@Igumust

第1話

雨はいっこうに止む気配がない。

   路面の水たまりを蹴立てて、停留所にバスが来た。傘をたたみ、濡れないよう足早に乗り込む。車内はいつものようにがらんとしている。最後列に腰を下ろした僕は、重い営業鞄に頭を預けた。

   出勤前から降り続けの雨は、夜になっていっそう勢いを増している。

   ひと眠りしたかったが、揺れるバスの車内ではそうもいかない。冴えぬ頭で僕は車内を見渡した。

   すりきれたシート。無機質な手すり。結露した窓。通路は傘から滴るしずくで黒く濡れている。前の座席に立てかけた僕の傘も、足元に水たまりを描いていた。

   乗客は、運転席の後ろにひとり、優先席にひとり。携帯電話の明かりが、二人の顔を青白く浮かび上がらせていた。終バスの一、二本前。この時間のバスに乗る人は少ない。

   僕の斜め前、通路側の席には赤色の傘が掛けられている。近くに座る人はいなかった。

忘れ物だろうか。

   取り残された傘は、細く縛り上げられていた。雨は夜までに、一度止んだのかもしれない。もし降っていればバスを降りる時、忘れものに気がつくだろう。

   そんな推測をめぐらせながらも、僕はその傘から目を離すことが出来ずにいた。

   暗い車内で真っ赤な異彩を放つ、傘。

   バスと一緒に小刻みに揺れる、傘。

   誰のものかも分からない、傘。

   どこかの誰かが忘れた、傘。

   誰かの思い出の詰まった、傘―。


   たったひとつのその忘れものが、閉ざされていた僕の記憶の扉を、ゆっくりと開いた。


   当時高校二年だった僕はある日、通学途中のバスに傘を置き忘れた。

   ちょうどこんな雨の日のことである。午後から雨が降るらしいから、と母が出かけに傘を手渡してくれたのだった。

   黒い大きな傘。

   持ち手は木で出来ていて、少しゴツゴツしていたはずだ。

   いたく気に入っていたその傘を、僕はなくした。思い出の詰まったその傘を、僕は置き去りにした。

   それが分かったのは夕方になってからだった。

    授業を終え、外に出ると予報通りの雨だった。そこで初めて僕は傘のないことに気がついたのである。

   傘を持ってバスから降りた記憶はなかった。前の座席に引っ掛けたまま、バスを降りてしまったのだった。

   学校中の傘立てという傘立てを探し回った。見つからないと知りながらも探さずにはいられなかった。

下校時刻を過ぎてもまだ―。


   もう既に日は暮れて、雨はさらに強まっていた。

   僕はずぶ濡れになりながら、バス停まで歩いた。大粒の雨が、僕の制服の色を見る間に変えてゆく。

   とても静かだ。

   水たまりを蹴立てる車の音が、遠くから聞こえる。

   雨の音は傘の音だったんだなと僕は思った。


   帰りのバスで家を通り過ぎ、終点のバスターミナルへ向かった。もし傘が終点まで置きっぱなしであったなら、必ず届いているはずだった。

「持ち手が木で出来た、黒くて大きい傘なんです。」

   乗ったバスの系統と時刻を伝え、受付のおばさんに探してもらっても、僕の傘は見つからなかった。

   盗られてしまったんだろうか。

   怒りは湧いてこなかった。ただ情けなさと、後悔と、恐ろしさで胸が詰まった。息が苦しかった。

   取り返しのつかないことをしたのだと思った。

   僕の耳の奥で、心臓が鳴っていた。


   家へ向かう帰りのバスでも、僕は傘を探した。運転席近くから最後列まで、片っ端から座席の下をのぞき込んだ。

   もしかしたら朝と同じバスかもしれない。

   しかしそんな僕の淡い期待は、やはり裏切られた。


   最寄りのバス停から、僕はまたずぶ濡れで歩いた。濡れて束になった前髪が額に張りつく。

   歩いても歩いても、いっこうに家は近づかなかった。足取りが重い。いっそこのまま帰れなければいいと僕は思った。


   力なく玄関の引き戸を引くと、母が出てきた。僕は今にも泣き出してしまいそうで、

「傘なくした。」

とだけ言って逃げるように風呂場に向かった。

   盗み見た母の表情は、ただただ悲しそうだった。

   湯船につかって、僕は泣いた。濡れた手で、無意味に涙をぬぐいながら。

   母が怒ってくれなかったことが、余計に応えた。

   怒れるはずなどなかった。

   あれは―。あの傘は、お父さんのかたみだったのだから。

   トタン屋根をたたく雨音が、止まらない嗚咽をかき消してくれればいいと思った。


   電子音声のアナウンスが、次の停留所を告げる。嫌な汗をかいていた。

   忘れていた過去―。

   思い出すまいとしていた過去―。


   傘をなくしてからしばらくの間、僕は傘をささなかった。あれ以外の傘をどうしても使う気になれなかったのだ。

   あれから雨が降るたびに僕は、自らを責め、後悔し、失った思い出を思い起こそうとした。そして薄れてゆく記憶に、恐怖した。

   あの傘は、僕にとって何だったのだろう。

   あのバスの車内に僕は、一体何を置いてきたのだろう。

   大切でかけがえのない幸せな思い出。同時に、切なくて悲しい辛い思い出。

   それはおそらく、過去そのものだったのだ。

   あの頃の僕は、雨が降るたびに、傘を開くたびに、過去の記憶の扉をも開いていたのだろう。


   高校の合格発表のとき。嬉しさに力いっぱい握りしめた、あの傘。

   中学からの帰り道。初めて出来た彼女とふたりで入った、あの傘。

   お葬式と同じ服装で出席した卒業式。小柄な僕に大きすぎた、あの傘。

   お葬式の次の日、天国にいった、お父さんからもらった、あの傘。

   冷たい雨の降る夜。車に跳ね飛ばされた、お父さんと一緒に、舞い上がった、あの傘。

ゆっくり、スローモーションで、濡れた地面に落ちた、あの傘。

   お父さんと、お母さんと、僕の三人で、仲良く入った、あの傘。

   黒くて、大きくて、持ち手がゴツゴツした木で出来た、あの、傘。


   一度開いた記憶の蓋は、もう閉じることが出来なかった。いつの間に忘れてしまっていたんだろう。でも、全部思い出した。思い出してしまった。

   僕はあの日、傘と一緒に過去を置いてきたのだ。傘という過去を、バスに置き去りにしてきたのだ。

   それで良かったのかもしれない。

あの傘は、あの過去は、子供の僕が持ち歩くにはあまりに大きく、重すぎたのだ。

   

   アナウンスが最寄りのバス停を告げた。僕は足早に通路を進んだ。傘のかかった席を通り過ぎる。

   赤かったはずの傘が、真っ黒に見えた。

   運転手に向かって定期を掲げ、歩道へ飛び降りる。向かいの植え込みに顔を突っ込んで、僕は吐いた。吐かずにはいられなかった。腹の底に、鉛のようにわだかまったものを吐き出さなければならなかった。それは途中から、とめどない嗚咽に変わった。

   あの傘は、背負って生きるには重すぎる。

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