腑抜けな炭酸

かんがるー

第1話 別れと出会い

 何日か放置したペットボトルの炭酸が、シュワシュワと音を立てた気がした。もう大分炭酸は抜けているはずなのに。私はだるい体を半分起こして、近くに転がったリモコンでペットボトルを手繰り寄せ、机の上にぽんと置いて眺めていた。気の抜けた気泡は今の私にぴったりで、どうも親近感が湧いてしまう。

 一ヶ月前の私はこうじゃなかった。背筋も伸びて、自慢の黒髪は綺麗に梳かし、服装もそれなりに気を使っていた。野田圭吾――彼がいたから。彼とは一年くらいしか付き合ってはいなかったけれど、私にとっては一生の半分くらいは一緒に居た感覚で、彼もまた同じ気持ちだと思っていた。でも、彼にとって私、山下香奈は、過ぎ去る季節と何ら変わりなく、また新しい春が来る頃には荷物を纏めて出て行った。アパートを出た彼の後をすぐに追いかけたのだけれど、交差点で新しい春と嬉しそうに手を繋いで何処かへ消えて行ってしまった。残された私の足元には砂で汚れたサンダルと剥げたマニキュアの淡いピンク。途端に虚しさが込み上げて、信号が点滅しているのというのにその場から動けなくなっていた。

「馬鹿みたい……」

 思えば彼はマメな人だった。ブラウスのボタンを一つ一つ丁寧に外して、皺にならないようにって枕の横に綺麗に畳んで置いてから、私の全身を優しく愛でるような人だった。飲み会で遅くなる日は必ずメールが来ていたし、こっちから用があって送った時も、すぐに返事は返って来た。電話も同じだ。だから私は彼をすっかり信用仕切って疑いもしなかった。

 まさか、嘘を吐いて飲み会だと言った日があの交差点の彼女の部屋に居たなんて――。

 それを彼に問い詰めるとあっさり浮気を認めて別れようと言われてしまった。てっきり、その女と別れて私に泣きながら許しを乞うものだとばかり思っていたから、本当に拍子抜けだった。

適当な服をクローゼットから摘まんで着替えると、つまらない講義なんかのために大学へ行く気にもなれず、昼下がりの公園をぶらぶら歩いた。色とりどりの遊具、シーソー、滑り台、ブランコ、色々試した結果、やっぱりジャングルジムだなと思って、てっぺんに上ると周りがよく見えた。ベビーカーを連れたヤンママに、犬を散歩する派手なジャージのマドモアゼル。私はこの小さな公園を牛耳った気で、エヘンと威張り仰け反った。私の背後の叢で、野良猫たちが交尾しているとしても、何故が今はこの小さな場所、全てを知ったつもりでいたかった。

「あのすみません」

声のする方を見た。ペンキで汚れたつなぎを着て、頭にはタオルを巻いた青年が立っていた。

「そこ、ペンキ塗ったばかりなんで、降りて貰っていいですか?」

ん? と思って登って来たところをよく見ると、コンバースのスニーカーの靴跡がうっすらと残っている。私は慌ててすみません、とせっせと降りてからも、もう一度青年にぺこりと頭を下げた。

「ブランコならいいですよ」

「え?」

頭を上げると、青年はにこっと感じのいい笑顔を見せた。何だか自分よりも若そうな人に、子供と間違われた気分になって、私はなるべく落ち着いた声で「大人でも遊んでいいんですか?」と聞いてから、我ながら間抜けな質問だと恥ずかしくなった。それでも青年は大人だからこそ、とまたあの屈託のない笑顔で答えてくれた。

ふと圭吾と似ていると思ってしまった。八重歯がにゅっと出て、目が細くなるところなんかそっくりだ。右目の下にあるほくろがないけれど、やはり見れば見るほど似ている。じろじろと青年の顔を見ていたせいか、青年はハッと顔を赤らめて、

「もしかして、顔にペンキついてます?」

と頭のタオルを取って顔をあちこち拭きだした。

「あ、いえ、そうじゃないんです。何だか知り合いに似ていたから、つい」

青年はポカンとした顔で私を見てから、「恋人ですか?」と、また笑った。私は慌てて違います、と首を振った。

 恋人……だったんだけれど、今は違う。今は彼女のものだ。フレアスカートが良く似合う彼女の……。

「あ、じゃあ俺、塗りなおすんで」

「すいません」

いえ、と青年は言うとくるりと背を向け、ぺんきの缶や刷毛を傍に置いて腕をたくし上げた。

キーコキーコ、ブランコを漕いでいる間、青年はジャングルジムを塗り直していた。悪いなと思いつつ、素人の私が手伝うわけにも行かず、ただ青年の腕や背中を眺めては圭吾との違いを見つけ出そうとしていた。きっと私以外が見れば全然似ていないのだろうけれど、ちょっとした仕草に彼を重ねては勝手に切なくなって、もう見てられないと顔を背けては、3秒後にはまた青年の背中を見つめた。

 そうこうしていたら、青年はペンキを塗り終えると丁度軽トラが迎えに来た。青年はぺこりと私の方に会釈すると走って行ってしまった。その後姿を見つめながら私は走り方さえも、圭吾に重ね、これはもうとうとう精神病なのではないかと思った。

この得体も知れない気持ちを打ち捨てるように地面を蹴り上げて、私は宙ぶらりんに空を見上げた。

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