしていることか。視線がついつい吸い寄せられる。そう思っていると、形のいい唇がふっと笑みを浮かべた。
「それにしても僕の求めている人材が日本にいるとわかったときは嬉しかったよ。なにせ母の生まれた国だからね」
「あの、ここに私を呼んだってどういうことですか? ここはどこなんです? 私を帰してください」
「帰してくださいもなにも、帰れるものならとっくに君は勝手に帰っている。ここにいるなら、理由があるんだ」
「へ?」
「つまり、君はもう君のいた世界にいる理由がないんだ」
心臓が爆ぜてどくんどくんと脈打つのが伝わる。彼の口が動くのが空恐ろしかった。そして、にわかには信じがたい言葉が日向の耳に飛び込んでくる。
「はっきり言わないと伝わらないかな。そう、君は死後の世界の一歩手前に来ているんだよ」
目が点になる。喉が乾いてヒリヒリと張り付くようだった。
彼は肩をすくめ、傍らにいた執事の男に命じた。
「エドガー、ホットミルクでも用意してあげなさい。どうやら動転しているようだから」
エドガーと呼ばれた男が返事をする前に、日向はその場に膝をついた。
「嘘でしょ」
やっと吐き出した言葉。めまいがひどい。その様子に、童顔の少女が肩をすくめる。
「ブランデーでもぶっかける?」
「
エドガーがたしなめているのを聞きながら、少女は『しおり』という名なのかとぼんやり思った。
「大丈夫かい?」
文章はそう言うが、さして気遣うような声の調子ではなかった。
大丈夫なはずがない。けれど、頷くしかない雰囲気の中、彼女は立ち上がった。なんだか彼が冷静な分、慌てている自分が惨めになってくる。
「あの、私……」
日向の言葉は途切れた。文章が胸ポケットから小さな呼び鈴を取り出し、一振りしたからである。
「……その音……!」
それは紛れもなく、しばらく前から耳の奥で鳴り響いていた音そのものだった。
「あなただったんですか?」
彼は悪戯っぽい笑みを浮かべて頷いた。
「でも、どうして、その音が私に聞こえていたの?」
穴のあくほど文章を見つめると、彼は満足げな顔になった。
「君が僕の望みを叶えることができる人だからだよ。君はきっと、この館のいい住人になる」
「何を言ってるんですか。私、帰らなきゃ。明日、学校なんです」
するとメイドの少女が鼻で笑う。
「まだそんなこと言ってるの。飲み込みの悪い頭ね」
人をあざ笑うような口調にむっとすると、隣にいるエドガーがまたたしなめた。
「栞、そんな言い方をするものじゃないよ。無理もないでしょう。突然でしたし、彼女はだいぶ記憶をばら撒いてきたようです」
「記憶をばら撒く?」
きょとんとしていると、文章がこう切り出す。
「君は『ヘンゼルとグレーテル』という物語を知っているかね?」
「え? えぇ」
「あの話で森に捨てられた兄妹が家に帰るための目印を用意するだろう」
「パンくずでしたっけ?」
「最初は小石を撒くんだ。それで一度は家に戻る。しかし二度目は小石を取りにいけず、パンくずを撒くことになる。そしてパンくずは小鳥たちに食べられて家までの道標を失うのだ」
「あぁ、そういえば……」
日向は小さい頃に読んだ絵本を思い出した。だが、それが一体どうしたというのだろう。文章が何を言いたいのかわからず、きょとんとしていた。
「つまりだね、死んだ者は現世に戻りたくて、まるで小石を撒くように記憶の欠片を撒きながら死後の世界に行くのだ」
彼はまるで舞台でも演じているように、小石を撒く手つきをして見せた。
「だが、彼らは小石を撒いているつもりでも、実際にはパンくずでね。現世の人々に忘れられるごとに、ばら撒いた記憶は消えていく。そしていつしか死者は現世に帰る道がたたれるのだ」
「忘れられると完全に死ぬってこと?」
「まぁ、『Out of sight, out of mind』……つまり『見えなくなると忘れ去られる』とはよく言ったものだね」
