そして彼らはひとり記憶の荒野に立つ

春野

第一章

 法整備されて間もないスカイカーから、祖父は自慢げに降り立っている。

 タカシもそれに倣う様にして降り立ち、それから軽い眩暈を振り払うかのようにぎゅっと硬く目を瞑った。


「タカシ」


「はい」


 呼ばれて慌てて祖父の後に続けば、そこはもう異次元への入り口とも呼べそうな光景が広がっている。

 と言っても妙にメカメカしいだとか、近未来的であるとか言うわけではない。

 逆だ。妙に古めかしいのだ。小物ひとつをとってもそう。大昔の日本を髣髴とさせるその場所は、その『大昔』を生きたことがないタカシにとっては異次元と呼んでも差し支えはない場所だった。


「なにをしている」


 あんぐりと口を広げていたタカシは、その呼びかけにハッとなって再び祖父に追いつくべく小走りをした。

 異次元への入り口は、朱塗りの鳥居。

 その先に続く大通りに立ち並ぶ飲み屋には、洒落た赤いちょうちんが鈴なりにぶら下がってた。

 どの店にも入り口の脇には格子が設けられており、その中には見目の麗しい男や女、少年少女が露出度の高い衣類を身に纏い、通りすがる人々を誘惑している。

 ――お兄さん、お姉さん、旦那さん、そこの御婦人。

 呼びかけは様々ではあったが、女性に対しては妙に気を使った呼びかけで、それがなんだかおかしなものに聞こえてしまう。

 色町ですることなどひとつだろうに、こんなところでも『御婦人』は高尚でいなくてはならないらしい。

 なんとも不便な話だ。

 気取った身なりと態度で、それでも『知り合いに見つかりはしないだろうか』と周囲をやや怯えた様子で窺う女性たちをすれ違いざまに見遣りながら、タカシはこっそりと苦笑していた。


「どうしたんだね」


 タカシの一メートルほど先を歩む祖父に「いいえ」と返事をする。

 御婦人たちを少々馬鹿にしていたタカシだが、実のところ花街を訪れた経験は数えるほどしかなく、

今回の来訪も数年ぶりのこととなる。彼女たちのように緊張こそしてはいなかったが、

なんとなく浮いているような気がして、視線が泳ぐのは止めようがなかったのだ。

 久しぶりに訪れたこの街は、記憶にある場所とは随分と様相が異なっており見るもの全てが新鮮に写る。

 まるで街全体がお祭りだ。性質上、風紀を乱すと批判も多いが、花街の周辺地域が潤った経済状況であるのも、このテーマパークさながらの場所があってこそのものだろう。


「母さん卒倒するだろうなぁ……」


 本家に住まう鬱陶しいほどに過保護な母を思い浮かべ、タカシは苦笑した。


「黙っていればいいだろう」


 独り言のつもりの呟きは、きっちりと祖父に拾われたようだった。

 ――タカシは、日本を代表する企業の御曹司だ。様々な事業を手がけていたが、主となるのはアンドロイドの製造販売だ。おかげさま日本シェア一位の冠はここ何年も譲ってはいない。

 そんな企業の次期CEOとなれば、それなりに大切に育てられ言う自覚もあり、今日のように祖父に連れられ花街へと繰り出したと知れれば母がどんな風に怒り狂うかは目に見えていた。


「お母さんが気になるか?」


「いいえ。そんなことは」


「そうか?」


 祖父は怪訝な顔をすぐさま引っ込めて、慣れた様子で大通りを進んで行った。

 カラカラと音が鳴る。祖父の足元の下駄と言う履物が奏でる音だ。

 彼の服装は着物、足元は下駄と言う、近頃流行している和装姿であった。

 大昔の日本でよく身につけられていたらしいそれは、近頃日本ではブームのようで、老いも若いもこぞって着物や下駄を好んでいた。タカシはと言えば、一度だけ着てみたものの、あの動きづらさに辟易し結局シャツにスーツと言う何の変哲もない服装に落ち着いている。

 タカシは依然鳴り続ける小気味のいい音を耳にしながら、みっともなくはない程度に視線を方々へと走らせ花街の景色を楽しんでいた。


「もう少しで着く。今日の店はそんじょそこらの店とは違うから期待しておけ」


 やけに嬉しそうに言う祖父に、タカシは『この人もまだ現役なのか』と妙な感慨が浮かんだのだった。

 タカシも女を知らぬわけではない。

 星の数ほど抱いた、などと言うだらしがない自慢話をするほどにこなしたわけではないが、年相応にそれなりの経験をしていたし、女をわざわざ金で買うほどに飢えているわけでもない。

 遊女や、もっと低俗な性産業に従事する女を買うこともあったが、それほど『イイ』と言うわけでもなかった。

 人間の体の構造など大した違いはない。首の上についているものが美しいか否かでやる気に差異はでるものの、行為の最中の快感については顔立ちに左右されるものではないだろう。

 祖父には気に入りの花魁がおり、週に何度かこの花街を訪れているというが、そこまで女一人に夢中になれる彼のことをいっそ『可愛らしい』とさえ思えた。


「ついたぞ、ここだ」


「はぁ……」


 タカシは気のない返事をしながらも、大きな興味を示しながらその店を見上げた。

 ――まるで寺だ。

 第一印象はまずそれだった。

 と言うよりもそこは仏堂そのものを模したような建物で、本来ならば、寺の内部へと続くのであろう入り口には格子が設けられ、そこに美しい老若男女が

誘うような眼差しでタカシを見つめつつ座していた。

 数百年前ならば『罰当たりな』と顔を顰める者もいたのだろうが、今は時代も時代。

車が空を飛び、アンドロイドと人間の境界線も曖昧な世の中だ。

それらが存在するよりも先に廃れていった堅苦しい儀式に、

今更敬意や思い入れを持つ者は殆ど居ないのだろう。

冠婚葬祭が廃れて行くに従い、もとより宗教観の薄かった大日本帝国の民は、はますます宗教に関心を寄せることもなくなり、今や寺だ神社は単なるパワースポットと化しているのだから、咎める者など居はしない。

 現代の科学――、生体パーツやら遺伝子治療を駆使して一五〇年以上の時を生きる老人たちでさえ、宗教には全く興味を持たないのだ。タカシたちのような若者ならば、尚更だろう。


「すごい」


 タカシは縦にも横にもやたらと大きなその建物を上下左右くまなく見回すと、妙に感心し、それから噴出した。


「なんだ?」


 突然笑い出した孫に祖父は怪訝な顔をし、それから背を叩き『早く入れ』と促す。


「なんでもありません」


 しかしタカシは笑いを堪えることもできないままに、妖艶な男女が手招きをする店内へと足を踏み入れたのだった。


***


「これはこれは」


 支配人の男は、手もみをしながら祖父へと近づくと恭しく頭を垂れた。

 蝶ネクタイが巻かれた首元から、バーコードが認められ、なるほど、彼はどうやらアンドロイドのようだとタカシ納得をした。

 なんとなく腕の動きが不自然なのはその為だろう。自社製品には遠く及ばないな、というのが感想であった。

 祖父はそれを気にした風でもなく「やあ」と言い、それから「いつものを」と短く指示を出す。


「どうぞ、お座りになってお待ち下さい」


 アンドロイドに言われ、タカシはビロード張りのソファへと祖父とともに腰掛けた。


「痛……ッ」


 尻をそこに落ち着けた瞬間だ、前頭部を鈍い痛みが駆け抜けたのは。


「どうした?」


「いえ……」


 こめかみを摩りながら「なんでもない」と返事する。

 近頃は少しばかり仕事が忙しく、持病の偏頭痛が時折ではあるが突如として現れるのだ。 珍しいことではない。いつものことだ。忙殺されていると、まるで息抜きを請うかのように体が訴えだすのである。


「ただ頭痛です」


「大丈夫なのか」


「ええ」


 本当に大したことはない。いつものことだ。

 それでも気遣わしげに見遣る祖父へと「本当に平気です」と言えば、彼はそれ以上問うことは無粋と思ったのか、大人しく口を閉ざした。

 タカシはたった一人の孫だから、気遣うのも当然と言えば当然かもしれない。

 しかしこうしていい大人である自分へと過保護に接するのは、タカシ自身が恥ずかしくもあるのだ。

 家の人間は過保護で仕方がない。

 タカシはそんなことを考えながら少しだけ目を瞑った。



「お待たせしました」


 支配人のアンドロイドに引き連れられてきたのは二体のコンパニオン型のアンドロイドで、彼女たちはやけに上品な仕草で二人を二階へと誘った。


「楽しんでいってくださいましね」


 妖艶に微笑んだところで所詮アンドロイドだ。

 妙に白けた気分になったタカシであったが、大人しく二階へと続く階段を上って行く。 


「薄暗いな」


 階段は木製で、足によく馴染む絨毯が敷かれていた。

 その感触に気づいたのも数段上ったあとのことで、つまりそんなことにも気づけぬほどに階段は薄暗く、注意の殆どはそちらに持って行かれていたのである。


「なに、そのうち慣れる」


「こちらです」


 コンパニオンが細腕で観音開きの重厚な木製扉を開け放つ。


「あれ……」


 思わず口をついて出た間抜けな言葉は、案内された場所の様相が、自身の想像に大きく反していたからだ。

 てっきり座敷へと案内されるのかと思えば、そこは大広間で、今からなにやら催しものが開かれるようだった。

 予想と異なる展開に戸惑うタカシをよそに、祖父は指定席でもあるのか、コンパニオンを差し置きズンズンと会場を闊歩し、そして部屋の奥のステージに最も近いソファへと腰掛けた。

 タカシも祖父に促されるまま四人掛けのソファを二人で陣取り、座り込む。

 ウエイターが持ってきたワインを飲み干しながら、タカシはこれから起こる『なにか』に期待と困惑を抱いたまま、しかし顔には出さぬように努めながら備えていた。

 それから数度の飲酒と、軽食。 喉を潤すように、と差し出されたのは、汚染度の低い水であった。ボトルの表面に、『除染済み飲料水』と刻まれている。

 腹が少しばかり満たされた頃、ぞくぞくと人々が集まりだし、しかし互いに声を掛けぬまま各々がソファや椅子へと腰掛け始める。

 所謂一等席は、ソファのようだが、タカシは別に椅子でもよかったのに、と考えた。

 深く沈み込むそれに、完全に体を預けながらしかしタカシは欠伸を噛み殺すために唇を噛む。


「……大丈夫か?」


「平気ですよ。少し眠いだけです」


 欠伸ひとつについてあれこれと言われては敵わない――、全く面倒だ、と思いつつ、キリリと痛む頭をひと撫でして微笑んでやる。


「ならいいが……」


「大丈夫です。それよりお爺様、」


 遅れてやってきた二体のコンパニオンが、どうしたらいいのか、と言う顔でタカシを見ていた。


「ああ、君たちは下がってくれ」


 その失礼極まりない言葉に彼女たちは気分を害することもなく――、害しようがないが、素直に去っていく。

 なんのために用意したコンパニオンかよく判らないが、つまりは『箔をつける』ための行動なのだろう。


「お爺様、」


 何事かを呼びかけようとした瞬間、薄暗い大広間はそのままに、舞台に明かりが灯った。


「うわ……」


 眩しさに目を眇めると、その間を縫うようにして舞台は雰囲気をがらりと変える。

 女、男、女、男、男、女、女……、たくさんの人間だ。


「どうだ、美しいだろう」


「……はい」


 思わず目を奪われるような麗し男女が、まるで商品のように舞台に並んでいた。

 いや、彼らも商品には違いないが、その容貌がみな作り物めいているのだ。

 格子の中に並んでいた彼らも美しかったが、しかし今舞台に並んでいる彼らはそれとは比にならぬほどにみな美しい。まるで作り物だ。そんな彼らが全裸で、一糸纏わぬ姿で並んでいるのだからたまらない。

 桃源郷か、或いは幻想か。

 そんな馬鹿なことを思いながら、タカシは舞台を凝視した。

 割れんばかりの拍手が会場を満たす。光りが炸裂する。眩暈がしそうな光りと音の渦の中、タカシはますます頭痛がひどくなるのを感じた。


『紳士淑女の皆様、ようこそお越しくださいました』


 袖から出てきたスーツ姿にシルクハットの男は、慣れた様子でオーバーリアクションを取りながら挨拶をはじめた。

 挨拶は説明に変わり、いわく、ここは競売場であるとのことだった。

 店に出されている男娼や娼婦となにが異なるのかと言えば、『ランク』であるらしい。

 今舞台に並ぶ彼らは『初物』で、なおかつ『出自がよろしい』のが売りのようだった。

 みな没落貴族などから売り払われてきた子女であり、なるほど、タカシが見たことがある顔がちらほらいるのも納得がいく。

 政治が目まぐるしく変わったのは、第五次世界大戦から数年後のことだ。

 国が変わり政治が変わり、突然制度が革められ、お家取り潰しとなり突如として貧しくなった元貴族は少なくない。

 国は変わった。輸出入に対する鎖国が解かれ、飛行機の輸入なども盛んになり、富める者はますます富んだが、 しかし今まで貴族と言う名の頑健な鎧に守られていた能無したちは没落するより他はなかったのだ。

 幸いにもタカシは庶民の、詰まるところの労働階級の頂点に家があったからどこかに売られることも貧困に喘ぐこともなかったわけだが、もし、万が一自分が貴族であったのなら……、と思うと怖気が走る。


『初物としてお買い上げいただくこともできますが、なにせこの見目、この血統、是非ともペットにどうぞ!』


 司会の男は右から順に商品を紹介していく。

 由緒正しきナントカ家の三女だとか、女にしか見えない美しい長男だとか紹介されているが、どうも彼らは飼い主が『抱く側である』ことを前提に売られているようだった。


『入札は現金のみでございます!』


 入札は始まっている。まず競り落とされたのは、開国以前に農民を酷く搾取していた名家のご令嬢であった。

 芋虫を髣髴させるでっぷりとした親父に買われ、早々に舞台袖に引っ込んだ。


『お次にご紹介するのは……』


 明るい声音で笑顔のまま言う男に反して、商品たちの顔はみな暗い。

 人生を諦めたような無表情の者、漁港に引き上げられた魚のような目をした者、赤く泣きはらした顔の者――、誰一人幸せそうな者は居なかった。これから紳士の皮を被ったヒヒジイどもに手篭めにされるのだ、当然と言えば当然であろう。

 ましてや相手はかつては自分たちが見下してきた庄屋などの労働階級の者たちだ。その感情は筆舌に尽くしがたいものに違いない。

 彼らの目には、きっと年若いタカシもその『ヒヒジイ』に映っているのだろう、時折目が合う彼らのうちの何人かはひどく反抗的な目でタカシをにらみ返していた。

 ――これは思いのほか面白そうだ。

 元々サディスティックな性分を持つ自分自身をタカシは自覚していた。

 あの勝気な男娼や娼婦の誰か一人を買い取り思いのまま屈服させたい――、そんな感情が芽生えたのだ。 

 商品の顔を具に見ようと、タカシは一等席でありながら、わきをすり抜けようとしたウェイターに声を掛けオペラグラスを所望した。三等席の客たちが使うもののようだが、一等席の人間が使ったところで問題はあるまい。

 双眼鏡型のオペラグラスには一本の持ち手がついていて、タカシは早速それを覗き込んだ。

 見れば見るほど、みな美しかった。

 女の見場が整っているのは当然として、男も素っ裸でなければ性別が判らぬようなものだとか、はたまた男と判っていても妙な気持ちを抱かざるを得ないような艶かしい体躯を持った者もいた。

 これはヘテロでも少しばかり気の迷いを起こしてしまうだろう――、そんなことを考えつつ、しかしタカシは成人男性に欲情する趣味はてんでなく、その気になれるのは、精々思春期を迎えるか否かと言う年齢の少年だけである。

 とは言え基本的には所謂ノンケであったから、少女を買うつもりでいるが、しかし偶の如何物食いもいいかもしれない、とタカシは口角を吊り上げ考えていた。


「あの首輪の少女が愛らしい」


 祖父の声にオペラグラスを一旦外し、彼の視線の先を再びレンズ越しに見る。華やかな顔をしているが、タカシの好みではない。派手すぎるのだ。


「そうですか?」


 祖父の言葉で気づいたが、時折首輪をした者が居る。もしかしたら抵抗の激しい人間にはそのような措置をとっているのかもしれない。 

 オペラグラスをめぐらせれば、ざっと1/4ほどの商品の首が繋がれていた。

 なにも身につけてない者よりも、首輪つきが気になるのは、おそらくタカシの悪い癖だ。

 抵抗しない人形よりも、うるさく喚く警戒心の強い猫の方が断然そそられる。

 そう、今まさに舞台の端で激しく抵抗をしている彼のような――。

 ボールギャグを噛まされている所為で、顔は少しばかり歪んでいた。

 会場のざわめきによって声はかき消されているが、おそらく出せない声で抵抗の言葉を吐いているのだろう。彼は首だけではなく手足も拘束をされている。

 身をよじり、会場を睨みつけ、そして暴れるのを背後から黒服に押さえ込まれている。

 落札した主人を殺しかねない眼光がそこにあった。

 あれにしよう。タカシは薄ら笑いを浮かべて考えた。


『お次に紹介するのは――』


 シルクハットの男が手を上げる。

 意気揚々とした紹介を耳にしながら、タカシは彼が紹介されるその時を待っていた。


***


 意外にも少年に入札をしたのは四、五名で、彼らはタカシの敵と呼ぶほどの存在ではなかった。

 歪んだ顔の所為か、それとも擦り傷だらけの体の所為か、みな彼のことは差ほど『趣味ではない』ようだった。


「こちらが御落札の御品でござます」


 アンドロイドの手によって、空気穴のある本皮製のトランクはタカシに引き渡された。

 一応服は着ているが、簡素なものであるとの言葉が添えられ、であるから長時間の放置は――、つまり未開封のまま部屋の放っておくのは望ましくない、という当然の説明がなされた。

 店の前で祖父に別れを告げ、馬車に乗って家路を急ぐ。

 スカイカーは大層便利であったが、趣がなく、タカシはあまり好きでなかったのだ。

 御者も馬も当然のようにタカシ自身のものであり、長年の付き合いにある彼らはタカシの足としてどこへでもついてきてくれた。勿論、御者如きがタカシの行動に口出しをするはずもない。

 間もなくして邸宅に到着すれば、手伝おうとする御者を制止して、タカシはトランクを自らの手で運び込んだ。

 道中も、屋敷に入る直前も、トランクはくぐもった唸り声を上げていたが、すれ違う侍女や下男は顔色ひとつ変えなかった。

 尤も、顔色など変えようがない。彼らもまたアンドロイドであるからだ。


「さて」


 玄関から遠い、二階の自室に漸く到着すると、ランプに火を灯してタカシはにんまりと微笑んだ。

 自分でも気味の悪い顔をしているに違いないという自覚は大いにある。

 タカシは、興奮しているのだ。

 あの会場の雰囲気に充てられたのだろうが、性的なそれではなく、初めて飛行機を見たときのような、そんな純粋な興奮で胸が高鳴っていたのである。

 トランクのダイヤルを回し、そして蓋をそっと開け放つ。

 体を胎児のように丸めていた少年は、まず室内の僅かな光りにでさえ眩しそうに目を眇め、それからタカシを見つけると、ひどくきつい眼差しで睨んできた。

 手足は枷で繋がれている。両手は両手同士で足は別――、それならばよかったが、彼はその全てを体の真ん中辺りで繋がれていて、どう足掻いても脱走などできないようないでたちでそこに納まっていた。


「やあ」


 タカシが声を掛ければ、しかし少年はうーうーと唸る。ボールギャグとはなんと味気ない風景だ。

 タカシは近くのデスクにまで歩いていくと、その引き出しに収められたはさみを持って帰ってきた。

 刃物を見て、一瞬怯える少年が可愛かった。


「動くなよ。今、切ってやろう」


 むけられた刃物が余程怖いのか、少年は身を縮こまらせてそして硬直した。

 ボールギャグから滲み出た唾液が、彼の情けない姿に拍車をかけ、しかしそれはタカシの嗜虐的な性分を充分に満たしてくれる。

 刃物が安全に皮膚とベルトとの間に差し込まれたことに安心したのか、少年の体の力が一瞬抜ける。その隙を縫って、タカシはわざと刃先を首の付け根に押し当ててやれば、冷ややかな感触に相当驚いたのか、彼は再度身を硬くした。思わずにやけそうになるのを押し隠し、タカシは一気にそのベルトを断ち切ってやる。


「ほら、取れた」


 よだれで汚れたそれを、手近なゴミ箱に突っ込む。

 ランプの火が揺れると、少年の顔に落とされた影もふらりと揺らめいた。


「名前は?」


 会場で名は叫ばれていたが、しかし落札に夢中で彼のプロフィールなど聞き逃していた。


「……話すことはない」


 勝気な目がタカシを見上げ、数十秒の時間を開けてそう言った。


「いいや、話してもらうよ。俺は君を買った。俺は君の主人だ」


「俺は買われた覚えなんてないよ! ジンケンを無視するっておかしいと思わない!?」


 床に転がったままの姿勢で、首だけ持ち上げ言う姿が滑稽だった。

 くすくすと笑ってやれば、少年は「なにがおかしいんだよ!」と吼える。

 そうだ、これでいい。腹立たしさなど微塵も感じない。ただ、楽しいと思えるだけだった。年が抵抗すればするほどタカシの楽しみは増えていく。


「なんだよ! なにがおかしいんだよ!」


 きゃんきゃんと犬のように吼え、少年は歯を食いしばっている。

 ああ、可愛い。タカシは歪んだ自分の嗜好を恥とも思わずに、少年を見下ろしていた。


「な、なに笑ってるんだよ! 俺を放せよ! チクショウ、放せよ!!」


 ひとしきり吼えさせたところで、タカシはトランクを蹴り飛ばした。

 衝撃に少年が怯えるのは当然のことで、きゅっと硬く目を瞑った少年の横にしゃがみ込むと、更なる恐怖心を煽るために唾を吐きかけてやった。


「自分の立場を考えろ。貴族制度はもうない。いつまで御貴族様の坊ちゃま気取りをするつもりだ? 君の目が抉り取られて体を切り刻まれて豚の餌にされたところで、俺を咎めるものはどこにもいないだろう。何故なら君は俺が買ったなのだ」


「そんな……! ふざけんなよ、俺は俺だけのものだ!!」


「生意気を言っていいと誰が言った」


 細い顎を掴み、タカシは冷えた視線を投げた。

 タカシは貴族の、この貴族的な態度を嫌悪していた。

 なにをするわけでもなく、長く続く家系であるとか金が偶々あったというだけで称号が与えられ、怠惰な生活を国で手厚く保護されのうのうと暮らし、それだけなら兎も角、農民や商人を見下しきり人の上に人を作り、そのクセ、その下々の民の税で贅沢三昧の彼らが嫌いだったのだ。

 世界中で勃発する戦争の所為で、あらゆるものが汚染され、その影響で庶民がバタバタと死ぬ中、彼ら貴族は、その身分を振りかざし、除染された飲料水を、当然のように優先的に確保していたと聞く。

 元々世界レベルで見れば、国内の汚染度が低いこと、さらには確立された除染システムの為に、庶民にも安全な飲料水が配布されるようになった昨今ではあるが、当時の貴族は傲慢に傲慢を重ね、苦しむ庶民を置き去りに、己たちばかりが安全圏にいたのであろう。

 タカシはそれも気に入らなかった。

 顔が歪むほどに頬を掴まれた少年は苦悶の表情を浮かべて「イハイ」と意味不明の言葉を漏らす。


「なにを言っているのか判らないね。ああ、俺が手をどかせば話せるかな。放すつもりはないけどね。痛いか? 俺はこのまま君の顎を砕くこともできるよ。そうされたくなかったら俺の質問に答えなさい」


 一際右手に力を込めると、少年の目に涙が溜まっていった。

 それを確認して手を放すと、まずは最初にした問いと同じ「名は?」と言う質問をした。

 しかし不思議なことに、なんとなくではあるが彼がなんと答えるのかは想像ができた。

 そう、彼はおそらくこう答えるだろう――、


「……ショウタ……」


 そう。ショウタと。

 きっと会場で聞くともなしに聞いていたのが頭の片隅に残っていたのだろう。妙なデジャヴをかき消すようにして微笑むと、掌でショウタの頬をひと撫でした。

 頭がズキンと痛んだが、それには気づかないフリで、タカシは指先に力を込めた。


「そうショウタか。ようこそ、ショウタ」


 にこりと微笑み抱えてやれば、しかしショウタは殊更怯えた顔をする。


「君は今日から俺のペットだ。可愛がってあげよう」


「ふざけんな! 嫌だ! 早くこれを放せ!」


 横たわったまま、がしゃんがしゃんと枷のついた手足を振り回しショウタは叫んだ。

 タカシはしばしの間、彼の暴言を楽しんだ。


「俺の爺ちゃんは大臣をしたことこあるんだぞ! お前なんか、すぐにでも捕まえてくれるんだよ!俺にこんなことをしてただで済むと思うなよ! お前が俺にこんなことをしたってわかったら、お前こそ豚の餌だ!」


 貴族のお坊ちゃまとも思えぬような罵詈雑言が飛び出し、しかし稚拙なそれはいっそ愛らしいほどだ。

 タカシはショウタの前に椅子を置くと、それにすわり、そして口角を持ち上げたままで彼を見下ろした。

 止め処なくあふれ出す罵詈雑言を悠然とした笑みで受け止め、そして彼の呼吸が荒くなる頃を見計らうと、先ほど取り除いたばかりのゴミ箱の中のギャグボールを口内に突っ込んでやる。

 息苦しいのか、それとも恥辱のためか、ショウタは目を見開きタカシを見た。


「お前のお爺様が大臣だったからなんだというんだ? 家はもうないだろう。家は潰れ、そしてお前は売り出された。そうだろう?」


 ただ事実を淡々と述べていけば、しかしショウタの目には涙がたまり、それはすぐさま滝のようにこぼれだした。

 もごもごと何かを言いたげにしているが、如何せん口に異物を突っ込まれた状態ではそれも叶わない。

 タカシは溜息混じりに「諦めたらどうだ。お前はここに居るしかないよ」といいつつギャグボールを取り外すと、ショウタはキッとタカシを睨んだ。

 唾液でぬらぬらと滑るようになった指をシャツで拭い、タカシはショウタの顔を手で掴んだ。


「うるさい、うるさい、うるさい! お父様は俺を迎えに来ると言った!」


「信じているのかい、それを」


 子供の純粋さに呆れと嘲りを隠し切れず、タカシはクックッと喉の奥で笑う。


「なんだよ、なんなんだよ!」


「馬鹿だなぁショウタは。お前はお前の父親が自殺をしたのを知らないのか」


「……え……?」


 ショウタの目がまん丸になるほどに見開かれ、そしてタカシを見上げると「嘘……」と呟くように言った。


「嘘だ、嘘言うな!」


「本当だ。ほら」


 わざわざ女中に探させたのは、ショウタの父の訃報に関する新聞記事だった。 もうひと月も前のものであったから探すのに随分と難儀したが、優秀な女中はきちんとその記事を見つけ出してくれた。

 タカシがざっと読んだ感じでは、これから明るいとは思えぬ未来を悲観して一家心中を図ったようだった。

 唯一手元に残った僅かな財産は自殺当日の晩餐に全てつぎ込まれ、そのスープの中に致死性の高い毒物が混入させられていたようだった。

 自分の顔の横に転がった新聞記事を、ショウタは目を忙しなく移動させながら読んでいた。

 ショウタにはきょうだいが居なかったようだ。なんとか家を建て直そうと試みたものの、金を騙し取られて泥沼化、ショウタは売りに出され、もうどうにもならぬと諦めがついたところで心中をしたようだった。


「嘘、嘘だ……だって、だって……」

 

 迎えに来るって、いっていたもん。

 ショウタはかすれる声で呟くと、そのうちヒッヒッとえづきそして泣き出した。


「嘘だ、嘘だぁ……!」


「諦めろ。お前は俺に買われたんだ」


 嫌だ、嫌だ。お母様、お父様、お爺様。

 果てはペットの犬の名や家に仕えていた庭師の男の名までを口にしながらショウタは泣き続けた。


「お前は他に行くところなんてないんだよ」


 残酷な言葉を告げれば、ショウタの泣き声はどんどん大きくなった。

 耳障りなほどに大きなそれに辟易すると、タカシはショウタを再びトランクに閉じ込めるため、蓋を閉じに掛かる。


「や……、やめて!」


「うるさいからな」


 近所迷惑、とつけたし、それから抵抗をものともせずに蓋を閉じた。

 くぐもった叫び声が聞こえる。

 うるさい、興が醒めたなと一人ごちると、タカシはその部屋のランプをふっと息で吹き消しそして廊下へ出ると、待機していた下男を呼び寄せトランクを地下へと運ぶことを命じた。

 扉の向こうでは、いまだショウタが叫んでいた。


「ああ、地下についたらトランクからだしてやってくれ」


 下男は「はい」とだけ短く返事をすると、タカシの顔を見ることさえせずにトランクを廊下へと引っ張り出した。

 きっと明日の朝にはすっかり大人しくなっていることだろう。


「……!」


 ずきりと頭が痛んだ。

 今日は頭痛がひどい。こんな日に子供の喚き声をいつまでも聞いている必要はないだろう。

 明日の夜にまた来ればいい、と結論を出し、タカシはさっさと自室に引っ込むことにしたのだった。



.........................................


