第十話 届かないけど繋がっている
届かないけど繋がっている 1/7 ~空気を読まない快晴の空~
快晴だ。空は地平線に向かって青から水色の綺麗なグラデーションを描き、気持ちよく澄み渡って雲一つない。まるで宝石の表面をその内側から眺めているようだ。様々なセミ達の鳴き声が骨に染み入るほどに満ち、ムシムシと暑く、滲み出た汗が滴になって首すじや顎を伝う。夏の朝のお手本だ。
大家さんから話を聞かされて、悠と詩織と亮太の三人は庭に出ていた。亮太は眠いのと眩しいのとでしかめ面気味になっていたが、不機嫌ではない。そんな気分でいられる時間ではなかった。
二号室、横田さん宅から、棺が出てきた。葬儀屋さんと、隣人のよしみで手伝いに来た西園寺さんが、その棺を霊柩車に運んでいく。続いて横田さんの旦那さんが部屋から出てきた。庭にいる悠達に気付いて、軽く礼をしてくれた。悠達が礼を返すと、横田さんは車に乗り込んで、亡くなった奥さんと共に火葬場へと向かっていった。
悠が空を見上げるとやはり、空のくせに空気を読まずに、気持ちよく澄み渡っていた。
横田さんの奥さんがなぜ亡くなったのか悠達は知らなかった。ついこの間の親睦バーベキューでは元気だったし、病気を持っていたという話も聞いた事がない。
アパートの前の道で車を見送っていた大家さんが西園寺さんと二人で庭にやってきた。
「西園寺さん、ご苦労様」
西園寺さんは無言でお辞儀をした。
「横田さんの奥さん、心筋梗塞で亡くなったみたいよ」
悠と詩織は「そうなんですか」「急でしたね」と当たり障りのない言葉を返した。それ以外に何を言ったらいいのか分からない。二人とも横田さんの奥さんの事をあまりよく知らない上に、こういう場には不慣れだった。
「木村さん、垣沼さん、厚かましいお願いだとは思うんだけど、横田さんの旦那さんの事…お願いね。たまに様子を見てあげてほしいの」
大家さんが二人に依頼したのは二人で企画した親睦バーベキューを評価してくれての事だろう。二人は「はい」と返事をしたものの、何をしたらいいのかは全く分からなかった。
*
「一人で食べたくない」という詩織の要望によって、悠と亮太と詩織は夕食を共にした。横田さんの奥さんを一緒に偲びたいし、あわせて大家さんの頼みもどうするか相談したい。
「あのさ、私はまだここに来て一年半しか経ってないから、横田さんの奥さんの事、正直よく知らないんだよ。悠はさ、私より前からこのアパート住んでるよね。奥さんの事、どれくらい知ってる?」
今日の夕飯はそうめん。詩織は薬味のネギ、ミョウガ、ショウガをつゆにこれでもかとぶっ込む。
「いや…正直私もそんなに知らないな。ただ、とにかく笑顔が素敵だったよね」
一般的に誰かを褒める時、「笑顔が素敵」と言っておけば間違いないだろう。だが、横田さんの奥さんに関しては、そんな気持ちでは使わない。その笑顔は、他の人とはレベルが違うと言っていいほど「素敵」だった。
ただ同じアパートに住んでいるだけの悠に、まるで数十年ぶりに再会した親友へ向けているような、優しくて柔らかくて懐かしい笑顔を向けてくれた。悠がそこにいる事を喜んでくれているような感じがして、その笑顔を見られれば疲れも落ち込みもふっとんでしまった。
詩織もその笑顔をよく知っているようで、何度もうなずいた。
「確かに素敵だったよね。私も、あの笑顔見られると幸せだったな。りょうたは?」
「ん、うん」
亮太は大量のそうめんをチュバチュバすすりながらそう言った。あまりピンと来ていないらしい。悠が「そんなに一気に食べるな」と注意し、そのまま話し始めた。
「この前のバーベキューで見せてもらったのが、最後になっちゃったね。私の事を色々聞いてくれたな。『お仕事は何なさってるんですか?』とか『ご出身はどちらですか?』『垣沼さんとは昔からのお友達ですか?』とか」
「おれも『何年生ですか?』って聞かれた」