「はぁ」
「で、君も同じように記憶をばら撒いてここまで来てしまったんだ」
「それって私が死んだってこと?」
日向が声を荒らげる。
「嘘でしょ? まだ二十歳だし、風邪ひとつひいてないし、それに家に帰っていただけよ。なにも危ないことなんてしてないし」
「僕が言いたいのは、ここに来る前の記憶をどこかに落としてきただけという話だよ」
素っ気無く言い放つ文章が肩をすくめる横で、栞が口を挟んだ。
「この館は現世と死後の世界の狭間を漂っているの。いつ、どこに現れるかなんて、住人の私たちだってわからない。時空の隙間を旅する館なのよ。そこにあなたが記憶をばら撒きながら、やって来たってこと」
「そんな話、信じられないわよ」
わななく声で栞を睨む。
「じゃあ、私がなんで死んだのか教えてよ。あんたたちが鈴で私を呼んだから?」
「誰が死んだなんて言ったんだい? 一歩手前だと言っているだろう?」
文章はきょとんとしている。
「君は珍しいことに体ごとここに来たんだ。死者が迷い込むことはあるけれど、彼らは体は現世において魂だけでやってくる」
日向は自分の両手をしげしげと見つめる。
「じゃあ、私、死んでないの?」
「だから、ここは死ぬ一歩手前の世界だよ」
そこでエドガーが「この館に訪問することを『神隠し』などと呼ぶ人もいるようですが」と、口を開いた。
「その人たち、どうなるの?」
「時が満ちれば帰るべきところへ帰りますとも。現世に戻る者もいれば、死後の世界に行ってしまう者もいますが」
「どうして私がこんな目に……」
混乱する頭でやっとそれだけ言うと、文章が微笑んだ。
「たまたま君だったんだ」
「へ?」
「僕はある願いをこめて、呼び鈴を鳴らした。呼び鈴は僕の願いを叶えるに相応しい者に届き、そして条件が揃っただけだよ」
「願い?」
「料理人だ」
目をぱちくりさせていると、彼は子どものように嬉しそうな顔をした。
「君には、この漂流図書館の料理人になってもらう」
「へ? 無理です!」
「いや、なれるんだよ。だって僕が呼んだんだからね」
何を言っているんだろう、この人は。あきれ返った日向が口を開きかけたそのとき、廊下の向こうから一人の女性がやって来た。
「文章様、お呼びですか?」
やってきたのは人のよさそうな女性で、白いエプロンをつけていた。
「ミセス・ハドスン、彼女に夕食をお願いできるかな」
この館にはもう料理人がいるじゃないか。そう怪訝に思ったとき、ミセス・ハドスンが屈託のない笑みを浮かべる。
「文章様の呼び鈴はいつも急ですのね。まぁ、よろしいですよ。ちょうどホームズさんの夕食を作るところでしたからね。ついでです」
ホームズとはあのシャーロック・ホームズだろうか。ここの住人は仮装の趣味でもあるんだろうか。そう怪訝な顔をする日向に、文章が笑う。
「よろしく、ミセス・ハドスン」
ミセス・ハドスンがにっこり微笑むと、足音もなく来た道を引き返していった。
文章はミセス・ハドスンの後姿を見送りながら、悪戯っぽく微笑んだ。
「まぁ、今夜はミセス・ハドスンの夕飯でも食べてゆっくりするといい。夕食はあとで部屋に届けてもらうから。明日は厨房に案内しよう」
「待ってよ! 勝手に決めないで。まるで私がここにい続けるみたいじゃないの」
「おや、そうだよ。君はここにいる」
「冗談じゃないわよ。明日は学校なんだから!」
「だから言っただろう?」
文章の声がぐっと低くなった。
「……君はもう君の世界にいることができないんだってね」
「勝手なことを言わないで!」
「仕方ないだろう。君はそういう状況なんだ」
「困るわよ……」
涙がじわりと滲んで、目頭が熱くなった。
「お母さんが毎日必死に働いて、やっと通わせてくれている学校よ。私だって料理人になるのが夢で、これからもっと色んな料理を作ろうとしてて、まだまだ勉強することがあって……」