 昼過ぎに目を覚ましたのは、女中が扉の向こうから遠慮がちに「坊ちゃま」と呼びかけたからだ。


「なんだ?」


 寝起きで頭が回らない。昨夜は遅くに帰宅をしたから、眠りにつくのが必然的に遅くなってしまった。どうせ今日は仕事も休みだと気分よく惰眠を貪っていたというのに、台無しである。

 扉の向こうから彼女は「あの」と言いづらそうに切り出す。


「あの、地下室が……」


 騒がしくてたまらない。

 彼女はそう告げた。地下室にはショウタが居るはずだ。食事の必要もないと告げてあるから、使用人たちがわざわざ地下へと赴くことはない。

 となると、ショウタが外にまで聞こえるような声で叫んだり暴れたりを繰り返しているということになる。


「そうか」


「あの」


「大丈夫、今行くから」


 クロゼットからてきてとうな衣類を引っ張り出して身にまとう。着ていた寝巻きはそのまま手に持ち、扉のすぐ傍で待機していた女中に手渡した。


「悪いね、騒がしくして」


「いえ……」


 彼女は目を逸らしタカシを見ようとはしない。

 それはそうだろう、彼女は昨夜までは自分の主人は『全うな男である』と信じて疑うことさえなかったのだ。気持ちの悪いものを見る目をされたとしても仕方がないだろう。

 そこまで考え、はて彼女は生身の人間なのか、それともアンドロイドであるのかと言う疑問が浮かぶが、しかし答えは見出せなかった。

 家の中の人間についてまで殆ど把握していないのは褒められたことではないだろうが、だがタカシはその手のことに深くこだわる性質ではなかった。元来の性質なのだから致し方がない。

 そう、極度のサド気質なのもまたタカシの元来の性質なのだ。

 だから自室から階段を下るなり微かに響いてきたくぐもった音に、寝起きながら興奮を覚えたのだろう。

 地下室への入り口は壁を隔てているが、それでも声ははっきりと聞こえるのだから、近くであったのならどれほど響くことだろう。


「活きのいい子供だ」


「え?」


「なんでもないよ」


 イジメがいがある。舌なめずりしたいような、自分でも不気味に思えるほどの感情を持て余しながらタカシは地下への入り口が設けられた家の中心部へと向かった。


 タカシの住まうこの家は、回廊型をしている。

 邸宅の一階は一二の部屋から成っていて、まるで時計ようだ。

 時計のとおりに番号を振るうならば、玄関の丁度前の部屋は六、タカシが先ほど下ってきた階段のある辺りは一に当たる。

 玄関を開ければすぐさま障子で閉ざされた部屋が姿を見せ、それから首を伸ばして左右を見やっても同じく閉ざされた部屋と長く伸びた廊下があるだけで他にはなにもない。

 見る者によってはさぞや不気味に映ることだろう。

 それぞれの廊下を真っ直ぐ進めば直角に折れ曲がった廊下がまだ続くわけではあるが、玄関からはその様子は窺い知ることができない。

 おまけに、部屋の全ては障子で閉ざされているから、家の様子も、家人の人となりも判断ができぬに違いない。

 きっちりと同じサイズの部屋が並ぶ家は、はっきりと言ってしまえは不気味で、タカシはあまり好きではなかった。

 成人の祝いにと祖父より賜った邸宅であったから文句は言えぬが、しかしこの不気味さよりも更にタカシの頭を悩ませるのは、この不便な家の造りなのである。

 それぞれの部屋に添う形で伸びる廊下は実はその端と端は繋がっていないのだ。

 六を基点として、向かって右に進めば一で廊下は途切れ、逆に進めばに一二で行き止まりになっているということだ。

 何故こんな不便な造りにしたのかタカシには判らなかった。

 さて、ショウタを放り込んだ地下室は一二の部屋にある。

 正確には、一二の部屋の中へと地下へ続く入り口があるのだ。

 タカシは一二に赴く間、そのくぐもった叫び声を存分に楽しんだ。普段は不便極まりない廊下も、今日だけは乙なものと思えるから性欲とは不思議なものだ。

 微かに聞き取れるのは「馬鹿」だとか「アホ」、それから「死ね」という言葉で、貴族のお坊ちゃまにしては如何せん語彙力が貧困だ。

 と言ってもはっきりと聞こえるわけではなく、僅かな音を拾って「そう言っているのであろう」とタカシが脳内で補完しているだけだから、もしかしたらもっと高等な罵詈雑言を吐いている可能性もある。

 いずれにせよそれはタカシへの悪態に他ならぬはずで、そうに違いないと思えば気分が高揚した。

 タカシは確実にショウタの存在そのものを楽しんでいる。

 ようやくたどり着いた一二の部屋の襖を開き、そして現れた純和風の客間の、その床の間へと一直線に進む。

 掛けられた巻物を無造作に捲り、そしてその先に続く扉を押し開くと階段が現れた。

 階段のその先は薄暗く、目視することは困難だ。左手で壁を探ると突起物に行き当たり、

それを指先で軽く押せば、壁に点在する電灯に上部から下部へと流れるように順に明かりが点っていった。

 そしてその微かな光りで満ちた階下をタカシが見下ろすと、まるでそれを見計らったかのように「開けろ!」と言うしゃがれた声が今度ははっきりと響き渡ったのだった。

 地下室に入るにはもうひとつ扉を開けなくてはならない。

 そのような状態でもショウタの声がはっきりと聞こえるということは、相当な大声で叫んでいるということだ。

 その声にほくそ笑む自分自身に呆れつつも、わざと足音を鳴らしてタカシは階段を下る。

 一歩ごとにひんやりとした空気で満たされていくのを楽しみながら足を運んでいく。

 扉は階段を下りきってすぐの場所にある。内部へと続く重厚な木製扉を押し開けば、首輪と手枷足枷が嵌められた姿のショウタがそこに居た。


「おい、お前、これ外せ!」


 タカシを見つけるなりショウタは歯をむき出しにしてそう叫んだ。


「……挨拶もないのか」


「そんなもの必要ない! いいからこれを外せ!」


「それは無理だな。だってお前、逃げるだろ?」


「当たり前だろ!」


 馬鹿正直に答えるショウタに思わず笑みが漏れた。


「なら尚更外せないね」


 タカシの言葉に、ショウタは手足の自由を奪う鎖をガシャガシャと激しく鳴らした。

 そんなことをしたところでその鎖が千切れることはないのは当然判っているだろうが、そうせずには居られない、と言った様子である。

 手は手枷のほかには手錠を嵌めているから、自由は利きにくいだろう。

 それでも手は壁、足は床へと繋がる鎖はいずれも長いから、地下室内のみにおいてはある程度は自由に動ける仕様だ。

 過度のストレスは反抗心を早くに磨耗させる。だからこそある程度の自由――、逃げられそうで逃げられない状況をタカシは作ったのだ。


「これ、外せよ」


 ショウタはタカシを睨みつつ再びそう言った。

 変声期前の可愛らしかった声はすっかりしゃがれている。二、三日大人しくさせれば治るのだろうが、これはこれで味があっていいものだと考える。

 今まで明かりひとつなかった地下に灯された電灯は、少しばかりショウタの緊張をほぐしたようだった。


「眠れたか?」


「眠れるわけがないだろ!」


 それではいつどうやって枷を嵌めたのかと考えれば、下男が力ずくでショウタを押さえ込んだのだろう。腕や足に青あざが残るのはその作業の所為かもしれない。

 傷はつけるなと言っておけばよかったかもしれない。


「眠っておけばよかったのに。一日は長い」


「どういう意味だよ!」


 手負いの獣よろしく歯をむき出しでタカシを睨むショウタにタカシは平然と「今からお前を犯すから」と言ってやる。


「へ……?」


 言葉の意味が判らないわけではないのだろう。しかしショウタは口を開け、そして暫くそうしていたかと思えば急に唇を戦慄かせ「やめろ」と蚊の鳴くような声で言い放った。


「む、無理だ……! 俺、無理だ、そんなの……!!」


「無理? 無理だろうがなんだろうが今からお前は俺に犯されるんだよ」


 ショウタはタカシの言葉に鎖をカシャンと鳴らしながら後ずさった。


「嘘、嘘だろ、だって、だって俺は……」


 そう、ステージ上に立っていた彼らは『特別な』商品なのだ。

 初物で、血統もいい。

 初物とは言え慣らしぐらいは施され、玩具のひとつやふたつは咥え込んだことがあるだろう――、そう思われるだろうが、彼らは正真正銘の『初物』なのだ。


「知っているよ。尻なんて弄ったこともないんだろ?」


「だ、だったら……」


 そんな恐ろしいことはやめてくれと目が訴えているが、タカシはそれに対して「君は俺が買ったんだ」と冷ややかに言い放った。

 何の為の血筋か考えてみれば容易い。

 買い手はかつて貴族であった彼らに鬱憤を抱く者たちばかりだ。

 それらを服従させることにこそ意味があるのだから、体が受け入れやすく作りかえられていたらなんの意味もない。

 一から主人の手で意のままに体を作り変えることができる――、それがこの商品が『特別』であるゆえんなのだ。


「大丈夫、ちゃんと仕込んでやるから」


「や、やめ、やめて……!」


 申し訳程度の綿の衣類は女が着るネグリジェのような形をしていて、それをひん剥いてやれば彼は丸裸になる。

 簡素なそれの裾にに手を掛ければショウタは手を振り回し、爪を立てて抵抗を試みた。

 女がスカートを捲られることに抵抗するような姿は、そそるものがある。


「やめろ、おい、ふざけんなよ、おい……!」


 抵抗は思いの外激しく、そして爪先は時折タカシの頬を引っかいていく。


「おい、おいってば……!」


「……面倒だな……」


 たくし上げるのをタカシはやめて、襟元に手を伸ばし、タカシはそれを一気に引き下げた。

 簡素なボタンが飛び散り、そして布が裂ける音がした。


「なんでもする、だから、」


 布を小さく丸めると、口にへと突っ込む。そうすればショウタはもうしゃべることができない。

 罵詈雑言は楽しんだし、しかしここまで来てこれ以上に弱音を吐かれたら興ざめだ。

 なんでもする? 冗談ではない。それ以上に許しを請われたらタカシのそこは萎えるだろう。

 あくまでも抵抗する気概のあるショウタでいて欲しかったのだ。

 それから数十分の間、ショウタは抵抗を続けた。尻に触れよう物ならば足を振り上げて拒絶を示す。

 望ましい反応だ。


「足を開け」


 くぐもった声では何を言っているのか判らぬが、ショウタは首を振り抵抗する。


「仕方のない子だ」


 呆れたように言えば、勝気な目はキッとタカシを睨み、そうしていたかと思えばやはり馬鹿のひつ覚えか足をじたばたとさせる。

 そんなショウタを放っておいて、これ見よがしに嘆息した。


「足を開けと言っている」


 二度三度と、先ほどと同じように首が振られた。

 目は涙か汗か、そんなもので潤んでいる。


「どうしても嫌なのか?」


 幼子に尋ねるように言えば、今度は首が縦へと振られた。

 そうだ、そう来なくてはこまる。


「困ったな……」


 困ってなどいないが一応は検討をするような素振りを見せるのは、勿論盛り上げるためだ。

 タカシはショウタの手足が届くギリギリの範囲まで遠ざかり、そして背を向ける。

 歯がゆいだろう。あと少しでタカシを襲えるというのに、彼にはそれができない。

 ところで、この部屋の入り口の真横には、ひとつの大振りな桐箱がある。

 下男に昨夜のうちに用意させたものだ。

 ふぅふぅと抵抗するショウタをちらと見遣ると、彼は相も変わらずタカシを睨んでいる。


「ショウタ、あの箱はなんだと思う?」


 判らない。そう言うように、ショウタは視線を落とす。


「面白いものがたくさん入っている」


 面白いのは、勿論タカシにとっては、だ。

 わざとゆっくりと歩み、そしてたどり着いた先でもったいぶりつつ箱を開く。

 蝶番の軋む音が響き、そしてその中に眠る全体的に黒っぽい物体のひとつを取り出した。


「これは鞭だ。ああ、ショウタは乗馬くらいしていただろうから知っているかもしれないな」


 ショウタの顔は面白いほどに血の気が引いていった。

 他にもいかがわしいものは一通り揃っていたが、取り敢えずは鞭とローションを引っつかんでショウタの元へと戻っていく。

「お利巧なショウタには判るよな。さぁ、早く足を開け」


 青ざめたショウタはそれでも強情に足と足の間をくっ付けたままでいる。

 引き裂かれた布を纏っただけの彼は殆ど全裸に近い状態で、その格好だからこそ寒さや恐怖を煽るのだろう。

 床に落とされた視線は最早持ちあげることにさえ恐怖を覚えるのか、床の上を左右に泳いでいる。


「開けろといっている」


 優しげな口調を引っ込めて、途端に命令口調へとなったタカシにショウタはわずかばかりの隙間を腿に空ける。

 それが限界だというような態度にタカシは笑った。


「それで開けたつもりか?」


 ショウタにとって精一杯の譲歩であったのだろうが、タカシはまだ許すつもりはない。


「そうか。判った。それならそれでいい――、嫌でも言うことを聞きたくなる」


 ショウタがタカシの動きを確認すよりも早く、タカシは右手を振り上げた。

 手に持ったのは鞭。

 SMどころか性交さえしたことのないショウタに、タカシはどんな風に映っているだろう。

 振り上げた鞭がショウタの腿へと到達する頃、やっと彼は涙の溜まった瞳をタカシへと向けたのだった。

 パシッと乾いた音が響き、「うー」と言うくぐもった叫びが漏れ出る。

 タカシは休むことなく二発目を繰り出し、そしてショウタの左右の腿へと赤い線を残した。


「どうだ?」


 鋭い痛みにショウタは未だ「うー」と唸り声を上げている。


「足を開く気になったか?」


 ショウタは身を屈めて「うう」と唸り続け、痛みに耐えていた。


「ああ、言うことを聞けないようだな」


 すかさず言えば、ショウタは首を左右に振りそしてあれほど抵抗していた腿に力を緩めて足を大きく開いたのだった。


「……よくできたな」


 えらいね、と頭を撫でてやれば、彼は身を強張らせたままそれを受け入れる。


「四つんばいになれ」


 残念なことに、今度はショウタは抵抗することなく言われたままのポーズを取った。

 もっと抵抗をして欲しいところである。どうも鞭を取り出すタイミングを謝ったかもしれない――、そんなことを考えつつ、タカシはローションを開封して、それを手にたらしたのだった。



 好き勝手に彼の体を弄り始めてどれくらいの時が経過しただろう。随分と長いことこうしているよう気がする。一時間か、一時間半か、或いはそれ以上だろうか。

 抵抗することをすっかりやめてしまったショウタは、タカシにされるがままになっていた。

 相変わらず床へと体を伏せているショウタであるが、その体が震えているのは精神的な打撃からくるものなのかそれともタカシが体を弄り倒しているからなのかは判らない。

 もっと抵抗してくれないと燃えない、と言うのが正直なところだった。

 立ち上がってショウタの顔が確認できる位置へと移動すると、突如降り注いだ影に怯えた様子でショウタは体を揺らした。

 視線がかち合えば、しかしそれから逃れるかのように慌てて目を逸らす。

 最早彼の中には抵抗の意志は殆どなく、心は恐怖で満たされているようだった。

 ――なんてつまらないのだろう。


「なぁ」


 呼びかける声にでさ怯えた仕草を見せるショウタに思わず溜息が漏れた。


「親父さんは、なんでお前を売ったんだろうね」


 タカシの言葉にショウタはゆっくりと視線を上げた。


「どうせ心中するのに、何故お前だけ売り飛ばしたりしたんだろうな」


 涙を湛えた瞳が揺らめいていて、瞬きひとつで雫は零れ落ちそうだった。


「ショウタを裏切って置き去りにして……、きっとお前のことなんてどうでもよかったんだな」


 そうタカシが言った瞬間、芋虫のように丸まっていたショウタは上体を跳ね上げさせ、そして噛み付かんばかりの勢いで身を乗り出した。

 瞳に力が宿り、そしてタカシを睨む。

 ふさがれた口はなにを言おうとしているのかは判然としないが、布きれを突っ込まれた口は必死でタカシへと何かを告げようとしているようだった。おそらく暴言だろう。

 そうだ、こうでなくては困るのだ。

 タカシは立ち上がり、ショウタを見下ろした。


「今日はここまでにしておこう」


 挿入するのはまた次回への楽しみとして取っておけばいい。

 タカシは桐箱まで歩み寄ると、その中に無造作に放置されていた玩具を掴み、再びショウタの元へと戻ってきた。


「俺が明日来るまでこれを入れておけ。ああ、今夜は食事を用意してあげるから楽しみにしておくといい」


「――!!」


 要らない。

 そう言ったようだったが、タカシはそれに構うことなく尻にそれを突っ込んだ。

 悲鳴染みた声が鼻を抜けて響くが、タカシはそれに構わず、もう今日のところは興味を失ったオモチャへと視線を移すことなく地下室を出て行った。

 ショウタはもっともっとタカシを楽しませなくてはならないのだ。

 一日や二日で全てを食らい尽くす必要も壊してしまう必要もない。


「楽しみだ……」


 浮き足立つ心をなんとか沈めて、タカシは地上へ出るべく階段を上って行ったのだった。


◆◆◆


 タカシはデニムでチューリップの花びらを擦りながら、その整備された庭を歩いていた。

 広い庭だ。純和風の邸宅に不似合いではあるが、その家をぐるりと多い囲むようにしてチューリップが植えられている。そして板塀の近くには、背丈を同じくする桜がずらりと並び、タカシを圧巻させた。

 この景色にタカシは見覚えがあった。この庭はタカシが成人するまで住まっていた邸宅――、つまり本家の庭に他ならなかったのだ。

 ああこれは夢だ。タカシは美しい庭を歩きながらそう考えた。

 この場所を知ってはいるが、しかしそれが現実ではないと理解するのは容易いことだった。

 例えば桜。あの庭に植わっていた桜の木は高さが不揃いで、少しばかりみっともなかったはずだ。

 それに、庭の所々はまるでエラーを起こしたかのように、あるはずのないものたちが我が物顔で鎮座している。

 廃棄されたアンドロイドが山積みになっていたり、かと思えば書類の束が放置されていたりする。

 本家を出てかなり長いから、記憶がおぼろげになり、庭の細部までは思い出すことが難しいのだろう。だから庭の様子が部分的におかしいのだ。

 アンドロイドの残骸に書類の山――、それらはタカシの現在の生活に密着しているものたちだった。

 だからこそタカシは『これは夢なのだと』と強く自覚するに至ったのである。

 しかし見事な桜である。現実の桜もこんな風に咲き誇るのだろうか、と考えつつ舞い落ちる花びらを眺めていると、桜の木の向こうから人影が突如として現れた。 


『タカシさん』


 日傘を差した美しい女性だ。彼女は上品そうな笑みを浮かべている。

 あれは誰だっただろうと考えていると、女性は白い手袋をした細い腕を軽く持ち上げて左右に振った。

 そうだ、あれは姉だ。姉のミユキだ。『ミユキ』口内で呟くように言えば、その名前がしっくりと胸に落ちた。

 しみこむ様なそれにホッと一息を吐き、タカシも彼女に向かって腕を振るう。

 夢とはいえ実姉を忘れるとは些かうっかりが過ぎるだろう。

 姉が嫁いで何年になっただろうか。

 ある代議士の家へと嫁いだから、そうそう会えなくなってしまったのだ。

 思えば、もう年単位で会っていないのだから、夢の中で顔を咄嗟に思い出せぬのも仕方がないのかもしれない。

 彼女は裾の長いワンピースを器用に動かしながらタカシに近づいてきた。足早に歩きつつも、チューリップを踏みつけたりしていないのだから感心をせざるを得ない。


『やっと追いついたわ』


 日傘を閉じながら、ミユキは微笑んで見せる。相も変わらず少女めいた人である。

 そんな少女のような彼女だが、どうやら妊娠をしているようだ。

 腹が僅かに膨れ、ワンピースの布地を押し上げていた。


『男の子だって先生が仰っていたわ』


『そう、よかった』


『ねぇ、お腹に触って?』


 え、と躊躇したのはつかの間で、気づけば手首はミユキの柔らかな手に引かれ、そうしてその丸みを帯びた腹へと掌を当てていた。

 姉弟とは言え彼女は異性だから、なんとなく触れることに躊躇したのだ。

 そこは思いの外硬く、なるほど子宮が筋肉だという話は本当のようだと、タカシは妙な感慨に浸る。


『動く?』


『やだわ、まだ動いたりしないわよ。もっと先よ、動くのは。この前もそう言ったわよ?』


『――そうだったかな?』


『言ったわよ』


 もう、とミユキは頬を膨らませ、それから幸せそうに微笑んだ。


『名前、付けて下さいね?』


『――俺が? 何故?』


 名付け親に弟がなるというのは奇妙な話だ。だがミユキはふざけている風でもなく、やや困惑の入り混じった顔で『何故ってどうして?』と逆に尋ね返すのだ。

 さもそれが当たり前の行為であるかのように。


『何故、俺が』


『何故ってタカシさん』


 ザっと風が吹いた。

 風は桜の木を激しく揺らし、姉の髪を乱した。

 花びらが散る。ピンク色の花びらを撒き上げながら、風は強く吹きつけていく。


『ミユキ?』


 花びらで霞む視界の向こうで、ミユキは未だ小首を傾げタカシを見ていた。


『何故って』


 乱れた髪を直しながら、ミユキは艶やかな唇を開ける。


『名前をつけるのは父親の役目でしょう?』


◆◆◆


「……っ!」


 耳に響くのは、目覚ましの音だ。

 不快なその音は、人間工学で計算された『誰もがすっきりと目覚めを迎えられる音』らしいのだが、タカシにとっては鼓膜に直接触れられているかのような気分の悪い音で、あまり好ましいと思えぬものだった。


「起床した。停止」


 誰もおらぬ寝室で、誰に聞かせるわけでもなくそういえば、どこからともなくポーンという電子音が響く。


『脳波を計測します……、起床を確認。目覚まし機能を停止します』


 天井からの声に、渋々とベッドから降り立つと、タカシは今しがた見た悪夢について思いをめぐらせた。

 あれは姉のミユキだった。ミユキとは随分会っていない。最後に会った時には『妊娠した』と言っていたはずだ。

 あんな夢を見るなんてどうかしている。

 性に関するサブカルチャーが比較的おおらかな日本においても、近親相姦が異常であることは間違いない。

 タカシはミユキに対してそんな不埒な感情はいだいたことがないし、いだくほどに飢えているわけでもない。

 夢とは願望や恐怖を象徴的に映し出すもののようだが、それは全くのでたらめなのではなかろうか。

 そうでなかったらあんな夢をみるはずがないのだ。


「坊ちゃま、おはようございます」


 冴えぬ気分のまま自室の扉を開け廊下へ出ると、待機していた女中がタオルを差し出した。


「おはよう」


 滑らかな動きは人そのもので、やはり彼女は人間に違いない、と確証のない考えを導き出した。

 彼女はタカシが階段を下るのを待つようにして、廊下のわきに寄り頭を垂れ続ける。

 それほどまでに恐縮する必要はないと思うのだが、祖父の代から親子で勤めている者が多いこの屋敷では、みながみな、タカシに対してまるで神か王の対するがごとく振舞うのである。

 息が詰まる思いだ――、それでもショウタのような子供を引きずりこむような褒められぬ行為についても誰一人咎めるわけではないのだから、比較的好き勝手にしている方なのかもしれない。

 言われるがままに好きでもない代議士の下へと嫁がされた姉に比べれば、過ぎるくらいの自由を貰っているのだろう。


 

 キッチンで朝食を済ませてから新聞に目を通していると、下男が大振りな旅行鞄をもってやってきた。


「坊ちゃま、御支度が整いましたよ」


「……なんの支度だ?」


 にこにこと微笑んでいた下男は「スカイカーレーシングですよ」とこともなげに告げる。


「なんの話だ?」


 今日は月曜日で、出勤をしなくてはならないはずだ。暢気にレジャーを楽しんでいる場合はではない。


「いやですね、スカイカーレーサーのご友人にお会いして、レーシングの手ほどきを受けると楽しみにされていたじゃありませんか」


 新聞から目を離し、まじまじと下男の顔を見る。冗談を言っている素振りではなかった。

 今日は出勤して、新年が始まり次第早々に発売される新型アンドロイドについて様々な準備があるはずだ。

 発表は現社長である父の役目だが、その傍にタカシはついている必要がある。それについての段取り話し合いもあるし、下男が今しがた伝えた娯楽関係の予定は当分の間――、いいや、そんな馬鹿げた予定は確かに立てていた。


「……忘れていた」


 そう、忘れていたのだ。

 いつもと違う日常――、つまりショウタの存在だ、にかまけていてすっかり忘れていた。

 旧友がこのたび医者からスカイカーレーサーへの転向を果たしたのだ。

 スカイカーレーシングと言えば近頃誰もが注目するスポーツで、タカシも大きな興味を抱いている。

 カフェインが入った脳が、未だに寝ぼけている。

 きっと妙な夢を見て出鼻をくじかれたような気分になった所為に違いないとタカシは考えた。


「坊ちゃま、大丈夫ですか?」


「ああ、平気だ」


 意識は次第にすっきりとしてきた。

 スポーツマンタイプの旧友の笑顔が脳裏に浮かび、そして彼のレーシングマシンに乗せてもらえると思うと心は躍る。それほどタカシはスカイカーを楽しみにしていた。

 だが。


「坊ちゃま?」


 タカシの表情に気づいたのだろう、下男がもう一度「大丈夫ですか」と尋ねた。


「大丈夫だ」


 先ほどと同じように返事をするが、しかしタカシはもうスカイカーに然したる興味を抱いては居なかった。

 そんな自分自身のことが不思議でならない。冷めつつあるコーヒーを啜りながら眉根を寄せるタカシに下男はやはり怪訝そうな顔でタカシを見つめていた。出方を窺っているのだろう。


「すまないが」


 暫しの間を置いて、結局導き出した答えはひとつだった。


「断りの連絡を入れておいてくれないか」


 久しぶりのまとまった休みだ。

 だからこそ旧友と会いたかったはずであるが、タカシが最も興味を抱いているのはショウタだ。彼以上に興味の湧く、面白いことなど今はひとつもなかった。


「――お断りですか?」


「ああ」


 あれほど楽しみにされていたのに。そう言いたげな下男は、しかしなにも言わぬまま「判りました」とだけ返事をしキッチンを去っていった。

 コーヒーを飲み干した瞬間に、ズキンと頭痛が走る。

 また頭痛だ。薬を飲んでおく必要がある。


「悪いが、今日は地下室で過ごす。夕方まで誰も降りてこないよう伝えてくれ」


 女中に申し付ければ、彼女は睫を揺らしながら頷いた。

 ――ああ、怖がらせている。

 彼女にとって、タカシは少し前までは全うな主人であったのだろう。

 世間にとってもタカシは全うな人間のはずだ。今までそう思われるように生きてきたのだ。

 きっといたいけな子供をいたぶっていると世間に周知されれば、この行為が合法であったとしてもタカシの立場はなくなるだろう。

 この悪い遊びがどこかへと漏れ出ることはあってはならぬこと。だがタカシはそれを隠す気にはならなかった。

 何故と問われたところで答えようがない。

 何故――?