横田さんの奥さんは誰と話すのも敬語だった。悠や詩織だけでなく、亮太にもだ。誰に対しても丁寧、という人は他にもたくさんいるだろう。だが、この敬語も「敬語を使うのが礼儀だから」という事ではなく「目の前にいるこの人を大事にしたい」という奥さんの願いが伝わってくるような優しい言葉遣いだった。
「旦那さんはどんな人なんだろうね?」
詩織はそう言いながら、小皿に残った薬味を全部自分のつゆに入れ、空になった皿を悠にグイッと差し出した。これは「もっと」という事だ。悠は皿を持って席を立ち、冷蔵庫からネギ、ミョウガ、ショウガを取り出し、まな板と包丁を引っ張り出す。
「バーベキューの時もさ、食べ物とか飲み物とかは、全部奥さんが持ってきてたよね。旦那さんはずっと座ってたと思うよきっと」
「詩織みたいに?」
「うん」
詩織は悠の嫌味をあっけらかんと流し、自分のしたい話を続けた。
「昔ながらのご夫妻だったんだよきっと。亭主関白みたいなさ」
ネギを刻む悠の手が一旦止まった。
「ああ…確かにそうかもね。そんな雰囲気はしてたな」
悠は包丁を置いて振り返った。
「正直言うと、私は亭主関白って言葉、大嫌いなんだよね。『誰が食わせてやってると思ってんだ!』とか旦那が言って、奥さんは問答無用で旦那の言う事を聞かされるだけ。みたいなイメージじゃん? でも、横田さんご夫妻はなんか…素敵だったな」
詩織は何度もうなずいた。
「うんうん。私も同じ。横田さんの旦那さんって、『気難し屋のガンコ親父』って思ってたけど、バーベキューの時は奥さんにもニコニコしてて優しそうだったよね」
「そうだったね」
悠は薬味を刻む作業に戻った。
「横田さんご夫妻はさ、お互いの事を大切にしてたんだよきっと。私も亭主関白って言葉にいいイメージはないけどさ、それとは別に、横田さんの奥さんはすごく素敵な人だったと思う」
「私もそうだな」
薬味の山盛りになった皿がテーブルに置かれると、詩織は待ってましたとばかりに勢いよく取り上げて、遠慮なくガバチョと自分のつゆへ持っていった。
詩織はいつものようにもりもり食べているが、悠はあまり食欲がわかなかった。何かが胸につかえている。でもその正体が分からない。素敵な人だとは思っていたが、横田さんの奥さんとは親密というわけではなかった。なのに、なぜこんなに胸がつまるのだろう。
詩織は口いっぱいのそうめんを音を立てて飲み込み、口を拭いてイスにもたれた。
「おいしかった。…もっと横田さんの奥さんとお話しておけばよかったな。私さ、あんな人になりたいってぼんやり思ってたんだよ。でも何もしなかったな。この前のバーベキューも、私の方が聞かれた事に答えただけでさ、奥さんの事何も聞かなかった。なんで亡くなるまでなんにもできなかったんだろ」
「私も詩織と一緒。あんなに素敵な人だったのに…」
りょうたはお腹いっぱいになってきたらしく、お箸でつゆをかき混ぜてパチャパチャ音を立てている。
「りょうた、行儀悪いからやめな」
「なんで」
「なんでも! とにかくやめな! 言われたら大人しくやめるの!」
問答無用で言う事を聞かされるのが癪に障ったらしく、りょうたは悠に見えない角度に顔をそらせて、「チッ」と小さく舌打ちした。
「りょうた!」
「違う!」
「何が!」
「舌打ちしてない!」
「なんでそれだって分かるの!」
「なんとなく分かるの!」
詩織が声を立てて大笑いし、その笑いを引きずりながら言った。
「悠はさ、横田さんの奥さんみたいにはなれないよきっと」
「え、何それ。なんでなれないって分かるの」
「なんとなく分かるの!」
詩織が面白がってそう言うと、亮太は悠にわざとらしく「うはあっ!」と笑ってみせた。悠は心の中で「チッ」と小さく舌打ちした。
大家さんからの依頼をどうするかは、結局「もう少ししたら二人で様子を見に行く」という、問題を先送りにするような結論に行き着いた。
それしか考えつかなかったというより「自分達みたいな若者が世話を焼かなくても、自分で立ち直れるだろう。だからそれで十分だ」と話が治まったのだ。
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