言葉が途切れないのは沈黙が怖くなったからだ。黙ってしまえば、彼が言うことを認めてしまいそうで怖い。抗っていたい。
「それに、うちはお父さんがいなくて、二人きりなの。お母さんには私しかいないの。私が帰らなかったら、お母さんはどうなるの?」
次第に声が大きくなり、頭に血が上ってきた。だが、睨まれた文章はそれをもろともせず、肩をすくめている。
「君は帰るときがくれば帰るさ。けれど帰れないならここにいるしかない。そして僕らは君の居場所を提供するんだ。労働で代価を支払ってもいいじゃないか?」
「労働っていわれても……」
「なに、用意するのはブランチと夕食でいいんだ。そして一緒に食事をとってくれればいい。一日にメリハリが欲しいだけだからね」
「メリハリ?」
「そう。ここにいてもね、君も僕も食事の必要もない。時間の流れも意味をなさない。でもそれじゃ気が遠くなるだろう?」
「なによ、それ? そんなの知らない!」
たまらず、日向が叫ぶ。
「帰して!」
「だからね、帰れないんだよ」
文章の声は低く、問答無用という響きがあった。
思わず日向の肩が震える。一瞬、彼の目が恐ろしく感じたのである。日向はまるで自分より強い生き物を前にした手負いの獣のようだった。
だが、ふっと一瞬にして文章の顔から恐ろしさが消えうせ、明るい表情を浮かべた。
「部屋に案内してもらうといい。明日にでも、この館を案内しよう。早く馴染んでもらわなくてはならないからね。エドガー、栞、頼んだよ」
「はい」
栞が短く応えると、文章が満足そうに頷いた。
「何か用があったら、ベッドサイドに天井から垂れている紐を引いてごらん。エドガーの部屋にある呼び鈴が鳴るようになっているから」
エドガーを見ると、彼がそっと会釈してくれた。
「さて、それではのちほど……」
そう言いながら背中を向けた文章が、ふっと振り返る。
「君をなんて呼べばいいのかな?」
「……ヒナタです。榊日向」
「サカキヒナタ。サカキ……ふぅん」
彼はなにやら思案し、すっと唇の端に笑みを浮かべた。
「なるほどね」
文章が歩き出すと、エドガーがそれとは逆のほうへ歩き出した。栞は無言で『早く歩け』と視線で示す。
「待って、エドガーさん」
日向が呼び止める。
「あの、この館には他にも誰かいるの?」
すると彼が首を横に振った。
「文章様、栞、そして私だけでございます。もっとも、呼べば無数の者がおります。しかしながら、普段は私たちだけなのです」
それだけ言うと、彼は背を向ける。
「何、それ?」
無数の者がいるとは、どういう意味だろう。首をかしげたが、とりあえず自分と同じ境遇の人間はいなさそうだとうなだれた。
絨毯に靴が沈むのを感じながら廊下を進む。しばらくすると、小さな部屋に案内された。ベッドと小さな鏡台があり、察するにゲストルームのようだった。
栞が部屋の奥にある小さな扉を開ける。その向こうには清潔そうな洗面所と浴室があった。簡素ながら居心地がいい。
日向が部屋を見回している間に、栞が手際よくクローゼットから新しい衣類と靴を用意してくれた。
「お風呂に入ったら、これに着替えて。明日の服はベッドサイドにおいておくわ」
「え、着替え……いいんですか?」
「むしろ今の服は洗濯しても着ないでくれる? 料理人には向かないわ」
栞はずぶ濡れのカットソーとジーンズに視線を走らせた。
「脱いだものは籠に入れておいて。洗濯するから」
「洗濯までしてもらえるんですか?」
「そうよ。ずぶ濡れの格好でうろうろされて、本が濡れたら大変でしょ。とにかく、着替えて」
素っ気無い返事のあと、彼女は踵を返して部屋を出る。エドガーがにっこり微笑んだ。
「では、のちほど」
取り残された日向は呆然とする。『とにかく』という栞の言葉に、それが口癖だった母の真朝が思い出された。
「お母さん……私、どうなるの?」
涙声が虚しく響いて、消えた。