 判らない。


「ストレスかな……」


「はい?」


 女中はタカシの声に返事をするが、いいやなんでもないと首を横に振ってやると、仕事があるだとかてきとうな理由をつけて去っていった。

 汚れた食器を片付ける者が居らぬと気づいたのはその後のことで、タカシはそれらを手に取りどうすべきか考えあぐねた結果、調理台の上にそれを放置したのだった。



 ショウタは平らなスープ皿を傾け、皿に直接唇をつけて中身を啜っていた。

 全裸でスープはカトラリーさえ用いずに飲んでいる。

 凡そ良家の坊ちゃまには見えぬ姿であるが、これはタカシが強要したことだった。


「美味いか?」


 椅子に座り足を組み、見下ろすようにして言うと、ショウタはウンでもスンでもなく、ただ一瞬だけタカシを睨んだだけだった。

 尻に入れられた器具はそのままだから、その異物感は気分のいいものではないだろう。


「後ろ、抜こうか?」


 そう尋ねるも、しかし彼はタカシを無視するかのようにスープを飲み続けた。

 組んだ足を入れ替える瞬間、少しだけ空気が動くと、スープの香りに混じってなにか嫌な匂いがした。

 そういえば、連れて来たその夜からショウタを一度として風呂には入れていない。

 そう気づくと何とはなしに自分自身も汚れるような気がして、タカシは「食事が終わったら風呂に入ろう」と提案をした。

 いや、これも提案と言うよりは決定事項で、ショウタが抵抗したとしても譲るつもりはなかった。

 ショウタは返事をしない。

 タカシは彼の首に続く鎖を思い切り引っ張り「風呂に入るよ」と語気を強めて言う。

 ショウタが掴んでいた平皿はコンクリの床に落下し、ガシャンと耳障りな音がし、よくよく見れば皿の縁は少しだけ欠けていた。女中が困った顔をするだろうが、持ち主はタカシであるのだから気にする必要はない。


「判ったな?」


 やはりショウタは返事をしなかったが、彼がジッとタカシを見つめてきたから、それだけで満足だった。

 ショウタはタカシを無視する方向で抵抗を始めたようだった。

 怒鳴っても手足をばたつかせても無意味と知り、最後の手段として持ち出したのが『無視』のようだった。 とは言えまだまだ彼は子供だ、だんまりもそう長くは持たないだろう。

 台無しになった料理はそのままで、手枷と足枷をそれぞれ手錠と足錠に変えてから、タカシは逡巡ののちにショウタを肩に担いだ。

 一瞬、ショウタが空気を盛大に吸い込む気配がしたが、無視決め込むことを思い出したのか、そのまま空気は吐き出され、そして彼は大人しく肩に納まった。


「うちの風呂は広いぞ」


 その言葉も無視しているのだろう。

 これと言った返事も期待しないまま、タカシは地上に上がる階段を上って行った。


 風呂の通称は『二の部屋』である。

 ショウタの重みの分、若干であるが足音が大きくなったのだろう、それを聞きつけた家のものたちが、それぞれの持ち場から顔を出しては、事態を把握するとすぐさま顔を引っ込めた。

 途中女中に声を掛け、てきとうな衣類を用意してくれと頼み、タカシはそのまま風呂場にショウタを突っ込む。

 なにせ衣類を引き裂いた夜からショウタは全裸だ。放り込むのは容易かった。

 浴室に放り込まれたショウタは、なにをするでもなくただ突っ立っている。

 タカシは自身も服を全て脱ぎ捨てると同じように浴室に入っていった。


「……!」


 その姿にショウタは驚いたようで、飛びのくようにして浴室の隅へと逃げる。


「なにをしている」


 だがその問いに答えることなく、ただ身を縮めて怯えた目でタカシを見た。

 背中を向けて、顔だけは捻るようにしてタカシを見ている。

 その稚拙な行動がおかしかった。

 玩具が収まったままの尻をこちらに向けて、なにを保護しているつもりでいるのだろう。

 その姿に、ショウタがまだ子供なのだと自覚し、そしてタカシは最悪なことに、嗜虐心が増すのを感じた。


「来なさい、洗ってやろう」


 腕を半ば無理やり引かれたショウタは、体をよろめかせながらタカシの前へと戻ってきた。

 まずは座らせ頭を洗う。オーガニックのシャンプーは、確か母の趣味だ。女中か誰かが補充を繰り返しているのだろう、減ることはない。

 掌で伸ばしたシャンプーは柔らかな花の匂いがした。

 頭が終われば後は次は体だ。

 タカシはこれと言って声を掛けることもなく、突然ショウタの臀部に手を伸ばしてそれを引き抜いた。


「あ……っ!」


 思わずと言った風に漏れた声は、初めて会った日の幼さの残る声だった。しゃがれた声が元に戻りつつあるのかもしれない。


「痛かったか?」


 それについては、ショウタは黙ったままだ。余程悔しかったのだろう。

 耳まで赤くし小刻みに震えているところを見ると、相当に辛かったのかもしれない。

 少しだけ反省をし、タカシは幾分か優しげな手つきでその狭間を洗ったやった。

 残りはボディタオルでいいだろう。大雑把な自身を自覚していたが、ある程度は丁寧に触ってやったつもりだ。

 手錠と足錠は、ショウタの一挙手一投足に反応して、その都度耳障りな金属音を響かせる。

 これは失敗だったかもしれない。もっと頑丈で軽いものを用意させるべきだっただろう。

 そんなことを考えているうちに、ショウタの体はそれなりに綺麗になった。


「お湯に浸かれ」


 命じられると、意外にもショウタは大人しくバスタブに沈んだ。渋々と言った様子ではあるが、それでも素直にタカシの命令を聞いている。

 自身の体を洗う最中、こっそりとショウタを盗み見れば、時折小さな頭が揺れ、濡れた毛先から雫が滴るのが見とめられた。

 ショウタは体が小さい。

 骨格は華奢、尻も小ぶりで、手足も細い。花街に売り飛ばされてから、まともな食事はしていたのだろうか。もっと栄養のあるものを食べさせたほうがいいのかもしれない。

 ――馬鹿みたいだ。

 一瞬で頭を駆け巡った、まるで善人のような思考に自分自身を嘲笑した。

 稚い子供を閉じ込め好き勝手しているタカシに、娼館をあれこれと言える資格はないのだ。

 なにを急に善人ぶっているのだろう。

 タカシは善人ではない。どちらかと言えば悪人であることは間違いがないだろう。

 ――それならばいっそ。

 蛇口を捻り、シャワーを浴びる。熱いお湯が体中に泡を落としていった。

 落下する泡を視界の端に見遣りながら、タカシは前も隠さずに立った。

 自分を覆うようにして突如として伸びた巨大な影に、ショウタは一瞬遅れを取ったもののすぐさまバスタブの隅へと移動したが、しかし所詮そこは風呂で、逃げられる場所などたかだか知れている。

 乱暴にバスタブに踏み込み逃げ惑う体を捉えると、湯で濡れた体はするりと逃げた。

 背後から近づき、手荒に細い腰へと腕を巻きつけると、獰猛な征服感が湧き上がるのを感じる。


「あ……っ!」


 ショウタが小さな声を上げた。

 男の猛った性器が尻を掠めたのだから、恐ろしくないはずがないだろう。

 バシャリバシャリと、まるで小船が荒波の上を滑るかのような音が浴室に響く。

 相変わらずショウタは言葉を発そうとはしなかったが、手足の抵抗は少しずつではあるが激しくなっている。

 タカシも無言でショウタの体を捉えると、腕の力で華奢な背中を押さえつけて身動きが取れぬ状態へと持ち込んだ。

 

「や、やめ……!」

 

 ここまできて漸くショウタが言葉を発した。

 肩越しに振り返ったショウタの顔は恐怖に満ちていて、だが罪悪感は少しも浮かばないのだから救いがない。


「犯すと言ったはずだ」


「や、やだ、やめて、怖い、やだ……!」


 涙に滲んだ声と、細い手足が抵抗を繰り返す。

 やだ、こわい、やだ。

 言葉は次第に悲鳴に変わり、そのうちすすり泣きに変わった。


「やめ、やめて、怖い……! ねぇ、やめて……!!」


 食事にさえまともにありつけなかったためだろう、ショウタの抵抗はタカシにとっては蚊を叩き落すことよりも簡単で、体力の消耗からか、暴挙の五分後にはショウタはバスタブの縁へとくたりと体を預けていた。

 言葉では相変わらず抵抗を続けていたが、そんなものは抵抗のうちには入らない。


「や、やだ……やだ、」


 弱々しい腕は、二度、三度と振られるが、拘束された上での抵抗は、なんの意味もなさないようだった。


「やめて、やめ……、助けて……、たす……、」


 小さな掌はバスタブの縁を掴んでいる。抵抗をしようと一時的にそこへと預けていた腕は振り上げられるが、しかしバランスを崩したショウタは腹を強か打ちつけた。

 ぐっ、と小さな呻き声が聞こえるが、タカシは構わず腰を固定し続ける。

 随分と乱暴なことをしている。

 その乱暴な行為に興奮するのは、ショウタが『貴族の少年』だったというラベルが張り付いているからか、それとも彼がこんな状況でさ抵抗を忘れないためなのかは判らない。

 ショウタはなおも声を上げ続けた。


「やめて、や……、お父さん、助けて……!!」


 泣き叫ぶようにショウタが言った瞬間、タカシはショウタを貫いていた。



 力を失った体はバスタブにぐにゃりとひっかかり、タカシに対して文句のひとつさえ放つことができぬようだ。

 時折「あ」と短い声を上げ続けているが、しかし言葉と呼ぶには短すぎ、それはどちらかと言うと呼吸の断片のようなものだった。

 ――あっけない。

 出してしまった後は、急激にテンションが下がりつまらなくなる。

 尻を庇うでもなく、ただ力なく壊れた人形のような格好をしているショウタにも、ただ「つまらない」という感情しか浮かばなかった。射精した瞬間に、もうどうでもよくなったのだ。

 興が醒めると、その小さな体も汚物か何かのように直視したいものではなくなる。 

 放っておいたとしても、誰かしらが面倒をみるだろう。

 そう結論付けたタカシは、色んな体液で汚れたバスタブの栓を引き抜くと、一人湯から上がり、シャワーを浴びたのちにはショウタを振り返ることなくさっさと浴室を出て行った。

 脱衣所でタカシが衣類を整えた頃になってもショウタは出てこない。

 だがそれを心配する情さえ、もうタカシには浮かばなかったのだ。

 娼館での生活を少しだけ心配したのは、おそらくたんなる『気の迷い』だろう。

 なにか言葉の使い方がおかしいような気もしたが、『気の迷い』と言う言葉はタカシの胸には随分としっくりと馴染んだ。

 そう、気の迷いだ。

 ショウタを買ったのだって、同じこと。

 毎日ステーキでは飽きるから、たまには不味いものも食べてみたくなるのだ。

 ただそれだけだ。

 脱衣所を出ると、たまたま通りかかった下男にショウタを任せ、自分はさっさと自室に引き上げた。

 あの様子ではどうで逃げられまい。

 そんなことを考えながらタカシは階段を上って行ったのだった。


◆◆◆


 そのカフェは若い女性で溢れていた。

 緑がたくさん植えられている庭は、どこぞの国の御貴族様の庭を模したものらしく、女性に人気の理由はその辺りにあるようだった。

 山も木もことごとく切り倒されている昨今の日本においては、カフェに緑があるということ自体が珍しく、彼女たちがこの場へと惹かれる要因はオシャレであること以前にあるのかもしれない。

 店のど真ん中に鮮やかな緑をそよがせ植わっているのは桜の木だ。あの手の樹木ももう国内には数えるほどしかないことだろう。

 徹底した近代化が招いたのは緑の消失だ。それも国策だというのだから致し方がない。

 戦争と大災害を想定した街づくり――、それは年老いた政治家たちが生み出した苦肉の策だったのだ。

 彼らはみな、半世紀ほど昔の青春時代を戦争一色に塗りつぶされていた。

 はいざと言うとき、か弱い女子供を丸ごとシェルターに避難させられるようにシェルターを作り、若い命が散らぬよう、様々な対戦闘機設備を整えた。

 おかげで国土の殆どは鉄と油の匂いでまみれているが、これも国策と言うのなら仕方がない。

 そう、国策なのだから仕方がないのだ。

 鎖国前、日本は外国と戦争をした。

 おかげで人口の半数以上が死亡し、この大日本帝国の人口は、一時六千万人にまで減少したという。今はなんとか立ち直っているが、それでもギリギリで一億人いるかいないか、といったところだ。

 こんな事態が二度と起こらぬよう、街は、いや辺鄙な村でさえ、この国は作り変えられたのである。

 しかしまぁ、人口が減少したといっても、百坪もない小さなカフェがこの賑わいだ。

 この女性たちはいったいどこから溢れてきたのだろうとタカシは考えつつ、姉の背を追い、高い声が溢れる庭を突っ切っていったのだった。


「こっちよ」


 姉は細い手でタカシの手を握り、引くようにして前を歩いている。

 その手は素手だ。白い手袋を彼女が嵌めていないのは珍しい。

 女性が安易に肌を露出するものではない、と言う考えは部分的な開国をしてからも根強く残っていて、だから彼女はワンピースを身につけているときでさえも、肘まで届く長い手袋を決して外そうとしなかった。

 一体どういう心境の変化があったのだろう。

 タカシは頭の片隅でそんなことを考えつつも、姉に手を引かれるまま、関係者以外の立ち入りを禁じられているカフェのその二階へと足を踏み入れたのだった。

 この店は姉が出資しているらしく、彼女は美味いコーヒーが飲みたくなるとこうしてここを訪れるのだと言う。


「話ってなんだよ」


 タカシは額に浮かんだ汗をぬぐいながら尋ねる。

 二階は屋根裏部屋のような造りで、斜めに傾いた天井には窓が設けられていた。

 その向こうにはリニアモータートレインが走るチューブが宙に浮き、空の景観を汚している。

 今年の夏は暑い。猛暑だとかで、日本全土の空を覆い尽くす、国防も兼ねたシールドの中でさえ、その太陽熱はしっかりと干渉し人々を苦しめていた。

 この国の気温が常春に設定されて、どれほどの時が経ったのだろう。

 雨風の調節が自動的に行われ、更には台風や竜巻などとは無縁となったこの国ではあるが、その調節機能にも限度と言うものがあるようだった。シールド内の気温を最低温度の一度に設定しても、この暑さだというから、なるほど、あちこちで医療機関に運び込まれる事故が多発するわけである。

 過ごしやすい気候に慣れた人々には、この暑さは些かキツいものがあるのだろう。


「あのね……」


 勧められた椅子に座し、タカシはメタルボトルに入ったコーヒーを啜った。


「あの……」


 ミユキの口は、歯切れ悪く何度も「あの」と紡ぐ。

 だが、なかなか「あの」の続きをタカシに告げることができないようだった。


「うん、なに」


 姉は溜息を吐き、それから観念したかのような顔で「子供は男の子ではないと困るの」と続けた。


「え?」


「女の子じゃ、困るのよ」


 ミユキの手は、その下腹部に添えられていた。

 なにか嫌な予感がして、タカシはそのマニキュアの施された爪を眺める。

 嫌な予感がなんなのかは判然としない。とにかく、不快――、いや、不快であることとは様相の異なる、何かとてつもなく不気味ななにかがそこに迫っているような気がしたのだ。

 よくよく見れば、姉の腹は膨れている。

 ああ、彼女は妊娠していたのだとタカシは思い出した。


「女の子だったの」


「……だから?」


 姉の言わんとしていることが、まるで判らない。タカシは迫り来る嫌な予感を振り払うように、コーヒーで喉を潤した。

 ミユキの眉はハの字に曲がり、それから言いづらそうに「でも、人工授精は私は嫌で……」と告げたのだ。


「は?」


「だから、この子、女の子だったの。だからね、この子を堕胎して、もう一度――」


 姉が何を言っているのかが理解できず、タカシは眉間に深いシワを刻み付けた。


「ちょっと、ちょっと待ってくれ。なにを言っているのか……」


「ごめんなさい、タカシさんの言いたいことも判るの。でも、どうしても男の子ではないと駄目なのよ」


 判るわよね、とミユキは幼子を諭すように尋ねた。

 タカシは何故、自分がこんな話をされているのかが判らなかった。

 ミユキは憂い顔で、しかしもう覚悟を決めた顔でそこに佇んでいる。

 堕胎は、もう彼女の中では決定したことに違いない。


「ちょっと待ってくれ、だって――」


 姉がこれほどまでに冷酷であるはずがない。

 いくら代議士の家に嫁ぎ男児を産まねばならぬと言っても、それはまた次に期待すればいいだけの話だ。今回腹に宿った子をわざわざ堕胎するというのは、おかしな話であろう。


「待って。待ってくれ。いくらなんでも堕ろすことはないだろう。だって、だって――」


 だって、折角宿った命なのだ。


「でも、確実に男の子が欲しいのよ。男の子じゃないと、駄目なの」


「なに? どういう意味……、」


「駄目なの。私が男の子を産まないと」


「ミユキ……?」



 椅子に座ったままのミユキの肩を掴もうとすれば、それを避けるかのように彼女は身を捩った。


「だから、ごめんなさい、タカシさん」


 唖然としたまま、タカシはミユキを見下ろした。

 俯いたまま、タカシと目を合せようとしない彼女は、見知らぬ女のように見えてしまう。

 彼女はこんなに冷酷なことをいえる女だっただろうか。いいや、そんなはずはない。

 何故なら彼女は――。


「なあ、考え直そう」


「無理よ」


「何故? だって、男の子ならまた次に……」


「駄目なの、どうしても男の子がいいの。女の子なんて要らないわ。私は男の子を産まないと……」


 頑なになった様子で首を振るミユキに、タカシは閉口した。 彼女は、こんな女ではなかったはずだ。

 タカシの愛した女は――。


「――!?」


 自身の頭を通り過ぎた言葉に、タカシはハッとする。

 今、タカシはなにを考えた? 愛した女? 姉を相手に何を考えているのだ。

 俯いたミユキのつむじを見た。子供の頃はタカシの方が背丈が小さくて、どんなに背伸びをしてもそこは見えなかったはずだ。今では簡単にそこは覗ける。

 いつからそうなった? いつから――。


「タカシさん、怒っているのは判るの。でも……」


 ミユキはやはり俯いている。


「お願い、一緒に病院に行ってくだらさらない?」


 何故そんなことをタカシに懇願するのだろう。


「堕胎には、」


 ミユキがゆっくりと顔を上げた。


「父親の同意が必要なのよ。だから、タカシさん、一緒に病院へ行ってくださらない?」


 ミユキの顔が持ち上がり、涙の溜まった瞳が露になる。

 父親? いったい誰が? 


「お願いよ」


 ミユキはもう一度言った。今度はタカシの目を見て、そう懇願したのだった。


◆◆◆


 寝巻き用のロンTは湿っていた。

 過ごしやすい季節だというのに、タカシは寝汗をかいていたようだ。おまけに襟ぐりは少しばかり延び、その上シワが寄っている。眠っている間に酷く握り締めていたのだろう、体全体はうっすらと汗をかいているのに、掌だけはサラリとしていた。


「停止」

 タカシは呼吸を整えながら、なんとかそう告げた。


『目覚ましを解除します』


 頭上から降る声は無機質にそう告げて、カーテンは自動的に開かれた。


「……っ」


 窓から差し込む朝日は眩しい。強烈な光りに目を細め、そしてタカシは粘ついた唾液を無理やり飲み込んだのだった。

 時刻は午前八時。休日に朝にしては少々早かったが、タカシには眠りなおそうという気持ちが起きなかった。

 ――また、気味の悪い夢を見た。

 この夢の所為で穏やかな眠りが台無しにされた。

 なんと気持ちの悪い夢だろう。生理的嫌悪感は吐き気までをも催させ、タカシは再び襟ぐりを握り締める。

 最悪の目覚めだ。

 欲求不満と言うわけではないだろう。性欲は満たされている自信があった。

 では何故姉のあんな夢をみたのだろう。

 行為に至っている夢ではないだけマシだろうか。


「参ったな……」


 額に浮かんだ汗を拭いながら、タカシはハァ、と吐息した。

 もうすぐ正月だというのに、万が一そんな不埒な夢を見てしまったら、姉の顔を直視できそうにない。

 いくらタカシが性根の捻じ曲がった男だとしても、近親相姦は頂けなかった。

 アダルトコンテンツにおいては、妹モノだとか義理の姉だとか、背徳感を刺激するものはいつの時代も人気があると聞くが、タカシはその手のジャンルにはとんと興味を抱けぬのだった。

 血を近くしくする者同士で行為に及ぶなんて、おぞましいことこの上ない。考えただけで身震いしそうになる。そしてタカシはそのついでのように義理モノも嫌っている。

 義理だろうがなんだろうが、庇護すべき、或いは家族として接するべき相手に欲情するなど畜生のすることだ。


「そうはなりたくないな、流石に」


 だというのに、何故ミユキの気味悪い夢をみるのだろうか。

 無意識に姉の妊娠を心配しているのかもしれない。

 そう、代議士の家ならば男児が生まれたほうがいいに決まっている。

 ミユキの腹に宿っている子の性別を、タカシはまだ知らない。一番最初の夢では男の子だと言っていたが、それはタカシの願望であり、実際はどうだかまだ判らないのだ。


「だからか……」


 きっと姉を心配しているのだ。だからあんな奇妙な夢を見るのだ。タカシはそう結論付けた。

 例えば姉が女児を産み落としたところで、タカシにはそれを変えてやることはできない。

 男児が生まれてくれと願ったところで、子の性別は受精段階で決まっており、願ったところで未来は変えようがないのだ。

 タカシが心配しても詮無いことと充分に判っている。判っているが密かに心配することはやめられない。

 だからきっとあんな夢を見たに違いない。


「あほらしい」


 自分でも非生産的な思考に侵されすぎている自覚があったから、タカシは頭を掻き毟ると全ての感情を洗い流すために部屋をでたのだった。



「お熱があるようなんです」


 タカシが階段を下っていくと、女の声がそう誰かに告げていた。

 声のボリュームは落とされていたが、何とはなしにその声が緊張していることだけは感じ取れる。


「どれくらいだ?」


 今度は男の声がそう尋ね返した。事務的に尋ねてはいるが、こちらの声も少しばかり硬かった。


「三十八度と少し。平熱はあまり高いほうではないようですから、少し心配で……」


「そうか……ご相談しよう。病院に行くべきだろうけれど、ウンと言ってくださるかどうか……」


「いいお返事をいただけると思えませんが。あんな乱暴な……、なにかあったらどうするんですか」


 女の声は切羽詰っていて、誰かを責めるかのように――、タカシを責めていることは明白であるが、そう吐き捨てた。


「やめなさい。私たちが主人に逆らうことは許されることではない。これはその御主人様のご意志なのだから従うしかないのだよ。以後批判は許さない」


 二人の下働きの会話から推測するに、どうやらショウタは熱を出したようだった。

 片方は下男で、片方は女中であろう。

 女中はまだタカシを責め足りないようだったが、タカシを擁護するような下男の発言に、ついには黙りこくった。


「兎に角、私がどうにかするからお前は作業に戻りなさい」


 無理やり話を切り上げるように、下男は短くそうまとめた。

 ――ショウタが熱を出した。

 あれだけ無体をしたのだから、体調を崩すなと言うのが無理な話なのかもしれない。

 タカシは下りかけのまま途中で歩みを止めていた足を動かし、何食わぬ顔で階下へと進んでいった。


「おはよう」


 階段の前にいた二人ははっとした顔でタカシを見遣り、それから下男は掠れ声で「おはようございます」と短く挨拶をした。


「熱を出したのか」


「ええ、三十八度と少しなのですが」


 下男が言うと、タカシは考えるフリを一応は示してみせた。

 医者に連れて行きたくないわけではない。ただ、面倒であったから、自分で連れて行くのが嫌だったのだ。


「差し出がましいようですが、どうか、奴隷の少年に医療を受けさせてあげてください」


 女中は訴えるような眼差しでタカシを見つめ懇願してみせる。


 下男が制止に入るが、彼女は続けた。


「もし、もしなにかあったら――、死んだりしたら、家の名を汚すことになりかねません。お医者様は私が呼びますし、治療の最中は傍に居ります。ですから――、」


「判った」


 タカシの手を煩わすことがないのなら構わない。

 どこまでも冷酷で無責任である自分を自覚しているが、タカシはただただショウタの世話を焼くことが面倒だったのだ。誰かが手を焼くのならそれはそれで楽でいい。

 タカシは頷きつつ、きょとんと間抜け面を晒す女中へと「その件は君に任せよう」と事務的に告げた。

 社の中で使うような冷ややかな言葉に、女中は暫しの間そうしていたが、そののちにはハッとなり「判りました」とホッとした顔つきで返事を返したのである。

 ――とにかくタカシは、ショウタについて手ずからあれこれと面倒を焼くことをしたくなかったのだ。そこまで面倒に思うくせに、乱暴を働くことについては未だ楽しみに思う気持ちがある。

 まるでエラーを起こしたアンドロイドだ。

 自社製品ではその手のリコールは一度としてなかったが、他社製品にはたびたび見られる、『アンドロイドの問題行動』によく似ていた。

 自発的な思考をAIが行い、本来のプログラミングされた思考との間に齟齬が生じ、上手く処理がなされずに、極端から極端に走るという現象がそれだ。

 アンドロイドが思考しないのは遠い昔のこと、今では殆どの場合、彼らはパターンにパターンを重ね、独自の、人間のそれに非常に近い『思考』のようなものを持つ。

 それの夢のような技術こそが問題なのだ。

 例えば、母型アンドロイドが人間の子供を保護という名目で束縛をする『過保護』という行動がある。その一方で、保護だけを熱心に行いそのほかの母としての役目、例えば食事の支度だとか洗濯には一切の手をつけぬネグレクトが見られるのだという。

 本来の家事を行い子供の面倒をよくみるバランスのよいプログラミングの上に、アンドロイド自身が思考し、子に愛情を注ぐ行動に比重がよってしまったが故の行動だ。

 彼らの思考はイコール感情ではない。だからこそ起きてしまう事故なのだろう。

 そしてタカシだが――、タカシはショウタに性欲を抱いている。それもかなり暴力的で熱烈なそれを。

 だが、それ以外については、ショウタに対する興味は殆ど抱けないのだ。

 彼に対する感情は、非常にバランスが悪く、まるでアンドロイドのエラー、それによく似ていた。

 性欲と感情が必ずしも結びつくとは限らないのは、悲しいかな、男の性ともいえよう。

 感情をぶつけられ、体を繋いだとなれば、ほんの少しでもそれらしい――、例えばもう少し優しくしてやろうだとか、丁寧に扱ってやろうだとか――、つまりショウタに対してもう少し『思いやり』のある行動をとってもよさそうなものであるが、タカシにはそれがない。

 一切、ないのだ。全く、これ以上ないほどに、不自然なほどに思い浮かばない。

 ただただショウタを虐めたおしていたぶりたかった。

 頭の中でショウタの顔を思い浮かばれば、そのうち彼の顔は掻き消えそれはいつの間にか裸体を晒し泣いている姿に変わる始末である。

 自分自身の内的なバランスが崩れていることを、タカシは自覚せざるを得なかった。


「いた……」


 頭が痛むような気がする。

 どうやら調子が悪いのは精神的なバランスだけではないようだ。


「坊ちゃま?」


 下男が気遣わしげにタカシを見た。

「いや……、」なんでもない、と手を振り、それから「大丈夫だ」と締めくくる。 

 誰かと会話することが、今はとても面倒だ。

 自室に戻ると言い残し、タカシは再び下りてきた階段を上って行った。


 なんとも気持ちの悪い現状に、タカシは自分なりに頭を悩ませていた。

 そもそも自分は秩序を乱す人間ではないはずだ。

 なにがきっかけでバランスを崩しているのかが、自分自身でも判りかねている。

 姉の夢が原因だろうか。

 そうは思うが、彼女の安否を確認することさえできないのは、彼女が多忙であることを充分に承知しているからだ。

 姉の夫にはまだ幼いきょうだいがたくさん居て、彼女は腹で子を養いつつ、その怪獣のようなきょうだいの世話をも焼いていると人づてに聞いた。

 おまけに敷地内には夫と縁の近い者たちが住まっており、事実上同居状態のようなのだ。

 代議士の一族の考えることはタカシにはよく判らぬが、しかしその状況を聞いただけで、一族内で『新参者』である姉が身重ながらにバタバタと動き回り、生家なぞ気に回している余裕がないことは安易に知れる。

 弟のことなどで気を煩わせてはいけない。

 タカシはそんな風に思っていた。

 そして、ふと疑問が浮かびあがる。

 姉を思う気持ちは多分にある。しかしショウタにはそれがない。一体何故なのだろう、と。

 ショウタにその感情の欠片でも与えてやれればいいのだが――、生憎それらしい感情を抱けない自分がいて、タカシはそれが少しばかり恐ろしかった。

 タカシも薄々気づいてはいた。

 単にショウタが元貴族であると言う嫌悪感意外にも、なにかしらの感情をショウタに抱いているのだ、と。

 その正体がさっぱり判らない。

 ただ、ショウタに対してなんの感情をも抱いていないと無理に思いたがる程の内容であることは明らかだ。


「……ってぇ……」


 こめかみを手首の内側で押さえる。自分のひんやりした手が、少しだけ頭痛を和らげた気がした。

 頭の片隅にモヤがかかったように、感情のその正体――、これは早く突き止める必要がありそうだ。

 早くなんとかしなくてはならない。

 タカシは深く嘆息すると、ベッドへ倒れこんだのだった。



 医者が渋面してショウタの体を観察していた。

 奴隷を診るには所有者の立会いが必要だとかで、結局のところ、タカシはこの場に立ち会うに至った。

 青あざや擦り傷、その他にも酷い怪我を負っているショウタは、医者の前でも不貞腐れた顔を作り

一切口を開こうとはせず、また愛想を振りまくこともしなかった。奴隷失格もいいところである。


「限度と言うものをご存知ですかな」


 年老いた医者は、ショウタの態度についてなひとつ苦言を漏らすことはなく、その代わりタカシへの説教は幾度も口にしていた。


「限度があるのですよ、限度がね」 


 聴診器などの医療器具をしまいながら、医者はタカシに向かってはっきりとそう発言した。


「楽しむつもりなら、限度を知っていただかないと。使い捨ての奴隷ならいいですが、長く、つまり彼が大人になるまでくらいは、と思っているのならそれなりに手加減しませんと」


 殺すつもりはないのでしょう、と問われれば、タカシは「まぁ」と返事するより他はない。

 殺したいわけではない。死んでほしいわけではない。

 長く楽しむつもりなら、なるほど、それなりの手加減は必要だというのは頷ける。


「鞭は闇雲に振るえばいいというものではない。醜い傷が残ってそれを見るたびに萎えては飼って置く意味もなくなるというものでしょう」


 それはそれで別に構わないのだが、傷跡が発熱しているとなれば話は別だった。


「頭は踏みつけてはいけません。尻に大きすぎる異物を突っ込むのも頂けない。全く、愛玩用なのにこれほどの扱いを受けている奴隷を私は始めて見た。殺さないのならそれなりの慈悲を」


 巨大ながま口のようなバッグを閉じると、医者はタカシを見上げ、「暫く虐待行為は禁止」と命令口調で言ったのだった。



「さぁ、地下に戻りましょう」


女中はショウタの手を引くと彼を立ち上がらせた。

塗り薬をふんだんに塗りたくられたショウタは全身が包帯だらけだ。

流石にこの体に無体をする気にはなれず、タカシはされるがままの状態であるショウタを見送った。

女中に手を引かれて歩く後姿は幼い。

女性で、身長が一六〇に満たぬであろう彼女よりも更に小柄で、そして痩せている。

殴る蹴るの暴行を加えることは楽しいが、それを行うためには彼の体力を温存させることも必要だと、タカシは時々忘れかけてしまう。本当に彼のことを性欲を発散するための道具――、肉だとしか思っていない自分自身に少々引いてしまう。


「あ……っ!」


それは突然だった。

女中の声が響いたかと思えば、突然タカシに凝視されていたその小さな背中が崩れ落ちたのだ。

ショウタは木目の床へとぺたりと座り込み、そして体の全てをそこへと密着させていた。

倒れたのだ、と気づくまでに数秒を要した。

タカシがそう認識した時には、下男がタカシの脇をすり抜け、女中は「ショウタ様」と叫び声を上げ、そしてその小さな体は浅い呼吸を繰り返し、横たわったまま小刻みに揺れていた。


「ショウタ様!」


 女性特有の声が鼓膜を揺さぶり、しかしタカシは動くこともできずにその場に立ち尽くし、ただその様子を窺うしかない。

 小さな手が左右に振られ、大丈夫だと訴えているようであったが、タカシから見てもその姿が平気であるようには到底思えぬほどに非力で緩慢な動きであった。

 女中がしきりにショウタを呼び、そしてその合間で一瞬だけタカシを振り返ると窺うような様子を見せた。

 ――それは一瞬のことで、当事者でなければ気づかぬほどの短時間であったが、タカシは確かに彼女が自身に向けて、侮蔑と軽蔑、そして嫌悪感を投げ掛けたことを自覚した。

 雇われの身である彼女は何某かの文句を言うことこそなかったが、己を蔑む視線と言うものはやはり気持ちがいいものではない。


「ショウタ様!」


 彼女は繰り返しショウタを呼んだ。

 やりすぎたのは判っている。また、まだ未熟な体に思い切り無体を働いたことも。

 だが彼は奴隷だ。それも元貴族の。

 下手したら一晩で殺してしまう輩もいるのだから、タカシの扱いはまだ丁寧な方で、それに金を出したのはタカシ自身なのだから、責められる言われはない。

 ショウタはタカシのオモチャで、だから好きなように扱っても誰にも責められる言われはなく――。

 頭の中を言い訳が駆け巡る。幾度も同じ言い訳が頭を駆け巡っていく。


「ショウタ様……!」


「……ぶ……から」


 ショウタはしきりに大丈夫だから、と繰り返すが、医者が言っていたように安静にしている必要がありそうなのは確かである。

 ショウタはタカシのオモチャだ。オモチャ以外のなにものでもない。

 ――だが。

 言い訳が駆け巡るということは逃げを、或いは許しを請いたがっていることだと、タカシはとうとうその事実を認めた。

 ええいままよ、とタカシはショウタへと近寄ると、その細っこい体を見下ろしそしてその様子を窺った。

 包帯を巻いた腕も、足も細い。やたらと、細い。

 少年だからか、それともタカシのやる餌を食べなかった所為か、それとも元来細身であるのか。

 そんなどうでもいい話がぐるぐると頭を駆け巡り、今はそんなことをしている場合ではないはずだともう一人の自分が叱咤した。

 女中はタカシの存在を無視したまま、震える声でショウタを呼んでいる。

 彼女が仕えるのはタカシであってこの奴隷ではないはずなのだが。


「俺が」


 タカシは乾いた唇を舐め、やっとのことでそう搾り出した。


「はい?」


 下男と女中の視線が突き刺さる。

 その視線に気おされ、タカシはやっとのことで「俺が連れて行く」と言ったのだった。



 ショウタは身じろぎさえせず、体を緊張させたまま、タカシの腕に収まっていた。

 抱きかかえて歩くのは癪だったので、まるで荷物かなにかのように小脇に抱えて歩く。

 一二の部屋から下る階段では、危うくバランスを崩して彼を落としかけたが、それでもショウタは悲鳴をあげるでも抗議の声を上げるでもなかった。余程調子が悪いのかもしれない。

 地下へとたどり着けば、そこは相変わらずの打ちっぱなしのコンクリでベッドさえ存在しない。

 入り口のあたりに置かれた例の桐箱の上へと、取り敢えずはショウタを下ろしてみるが、さてどうしたものかと考えあぐねていた。

 一々ベッドを用意してやるのも嫌だ。とはいえ、体調の悪いショウタを布団も毛布もないコンクリの上へと放置することは流石に憚られる。

 一方、ショウタは相変わらず俯いており、体調の悪さが窺い知れた。

 どうすべきなのだろうか。奴隷の身分に相応しい態度を取るならば『何も用意しない』と言う選択が最も正しいものに思われた。

 だが、それでは彼を長く楽しむことが難しくなってしまう。

 だが、なにか用意してやることもタカシの意に反するのだから困ったものである。

 第一それは俺のキャラではない、とわけのわからないことを考えているうちに、ショウタは桐箱の上で力なくその姿勢を崩して横たわった。

 ――これは本格的に調子が悪いのかもしれない。


「おい、」


 パシッと乾いた音が、地下一階のコンクリに反響する。

 一瞬なにが起こったのかよく判らなかったが、どうやらタカシはその手を払いのけられたらしい。

 どこにそんな体力が残っていたのだろうか、桐箱の上に身を横たえながらも、ショウタは生意気な視線をタカシに向け、嫌悪感と侮蔑の念を必死で示していた。


「触るな……!」


 僅かに鼻に掛かった声は風邪の所為だろう。

 潤んだ瞳はタカシを睨んでいるが、昨晩ほどの力はない。

 ああ、なんだ、まだまだ余裕はあるではないか。

 そんな風に思ってしまう自分は鬼畜に違いないとタカシは考えた。


「この期に及んで抵抗か」


「……っ!」


 横たわったままの体の、その背中を足で踏みつける。小さな背中が軋むのを感じたが、タカシは構わずその背を何度も踏んだ。


「どうした、声を上げればいいだろ」


 強情にもショウタは口を引き結び、その痛みに耐えているようだった。

 潤んだ瞳が更に水を湛えるほどにそれを繰り返すが、しかしショウタは痛いの『い』の字さえ発することはない。

 なんて強情で、なんて生意気で、なんて、なんて――、楽しいのだろう。

 己の歪んだ癖を十二分に確認しながら、タカシは痩せた腕を掴んで、背中側に捻り上げてやる。


「ぃたい……っ!!」


 ショウタは漸く声を上げた。そうだ、この声を聞きたかったのだ。

 悲鳴を、泣き声を。一度堰を切ってしまった痛みに対する訴えは、もう我慢することはできないのだろう、ショウタはか細くしゃがれた声で『痛い、痛い』と繰り返した。

 もう我慢などできない。タカシの嗜虐心に火がつき、そして燃えていた。



 てきとうにローションを塗りつけた指を、乱暴に尻へと宛がった。

 ショウタはその身に降りかかろうとしていることをいち早く察すると、手負いの獣のようによろめきつつ、無様に桐箱の上を這い回って見せる。

 逃がさないというように、タカシはその腰を思い切り引っ張ると、有無を言わせず固定しそして動きを封じた。

 弱々しい動きを片手で抑えることは容易く、ショウタはあっという間に胸と桐箱を密着させる形に至った。

 やめろとも怖いとも言わず、ただショウタは折り曲げられた腕を伸ばそうと苦心しているが、しかし大の大人の手で押さえられては全く抵抗ができず、ただただ芋虫のように上半身を蠢かせるしかない。

 ショウタは歯を食いしばり抵抗を続けた。

 やがてすっかり下準備を終えた頃、タカシはふとショウタの変化に気づく。

 ――彼のそこは、反応を示していたのだった。


「なんだ……」


 呼吸の合間に嘲笑するようにそういうと、ショウタは真っ赤に染まった目でタカシを睨み、そして羞恥のためか俯いた。


「淫乱」


 そう告げてやると、ショウタの呻き声が止まった。

 おや、と様子を窺えっていれば、そのうちかみ殺した呼吸は次第に抑えきれなくなったのか僅かに漏れ始め、そしてそれらは嗚咽に変わっていった。

 どうやらショウタのプライドを木っ端微塵に砕いていしまったようだ。

 熱が出て気が弱くなっているのかもしれない。泣き声がタカシの嗜虐心にまた火をつけると知ってか知らずかショウタは声を殺して泣いた。

 だがそれも時間の経過とともに鳴き声に変わり、そして喘ぎ声に取って代わることをタカシは経験上知っている。

 ――案の定、暫く攻めたてていれば、ショウタは甘い声を漏らし始め、その上器用に、自ら尻を動かし始めたのだ。

 ショウタの痴態を見下ろしながら、タカシは満足げに、そして残酷に微笑んだのだった。

 甘い声が地下室に響き、それは抵抗の色など微塵もなく、ただ気持ちよさに喘ぎ溺れているような、いやらしくも卑猥な声だった。


 行為の後、汚れた体を桐箱に預け、ショウタは脱力していた。

 肩甲骨が揺れ、そして両足もブルブルと痙攣している。絶頂の余韻に浸ったままの体は、あらゆるもので汚れきっていたが、発熱も相まって、自分自身に構う気力もないようだ。

 はぁはぁという呼吸が響き、それがどちらのものなのか判らないほどに入り混じる。

 真っ赤な頬に、真っ赤な唇。

 吐き出される吐息は火のように熱く、そして汚れた頬に触れればそこも同じように熱を放っている。

 汗や、涙、唾液、そして僅かにぬるついた液体で、ショウタの顔はグチャグチャに汚れていた。

 その顔を穢してやったのは勿論タカシで、貴族のプライドを完全に踏みにじってやったような、深い満足感で心が満たされる。

 ふいに、足音が響いた。

 それから、何かを落下させる音。


「なに……」


 下男であった。

 衣類だの毛布だのをまとめて運び込もうとやってきたのだろう、しかし彼はその手に抱いたもの全てを床へと落下させ、そして青ざめた顔でタカシを見ていた。

 いや、その視線はタカシへと送られるよりも、ショウタに向かっていた。


「なにをなさっているんです……!!」


 激怒、憤怒、つまりは怒りに染まった声がそう叫んだ。

 その怒声にショウタはぴくりと身じろぎし、そして億劫そうに顔を持ち上げる。

 タカシのショウタへと伸ばされた手は――、あろうことか、下男の手によって叩き落とされた。


「おい……」


 下男ごときがタカシの手を払い落とした事実が不愉快であった。

 男は持ち込んだタオルでショウタの体を清め、そして地を這うような声で「お医者様の言葉を忘れましたか」とタカシを責めた。

 下男に責められる言われはない。ショウタは、タカシが金で買ってきた『モノ』だ。好きに扱ってもいいはずである。

 手を伸ばし、奴隷に触れようとする。だが下男はさせるかと言わんばかりに自分の身を盾にしてショウタを庇った。


「お前……ッ」


 タカシは強引に下男の肩を引っ掴んだ。

 みしりと軋むような音がする。それでも下男はその場をどかず、タカシを見上げた。


「どけ!」


「どきません!!」


 強情にも下男はショウタを庇い、そして睨んでいる。

 この家に召抱えられている人間とも思えぬ行動だ。

 タカシは激昂している自分を自覚しつつ、その腕を振り上げた。

 それは、タカシのオモチャだ。タカシが買ってきたオモチャのはずだ。オモチャをどう扱おうがタカシの自由のはずだ――。


「動かないでください! 触らないで!」

 

下男はそう叫んだ。


「……ッ」


 その瞬間、タカシは硬直した。

 振り上げられた腕はその形で止まり、踏み出そうとした足も床へと張り付いたままだ。

 普段は従順な下男が反発した所為か、或いは睨みつけた所為か、タカシは一歩も動くことができなかった。

 畏怖しているわけではない。従っているわけではない。

 ただ、動けなかったのだ。なにか呪縛のようなものが体中に絡みつき、それはタカシを化石のように硬直させた。


「貴方はおかしい……!」


 俯き表情は見ない。だが下男は小刻みに震えながら、絞り出した声でタカシの異常性をはっきりと指摘した。


「狂っている……!!」


 たっぷり十秒は間が開いただろうか。互いに距離を保ったまま、暫しの静寂が地下室を満たしていた。

 肩を震わせていた下男は、突如タカシに背を向けたと思えば、毛布で手際よくショウタを包みだし、そして自らの腕にそれを抱いた。

 首から上だけを出した状態で毛布に包まるショウタの顔は、死体のようだ。下男は心配そうにショウタを見つめ、それが終わると地上へと向かうべく足を踏み出した。

 地下に、足音が反響した。下男が歩くごとに毛布の端がゆらゆらと揺れ、タカシはその動きに酔いそうになる。

 そして、どうしたのか、地下室の入り口まで歩いた彼は急にピタリと歩みを止めた。

「もう年末です……ご自分のお部屋の掃除はご自分でお願いします。あとはお好きになさってください」

 先ほどとは打って変わった穏やかな声がそう告げる。

 その瞬間に、タカシは振り上げられた腕をゆっくりと下ろしたのだ。

 手を上げていたことさえ忘れていた。

 融解するように、急速に体全体の強張りは消え、タカシはそれと同時に吐息する。

 ――貴方はおかしい。

 そんなこと、タカシ自身が一番よく判っている。指摘されるまでもない。

 近頃、突き動かされるようにして、突如として噴出する強い嗜虐の癖は、留まることをまるで知らず、その獣がひとたび目を覚ませば、タカシ自身でさえもコントロールが難しくなるのである。

 もとよりそのような性質は持ち合わせていたのだろう、しかし近頃のタカシはあまりにもおかしい。

 そんな己の異常性を誰よりも自覚にしているにも関わらず、『ショウタは元貴族の奴隷なのだ』という言い訳のもと、彼を躊躇なく犯す自分のこともよく判らなかった。

 そしてそれになんの罪悪感を覚えない自分自身を自覚し、かつ至極冷静にそれを観察できる自分もそこに同時に存在するのだ。

 行き過ぎている自分の異常性を認めながらも、だからなんだという風に、何ひとつ反省することができない。

 もっとこう、なにかしらせめぎあうものがあってもおかしくはないはずだ。

 タカシは汚れた手で髪をかき乱した。

 そう、これも『悩んでいる体』を自分自身に向かってアピールしているだけで、タカシ自身は何も悩んでいない。

 自分はこんな不気味な生き物だっただろうか。

 どうも調子が悪い。

 タカシは立ち上がると冷ややかに地下室を観察し、それに飽きると上階へと向かうべく階段を上りだしたのだった。



 翌日、空は快晴だった。大掃除日和である。

 しかし、大掃除と言うものは概して楽しい作業ではない。

 一年分の汚れを掻き出し、新年に備える。

 寝るためだけに帰っている自室は、殆ど使われていないくせに埃はあちらこちらから姿を現した。


「くそ、なんだこれ……」


 絡みきったコードの束に、埃を被った記憶媒体、それに無造作に本棚に置かれたフィルム型パソコンは随分と昔に廃れたものだ。

 去年もこうして大掃除を行ったはずだが、その様子がどうであったのかタカシはまるで覚えていないし、そもそも去年も片付けたはずだというのに、何故、既に化石と化した電子機器が自室にあるのかが判らなかった。

 要らないものは捨てる。ただそれだけの作業がどうにも難しい。

 とりわけ本棚の中身は酷いもので、もうとっくに電子書籍で入手した書籍が、一冊どころか二、三冊重複している場合もあった。

 まとめて捨てようと本棚に手をかけ、不要なものをどんどん抜き出していく。

 と、タカシは手を止めた。

 分厚い『AIの基本構造――思考とは何か 第十版』なる本の横に添えられるようにして置かれていたのはアルバムだった。

 中身は何の変哲もない、ごく普通のアルバムだ。

 祖父がいて、そしてミユキとタカシがいた。二人で写っているもの、家族全員で写っているもの。父や母の写真はそこにないのは、きっと彼らが撮影者として写真に参加しているからだろう。

 そこには人間らしい微笑を浮かべる自身が居て、不思議なものを見ているような気分になった。

 近頃、こんな風に普通の人間のように微笑んだだろうか。

 学生時代のタカシは、ダサいことこの上ないシャツとニットベストで微笑みながら姉と一緒に写真へと収まっている。

 懐かしかった。この写真は確か、この国が漸く開国された状況に慣れ始めた頃だろう。

 日傘を盛って少しだけ首を傾げた姉の顔に、タカシは指先で触れた。

 ミユキは元気だろうか。近頃はメールでさえ届かなくなった。

 あの人は、元気だろうか――。

 もう一度写真を指先でなぞると、姉が微笑んだような錯覚を覚えた。



『タカシさん』


 声が耳に木霊する。そう、鈴のような声をした女性だった。


『このお洋服、おかしくないかしら?』


 服装にとても気を使う人だった。


『もう、それじゃあ判らないわ。どれでもいいのね、男の人って』


 困った顔でさえ、美しい人だったのだ。

 会いたいと思う。姉の腹の子も心配だ――、男の子であればいいのだが。

 代議士の家に嫁いだ以上、望まれるのは男児だ。女児とて可愛いものであろうが、政界で生きるにはやはり男の方が有利であることは間違いない。

 他の職業なら兎も角として、やはり政治家は男、と言う意識が未だに根強い。

 タカシにはどうしてやることもできない問題であるが、できることなら男児を、と望んでしまう。

 優しい姉が苦しむ姿を弟としては見たくはないものだ。


「坊ちゃま」


 と、扉の向こうからノックとともにタカシを呼ぶ声がした。

 下男だ。


「……」


 すぐに返事をしてやるのは癪だ。下男は雇われている身でありながら、タカシに背いたのだ。本来すぐに解雇してもいいところを、タカシにその意思がないことに感謝してもらいたいくらいである。


「坊ちゃま、すみません」


 再びのノックにタカシは顔を顰めた。

 アルバムを手にしたまま、扉に向かう。


「なんだ」


 扉越しに返事すると、タカシは耳をそばだてた。


「あの、お話があります」


 タカシはこれ見よがしに溜息を吐くと扉を十センチほど開けた。どうせこのまま意地を張って開けずに居ても、下男は扉の前に居座り続けることだろう。


「なんだ」


 タカシは下男の顔を見遣り――、そして口をつぐんだ。

 彼の頬は赤くはれ上がっていた。

 慌てて扉を最大限に開けると、「それはどうした」と問う。


「ああ、これは大したことでは……」


「いや、拙いだろう。どうしたんだ」


 ここは彼の職場だ。怪我をしたとなれば雇い主であるタカシは病院へと連れて行く義務が発生するのだ。


「……少年に、少し蹴られまして。いえ、あの、わざとではないんです。意識を取り戻した直後のことでしたので、私を坊ちゃまと勘違いして抵抗されたのでしょう。それで……」

 