だが、とにかく濡れた格好をなんとかしなくてはならない。日向はおずおずと浴室に入ると、扉の鍵をしめた。
「これで大丈夫……かな?」
警戒心を拭いきれず、何度も施錠を確かめてから、そろそろと濡れた服を脱ぐ。
正直、風呂はありがたかった。もともと冷え性のせいか、雨に濡れて凍えそうだ。おまけに拭いきれない不安が更に彼女の背筋を縮ませている。
シンプルな白いバスタブには柔らかい香りのする乳白色の湯がたたえられていた。そっと手を入れてみると、指先にお湯の熱さがじんとしみる。ちょうどいい湯加減だ。
湯船に身を投じると、お湯が滝のように溢れる。温かさが体を一気に覆っていくのと裏腹に、ぶるっと大きな身震いをした。次いで、どっと体の芯にむかって熱がじんじん伝わっていく。自分の体が思ったよりも冷えていたんだと気づかされた。
「……私、何してんだろう」
ぽつりと呟いた声が天井の高い浴室に木霊して消えた。
母は今頃、何も知らずに店を開けた頃だろうか。帰れないと言われても、納得できるわけがない。なんとかしてタクシーを呼ぶなり道を教えてもらうなりできないものか。
日向はため息を漏らし、手早くシャワーで髪と体を洗ってから用意されていたタオルで体を拭く。用意されていた部屋着はゆるやかなワンピースで、着心地はよかった。
浴室を出ると、ベッドサイドに明日の衣類が籠に入れられて置いてある。床には革靴も揃えてあった。籠の中にあるのは白いシャツに黒いパンツとサロンが畳んである。黒いサロンを広げてみると、まるでカフェの店員のようだ。下着も入っていたが、上下ともにサイズがぴったりだった。しかも靴のサイズまでちょうどいい。
見ただけでサイズがわかるなんて、あの少女はもしかしてメイドではなく仕立て屋なんだろうかと首を傾げる。
髪を乾かして身支度を調えると、ノックがして文章と栞が入ってきた。
「やぁ、落ち着いたかな?」
返事をする前に入ってきたらノックの意味がない。そう顔をひきつらせていると、続けてさきほどのミセス・ハドスンがカートを押して入ってくる。
部屋中に仄かに漂うのはなにやら温かい料理の匂いだ。金属製のクロッシュが被せられて何の料理かは見えないが、デザートのそれは硝子製でケーキが乗せられているのがわかった。
ミセス・ハドスンが日向の肩をそっと撫でる。
「さぞ驚いたでしょう。ゆっくり休んでくださいな。お口に合うといいけれど」
「あ、ありがとうございます」
ぎこちなく礼を言うと、文章が微笑んだ。
「ミセス・ハドスン、ありがとうございました。それでは名探偵によろしく」
「えぇ、ごきげんよう」
「それではおやすみなさい」
文章が指を鳴らした途端、ミセス・ハドスンが煙のようにいなくなった。
日向が思わず悲鳴を上げる。
「消えた!」
「そりゃ、そうよ。主が消したんだもの」
けろっとしている栞に、日向が叫んだ。
「普通、消えないでしょ!」
「ここでは消えるのよ」
文章がにやにやと笑っている。明らかに日向の反応を楽しんでいるようだった。
「今日はお休み。明日、エドガーに迎えに来させよう」
彼は栞を引き連れて部屋を出る。
取り残された日向は、へなへなとベッドに座り込んで呆けてしまった。
一体、何がどうなっているのかわからない。まるで夢のようだと思ったが、ハドスン夫人の料理がいい匂いをたてているのは紛れもなく現実だった。
ためしにスープを一口含む。美味しい。美味しいゆえに、ぽろぽろと涙がこぼれて何も喉を通らなくなった。
ふかふかの枕はいい匂いがしても、自分の家の匂いではない。彼女は枕に顔を押し付けて泣いた。
学校を卒業し、手に職をつけて堅実な人生を歩む。そう信じて生きてきた彼女が、この日、まったく思いも寄らなかった道に踏み出したのだった。
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