 なるほど、事故と言うことらしい。


「あの、どうか、どうか少年を叱りつけたりはなさらないで下さい。私の不注意でもありますから」


「それはどうでもいいが、痛むか?」


「少し痛みますが平気です。それより、先日のご無礼をお詫びに参りました」


 頬を赤くした下男が深々と頭を下げた。


「やめろ、お前は悪くはない」


 ただ、自分が少しおかしいだけなのだ。

 原因不明の、常軌を逸した欲求に囚われる。

 ひとたびスイッチが入れば、もう止まらないし止められないのだ。

 タカシはまた髪をかき乱した。そしてはっとした。

 また『自身の行動に困惑している体』を自分自身へと向かって示している。

 何のためにそんなことをするのか判らない。


「坊ちゃま……?」


「いや、なんでもない。近頃は私の行動も行き過ぎている。お前が私をああいいたくなる気持ちも判る」


「坊ちゃま」


 下男は視線を泳がせ、それからまた頭を下げた。


「本当に申し訳ありませんでした」


「いや、いい。それよりそこ、冷やせよ」


 はい、と言う返事を待たずに、タカシは扉を閉じた。

 タカシは意味の判らないわだかまりが腹に巣くうのを感じていた。

 一体なにが自分の中で起きているのかが判らない。

 下男の頬の怪我は心配できる。遠くはなれて暮す姉のことも。

 だというのに何故ショウタに対してのみ、ああまで残酷で無慈悲になれるのか、自分でも理解ができなかった。

 奥歯をきつく噛み締める。

 するとこめかみにギュッとした痛みが駆け抜けていった。

 近頃の頭痛の原因はこれかもしれない。

 タカシはアルバムをベッドの上へと放り投げると、自分自身も横になったのだった。


◆◆◆


 タカシは庭に立っていた。

 庭は部分的に奇妙で、これが夢と気づくのは容易かった。

 夢と気づいても足が動かぬのは、目の前に展開された光景があまりにも不可思議であったからだ。

 ミユキが庭を駆けていた。少年と一緒に、だ。

 真夏の庭は太陽が照りつけ快適とは言いがたい。

 額に浮かんだ汗を拭いながら、タカシはミユキと少年をジッと見つめていた。


「待って、危ない!」


 ミユキが少年に声を掛けた。


「ほら、お靴。紐が緩んでいるわよ。言ったでしょ、怪我をしてはいけないと」


「ごめんなさい」


 少年は謝ると、しゃがみ込んで靴紐を結び直しているようだった。

 微笑ましい光景である。

 タカシはいつしか背中の筋肉を緩め、緊張をほぐしていた。

 こんな幸せな光景に、なにかこの身を危険に及ぼす出来事など起こりえない――、そう思いながら、こちらに気づいたミユキに向かって手を振ったのだ。


「タカシさん」


 日傘を差したミユキが手を振った。

 ああ、ワンピースの裾が、枯れた芝生で汚れている。

 あれらの汚れは、庭を駆け巡った時のものかもしれない。


「ワンピース、汚れている」


「あら」


 タカシの指摘に、ミユキは今気づいたといわんばかりに裾を見遣り、そして苦笑した。


「私ったら、駄目ね」


 傘を少年に預けると、ミユキはワンピースの裾を積み間見上げ、それを観察するようにして見せた。

 たくし上げられた裾は、膝を露にさせ、骨ばったそこがタカシの目に飛び込んでくる。


「……?」


 タカシは、奇妙な違和感を覚える。

 彼女は、こんな風に膝を安易に見せるような女性ではないはずだ。

 しかしタカシの違和感をものともせず、彼女はスカートの検分に夢中である。

 汚れた裾を、美しい手がなでる。ひとなでごとに汚れは落下し、しかし細かな汚れまでは取れのようで、白いワンピースは部分的に茶色く染まってさえいた。

 なにか、その汚れがひどく不吉なものに思えてならず、背中がぞわりと粟立つ。 


「着替えておいで」


 冷静に、何気なさを装って進言すると、ミユキはゆっくりと顔を上げ、そして口角を吊り上げ微笑んだ。

 ――不気味だと。

 タカシは、敬愛する姉の微笑が、ひどく不気味に思えたのだった。

 違和感がひどい。夢の中だとはいえ、この奇妙な感覚はなんだ。

 ミユキを気味悪く思うことなど、あるはずがないのに。

 

「そうね、着替えてくるわ」


 ミユキはゆっくりと立ち上がった。

 いや、立ち上がろうとしたのだ。

 その動きはは途中で途絶え、そして彼女の動きは完全に止まったのだった。


「ミユキ……」


 タカシはその様子を息を呑んで眺めていた。

 ただ、アホのように。


「駄目だよ」


 そう言ったのが少年だと気づくまでには時間が掛かった。


「駄目」


 少年はそう言うと――、傘を、そう、その手に持った傘を、傘を――。

 ミユキの胸から抜き取ったのだ。


「……え……?」


 ミユキの白い頬に、鮮血が飛び散った。

 それから崩れる体。

 細い体が力をなくしたようにがくりと崩れ、そして、倒れこむ。

 まるでスローモーションのようだ。

 細く小さな体は芝生の上へと倒れこみ、そして庭は、ワンピースは、土汚れなど比にならぬほど赤黒く汚れていた。


「駄目。駄目だから」


 ドサリと言う鈍い音がして、日傘が放り出された。

 真っ赤な光景に、タカシは未だ立ち尽くしている。


「ミユキ――!」


 声を張り上げ、彼女に駆け寄った。

 自分のものと思えぬ絶叫と、現実と思えぬ光景。

 いや、これは夢だ。

 夢だというのに、焦ることを止められれず、震えでもつれそうになる足で必死に彼女の元へと向かう。


「ミユキ、おい、ミユキ!!」

 頬を叩いても髪をかきあげても彼女の瞳は動かない。胸に開いた穴から噴出した鮮血は、辺りを赤く染め、濡らし、そして汚した。

 タカシ自身の手も滑ったそれで真っ赤に染まっている。


「ミユキ、ミユキ!!」


 震えた声では名前のほかに何か呼ぶこともできない。やっとのことで搾り出した声は「救急車」、しかし焦りのあまりタカシは、そのミユキの負傷の原因である少年を見上げ、そう懇願していたのだ。


「だぁめ」


 少年の顔が逆光でよく見えない。

 英数字の『1』の形に指を伸ばし唇に当てている少年は「駄目だよ」と言った。

 そこで漸く冷静になったタカシは、裏返る声で「貴様」と叫び、そして気づけば少年を芝生の上へと転がしその襟首を引っ掴んでいたのだ。


「貴様、なにを、ミユキになんてことを……!」


 強い日差しが少年の顔を照らす。

 ああ、タカシはこの顔を知っていた。

 そう、よく知っている顔だ。


「……ショウタ……!!」


 不敵に微笑む顔に、タカシは強か拳を打ち込んだ。


「お前、お前、なんで……!!」


 何度も何度も殴る。

 ゴキ、だとかミシ、と言う耳慣れない実に気持ちの悪い音や感触が伝わるが、タカシは加減なくショウタを殴った。

 タカシの拳はやがてすりむけ血が滲み、気づけばショウタは身動きひとつ取らなくなっていた。

 ハァハァと言う荒い呼吸は自分のものだ。

 襟首をつかまれたままピクリともしないショウタを見つめ、しかしタカシはまだまだだと言わんばかりに力強くなおも殴り続けた。


「ふざけるな! ふざけるな……!!」


 傍らに横たわる姉の顔は少しずつ白さを増していく。

 彼女が完全なる死体に近づくまであと少しと言ったところだろう。

 タカシはそれを横目で見つつも、元凶であるショウタを殴る手を止められなかった。

 やがて首がおかしな方向に向いたショウタを芝の上へと捨てると、タカシは立ち上がった。

 真夏の紫外線が、首を焼いた気がする。

 ちりちりと燃えるような痛みを首に感じながら、タカシは二体の死体を見つめた。

 ああ、なにが起こっているのだろう。一体なにが。

 自分のシャツの裾も真っ赤に染まっている。

 芝生も赤くて、ミユキも真っ赤だ。

 おかしい。なにもかもがおかしい。

 独りでに漏れ出る笑い声が獣の慟哭かなにかに聞こえタカシは両耳を押さえながら笑い続けた。

 雲が流れ、日差しを隠し、そして先ほどまではあんなに天気がよかったのに、ポツリポツリと雨が降り出した。

 ああ、今日は午後には雨を降らせると、政府は降雨宣言を発表していたな、と思い出す。

 なにもかもが流れて言ってしまえばいい。そう、なにもかもを流してくれ。

 タカシは雨の中で笑い続けた。耳を押さえながら。

 芝生の隙間を、滑るように血液が流れていった。

 まるで川だ。流れ行く血液はどこへ向かうのだろう。

 なにもかもが異常で、おかしい。

 震える脚が限界を訴え、タカシは芝の上へと膝をついた。


「ミユキ……ミユキぃ……」


 力をなくした体を抱き、幼子のように声を上げる。

 たった一人の姉だ。かわいそうな姉、一体何故こんなことに――。

 元凶の全てはショウタだ。タカシは再びマグマのようにわきあがった怒りを胸に、ミユキの傍らに倒れるショウタを見た。

 いや、見たはずだった。

 ――ショウタの死体は、そこにはなかった。

 血液だけがそこにあり、ショウタ自身の体はそこにはない。

 慌てて体を起こし周囲を見遣る。


「ショウ……タ、」


 干からびた喉が、漸くそう発音した。

 折れ曲がった首――、妙な形に歪んだそれを、支えることさえせずにショウタはそこに立っていた。


「酷イね」


 雨がタカシの頬を撃ちつける。かなりの強雨でタカシの頬は痛んだが、しかしショウタは気にした様子もない。


「本当ニ酷イね」


 ひび割れた声がタカシを責めた。

 ジジジ、と言う奇妙な音がする。


「酷イ酷イ酷イ酷イ酷イ酷イ」


 壊れたようにそういうと、ショウタはタカシに一歩また一歩と近づいてきた。

 尻餅をついたまま、タカシは後ずさった。衣類が汚れるのも構わずに、ミユキの体を掻き抱いたままショウタと距離を取るべく少しずつ動くが距離は縮まるばかりで効果は得られない。


『酷ヰ酷イ……俺ニダヶ、何デ酷ヰことスル乃?』


 歪な首には子供らしい細い腕が添えられ、そして元の形へと戻すべく乱暴にぐいぐいと押し続ける。

 そうこうしているうちにショウタの首は元の場所へと――、辛うじて戻り、しかしその首は歪んだままだった。


「痛イよォ、酷イ……タヵシ差ン、酷イよ」


 ぱちぱち、と突如として火花が散った。

 ショウタの首からだ。

 彼の目から零れ落ちる黒い液体は何だろうか。いいや、そんなのは判りきっている。機械油だ。

 ショウタはアンドロイドだったのだ。

 人間の為のアンドロイドが人間に牙を向く。

 タカシは迫り来るショウタを畏怖して見つめた。


「痛イよぉ……」


「ショウ……タ」


 干からびた喉が張り付くような感覚がする。

 いったい何なんだ。こいつは何者なのだ。

 自問自答するが答えは見つからず、そしてショウタはまた一歩一歩、覚束ない足取りでタカシへと近づいてくる。


「酷、」


 ごとん、と音を立て、ショウタの首が落ちた。

 落下した首の付け根には、シリアルナンバーが打たれている。


「酷イヨォオオオオオオオ」


 落下した首が、絶叫をした。


◆◆◆


 タカシはベッドの上で息を切らしていた。

 荒い呼吸、そして首筋を伝う汗。

 天井からはけたたましい目覚ましの音が鳴り響いていたが、しかしタカシはいつもどおり停止命令を出すことができずにいた。

 唇が震えている。額に浮かんだ水滴は鼻筋を滑りシーツに落下していく。

 いくつも零れ落ちるそれを眺めながら、タカシは襟ぐりを掴んだ手をゆっくりと広げた。

 掌の汗はシャツによって吸い取られていたはずだが、しかしまるで湧き水が湧き出るがごとく、そこはすぐさま湿っていった。

 ――なんて気味の悪い夢だろう。

 タカシはじっとりとした掌をシーツで拭いながら考えた。

 近頃夢見が悪くて仕方がない。

 ストレスが溜まっているなどということはないはずだ。タカシはそんなに弱い人間ではない。

 一体、何だと言うのだろう。

 自分では認識をしていないだけで、ショウタに対して罪悪感があると言うのだろうか。

 今しがた見た夢を、目を瞑って反芻する。

 落下する首。その皮膚からはみ出ていたのは金属製のパーツで――、つまり彼はアンドロイドであった。

 もし。もしもショウタがアンドロイドであったのなら? それならば心置きなく殴る蹴るができるだろう。

 だがタカシはそんなことは望んでいない。生身のショウタでなければ意味がない。

 代用品で済むのならそれこそ健全でいいことではないか。

 いいや、そうではない。

 そうではない、とタカシは首を振った。

 タカシはショウタに執着している。手放す気持ちはない。生身でなくては意味がない。殴り、蹴り、そして犯し心を蝕ませたい。

 だが、それが何故なのかは皆目見当もつかない。

 そこまでは判るのに、しかしその先が判らない。

 生意気な目、屈しない心、そして決して委ねられることのない強情な体。

 それが楽しくて仕方がない。罪悪感など微塵見ない。

 では何故妙な夢を見るのだろう。ないはずの罪悪感を刺激しているかのような、己を責めたてるような夢を。


「気持ちが悪い……」


 目覚まし時計は鳴り響いている。

 いい加減この腹の立つ音を止めたかった。

 タカシは眉間にシワを寄せたまま「起床した。停止」と命令を出したのだった。



 正月も間近となると、テレビは各種イベントに向けて浮き足立った番組だけとなる。

 ホログラムが時折ふらりと揺れ立体感を失っては、何事もなかったかのように元に戻ることを繰り返していた。

 お笑い芸人が何事かを喋れば、会場がドッと湧く。その笑いのセンスについていけず、タカシは溜息を吐き出したのだった。 

 この手のドンチャン騒ぎを好むことがないタカシは、早くも辟易していた。

 普段は見向きもしないテレビに向かっているのは、単純に暇をもてあましていたからだ。

 あの日以来、ショウタは下男の部屋に保護されており、タカシの前に姿をあらわすことがない。

 時折怒声が聞こえてくるが、おそらくショウタが下男相手に悪態を吐いているのだろう。

 なんにせよタカシはショウタの体以外に興味は湧かなかったから、彼が泣こうが喚こうがどうでもいい話であった。

 訪ねればいいだけの話であるのだが、あの奇妙な夢を見て以降、どうにも性欲が湧かなかった。 

 性欲のスイッチが切られたかのように、嗜虐心がなりを潜めている。

 ――今のところは、であるが。

 そんな理由から、タカシはリモコンを操作し然して面白くもないテレビ番組を見ているのである。

 オモチャを取り上げられればやることがない。

 必然的に見たくもないテレビを見ることになるわけだが、どの民放もお笑いや音楽、つまらないドラマばかりで如何せんタカシはうんざりしていた。

 ホログラムの無駄遣いもいいところである。

 時はゆっくりと流れていく。年末の忙しなさなどどこへやら、タカシはただただ怠惰に過ごしていたのだった。



 そんなアイドルだの芸人だので満たされた茶の間で怠惰な年末を過ごすこと数日、衝撃的なニュースがタカシに齎されたのは二十八日の昼間のことだった。

 のんべんだらりと朝からテレビをつけていたタカシは、思わずソファから立ち上がりそのホログラムを凝視した。


『……アメリカ連邦共和国の世界最大手コンピューターメーカーのB社は新たなAI技術を開発したとの発表を行いました』


 タカシはその報道をインターネットよりもいち早く届けるに至った『日本放送技術公社』の報道を食い入るようにして見た。

 スクープ映像がひとしきり流されたのち、アナウンサは今後日本最大大手であるA社――、つまりタカシの勤め先であり、ゆくゆくは運営の一切を任されることとなる実家の事業だ――、の経営が厳しくなるのではないかと言う見解を示し報道を締めくくったのだった。

 タカシはテレビに向かって「電源off」と口頭で指示をすると、深くソファに沈みこんだ。

 ――頭の痛くなるような話だ。

 AIの新技術。その発想は、今正にA社の技術者たちがあと一年後の新作発表にあわせて開発を急いでいるものと非常に類似していた。

 それは、端的に言ってしまえば、人造人間によく似た技術であった。

 体の一部を事故などで欠損した場合、それをメカニックで補う技術が確立されるようになってから、随分経った。

 最早それは医療技術としては別段珍しいものではない。

 腕や眼球、体のあらゆるパーツが、その人自身の遺伝子から作られることも可能になってはいるが、やはり培養に多大な時間が要される上に、費用は人工物である代替パーツに比べて跳ね上がってしまう。

 それに比べて、不自由さを感じないレベルにまで発展を遂げたメカニカルな代替品は、その普及によって良心的な値段に落ち着いた為、怪我や病気で体の一部を失った庶民には、欠かせない技術となっていた。

 浸透しきったそのその医療技術は多くのユーザーを生み出し結果パーツは安価となり、ついには国の財政負担を軽くするまでに至ったと聞く。

 勿論A社も小規模ではあるが人工四肢部門を設けている。先の大戦を経ての結果ではあるが、それなりに業績を伸ばし続けていた。

 今回B社が発表したのは人工海馬だ。

 つまり、B社の会見が事実であるのなら、人間の記憶や空間学習能力をつかさどる部位を、人工物に切り替えることが可能と言う話だ。


『先ほどお伝えしましたB社の人工海馬についですが、ヤマザキさん、どうしょうか?』


『ええ、なんとこの海馬、アンドロイドに埋め込むことは当然ですが、人間に埋め込むことも可能だそうです。様々な機関によって阻止されるでしょうが、理論的には可能とのことですよ。つまり、体だけ別人に切り替えることも可能と言うことですね。それに、』


 なるほど、と女性アナウンサーがしきりに頷いている。


『それに、昨今では体の五割程度がメカニカルと言う方も珍しくないようですが、オールメカの人間が生まれることも夢ではないということです』


 A社のやりたかったことは、まさにこれだった。『故人の意志を引き継いだアンドロイド』、それが作りたかったのだ。

 勿論、既に鬼籍に入っている故人である場合にはどうにもならないが、今まさに死のうとしている者から記憶を人工海馬にアウトプットし、一部の記憶――、あまりにもその人そのものであるのは問題であるから、アンドロイドとして存在するために適さない記憶の削り取るという作業ののち、アンドロイドに埋め込むのだ。

 開発者や研究者、そして学者。優れた脳を持つ人々が、死してなおこの国へと貢献し続けるシステム、それを構築したかったのである。ゆくゆくは個人向けの販売も視野に入れていたが――。

 先を越された、とタカシは思わず舌打ちをした。

 A社の広報部は、その技術をほのめかすような発表を各デジモノ専門誌にしてはいたが、情報漏洩をおそれて何ひとつ明言していない状態にあった。

 技術の類似性は歓迎されない。後だししたほうが真似たと思われても仕方がない。

 ――開発をもっと急がせるべきだったのかもしれない。

 尤も、今現在のタカシの立場・役職では、それを行うことはできないのだが。

 国内シェアナンバー1。その冠に胡坐をかきすぎたその結果の敗北としか思えなかった。

 実のところ、A社は行き詰っている。

 人工皮膚を開発したものの、それについても様々な弊害があり結局は廃止した。

 近頃はアメリカや新ソ連の後に続くばかりとなっているのがなんとも歯がゆい。いつでもあと少しと言うところで追いつけぬのだ。

 様々な国から留学生を募っている国と、小さな島国では、どうしてもやりようが異なる。

 優れた技術を膨らませることが難しいのだ。A社でも伸び代の多い国から技術者を募っているが、しかしそう上手くは行かない。国によって他国の技術者――、いやもっとはっきりと言えば鎖国の名残から、外国人を国内へと招き入れることについては未だ規制があるし、運よく許可が下りても、A社内の技術者がみな英語を苦手としているために苦労して招いた技術者と上手くコミュニケーションを取ることが難しいのだ。

 英語は地球語とよく言ったものである。共通の言語を話せなければ切磋琢磨することもできぬしまたスムーズな情報交換も望めない。

 このままでは、A社は時代遅れのアンドロイドメーカーと言う印象が染み付きかねない。

 アンドロイド販売の歴史はどこのメーカーよりも長く深いはずだというのに、近頃では寧ろそれだけしか取り得がないように、感じるのはタカシだけではないはずだ。

 滑らかな関節の動き、人そのものの表情。

 培った経験から、それらは確かにどこのメーカーよりも勝っているが、しかし今やアンドロイドには多様性が求められ、例えば動きが歪であってもジェットエンジン搭載で空を飛べるだとか、そうでないのなら人型から小型バイクへと形を代えるだとか、つまりそれぞれの企業はそれぞれの形で不自然な動きをカバーするべく工夫を凝らしているのだ。

 A社はエラーを起こしがたい思考パターンが売りではあるが、それだって冒険をしていない言われればそれまでだ。

 安全性ばかりを重視した結果、個性的な性質――、つまり性格だ、を持ったアンドロイドはA社の製品からは生まれ得ない。生まれようがないのだ。


「……畜生……」


 爪を噛みつつタカシは呟いた。

 家を潰すことも、どこかに吸収合併されることも、どちらも有り得ないことだ。

 いや、あってはならぬことだ。潰してはならないのだ、あの会社は。

 あの会社は、ミユキの、姉の――。


『私だってできることならば男性に生まれたかったわ』


 日傘の下、俯き顔を隠したままミユキは言った。


『でも仕方がないの。だから結婚をするの。貴方があの家を守るのよ』


 日傘をどけた姉は、微笑んで『お願いね』と言葉を添えて、自分の夢をタカシに託したのだ。

 潰すわけには行かない――、そう考えれば矢も盾もたまらず、コートを引っ掴み一階へと向かった。

 祖父に会いに行くのだ。ここ暫くあっていないから丁度いいだろう。


「坊ちゃま?」


タカシの足音を聞きつけたのか、下男が顔を出す。


「どちらへ?」


「お爺様に会いに行く」


「今からですか?」


「ああ」


 コートに腕を通しながら忙しなく告げると、下男はタカシンのあとをついて来た。


「馬車で行かれますか? それともスカイカー、」


「馬車で行く」


「お待ち下さい、今私が御者を、」


「自分で言うからいい。お前は仕事の続きをしておけ」


 実際下男がどんな仕事をしているのかタカシは知らないが、そう気遣うように告げる。

 馬車を呼ぶくらいなんてことはない、ただ口を開けばいいだけだ。下男が御者に連絡をし、タカシはぼんやりと玄関でそれを待つ――、無駄な時間だ。同じ敷地内にいるのだから、さっさと声を掛けた方が早い。


「坊ちゃま、」


「なんだ! 私は忙しい!」


 半ば恫喝するように声を荒げると、下男は二度三度と口を開き、そしてその口は静かに閉じられた。

 八つ当たりが過ぎた――、そう思ったところで叫んだ事実は消せないし、下男の唇は何かを飲み込むように引き結ばれたままだ。


「……悪かった。急いでいるんだ」


「いえ……、行ってらっしゃいませ」


「ああ」革靴に足を突っ込み、そしてふと思い出したように「ショウタを頼む」と口にする。


「……はい」


 何故そう言ったのか判らない。ただ自然とそう言葉が口をついて零れ落ちた。

 玄関扉を閉じて、厩へ向かう。同じ敷地内にあるとは言え、そこは屋敷から少しばかり離れていた。

 庭を抜け、裏庭へ向かい、その先に位置する。その道中に比較的広く取られた道が広がるのは、当然馬を走らせるためである。

 競歩と言うべき速さで足を進め厩を目指していると、小気味のいい音が響いてくる。

 馬車だ。きっと下男が連絡を入れたのだろう。深い茶色が美しい馬車を馴染みの御者が操りながらタカシに向かって近づいてきた。


「坊ちゃま!」


 そう呼ばれたところでタカシは足を止めた。あまり近づくのは危険だからである。


「急に悪い!」


 ひづめの音にかき消されぬよう声を張って言う。

 やがて馬はタカシの前に止まり、そして御者は「いいえ」と返事をした。


「実家まで頼む。お爺様に会いに行く」


「はい、判りました」


「なるべく最短ルートで」


 御者のはきはきとした声を聞きながら、タカシは馬車へと乗り込んだ。


***


 

 馬車はスカイカーのあとへ続いたり、はたまた馬車のあとへと続いたりしながら道を進んでゆく。

 車は大気を汚すとしてだいぶ昔に規制された為、行動を走るのは馬とスカイカー、スカイバイクのみだ。

 時々歩道をスカイボードが走るが、高さが二十センチ程度しか浮かばない上にスピードも出ないとなれば、その用途は子供のちょっとした移動手段に限られていた。

 それでもこの国の発展はすさまじい。

 戦争によって苦汁を飲まされた、かつて若者であった老人たちが陣頭指揮を執り街づくりに際して可能な限り、至る場所へと最新の技術を埋め込んだためだ。

 犯罪が起これば瞬時に警備アンドロイドが犯罪者を拘束する。被害者に怪我がある場合は、直ちに医療アンドロイドが治療を開始する。

 雨が降ることはあっても豪雨がこの国を襲うことはない。降り注ぐ雨も、風も、雪も、地上から約五千メートルの高さに張られたシールドが風雨を感知し一旦ブロック、そして地上に害がない程度の雨を降らすようコントロールをしている。

 万が一砲弾が降り注ぐような事態が起こったとしても、人々が住まう都市の大半は、雨風をしのぐ物と同様のシールドに覆われているから安全だ。全てはシールドが焼ききってしまうことだろう。反撃に人の乗った戦闘機が用いられることはない。シールド外に待機する、戦闘型アンドロイドが偵察と攻撃をしてくれる。

 ――このすさまじい発展に追いつけなくなりつつあるのは、A社かもしれない。

 遅れを取り『A社はもう駄目だ』と消費者に思われたらもう終わりなのだ。そういうイメージこそが会社を破綻へと導く。

 脳内に広がる恐ろしい未来に、タカシは唇を噛んだ。

 子供のお守りをするだけのアンドロイドに未来などないだろう。

 性的な相手をするだけが取り得のアンドロイドなど既に時代後れだ。 

 ではどうすればいいのか。タカシには手立てを考える能はない。

 目下の目標は人の記憶を受け継ぐアンドロイドであったが、それもB社の発表が先になされたとなれば方向転換を図るべきとされるかもしれない。

 だがどうすれば――? タカシは自分の無能振りをいち早くに自覚していた。勉強ができるとかできないの問題ではない。センスがないのだ。

 センスがないというのが技術がないことよりも厳しいことだ。技術は磨かれるがセンスはそうも行かない。

 あれは天性のもので、のちのち様々なものに見て、触れて身につけたとしても、それは後天的なものであって生まれつきのものには遠く及ばない。

 タカシにはそのセンスがない。どころか、皆無といっていいのかもしれない。


「参ったな……」


 参ったな、と愚痴を零すことしかできぬ。これから祖父に会ったところでできることなどないとタカシは判っているのだ。

 判っていも会いたいと言う気持ちは抑えられなかった。

 一刻も早く祖父に会う必要が会ったのだが、馬車は遅々として進まなかった。


「どうした?」


 車内の伝声管越しに尋ねると、御者は『渋滞のようで』と短く返事した。

 確かに車窓からみえる道は混雑をしており、どの車も立ち往生している。

 ドライバーは時として苛立たしげに、或いは時間を気にするかのようにしてみな落ち着かない。

 それはタカシも同様で、「こんな時に」と思わず口走る。

 テレビも人も浮かれがちな年の瀬、こうして渋滞をしているのはおそらく地方都市も同じことであろう。

 かえって徒歩で向かったほうが早かったかも知れぬ。

 そうタカシが思った瞬間に、馬車は少しだけ動いた。前進と呼ぶにはささやか過ぎるほどの動きであったが、しかし今正に下車して徒歩で向かおうかと考えてたタカシを車内へと引きとめるには充分な効果があった。

 浮き上がらせた腰を再び落ち着け、タカシは溜息を吐き出し続けた。

 結局この後、タカシが下車をしようと思うと同時に車がほんの少しだけ動くと言うことを繰り返し、実家へと辿り着いたのは二時間後のことであった。


***


 この国、大日本帝国のトラウマは深い。

 羽のついた不気味な飛行船が横浜空港に寄せられ、それに人々があっと驚いていると、突如として現れたのは軽甲冑を纏った軍人の大群であった。

 無国籍軍を名乗る彼らは日本人を殺め、捉え、そしてその奇襲作戦でもって、日本を沈没させようと企んでいたのだ。

 ――と言うのはタカシが義務教育総合校に在籍をした九年の間に、幾度も聞かされた話だ。

 実害を受けたのは老人世代であって、タカシたちの世代ではない。

 殺されたのは多くの技術者と、それに研究者。今でこそ彼らは手厚く保護されているものの、当時はボディーガードもなく道端を一人で闊歩していたと言うから驚きである。

 日本は技術を好んでガラパゴスかさせ、変態的にそれらを育むことに熱心な国で、国内で技術そのものを保護し、決して諸外国へと明け渡すことのない『秘密』を数多く持っていた。

 それが狙われたのだ、と言うのが教科書による説明であった。

 主に水不足。どうもそれが悪かったようだ。

 世界がそれで喘いでる時代に、日本は豊富な資源に加え、次々と水を『何某かの技術』を用いて生産、それを売りさばいていたことが世界的に問題となっていたようである。

 ただビジネスをしていただけ。だと言うのに突然の奇襲だ。

 国民はもとより政治家は怒り狂い、無国籍軍に対して報復活動を行った。

 それがどういうわけか第五次世界大戦へと発展し、なんとか勝利を収め、ボロボロの状態で終戦を迎えた日本は、ある日突然にして鎖国を行ったのだ。大人しく従順な日本とは思えぬ行動であったのだろうが、

 残り僅かとなった技術者、研究者たちが戦争中何故徴兵されなかったかと言えば、この国を保護するためであったと言う。

 戦争中、都心部が中心に襲われた。

 その隙を縫うようにして、地方都市へと様々な迎撃の為の施設を整えていたのだ。

 ――日本は変態的に技術をガラパゴスかさせることを好む国だ。

 それと気づかせずにこっそりと国を守ることに、技術者たちは力を入れていた。


「――だと言うのに何故道がアレほどまでに混んでいたんだ」


 とてもではないが、そのメカニカル大国大日本帝国の道路とは思えぬような混みっぷりだった。

 今日ばかりはスカイカーが羨ましく感じたタカシである。

 ようやく辿り着いた実家の庭で、草臥れた顔のタカシは這い出すようにして馬車から降り立った。

 全てが最新のシステムで整備されている街とは思えないような混雑に、祖父に会うより前に身も心も疲れ果ててしまった。

 ――芝の剥げた庭は相変わらずだ。

 その割には四季の花が咲き乱れ、その姿は圧巻である。ガーデナーだか庭師だかが世話をしているようだが、そんな大昔に廃れた職業に未だ従事する者が居ることに驚きを隠せない。

 とは言えこの芝である。

 花々によって少しばかり晴れた気持ちが、足元の芝生を見てまた落ち込んでいくのを感じた。

 枯れた芝生はその庭に不似合いであったが、種が入荷されないとかで致し方がない状況のようだが、それにしても見るに耐えない醜さである。


「坊ちゃま!」


 どこからともなく聞こえてきた声に、タカシは俯き加減であった顔を持ち上げた。

 ずり落ちる眼鏡を押し上げながら息せき切って駆けてくるのは、馴染みの深い祖父の秘書である。

 名はサトウと言ったはずだ。


「サトウさん」


 手を「や」と上げ形ばかりの微笑を浮かべると、サトウはどういうわけかぎこちなく笑みを作りながら「お久しぶりです」と返してきた。前髪が乱れ、撫で付けた髪が一筋額にかかっている。額には汗が浮かび、眼鏡が少しだけ曇っていた。


「忙しかったかな?」


「いえ、年の瀬ですから忙しいのは仕方がないことです。会長に御用でしょうか?」


「ああ、まだ。お爺様はいらっしゃるか?」


「ええ……まぁ」


 どうにも歯切れが悪くサトウは返事をした。


「都合が悪いのなら、夜まで待たせてもらってもいいが」


 本当は一刻も早く会いたいと言うのが本音であったが、相手は日本有数の大企業の会長だ、それならば待つよりほかはあるまい。


「いえ、そういうわけではありません。どうぞ、お屋敷にお入り下さい」


「ああ」


 サトウの態度が腑に落ちぬまま、タカシはサトウの半歩後ろに続いた。

 日光が眩しい。目を眇めて空を仰ぎ見れば、メカニカルバードが空を羽ばたいている。

見せ掛けの自然、それはなんと不自然なものだろう。数少ない野鳥、そして国民を監視する目的の人工鳥らしいが、タカシはどうにも好きになれなかった。

 そう、『あの子』は大型の鳥を機械仕掛けと判っていても怖がっていた、と思い出す。


『タカシさん』


 成長途中の細い腕が、タカシの背後に隠れてメカニカルクロウをこわごわと覗いていた。


『噛み付かない?』


 メカニカルアニマルは全て人に害がないように設計されている。それはもう常識だった。


『噛み付くわけがないだろう』


 タカシは子供にぞんざいに言うと、馬鹿馬鹿しいと吐き捨てた。


「……坊ちゃま?」


 ハッとし、タカシは明滅を繰り返す視界を振りほどこうと、頭を振った。

 ――今の記憶はなんだ? 見知らぬ子供の影、そしてそれを冷たくあしらう自分。

 突如として押し寄せたフラッシュバックにタカシは頭を抑えた。

 何かがおかしい。疲れているのだろうか。

 いいや、そんなはずはない。ここ数日間は休み通しで怠惰な毎日を送っているではないか。

 今のはなんだ――?


「坊ちゃま、どうなさいました?」


「いや……」


 鳥が羽ばたいている。嫌な鳥だ。


「なんでもない」


 タカシは慌ててサトウに走りよると、「それでお爺様だが」と切り出したのだった。



 屋敷の中は適度な温度に保たれ温かかった。

 玄関正面の大階段から祖父が降りてきたのは、タカシがコートを女中に預けた直後のことだ。


「タカシ」


 悠々と降りてくる祖父にくらべ、屋敷内は慌しい。年の瀬であるからそれも致し方がないのだろうが、それにしても忙しない空気ばかりが充満していた。


「どうしたんだ、突然。驚いた」


 心底驚いた、と言うような顔を作りながら、祖父はタカシへと近寄ってきた。

 何故祖父はこんなに暢気にしていられるのだろう。

 一抹不安と、そして大きな疑問が頭を駆け巡る。


「B社のニュースを……」


 ああ、と祖父は言った。やはり覇気のない返事であった。

 祖父はこれほどまでに腑抜けであっただろうか。


「それならば問題はない。わが社はわが社でそれなりに上手いことをやっている。来年には国から託された事業が本格的に始動するしな」


「は?」


 そんな話は寝耳に水であった。

 聞いたこともない。


「箱庭計画だ」


 顰めた声は、それでもはっきりとタカシの耳へと届いた。


「それは……、ですが、わが社にそのような話が回ってくるとは……」


「一部の幹部しか知らぬことだ。まだペーペー扱いのお前に話が回るのはだいぶ先……、こんなところで話す内容ではないな。来なさい」


「ああ、はい……」


 箱庭計画は、都市伝説のごとく囁かれている首府京都府の完全メカニカル化であった。

 今現在京都府は国の完全管理下に置かれており、半廃墟と化している。と言うのも、先の大戦で非核弾を落とされ焼け野原と化したのだ。非核とは言えその威力はすさまじく、これがもし寺や神社が豊富な東京都へと落とされていたら、と思うと肝が冷える。

 そのような状況になり随分経つが、京都府は未だ所々が焦げ付いており、それならいっそと国が立ち入りを完全を制限したのだ。

 その都市を完全に甦らせる――、そのような計画であったのだ。

 そんな計画の一端をA社が担う。タカシはそれを全く知らなかったのだ。

 いくらペーペーとは言え、タカシの耳にだけは届いていいはずだ。奥歯を噛み締めると、ぎりっと嫌な音がした。


「タカシさん」」


「!」


 タカシは振り返った。

 誰も居ない。確かに子供の声が耳を掠めたような、そんな気がしたのだが。


「タカシ……?」

 

 やはり疲れているのだろうか。近頃頭痛も酷い。一度医者に見せたほうがいいのかしれない。 


「なんでもありません」


 なんでもない、少し調子が悪いだけだ。

 押し寄せる不気味さを振り払いたかった。

 タカシは足を速め、無理やりその気味悪さを胸の奥へと押し込めた。


***


「つまり、人が住まっているかのように偽装する、と?」


「そうだ」


「人が住み、人が営み、人が政治を行っている――、そういう場所だと他国へと錯覚させるのだ」


 それは、有事の際に国民の死傷者を最小限に済ませるための計画、と言うことらしい。

 今現在極々小規模の村で密かに行われている実験場所を京都府へと移し、その規模も拡大させる、とのことだ。

 村での実験はもっとシンプルらしい。村民二〇〇名のうち、ホンモノの人間は僅か一〇名。国より選出された公務員が、二年をかけてその擬似村生活を体験し、そして「生活に不安はない」と言う判定を下したのだ。

 もとよりアンドロイドに慣れ親しんだ世代だ。タカシたちの世代には、独自に顔をカスタマイズして「俺の嫁」などと呼び憚らないドールフリークも数多く居る。

 そんな世代だからこそなせる業かも知れない。

 それらをもっと大規模に、そしてもっと細かく人としての生活を再現させるのだと言う。


「では、そこに実際に住まうのは公務員に限られており、例えば技術家も、医者も、大学も、全て見せかけの虚像に過ぎぬ都市を作り上げると言うことですか?」


「そうだ」


 内密にな、と祖父は言う。

 

 にわかには信じられない話であった。


「二十年。二十年をかける予定の計画だ。そのために、秘密裏に様々な顔面、体型パターンを用意してある」


「国民にはどう説明をするおつもりですか」


「国民はなにも知らない。戦中に誰が国を守った?」


「……大日本帝国国防軍ですよね?」


 ああ、と祖父は頷いた。


「彼らの家系はその末端までが生粋の軍人だ。たとえ他の職業についていても、軍人としての品格や知性、そして国への忠誠は並大抵ではない」


 それはタカシも知っていた。同級生にも居たが、彼らは本家より血の遠い末端の末端である存在であっても、筋金入りの愛国者であった。それはもう、鬱陶しいほどに。

 先祖が先の大戦に勝利したことが、彼らの誉れでありアイデンティティであった。


「彼らの中に、何体ものアンドロイドを既に仕込んでいる。もう、何十年も昔から」


「……そんな馬鹿な」


 タカシは唖然とし、開いた口が塞がらなかった。


「戦争はそのうちまた起こる。この国は場所が悪い。太平洋に面したこの小国は、いつも必ず狙われている。世界の実情は知っているだろう。確かにどこの国も『それなり』によろしくやっているように見せているが、内情は火の車。いつどうなるか判らんと言うのが本当のところだ」


 いつ、日本の技術を、資源を食らい尽くそうと行動を起こすか判らない――、そういうことらしい。

 だからこそ、首府を限られた人間しか立ち入ることのできぬ場所とし出入りを制限し、その上で『国の中枢機関を集約した場所』と言うイメージを定着させる。

 人間は実際に出入りするが、その大半はヒト科ヒト亜科のフリを巧妙に演じるアンドロイドと言うことだ。

 信じられぬ話に、タカシは額を組んだ指に擦りつけ、自身の足元を見た。


「お前の同級生――、医者からスカイカーレーサーへと転向した男」


「ああ、はい」


 唐突に切り出され、タカシは追いつかない脳でもって、必死に旧友の顔を思い出す。

 笑顔の眩しい、如何にもスポーツマンと言う見た目の男だ。彼も確か、軍人の大伯父を本家にもつ軍人家系だ。


「あの男もアンドロイドとの噂だ」


「……は?」


「おそらくアンドロイドだ」


 眩しい笑顔が、突然歯車の塊に思えてくるから不思議なものだ。

 つまりタカシは、アンドロイドとリレーを競い、時としてサイクリングをし、そして何故か馬に嫌われる彼を大笑いしながら乗馬を楽しんだと言うことだ。

 人の心に敏感な馬に嫌われるわけである。


「……他にも?」


 溜息混じりに尋ねれば、祖父は「さぁてな」と頬をにやつかせながら濁したが、きっとタカシが人生で出会った何人もがアンドロイドであったのだろう。

 自社製品とは異なる顔、そして成長するからだ。少しずつ手を加えていたのだろうが、滑らか過ぎるそれに全く気づけなかったのはA社の跡取りとしてただただ恥ずかしいばかりである。


「だからそんなにわが社の行く先を気に病む必要はない」


 祖父はしっかりとした声でそう言い放った。

 国の事業に一枚噛んでいる。となるとメンテナンスにもかなりの要員と時間を割かれることは必須であろう。

 それに対して国が相応の金額を支払わぬわけがない。


「安心していい、ということでしょうか?」


「だからそう言っている」


 食えない老人だ。

 孫のタカシまでに黙っていてどういうつもりだ、と攻める気には最早ならなかった。

 ただ、「そうですか」と気の抜けた返事が漏れ、タカシは漸く、その革張りのソファへと緊張した背中を預けることができたのだった。


 国が打ち立てた計画は、タカシが想像するよりもはるかに壮大なものだった。

 まずは京都府を、との計画であったが、徐々に全ての都道府県の県庁所在地を箱庭化させるようであった。

 そして人々が逃げ込むべきシェルターはまた別の場所へ。これは秘密裏に用意されるものであって、いざ『有事』を迎えなければ各県知事以外知ることもない。

 県知事も今ではよほどのことがない限り世襲制であるから、それが外部に漏れることもないだろう。 

 国民を守る。辛酸は二度と舐めない。

 老人たちは棺おけに片足を突っ込むような年齢になってもなお、国民のことを考えていた。

 さらりと説明されたその計画に、タカシ漸く肩の力を抜いた。

 掌にじんわりと浮いた汗もやっと引き始め、きつく握りこんだ拳も解けはじめた。

 とんでもない計画を打ち明けられた興奮と、そして自分自身の手によって歴史を変えるその期待に胸が震えた。

 単純な子供っぽい高揚だ。

 タカシは戦後に生まれた世代であるから、所謂『戦争を知らぬ子供たち』であり、愛国心らしきものは希薄である。そんな若者は少なくはない。

 戦争になりさえしなければ――、自分自身に実害が及ばなければなんでもいい、そういう気持ちで居るが、流石に『実害』を受けた祖父たちにそれを言うほどタカシの頭は弱くはない。

 ――ああ楽しい。

 タカシの気持ちは高ぶっている。久しぶりの興奮だ。

 ショウタを殴っているときとはまた別の興奮、知的興奮とでも言うのだろうか、頭が期待で満たされているのを感じた。


「口外はせぬように」


「判っています」


「計画は来年からと言ったが、来年度ではない。年明け早々に開発が始まる。計画が始動次第――、そうだな、お前を現場に呼ぼう」


 すぐに異動させてやる、と祖父は人の悪い笑みを浮かべていった。

 孫だからと甘やかしているように見られてはいけないと、わざわざ平社員からスタートした社会人生活であったが、それも終わりを告げそうである。


「いいんですか?」

 一応尋ねるが、「よいもわるいも」と祖父は返す。


「この話が我が社に降ってきたときから、お前をどうするかは決まっていた」


 タカシは決してできのいい孫というわけではない。だが、タカシは選ばれたのだ。

 この翁の孫に生まれたことも運命、この翁に計画へと引き入れられたこともまた同じ。

 計画は年明け早々とのことだから、退屈な正月を過ごす必要もなさそうだ。

 タカシは期待に高鳴る胸を何とか押し隠し、そして本家を後にしたのだった。


***


 五月も終盤に差し掛かった土曜日、タカシは首府京都にて箱庭計画に奔走していた。

 首府の箱庭計画と言っても、府全体を箱庭化するわけではない。

 まずは中心部の体裁を整え、それ以後少しずつ府全体を復興させていく見込みである。

 そして完全なる箱庭と化すのは、この中心部。

 ここが一部の官僚や政治家、そしてアンドロイドで構成された街となるのだ。

 タカシは首を左右にゆっくりと動かし肩の凝りをほぐしていた。

 空にはもう星が上っており、事務所から出てきた時間を鑑みれば少なくとも夜二十時を回っていることは確かであるはずだ。

 ここのところは会議、現場、会議、現場。この繰り返しである。

 疲れも酷く帰宅は少々困難であるため、夜は眠るためだけに近くのホテルへと帰っているが、それでも体は心地のよい疲労で満たされているのが常である。

 社会人となってから、このような感覚に体が満たされる瞬間と言うのは数えるほどしかなかったから、タカシはこの疲労が決して嫌いなわけではない。

 ――ショウタには殆ど会っていない。

 そのか細い後姿を時折帰宅する屋敷の中で見るが、それを殴りたいとも犯したいとも思わない。

 要するに昨年末からのタカシは欲求不満であったのだろう。

 満たされない、興奮が足りない。それらを物珍しいオモチャであるショウタに向けることで発散していたのだ。生意気な話であるが、おそらく仕事に満足をしていなかったのだ。

 雑多な事務手続きは本来タカシでなくても済むことで、なにゆえ俺がこのような仕事をせねばならんのだ、と言う傲慢なボンボンらしい矜持もあったのだろう。

 ――とタカシは自分自身で分析している。

 汚らしい奴隷を組み敷くなど悪趣味極まりない。

 元貴族であるからこそ価値のあるショウタであったが、今やその後姿はただの大人しい少年で、忙しい合間に相手をさせてやるほどの存在でもなくなっていた。  

 そもそもタカシのセクシャリティは至ってノーマルで、ショウタ相手に勃起することそのものが『事故』のようなものであったに違いない。

 そんなことを考えながら、タカシは一人の女性と顔を突き合わせていた。

 彼女がジッと見つめるのはタカシの瞳、それから顔、そして体温。 

 体の全面部分の観察が終わったらしく、彼女は「背中を向けてください」と事務的に言い放った。

 言われるがままタカシは彼女に背を向け、それから間抜けに直立不動を決め込む。

 少々の身じろぎは彼女の仕事に支障をきたさぬが、大きく動けばまたスキャンを最初からしなくてはならなくなるだろう。

 全く、セキュリティ強化の為と言っても、少々時代を遡ることになる旧タイプのアンドロイドを使うなんてどうかしている。スキャンに時間がかかって仕方がない。

 タカシの心までは見透かすことのできぬ彼女はやはり事務的に「結構です。お疲れ様でした」と告げた。


「どうも。お先に」


 タカシは自分の後ろへと並ぶ数名の『人間』に会釈すると、鉄製の重い扉に向かって歩き出す。

 外部と内部を遮断するように並んだ壁には未だなれない。タカシはその丈が十メートルを越すかどうか、という威圧的なそれを見上げ、少し溜息をついた。

 今年の一月から始まった箱庭計画に伴い、タカシの出勤地は首府内に設置された簡素なプレハブ小屋へと移された。

 それは別に構わない。常春のこの国には、暑いだの寒いだのは殆どないため、それらに苦しめられることはない。

 問題は、首府への進入退出に伴う手続きの煩わしさであった。

 首府への入り口は限られていて、京都府の中心部に位置するこの周辺は最新のバリケード――、地下に瞬時に収納できる鉄製の壁だ――、で覆われているため、タカシは関係者専用の、その壁の数箇所に設けられた手続き所と呼ばれる場所で検査を受けなくてはならない。

 危険物を持ち込んでいないか、或いは持ち出そうとしていないか、機密データを持ち帰ってはいないか、或いは箱庭計画を無に帰す何かをしでかそうとしていないか。

 それらを体温から発汗までを入念に調査され、やっとのことで進入及び退出が認められるのだ。

 それが二箇所ある。

 中心部全体を覆う壁と、そしてそこから伸びた無数の通路の先にはまた丈の高い鉄の扉。

 まるで檻に入れられた動物だ。今ではすっかり姿を消した動物園と言う場所に押し込められた動物も、こんな気持ちなのだろうか。


「結構です。お疲れ様でした」


 二回目の手続きを済ませ、タカシは漸く緊張させた肩の力を抜いた。

 人そのものの微笑を作る手続き係りのスキャンアンドロイドは、見た目はか弱い女性そのものであったが、実際には他社のボディガードアンドロイドを流用し、A社のスキンを被せスキャン機能を追加させたものであった。

 つまり、何某かの悪巧みをしても人間の力では敵わない。

 安全にここを通過するためには大人しくスキャンを受けるよりほかはないが、タカシはどうにもそれに慣れることができずにいた。

 祖父や政府関係者も毎度行っているものであるから、タカシだけが免除されるわけにはいかぬのは理解している。

 が、それが毎朝毎晩となるとなかなか億劫だ。

 億劫が億劫を呼び、そのうちタカシは帰宅することも減って行った。

 尤も、急ピッチで進められている箱庭計画を前に帰宅している余裕はないというのも事実だ。

 億劫以前に時間的余裕がない。 

 タカシはふぅ、と溜息を吐き、それから鉄扉に向かって歩き出した。足が少々重いような気がする。疲労感は心地いいのに、億劫な気持ちに体が侵食されているような気がした。

 壁の向こうでは今の時間もアンドロイドが休みなく働いているのがなんとも不思議だ。

 鎖国以前のローテクな技術なら兎も角、今は全て正確に、高い安全性と技術をもってしてアンドロイドと人間が一体となり街を作り上げている。

 この調子で行けば二年後には京都府全体が箱庭として、最低限の機能ではあるが、復活を果たすことであろう。

 そしてその箱庭を完成させるために、政治家たちも珍しく働いているようだった。

 完成した箱庭には人間は数えるほどしか居らぬが、それはごく少数の人間だけが知っていればいいことであって、国民は知る必要がない。

 そのための法整備も着々と進んでいるようで、近頃出された法案は「県庁所在地及び首府進入制限法」であった。

 機密事項を集約する専門の土地とする場所には、政府関係者のみしか入れない、と言う法律だ。

 もとより国の管理地域である場合が多く、地主ともめることもないため、法案はつつがなく成立の運びとなりそうだ。

 そもそも、この国の国民は『動かない』のだ。

 戸籍謄本などの取り寄せも、インターネット経由でID認証を行い自宅で発行できる時代だ。

 国民の不便はあまりないのだろう。

 役所勤めなどと呼ばれる人々も随分と昔に滅んでいるし、問題はなさそうだ。

 計画は思いの外上手く進んでいる。

 シールドではコントロールしきれぬ、外界の季節感を受けた夏の始まりのような蒸し暑さは、夕方を過ぎればナリを潜める。

 見上げた夜空はどこまでも透明で、星が美しく、少々冷えた空気が心地いいくらいであった。

 この上にシールドが張られ、いつでも『よからぬ出来事』から国を丸ごと覆い守っている。

 それがタカシたちのような若い世代には当たり前のことであるが、老人たちは灰と化した街になにを思い過ごし、どのような屈辱のもとこの国を復興させ、そしてこの殆ど完璧と思える防衛を施したのだろう。

 それをより完璧なものにするために、タカシは今こうして生きている。

 そう思うと、なんとも不思議な感情が体を駆け巡った。

 完璧な環境、これ以上なにも必要がないと思える環境が整っているにも関わらず、危機感のないまま要塞を築き上げている自分が不思議だったのだ。

 空の彼方で赤いライトが時折明滅している。

 戦闘型アンドロイドが自分自身の存在を誇示し、他国に警告をしているのだ。

 きっとモスクワ連合の戦闘機かなにか領空に誤って進入したのだろう。

 大丈夫、大事はないはずだ。タカシは幾度かこんなシーンを見たのだから。

 タカシの顔を確認すると、アンドロイドが扉を押し開けた。

 そのすぐあとから、タカシと同じようにして『人間』が鉄扉を潜り抜けるのが目に止まる。


「どうも」


 鉄扉の向こうでタカシのちょうど後ろへと並んでいた背広の男がすれ違いざまに挨拶をする。


「どうも」


 タカシもそう返すと、道路の脇に止められた自家用車――、馬車であるが、に向かって歩き出した。

 別に帰宅する必要はなかったが、そそろそなんとなく、どういうわけか帰宅をしなくてはならないような気がしたのだ。

 こういう妙な感覚に囚われることが時々あると、タカシはその本能に従うことにしている。


「待たせた」


 御者に言うと、相手は「いいえ」と返事をし、そしてタカシが腰を落ち着けた頃を見計らうと、スムーズに車を発進させた。

 馬のひづめの音が小気味よくタカシの鼓膜を揺さぶった。

 その音に耳を傾けるうち、だんだんと視界はぼやけ――、そう、タカシはまどろみ始めた。

 ああ疲れていたのだ。そう自覚する頃には、タカシの意識はすっかりと夢の中へと取り込まれていた。


◆◆◆


 妙に小さい脚が、座したタカシの足の間をパンツの上から撫でていた。

 卑猥な動きは明らかにタカシを誘っており、そして挑発していた。


「おっきくなった」


 少しキーの高い声は、タカシを嘲笑うかのようではあるが、だがしかし少し苛立ちを含んでいる。


「だからなんだ」


 タカシは低い声で、なるべく冷静にそう答える。その誘いには乗りたくなかった。


「なにって……こんなにして、そのままここから出て行けるの?」


 読んでいた本を閉じると、かび臭い匂いが広がった。随分昔の本であるためかもしれない。金の箔押しのされたそれを手近にあったテーブルの放ると、タカシはその脚の主を見た。

 よく知った顔だ。


「ショウタ」


 夢の中のタカシは冷静にそう言うと、その足首を右手で握り締めた。


「いた……ッ!」


「痛くしている。なんのつもりだ、娼婦のような真似をして」


 細い少年らしい足首は、まだ第二次性徴前であるためか華奢で、力を込めすぎれば壊しかねないほどであった。


「ちょっと、痛い……!」


「なんのつもりだと聞いている」


「なにって前も言ったじゃん」


「なにをだ」

 

 足首を、軋むほどに握り締めると、ショウタの顔が瞬く間に歪んでいった。


「……痛い、痛いってば! 離して!」


 悲鳴じみた声を上げながら、ショウタは握り締められた脚をどうにか開放してもらおうと体を捩った。


「ね、ねえ、やめて! やめてって!」


「二度とこんな真似をするな!」


 タカシはその脚を振り回すようにして開放すると、全くの手加減なくそうされた幼い体を見事に吹っ飛び、ショウタはフローリングの上へと無様に転がった。

 涙に濡れた目がタカシを睨む。生意気な目だ。腹が立つ。

 まるで被害者のような顔をしやがって――、その台詞を吐こうと口を開くも、タカシは静かに唇を閉ざした。


「出て行け。汚らわしい。」


「……ッ」


「また痛い目に遭いたいのか。出て行け」


 二度の命令で、ショウタは這いずるようにしてその部屋から出て行った。

 恨みがましい目は最後までタカシを見ていた。


◆◆◆


「坊ちゃん」


 掛けられた声に、タカシは肩をびくりと揺すって目を覚ました。


「到着しましたが」


 股間に触れた、生々しい小さな足の感覚と、判然としない視界。

 気味の悪い夢を振り払うように目を瞬かせれば、そこは確かに自宅であった。

 ショウタ――、あの奴隷がタカシを誘う? それは願望だろうか。

 いや、願望であるのなら、構わず犯し倒すところまでを夢見るはずだ。

 妙にハッキリとした、そう、まるでそれは。


「お疲れでしたのでどうしようかと思ったのですが……」


 御者の声に、意識がはっと浮上する。

 このまま放っておくわけにはいかないのは当たり前であろう。

 タカシは眉間にシワをよせ、『大丈夫だ』と掌を立てて示したのち、それから何気ない風を装って軽くストレッチをした。

 視界と意識がはっきりと覚醒する頃、タカシは漸く自分自身の状況を把握するに至る。

 どうやらうたた寝をしていたようだ。確かに言われるとおり、疲れていたのかもしれない。御者に起こされるほどに深い眠りについたことなど、ここ数年の記憶にはなかったのだ。

 凝り固まった体を充分にほぐしたのち、タカシは馬車から降りた。


「ありがとう」


 御者に声を掛けるとすぐさま玄関へと向かう。湿気を少々含んだ風が頬を撫で髪を揺らした。

 帰ることは御者に伝えていなかったため、出迎える者はいないだろう。

 少々面倒であるが、玄関は自分で開けるしかない。

 玄関扉の脇に設けられた指紋認証器に親指を押し当て、次に懐から取り出し鍵を鍵穴に差し込む。二度の認証を経て、ようやく開錠となる。二度手間であるが、セキュリティ面の強化を前には面倒を飲み込むしかない。

 まったく、物騒な世の中である。

 この間もA社とは別のアンドロイド系家電を得意とする企業の社長宅が何者かに襲われたようだ。

 そんなことを考えていると、扉は音もなく開錠された。

 鍵を引き抜くと、タカシは「ただいま」とも言わずに屋敷の中に足を踏み入れた。

 足がむくんでいるのを感じる。靴下に包まれた革靴を脱ぎ捨てると、開放感が広がった。

 上り框に腰を欠け、暫くそのまま座り込む。どうやら、思っていた以上に疲れが溜まっているようだ。

 早いところ風呂に入って眠りにつくほうがいいに決まっている。

 それだけならばホテルに泊まるべきだった。本能などに従うものではない、余計な疲れを溜めただけだった――。

 そんな愚痴めいた考えを吐き出そうと溜息を吐いた瞬間、タカシの聴覚はなんともいえぬ違和感を捉えたのだ。


「――」


 なにか、かすかに鼓膜を揺さぶる物音を感じ、タカシは反射的に顔を持ち上げた。

 かすかな違和感はそれから暫く続き、タカシの首は自然と軽く傾いた。

 なにかいつもと異なる空気を感じたのだ。例えようのない、既視感とも言うのか。

 いや、幾度も帰宅した家なのだから既視感と呼ぶのはおかしい。もっと微細な違和感。

 その正体を探ろうと、タカシはゆっくりと首を巡らせる。

 感覚を研ぎ澄ませ、正体を探ろうと、意図的に視覚情報をシャットアウトする。

 聴覚、嗅覚。この二つをフル稼働させ違和感の正体を捜索に掛かった。

 すると、きゃあ、という微かな声が、耳へと届くのを感じた。

 女のような、子供のような声。随分と楽しげな声だ。そんな明るい声がこの屋敷に響き渡ることなど殆どない。

 この家にいるのは、数名の人間とアンドロイド、そして――、ショウタ。

 脱ぎ散らかしたような靴をそのままに、タカシは上り框に足を掛け一気にそこを上った。

 回廊を向かって左、つまり七の部屋の方向へと向かって進む。

 歩き進めるうちに、その声はだんだんと大きくなっていった。明るい、子供らしい声だ。

 八の部屋、九の部屋――、そして十一の部屋。ここは下男や女中が住み、アンドロイドを保管するための部屋である。部屋の内部は更に細かく分かれており、狭い家のようになっている。

 声は確かにその部屋から漏れていた。


「じゃあ次、俺ね!」


 明るいその声は先ほどと同じく、主の年齢性別がはっきりとはしないものであった。

 だがタカシには判る。そう、それは明らかに――、ショウタのものだ。

 その声を確認した瞬間、どす黒い何かが腹の奥底で渦巻くのをタカシは感じた。

 主人の居らぬまに楽しげな声を上げる奴隷に対する苛立ちだろうか。

 いや、それとはまた異なるもののような気がしていた。

 何故腹を立てているのかがタカシ自身にも判らない。

 ショウタの声はまだ上がる。ゲームでもしているのだろう、相手の出方を待つような潜めた息は、それにさえ子供らしい笑いが潜んでいて、それが妙に腹立たしい。

 ショウタは笑わない。いや、笑うことを許さぬのはタカシだ。そのショウタが、タカシの許可なく笑っている。


「やった!」


 またもや歓声が上がる。

 敵いませんわ、と諦めたような、でも幼子をあやすような声を上げているのは女中か。

 女中たちは「ショウタ様の勝ち」と子供の勝ちを認めるようにいい、そしてショウタは甘えるように「もう一回! ねぇ、もう一回!」と明るい声で言ったのだ。

 ああ、腹立たしい。奴隷の分際で――、否、俺のものだというのに、何を勝手に笑い、声をあげ、そして懐いているのだ。

 マグマが吹き出るようにして、支離滅裂な怒りが突如として湧いたことに、タカシは気づいていない。

 何かのスイッチが入ったかのように、心中を嵐が襲い、そして急激に荒れて行った。

 襖を勢いよく開けると、バン、と派手な音が響いた。

 果たしてそこに居たのは数名の女中と下男、そしてショウタであった。

 使用人部屋の共同のリビングに当たるそこでは、テレビも着けっぱなしのまま、テーブルの上には無数のカードが散らばっていた。

 ショウタは買い与えた覚えのないやや大きめのタンクトップにハーフパンツを身につけ、正座をしてソファにちょこんと座っている。挙句、甘えた様子で下男の太ももに手を乗せていた。

 子供らしさを取り戻したような片方の手にはカードが握られており、なるほど、使用人たちを巻き込んでカードゲームに興じていたようだ。

 笑顔のまま顔を固めて、タカシを見上げ、口はあんぐりと開けられた。


「何をしている」


 地を這うような声が自然と吐き出される。

 タカシが帰宅をするなどと夢にも思わなかったのだろう。小さな手からはカードが零れ落ちた。

 今しがたまでキャッキャと子供のように喜んでいた顔は、突如現れた悪魔によってゆっくりとその表情を変えていき、今では恐怖心が優勢となったその顔をタカシに晒している。

 無性に腹が立った。なににそんなに腹を立てているのかが判らなかった。

 下男がすっくと立ち上がると、乾いた声で「お帰りなさいませ」と口早に言う。

 彼らにとっても、今タカシが帰宅することはあまり歓迎できない事態であったようだ。

 女中たちはそそくさとカードをしまい、そしてタカシをチラと見ながら下男と同じように頭を下げた。

 何故こんなにも腹が立っているのかが判らなかった。

 子供らしい声を上げ、そして笑うショウタのなにが逆鱗に触れたのか、タカシは理解をしていない。

 タカシはそのカードが握られたままの手首を思い切り引っ張った。


「痛い……!!」


 甲高い声が響く。 

 今度こそ既視感を覚える。夢の中のショウタが叫んだ言葉と今しがたショウタが叫んだ声は一致していた。


「離し……!!」


「坊ちゃま!」


 女中たちのざわつく声がする。タカシはそれに構わずショウタの腕を引いた。


「おやめ下さい!」


 下男はタカシとショウタの間に割って入ろうとするが、ショウタが一瞬だけ、すがるようにして下男を見た瞬間に、どういうわけか彼は少しだけ身を引いた。


「おやめ下さい」


 ショウタの手首を掴むタカシの手を、下男が掴んだ。

 下男ごときが、タカシの腕を掴んでいる。それも、この薄汚い貴族の奴隷を庇うために。

 きっとそれが腹立たしかったのだろうと結論付け、タカシは制止の言葉も聞かずにショウタの腕を引っ張り自室に向かうべく歩き出した。


「坊ちゃま!」


 悲痛な声が響き、そして女中たちの戸惑いを含んだ声がこそこそと発せられる。非難であろうそれを一切無視して、タカシはショウタを引きずるようにしてずんずんと歩く。

 か細い声が「痛い」と訴えるが知ったことではない。

 ショウタはタカシの屋敷で、笑い、楽しげな声をあげ、そして使用人たちを懐柔した。

 それがとても腹立たしい。

 一体何故ここまで腹を立てているのだろう。

 制御しきれぬ怒りを恐ろしいと思う反面、何故か『当然のことだ』と思う自分もそこにいた。

 何故、どうしてこんなにも苛立っているのだろう。苛立つ必要がどこにあるのだろう。


「痛い! なあ、痛いってば!」


 ついに大声を上げて抵抗を示したショウタを振り返ると、タカシはその頬を思い切り張った。

 大きな音がしたと思うと、ショウタの体は床を滑るようにして転がった。


「ぃ……!」


 倒れた体をそのままに、毟るようにしてハーフパンツを引き摺り下ろす。


「や、やめ、やめろ……!」


 こんなところで、とショウタは短い悲鳴を上げた。

 まだ廊下だ。二階にもあがっていない。誰が顔を覗かせてもおかしくない状況に、ショウタの抵抗は殊更強まった。


「やめろ、やめて……! 助け、」


 女のような高い声は耳障りであったから、タカシは首から外したネクタイをその口に突っ込んだ。

 くぐもった声は相変わらず抵抗を唱えているようであったが知ったことではない。

 下着もパンツも中途半端に下ろされた尻を引っ叩くと、ショウタの抵抗が緩まる。

 その隙に尻肉の狭間を無理やりにこじ開け、タカシはそこへ自身のそれを宛がった。

 腕は振り回され時々体を掠めるが、実質的な抵抗には程遠い。

 犬のような体勢のショウタを押さえつけるのは容易く、タカシはそのむなしい抵抗をものともせず、乱暴に穴を穿ってやった。


「――!」


 ひぃ、と悲鳴が聞こえた気がした。

 鳥肌の立った腕が幾度か抵抗をし、それから力なく下ろされる。

 握られた拳は真っ白で、どうも痛がっているようだということは判るが、怒りでスパークした頭で制御ができない。

 どうしたことか、暫くこのような無体を働いていなかった割にはショウタの体は従順にタカシを飲み込んで見せた。

 それすら何故か腹立たしく、苛立ちながら腰を打ちつけ続けるが、最早ショウタは抵抗を諦めたのかただネクタイの詰まった口で謎の音を発し続けてて居た。

 肉の薄い尻は明日痣ができるかもしれないが、そんなことよりも今はとにかくショウタをいたぶりたく、タカシは一心不乱に腰を前後し続ける。

 廊下にくぐもった声が響く。

 ごく小さなそれは、しかしはっきりと聞き取れて、やがてショウタの声色が変わっていくことに気づいた。


「なんだ……」


 不意に身を屈めショウタの前に触れれば、そこは小さいなりに反応を示していた。


「興奮しているじゃないか」


 違う。そう言いたげに首がさらに激しく左右へと振られる。


「誰が来るか判らないものな」


 違う、そうじゃない。

 そう言いたげな頭は一瞬だけタカシを振り返る。大粒の涙を湛えた目はすぐさまそらされ、

「うん」とも「んん」ともつかぬ声の頻度が上がった。


「ん、ん、んう……!」


 苦しげな声は、ネクタイを突っ込まれた結果で、しかしそれはショウタにとってもありがたいことに違いなかった。

 少なくとも異物が入れられたままであれば、あからさまな嬌声を上げるような失態は見せずに済むのだ。

 それに気づけば外さない手はない。

 タカシはショウタの頭を床へと押し付けると、もう片方の手でその口に手を突っ込んだ。

 けほ、と言う小さい声とともにヒュッと息を吸い込む音がした。


「な、」


 何か抵抗の言葉をショウタが紡ぐ前に腰を動かす。


「ぁん!」


 予想通りにショウタの甲高い声は廊下に響いた。

 慌てて口に手を宛がおうとするショウタの腕を背後に引っ張り、その抵抗を抑え込めば、ショウタはまたもやタカシの顔を睨むようにして見た。


「や、や、やめ、」


 憎い男に犯されて声を上げる自分、また誰がいつ来るかも判らぬ場所ではしたなく声を上げる自分にショウタは半ばパニックを起こしているようだった。

 ひぃ、と言う声が時折響き、しかしそれが痛みの為だけではないことがタカシには判っていた。

 手は引っ張られ拘束されてもなお抗おうと、ほんの僅かな自由から逃げ道を模索しているようであったが、大の大人に乱暴にまとめられ上げた腕がまともに動くはずもない。

 皮膚を滑る汗が床に撒き散らされていく。

 同じ動作を繰り返すうちに、次第にショウタの反応が変わっていくのが判った。

 声が叫び声や抵抗を示すものではなく、甘いものへと変化する。

 そうなってしまう頃には、ショウタの理性は無理やり植えつけられた欲望に食いちぎられていた。

 水気で濡れたフローリングで、ショウタは何度も体勢を建て直し、タカシを受け入れやすいような格好をしてみせる。

 タカシはショウタを小馬鹿にするように鼻で笑う。

 アホのようにただ快感を貪ることに夢中になっていくさまが、哀れで面白かった。

 自分が居らぬ間に楽しげな声をあげ、使用人どもに懐いた素振りを見せた『健全』で『子供らしい』ショウタはもうどこにも居ない。ただの雌犬だ。

 奴隷らしく振舞わず普通の子供のように振舞おうとするからこういうことになる。

 タカシはそんなことを散漫に考えながら、ショウタの髪を引っ掴んだ。


「この雌犬が」


 吐き捨てた言葉はショウタに聞こえたのかどうかは定かではないが、その目は大粒の涙で満たされていた。


◆◆◆


 腕の自由がまるで利かなかった。いや、足も、そう、体全体の自由が利かなかった。

 ――金縛りだろうか。

 目だけ動く環境で、タカシは暢気にそんなことを考えていた。

 タカシは暗い部屋に居る自分自身を自覚した。どうも、ここは自室ではないらしい。

 昨晩は思う存分ショウタをいたぶって、それから――、それから?

 目だけをきょろりと動かし昨晩の己を思い出そうと試みるが、上手くはいかない。判然としない記憶は霞に包まれたようで、なにもかもが夢のように感じられた。

 それよりも、とタカシはこの暗い部屋を見回した。

 なにもない。ただ漆黒が静かに広がっているだけだ。

 ただ、なんとなく覚えのある湿気た空気と、そして熱だけは感じた。

 なにも聞こえないし、なにも感じない。ただあるのは体がひとつ、それだけ。そんな不思議な感覚に包まれていた。

 と、不意にタカシは目を閉じた。

 突然に強烈な光りが降り注いだからだ。

 一瞬ホワイトアウトした視界は徐々に元へと戻り、そしてまたすぐに薄暗い状態へと戻った。

 なにが起こったのかよく判らなかった。一瞬の光り。あれはなんだったのか。

 不自由な体を動かそうと試みるが、しかしやはり上手くは行かない。

 最大限に目玉を動かし、そして視界の端に、タカシはある人物を捕らえた。

 ――ショウタだ。

 正直、タカシは焦った。

 なにか悪い薬でも盛られたか、または体を拘束されありと四肢の動きを脳波から阻害する拘束衣でも着せられたか。

 いずれにせよ、ショウタの謀反によって自身の自由が奪われたとしか思えなかったのだ。

 ところがショウタはタカシに興味を示した素振りもない。

 タカシに背を向け、そして頭が小刻みに、ほんの僅かな動きを見せていた。

 どうやら、タカシに背を向け話をしているらしい。だが誰に向かって?

 聴覚はやはり眠っているかのように鈍磨し、なにも聞こえなかった。

 ショウタの動きがふと止まった。

 それから、彼は身につけていた水兵のようなセーラー――、そんなものをタカシは買った覚えはないのだが、襟に水色のラインが入ったシンプルなものだ――、それをゆっくりと脱ぎ捨てていった。

 露になったのは傷一つないほっそりとした背中で、半袖からむき出しであった腕は少し焼けている。真っ白な背中部分が艶かしく映った続いて彼はパンツを脱ぎ捨て、続いて下着を脱いだ。

 素っ裸になった彼は、やはりタカシに興味を示すことなく、そして。

 たった今、タカシは気づいた。

 タカシが横たわっている場所から一メートルほどの距離にはソファが置かれており、そこには人間が座していた。

 部屋が暗かったため、タカシはその存在を見落としていたのだ。白く浮かび上がるショウタの体が、その人物を隠していた、と言うのもあるだろう。

 耳は相変わらず聞こえない。

 ショウタは素っ裸のままその人間の前まで来ると、向かい合う形で、相手の膝の上へと腰を落としたようだった。

 未だ誰なのか判然としないその人物の首へとショウタは腕を巻きつけ、そして頬を摺り寄せた。

 状況と、その甘えた子供然とした仕草がひどくアンバランスだ。

 相手――、おそらく男だ――、は、なだめるようにショウタの背中をなでた。

 慰撫するような、その仕草には性的なものが一切感じられない。ただ、慈しむような甘さがあった。

 最初に感じたのは怒りであった。

 なにをしているのか、と猛烈な怒りがこみ上げた。

 主人以外に股を開くなど、奴隷がしていい行為ではない。

 獰猛なタカシの怒りをよそに、ショウタは男に甘え、そして少しだけ微笑んだ。

 ――なんだ、これはなんだ。

 相手に気を許しているかのようなショウタが気に入らない。

 タカシの許可なくショウタに触っている相手の人間が気に入らない。

 タカシは相手が誰であるのか見極めようと、その頭を凝視した。

 髪は短い。肩幅の広さと首の太さからみて、男であることは間違いがないようだ。

 そしてここはどこだろう。ソファは漆黒の皮製のような光沢。どこにでもあるようなソファだ。

 男は首にネクタイを巻いているようだった。

 見覚えのあるネクタイ、のような気がした。

 誰だ、誰なんだ。

 不意に思い出したのは、そのネクタイに酷似したものを下男が巻いていたと言うことだった。

 力仕事の多い彼が、それを仕事中に巻くことはない。

 そう、確か長期休暇をとり実家に戻ると言っていた際に身につけていたものではなかったか。

 込み上げる怒りが、体中を駆け巡る。

 だが、身動きの取れぬ体ではどうすることもできない。

 やめろ、それは俺のオモチャだ。そういいたいのに、声さえ出なくて歯痒い。

 クソ奴隷が。とんだ奴隷だ。主人であるタカシ以外に股を開くなど、あっていいことではない。

 渦巻く腹立たしさと、それとは別の何かに体中を侵されながら、タカシは歯軋りをした。

 動かない。何故動かないのだ。辛うじて動く目玉で二つの影を睨み見るが、そんな気配に気づくこともなく、男はただ慈しむようにショウタの背中を撫でている。

 ――なんて腹立たしく、なんて、なんて……。

 薄暗い部屋の中、タカシは苛立ちを湛えた瞳で影を睨み続けていた。


◆◆◆


 鼓膜を揺さぶるのは不愉快極まりない目覚ましアラームの音だった。

 頭痛のする頭を支えながら、タカシはもそもそと起き上がり「起床した。停止」と濁りの深い声で命令を下す。

 なんて寝覚めの悪い夢なのだろうか。

 それは紛れもなくただの夢であり、現実ではない。

 たかが夢にここまでも心を揺さぶられた己が不愉快であったし、また理解不能であった。

 過去の記憶が作り出した不可解な夢は、現実のようであってしかしそれとははるか対極に位置する存在だ。

 そう、決して現実ではない。単なる記憶整理の合間に見せられた、まったく意味のない虚像である。

 それに、オモチャを盗られたからと言ってなんだというのだ。また新しいものを、いや、それ以上にいいものを買い直せばいいだけの話だ。

 たかが奴隷に心を乱されるなど、タカシに相応しいことではない。

 ――だというのに。

 こみ上げる不快感にタカシは顔を歪めた。



「クソ……」


 歪んだ表情の原因は夢の為だけではない。頭全体を支配するような頭痛だ。

 近頃頓に感じていた頭痛は、今日も朝から強く、ますます不快感が募った。

 小さく吐き捨てると、タカシはそのなにもかもを振り払うようにベッドを降り立った。


***


 タカシは下男の制止も聞かずに足元も覚束ないままのショウタの腕を引っ掴み、馬車へと押し込んだ。

 奴隷用の首輪を着けさせたから、逃亡の恐れはないだろう。


「坊ちゃま!」


 下男の声と、非難がましい御者の顔を見て見ぬふりをしつつ、いつもの通り箱庭計画の拠点が置かれた首府中心部を目指した。 

 ショウタはなにも言わない。

 憔悴しきった様子で、時折うとうととしては馬車の揺れにハッとなり、そして目を覚ますということを繰り返していた。

 疲れているのであろうということは安易に知れたが、気遣うことをしてやる義理はない。

 何故ならショウタはオモチャであり、過剰に手を掛けてやる必要はないはずなのだから。

 俯いたままであったから、ショウタの顔はよくは見えない。だが、タカシと居ることで、意識があるうちは少なくとも警戒し緊張を解けずに居ることは窺い知れる。

 それもどういうわけか、タカシにはとても楽しいことのように感じられた。

 己がどんどんと歪んでいっている自覚はあった。否、最初から歪んでいたのかもしれない。 

 最初から歪んでいた嗜好を、ショウタの存在が引きずり出したのだ。

 きっとタカシには生まれたときから嗜虐趣味があり、ショウタの存在によってそれが目を覚ましただけに過ぎぬのだ。

 ショウタの体中に残る殴打したような青あざは、間違いなくタカシが着けたもので、それを見ると何故か心が安らぐのを感じた。

 半袖からむき出しの腕にも、無数の青あざがある。

 徐にそこへと手を伸ばしてつねり上げると、ショウタは涙を溜めて、しかし声も出さずにそれに耐えた。

 ――馬車が止まった。

 到着を告げる御者の声に、タカシはショウタを引きずるようにして馬車を降りた。


「暫くは帰らない」


 御者に短く告げるとここのところ滞在を続けていたホテルを目差した。

 鉄壁の近くにあるホテルは、やはり鉄壁の向こうで働く人々が多く利用している。

 安いホテルではないためか、一般の宿泊客も比較的富裕層が多く、似たような嗜好の者が多い。

 故に奴隷を連れ歩く客も少なくなく、ショウタの存在も奇異に映ることはないだろうとタカシは踏んでいた。

 ホテルを目差すべく、歩く。

 手首を引っ掴まれたショウタは、タカシと歩幅が合わずによろけて転びそうになっているが、実際には転んでいないので問題はない。

 よろけるたびに聞こえてくる「あ」と言うショウタの声もろくに聞かずに歩き続けた。

 やがて到着したホテルは、早朝の為か人影はまばらであった。

 フロントに着くやいなや、ホテルマンが恭しくタカシを出迎え幾度も頭を下げる様が妙におかしい。

 そんな感情はおくびにも出さずに、タカシは「おはよう」と声を掛けたのだった。


「今日からこれもこちらの世話になる」


 身なりだけはキチンとさせてきたショウタの頭を押さえ込み、挨拶をさせる。


「左様でございますか。こちらの方は……」


 首輪が見えているだろうに、一応、と言った様子で伺いを立ててくるため、タカシは短く「奴隷だ」と告げた。

 安ホテルなら兎も角、それなりのランクであるホテルは奴隷を主人の付属品と見なさず「客」としてカウントする。

 宿泊料金が二倍になることはタカシも充分に承知していた。


「お部屋は移られますか? 今のお部屋ですと、ベッドはおひとつしかございません」


「ああ、頼む。移動先はケータイに連絡してくれ。すまないが『これ』を部屋まで持って行ってくれないか?」


「かしこまりました。お荷物もこちらで移動させていただいてもよろしいですか?」


「そうしてもらえると助かる」


「かしこまりました」


「これを」


 タカシはチップである紙幣をホテルマンへと握らせる。店舗での支払いは電子マネーが主流になった現代でも、チップだけはこうして現金で手渡されるのだ。


「ありがとうございます」


 ショウタをホテルマンへと任せると、タカシはさっさとホテルを去った。

 今日も忙しい。奴隷に心を乱されている場合ではないのだ。

 これから訪れる壁の向こうへの進入手続きに気が滅入りそうになりながらも、タカシは足を進めたのだった。


***


「生活に欠かせない公共施設は殆ど仕上がったということでよろしいかね」


 壁の内側、ガンガンとけたたましい騒音に晒されながら、男は叫ぶように尋ねた。

 視察に訪れた府知事だという男は、確かにテレビで見たことがある顔であったが、短くまとめられた資料に一瞬だけ目を通せば理解できるようなことを一々尋ねてくる、如何にも無能そうな男であった。

 現在京都府は完全に国の管理下におかれており、そのような役職は不要に感じられたが、一応は、と言った感じで彼は府知事に就いていた。

 本日視察に訪れた彼をもてなすために、箱庭計画の一切を取り仕切るA社は比較的上層部の人間までもが壁の内側を訪れていた。

 一昔前ならばこの手の公共事業にはゼネコンが深く食い込んでいたのだろうが、人の作業では危険の多い現場の大半をアンドロイドの働きでまかなわれているため、設計図の起こしやら素材の仕入れ以外は、アンドロイドを貸し出す会社、アンドロイドを派遣する会社が担っている場合も少なくはなかった。

 今回の箱庭計画も例外ではなく、また情報漏えいの危険を考え、より多くの作業をアンドロイドに頼っている。


「予想より半年は早く進んでいます」


 説明のため、タカシも大きな声で返事をした。

 早ければ早いほうがいい。

 予算を度外視するように、との指示を出されているA社は、可能な限り作業を急ピッチで進めていた。

 二十年を掛ける予定である箱庭計画は、京都府全域及び各県庁所在までの建設と人員の立ち入り制御の全てを視野にいれたものであって、京都府中心部の、つまり心臓部分のみであるのならば二年後には完全に機能を回復できそうだ。

 そのような説明を続けていると、

 男は「それで、アンドロイドはいつから住ませるんだね」と大声で問いかけた。

 その場に居る全員が凍りつき、そしてタカシも同じように閉口した。

 誰かが聞いている可能性は極めて少ないが、それでも大声で口にしていい内容ではないはずだ。

 やはり無能なのだろう。全員が押し黙った意味さえ判らぬようで、目をしばたかせ、男はジッとタカシを見ていた。

 何故答えない。早く答えろ――、そう言いたげな顔に、タカシはますます呆れた。

 あくまでこの復興建設はただの『復興』であって、それ以上でもそれ以下であってもならない。

 それをこの男は理解をしていないようだった。

 この箱庭計画の為に、既に数十年に渡り老人たちは努力を重ね、今、漸く下地ができたところなのだ。

 まず、地方都市衰退を防ぐと言う名目で、とりわけ繁栄している都市には転居や勤務が制限されており、また娯楽施設や店舗なども都市にあるものは地方にも必ず姉妹店が置かれる決まりと成っている。

 おそらくそのような法律を作った老人たちは、このような箱庭計画を戦後直後から検討していたのだろう。

 つまり、箱庭に進入できる人員が制限されていることについて、全く不自然に感じさせないような下地を作り上げたのだった。

 立ち入り制限が不自然でないよう、また都会に思いを馳せる若者が無謀な立ち入りを決行しないよう、長きに渡って国民をコントロールしてきたのだ。

 今回も当然その制限を適用させるつもりであるはずだ。であるからして、この都市に住まう人間に化けた『アンドロイド』は進入許可を得られた『人間』でなければならないし、転居し、働き、そして生活を営むのは紛うことなき『人間』であり、『アンドロイド』などでは決してないのである。

 それらは秘匿せねばならぬ最も重要な計画であり、それが周知されることは即ち箱庭計画の存在意義が失われることとなるのだ。

 ――それをこの男は判っていない。

 呆れてものが言えぬ。

 さらりと流すべきか、それとも――。

 それは突然だった。

 工事の轟音に紛れて、それとは異なる轟音が、かすかにタカシの鼓膜を振るわせたのだ。

 いつもとは異なる微細な変化に気づいたのはタカシのみであるようだった。

 突然落ち着きをなくしたタカシに府知事は怪訝な顔をしているし、重役たちは無能な男にどうしたものかと眉を顰めるばかりだ。

 誰も異常に気づいてはいない。

 ゴンゴン、ガンガン。

 重ったるい、脳を揺らすような轟音は相変わらずで、それは工事によるものだと確認できた。

 しかし。


「――まただ」


「え?」


 タカシの呟きを拾った誰かが「どうしたのかね」と尋ねるが、タカシははるか遠い空を見上げ、そして五感をフル稼働させていた。

 なにか、嫌な予感がしたのだ。

 そして――、


「伏せろ!!」


 タカシは肺一杯に埃っぽい空気を吸い込み、そして反射的にそう叫んでいた。

 舞い上がる土煙、飛び散る鉄片。

 一瞬空が赤く光ったのは気のせいではなかったようだ。

 それを確実に認識する間もなく、タカシは爆風に煽られ吹っ飛んでいた。

 近くにあった単管バリケードに背中を強か打ちつけ、その衝撃に思わず呻く。

 うっすらと目をあけるが、しかし黒い土ぼこりにまみれた視界ではなにも見えず、爆音を浴びた聴覚は麻痺して周囲の音を拾えない。

 キイィンと言う耳障りな耳鳴りがするばかりで、それが余計に不安をあおり、なんとか状況を把握しようとタカシは慌てて体を起こした。

 体を確認するが、怪我をした様子はない。

 いや、それよりも何が起きたのかを確認せねばなるまい。

 一体なにが、なにが起きている?

 目を凝らして周囲を見遣ると、土煙のその向こうで、また何かが光った気がした。

 ――まただ。また、来る。

 タカシは慌てて走り、なるべくその場を離れようと試みた。

 遠くで人の手が拉げて落ちているのが見えたが、知ったことではない。

 今は、そう、今は逃げることに専念せねばならないのだ。

 でも何故? いや、いったい何が起こっているのだ。

 工事現場での爆発事故か、それともアンドロイドの設計ミスによる誤作動か。

 いや、それはない。

 タカシは何故か確信していた。

 何故なら、空が

 それは即ち。


「……!!」 


 第二波だ。

 漸く回復しつつあった聴覚は、「助けて」と言うか細い声を拾ったが、しかし再び麻痺した。

 植えられていた樹木が吹っ飛んでいる。

 タカシは自分の横をすり抜けていく大木を横目に見ながら、自身の体もまた同時に飛ばされ、まるで浮遊しているような感覚に陥った。

 小石や鉄片が体に当たる痛みがなければ、それは心地のよい空中散歩のようだ。

 タカシは飛び交う木々や、石や、それから得体の知れぬ塊が飛び交うのを見ていた。

 慌てつつも、何故か冷静にそれを眺める余裕はあった。

 腹に気持ちの悪い動きを感じるのは、おそらく未だ爆音が成り続いている証拠だ。

 音波が直接内臓に響いているのだ。

 もしかしたら死ぬのかもしれない。

 タカシは荒れ狂った景色を見ながら、ふいにそんなことを考えていた。

 そこまで考えに至り、今漸くがなにであるのか、一体何が起きているのかを悟った。

 空に飛び交う、無数のゴミクズに交じって、なにかが光るのが見える。

 凧のようなものが地上めがけて飛んできている。

 いや、凧ではない。攻撃機だ。それはタカシの目で確認できるだけで三機はあった。

 それを追うようにして、飛んでくるのは――、おそらく大日本帝国の戦闘機だ。

 大日本帝国が誇る優れた防衛システムであるシールドが、破られている。

 空の色が薄い。時折歪に揺れる像は、シールドの向こうの本当の姿だろうか。

 大日本帝国の民の殆どは、濃い色合いの虚像の青空しか知らないのだ。

 シールドが、破られている。

 タカシはもう何度目かになる確認をした。

 そう、シールドが破られているのだ。

 常時常春へと設定されているはずの空気が、妙に熱く、そして湿っぽい。熱風と言ってもいい。

 そして点滅を繰り返す、大日本帝国の戦闘機。警告用に発せられる赤いライトは、タカシも始めて目にするものだった。

 破れたシールド、警告を繰り返す防衛用の戦闘機。

 ――攻撃されている。

 これは侵略だ、とタカシは地面へと転がりゆく己の体の心配をそっちのけでそう悟ったのだった。 

 こんな時だというのに、頭が酷く痛んでいた。


◆◆◆

 

「人身御供と言うわけか」


 タカシはそう吐き捨てた。

 ミユキは困った顔でタカシを見つめ、そして『そんなつもりはないわ』と言い訳じみた返答をする。

 それ以外のなんだというのだ、とタカシはミユキを見つめ、そして嘆息した。


「これだから貴族だの華族だのは……」


「そんな言い方、やめて頂戴……」


 涙声のミユキは、可憐な女性そのものであった。その彼女は今から――、そう、今から婚約を交わす。

 なんと忌まわしい婚約だろう。めでたさの欠片もない。


「愛がない」


「そんな……」


「だってそうだろう、奴隷と変わらない。そこに当人の気持ちがない。命令だ。拒否権はない」


「タカシさ、」


「惨めだ!」


 激昂したタカシの声に、ミユキはびくりとその細い肩を揺らし、ついには俯いた。

 タカシは猛烈に怒っていた。この女性に対して、酷い怒りを抱いていた。生まれてこの方、ミユキに対してここまでの怒りを抱いたことはなかった。

 慕っていた。ずっとそうだ。ずっとそうだったのに。


「ミユキが拒否すれば、いいだけの話だ」


「私は、私は……」


 ミユキが、まるで見たことのない女に見えた。


 まるで悪夢だ。何故、一体なんだってミユキが――。


「最悪だ……! こんな結婚、馬鹿げている」


「私はそんなつもりはないわ……!」


「俺にはそうとしか思えないね。ミユキだけはそんなことはしないと思っていた! 結局ミユキは、ミユキは――」


 これを言ってしまっては、プライドは木っ端微塵に崩れ去る。

 そんなことは判っていた。タカシは口を噤み、そして拳を握った。


「馬鹿馬鹿しい……!」


 軋むほどに強く握り締めた手の内側は、かすかにぬめって居た。


◆◆◆


 タカシははっとして目を開けた。

 暫くの間、気を失っていたようだった。

 あまりいい夢ではない。あれは、ミユキの結婚が決まった時の夢で――、いや、今は夢の内容を思い出している場合ではない。 

 土煙舞う中、タカシは横たわったままで目の前の状況の確認を急いだ。下手に動くと攻撃をされかねない。とにかく、状況をじっくりと確認する必要があった。 

 まず、建設が急ピッチで進められていた箱庭の殆どは破壊されていた。これはあくまでもタカシの視点からの風景であったから、実際に如何ほどの損害があったのかは判らない。

 アンドロイドの破片、傾いた鉄筋、そしてえぐれたような地面。それらの全てはタカシの近くに散らばる惨状だ。

 地面にぴったりと寄り添った状態でも、箱庭の状態があまりよくないことは見て取れた。基礎を築いていた建物も、ほぼ完成間近であった建物のも、その多くは失われたようだった。 

 モスクワ連合かアジア合衆国か、それともオーストラリア中立国、はたまたアメリカ連邦か。ひと昔前は脅威となりえたロシアには、今戦争をする力はないはずだ。

 兎に角、どこかの国が大日本帝国による防衛網と、強靭なシールドを打破して進入を果たしたのだと、土煙にむせながらタカシは冷静に考えていた。

 空を見上げればその彼方では、未だ無数の赤い警告ライトが点滅を繰り返している。

 こうなってしまっては、もうそんなものは無意味に違いないのに、戦闘機に乗ったパイロット――、アンドロイドたちは律儀にも一応の警告を続けているのだ。

 破壊されたシールドが小刻みに揺れ、その向こうに『本当の空』を映している。

 赤いライトのその背景は、随分と薄っすらとした青色で、平常時にタカシたちが目にする空の色とは随分と異なる覇気のない色合いだった。

 身を潜めるように建物の影へと移動をしたタカシは、目の前で繰り広げられる映画のワンシーンのような惨状を固唾を呑んで見つめていた。

 まず、侵入を果たした攻撃機は、大日本帝国の戦闘機によって『繭玉』に変形させられた。

 これは強化凍結スチロールとか呼ばれるもので、それらを目標に向かって吹き付けると、白い泡のようなものが吹き出し瞬時に目標物は凍結させられ、かつ繭状になり、地面へと激突をする。

 激突をするものの、衝撃吸収に優れた素材のおかげで、地面への墜落の衝撃も少ないし、また内部からの破壊に強いため、万が一中身が凍結が不十分な目標が爆発を起こしたとしても、外部への衝撃も最小限に済ませられる、と言う仕組みだ。

 大日本帝国の戦闘機は、国内に侵入を果たした攻撃機の全て――、タカシの視点から確認できるのは、今のところ三機だ――、に強化凍結スチロールを吹きつけたのか、それらは歪な繭玉と化していた。

 それらが爆発することはなさそうだ。中のパイロットが人間であったのなら、とっくに死んでいるだろう。

 大日本帝国の戦闘機から降り立った戦闘型アンドロイドたちは、繭玉に近づくとなにやら手を当て内部を窺っているようだった。

 おそらく超音波診断だろう。あれで『中身』が生存しているか否かを確認しているに違いない。

 アンドロイドたちはそれらの作業を終えると、繭玉の中身について、心配をする必要がないと判断したのだろう、周囲を捜索し始めるような仕草を見せ始めた。

 一人、二人と、なんとか人と判る残骸――、視察団だ、を掘り起こしていく。

 無残にちぎれた腕を拾い集めては一箇所に置く。まるで発掘だ。

 もしかしたら生存者はタカシただ一人なのかもしれない。

 血液でさえ砂埃に覆われて、そこにあるのは人であった残骸、だがそれもあちらこちらが砂で覆われ人の肉体であったという現実味が損なわれていた。

 せせこましく動く数体のアンドロイドは瓦礫をどけては人を探し出しているようであったが、タカシに対しては全く興味を示していなかった。無事が確認された人間には興味がないのかもしれない。

 それにしても、とタカシは再び空へと視線を向けた。

 なんとも不自然だ。おびただしい数の攻撃機が空を埋め尽くしているのにも関わらず、破壊されたシールドの隙間から、再度の侵入を果たそうとするものは一機もない。

 侵入、いや、これは偵察なのだろうか。この箱庭計画がどこからか漏れたのかもしれない。

 しかし、とタカシは壁の向こうを確認した。

 箱庭区画外、つまり箱庭建設地より外である壁の向こうにも、火の手は無数に上っている。

 遠くで複数のサイレンが鳴り響き、それらが一体どこから響いてくるのかを正確に判断することは困難であることが窺い知れた。

 被害があったのは、ここだけではないらしく、シールドの穴も火の手と同様に複数存在し、その全てから薄い色合の空が姿を覗かせていた。

 サイレンが鳴っている。熱い風に煽られる前髪を押さえ、タカシはその光景をじっと見た。

 心がまるで動かない。攻撃されている、侵略されている。だからどうだというのだ。

 タカシをもみくちゃにした爆風と一緒に、まるで恐怖や不安が抜け落ちてしまったようだ。

 密集した虫のような、綺麗に整列した攻撃機にも、恐怖をあまり感じない。

 もしも戦争になったとしたら? それについてもあまり現実的な感想や恐怖は抱けなかった。

 戦争を知らないタカシの脳は、この凄惨な光景を対岸の火事として捉えているのかもしれない。

 サイレンに交じって悲鳴が聞こえる。ああ、やはり壁の外でも被害はそれなりにあったのだろう。

 立ち上る煙、こげた匂い、それらまでは工事の為に設けられた壁では覆い隠すことはできない。 

 きっと外でも人が何人も死んでいるのだろう。国は何をやっているのだろう。

 完璧を自称した防衛システムは上手く作動しなかったのだろうか。

 悲鳴はなおも響いている。女、男、子供、少女、少年――、タカシは立ち上がり、眩暈を振り払うようにして頭を振った。

 女、男、子供――、


『我々は無国籍軍である』


 空高くより、訛りの強い発音で、そんなアナウンスが響いた。

 ああ、無国籍軍か――。

 タカシの頭は一方ではアナウンスを認識し、もう片方では別のことを考えていた。

 少年、少年、少年。

 そう、少年だ。

 タカシは今朝、ショウタを家から連れ出したのではなかったたか。

 どこに預けた?

 頭を右手で押さえ、混濁する記憶を鮮明にしようと考える。

 ホテル――、ホテルに預けたのだ。

 タカシは東の空を見た。

 火の手が上がっている。

 背の高い建物はあらかた破壊されているようだ。

 ホテルはどうだろうか。

 タカシは力のあまり出ない足でふらりと立ち上がった。

 ここに来てタカシは、足元へと血が下っていくような、恐怖らしい恐怖を初めて抱いたのだ。

 一気に血の気が下る感覚、背中が震える気持ちの悪さ、せり上がる胃液。

 それは間違いなく恐怖と呼ばれる感情だ。

 目を見開き、東の空の、ホテルがあるであろう場所を見つめた。


『我々は無国籍軍だ』


 無遠慮なアナウンスが再度流された。


『大日本帝国には、食料と水の提供、そして我々の駐屯の許可を要求する』


 世界が混沌としていることを、日本人はみな知っている。そしてこの国が鎖国のおかげで比較的裕福であることも。

 だがそれは先人たちが、国民たちが一丸となった対策故のもので、どこか他の国を衰退に追いやって手に入れたものではない。

 端的に言えば、この国の国民は『努力』を重ねてきたのだ。

 鎖国を緩和しある程度の輸入を許可したのも、また国民たちの努力の結果だ。


『我々は、食料と水の提供、そして駐屯の許可を要求する』


 世界が混沌としていることを、日本人はみな知っている。そしてこの国が鎖国のおかげで比較的裕福であることも。

 だがそれは先人たちが、国民たちが一丸となった対策故のもので、どこか他の国を衰退に追いやって手に入れたものではない。

 端的に言えば、この国の国民は『努力』を重ねてきたのだ。

 鎖国を緩和しある程度の輸入を許可したのも、また国民たちの努力の結果だ。

『我々は、食料と水の提供、そして駐屯の許可を要求する』

 壊れたMP3のように、同じアナウンスばかりが繰り返される。

 この平和は、この国が努力することで得たものだ。

 無国籍軍が要求する水とて、最終的にはこの国に大戦の火種を持ち込む結果となったものの、ある研究者の努力によって築き上げられたものだと言う。世界的に見て、あらゆる有害物質の多くを取り除かれた、安全性の高い水を国民の全てが摂取できる国は、この大日本帝国くらいなようだ。

 この国は、国が、そして一個人が、そうした努力を重ねて築き上げたものだ。

 水と食料が欲しいからこの国を破壊しただと? そんな横暴が許されるものか。

 空に広がる攻撃機に、タカシは今さらの憎しみを抱いた。

 国を衰退させたのは、その国自身の責任だ。それを横から掠め盗ることなど許されるわけがない。

 いいや、やつらは許されると思っているのだ。なにせ肌の色で人間の価値を決めようとするクズ共だ。

 無国籍軍などと名乗ってはいるが、その殆どが肌の白いものたちで構成されているのだから、阿呆としか言いようがない。

 第四次世界大戦では捕らえた有色人種に地雷原を歩かせたとも聞いている。

 無国籍軍? 世界の平和と秩序を守るもの? ふざけるな。

 いや、それよりも、それよりも。


「ショウタ……!」


 ヒュッと肺一杯に吸い込んだ空気を、まず何に使ったかと言えばその言葉を発するためにである。

 重い足を、油が切れたように動きづらい脚を引きずるようにしながら、タカシは箱庭計画区画外へと向かって走り出した。

 自嘲する余裕すらない。

 ただ、ショウタの安否が気になった。何故だから判らないが、とても気になったのだ。



 厳重なセキュリティを突破するのは難しいことであった。

 半分壊れかけたような旧型アンドロイドは、数回のスキャンで漸くタカシを『非危険人物』と判断し、箱庭からの脱出に許可を下したのだった。

 外は、予想以上に破壊しつくされていた。

 やはり攻撃は、箱庭だけを狙ったものというわけではなさそうである。

 箱庭計画がなんの意味も為さなかったということだ。

 あと数年、せめて五年ほど早くこの計画が実行に移されていたのなら、人々への被害はもう少し軽かっただろう。

 分厚いシールドは、なんの役にたったのだろう。

 血みどろの死体や、破壊された家屋のよこを通り過ぎ、立ちふさがるスカイカーや馬車でふさがれた道路をなんとかすり抜ける。

 何故こうまでも焦っているのかが判らなかった。

 たかが奴隷、たかがクソ生意気な子供一人。

 失ったというところで大した痛手ではない。

 だが足は休むことなく進み続けた。まるでそれが本能だと言わんばかりに。

 体を休ませ、一刻も早く地下の避難シェルターへと逃げ込むべきだ。

 だというのに、何故。

 レンガのはがれた道路を歩み続け、漸くたどり着いたそのホテルの前、タカシは瞳が乾いていくのを感じた。

 ――燃えている。

 真っ赤な炎が立ち上り、そしてその熱風はタカシの瞳と皮膚をちりちりと焼いていた。

『我々は無国籍軍である。大日本帝国には――、』

「うるさい! うるさいうるさいうるさい!!」

 大音量で響く音を遮ろうと、タカシは大声でそう叫んだ。

 人の国を焼き尽くして提供だの駐屯だのとなにを言っているのか判らない。  


おこがましいことこの上ない。いいや、奴らはこの上のなく浅ましい獣だ。

 あいつらはいつでも自分たちの方が上だと思っている。

 そう、そうだ。

 奥歯を噛み締め、タカシは燃え盛るホテルをにらみつけた。

 水だの、食料だの、いつでも無遠慮に奪っていこうとするのだ。

 無国籍軍を前にしては、今は全ての力が衰退したアメリカ連合国では盾にもならない。

 大日本帝国は、自力で奴らを撃退するよりほかはないのだ、



「誰か水を、水をくれ……!」


 誰かがそう叫んでいた。ホテルマンだ。所々が煤けた制服でのた打ち回っている。他にも焼け出された客が路上の転がっている。

 幾度か見回すが、そこにショウタの姿は無かった。

 早く、助け出さなくてはならないだろう。

 馬鹿だと思う。たかが奴隷になにを、と。

 タカシは尻のポケットに突っ込んでいたケータイを見る。タブレット状のその画面には、いくつもの亀裂が入っていたが、なんとか画面の内容は読み取れた。

 今朝ホテルから受け取ったメールを開くと、移動した部屋が905五室であると判る。

 きっと最上階が空いてなかったのだろう、グレードの低い部屋になってしまったことを詫びる一文が添えられていた。

 905号室は最上階より二階下だ。

 燃えているのはスイートが集まる最上階であるから、今なら間に合うかもしれない。

 考えようによっては、最上階などに通されなくてよかったかもしれない。 

 そうなっていては、おそらくショウタは――。

 背中がゾワッと冷たくなった。

 何故これほどまでに恐怖しているのかが判らない。

 だが、今のタカシにはそれらの感情を分析しているような余裕はない。

 破損したスプリンクラーがシュルシュルと音を立ててレンガを濡らしている。清潔とは言いがたい霧雨の中に飛び込んで、タカシは頭からつま先までをも充分に湿らせると、誰の制止も聞かずにホテルの中へと飛び込んだ。

 爆風か爆撃か、そのどちらかで破損した窓ガラスがヒビを作って窓枠にはまり込んでいる。それを尻目に見ながら、エレベーター脇の階段へと足を進める。

 九階までの道のりは長いことだろう。徐々にいぶした匂いで濁っていく空気をやり過ごしながら、タカシは上階を目差し階段を駆け上る。

 途中で玄関ホールを目差す人々とすれ違い、その都度止められるがタカシは一言二言軽く礼を言うだけで制止を振り切り九階を目差した。

 一段二段と駆け上ると同時に、視界も悪くなる。

 やがて九階へとたどり着いた頃には、廊下は煙で満たされており、薄暗い廊下はどちらが右でどちらが左なのか、それさえ判然とせぬほどになっていた。

 階段から最も近い部屋のプレートに901号室と刻まれているのを指先で確認する。その隣は903号室だ。どうやら部屋は、廊下を挟んで奇数部屋と偶数部屋に分かれているようだった。ならば、この隣が905号室であろう。

 手でプレートに触れると、確かに『5』の数字が確認できた。


「ショウタ!」


 吸い込んだ煙は扱った。手探りで漸く見つけ出したドアノブは熱を持っている。


「ショウタ!」


 あらん限りの声で叫ぶが、返事はない。

 ドアノブを捻るがガチャガチャと引っかかるだけで、そこが開く様子は無かった。


「クソ……! ショウタ!」


 もしかしたらもうとっくに脱出しているのかもしれない。

 馬鹿げている。馬鹿以外の何ものでもない。

 煙った空気を吸い込みつつ、タカシはそんな自嘲を繰り返しながら、幾度も扉に向かって体当たりをした。

 二度、三度、四度。

 繰り返すうちに、ミシッと言う音が響いた。

 熱の為かなんなのか判らないが、ドアは通常よりも脆くなっているようだった。

 そのまま体当たりを続けると、扉は勢いよく開いた。


「ショウタ!」


 部屋の中の空気はまだ澄んでいた。

 グレードがスイートよりは低い部屋とは言え、そこは充分に広さの取れた部屋だった。一枚ガラスが部屋の全ての窓に設置されているし、ソファは三脚もある。

 だがそのリビングにショウタは居らず、やはりもう逃げたのかもしれない、とタカシは考えた。

 トイレ、バスルーム、そのどちらにもショウタは居らず、残されたのは寝室のみとなった。


「ショウタ!」


 名を呼びながら絨毯を踏みしめ、寝室へと向かう。


「ショウタ!」


 ドアノブを捻りつつ、タカシは半ば祈るような気持ちを抱え、そこを開いた。

 ――果たして、ショウタはそこにいた。

 亀裂が広がった一枚ガラスの、僅かに残された透明部分から、階下を見下ろしでもしているのか、彼は絨毯の上へと座り込み、ガラスにぺたりと手をついていた。

 ゆっくりと振り返ったショウタは、驚くべきものを見つけたような目をして、タカシを見た。

 大きく開いた瞳は呆気に取られているのか、緩やかに震えていた。


「なんで……?」


 掠れた声が僅かにタカシの耳に届く。


「早くしろ、ここはもうすぐ火の海になるぞ!」


 ずかずかと近づき、ショウタの腕を引き立ち上がらせる。素足の足裏は、黒く汚れている。


「なんでだよ……」


 呆けた顔のショウタがもう一度問う。


「今はそんなことを話している場合じゃない。何故逃げなかった」


「なんで……」


 ショウタは俯き、そして前髪を右手で乱した。


「なんでなんだよ……」


 何故助けにきたのかと問うているのだろう。タカシは「いいから」と苛立ちながら言うと、その腕を再び掴んだ。

 が、しかし、その腕は乾いた音を発しながら、タカシの掌を振り払ったのだ。


「なんでだよ!」


「今はそんなこと話している場合じゃ、」


「完璧だったのに!」


 吐き捨てた言葉には、憎悪が滲んでいた。


「お前……」


 死ぬつもりだったのか。

 そう紡ごうとした瞬間に「馬鹿じゃん」とショウタは吐き捨てた。


「ショウタ、お前……」


「ああやだ、また最初からだ」


「ショウタ……?」


「ああもう、ここまで完璧だったのに……なんでいつも……畜生……畜生……」


 ショウタが何に対して悪態を吐いているのか、まるで判らなかった。

 今まで、彼がタカシに向かって暴言を吐くことは多々あった。

 だが、今回のこれはそれとは様相が異なった気がしたのだ。

 今度はタカシが頭を抑える番だ。なにかがおかしい。一体なにがおかしいのか判らないが、だが本能的におかしさを感じていた。

 苛立った目は子供の駄々とも違うような気がした。

 熱の為か、怒りのためか、瞳には赤く細い毛細血管が無数に走り、そして小さな爪は髪をかきむしっている。


「なんでいつもいつも……なんで上手く行かないんだろう。なんで……」


「ショウタ」


 最早、タカシの声はショウタには届いていないようだった。


「全部、の好みにしたのに。全部に合わせたのに。なにが駄目なんだろ……なんで……」

 

 仕舞にはショウタは泣き出した。

 情緒不安定な女を見ているような気味悪さがタカシを襲う。

 これは、誰だ。一体。いや、ショウタであることは間違いないのだ。だが。

 耳鳴りがする。

 この空間に、まるで空白ができたかのように、なにも聞こえなくなる。


『気持ちの悪い子供だ。やはり人工授精などするべきではなかった!』


 耳鳴りの合間、誰かの声が耳に響く。聞き覚えのある声だった。

 いや、聞こえているわけではない、これは幻聴だ。


「いッた……!」


 突然の頭痛にタカシは呻く。


『俺はそんなことをしてまで、技術を引き継がせるのはおかしいと言っているんだ!』


 その聞き覚えのある声は、タカシの頭を駆け巡った。


『俺をだけじゃまだ足りないのか! 水も記憶も知ったこっちゃない! お前にも、世間にもうんざりだ!』


 この声は、一体、誰のものだろう。

 動悸がした。頭が痛い。

 一体、なにが。

 目の奥に軋むような痛みを覚えて、タカシは目を硬く瞑った。

 ショウタは相変わらず意味不明な言葉を呟いており、タカシには目もくれない。

 痛みで、涙がこぼれだす。こげた匂いが強くなっている。

 危険だ。そう判っているのに、一歩も足を踏み出すことができない。

 なんだ、なんだってこんな時に。


『俺の種を道具にしたな!』


 なんの話だ。


『大戦など俺には関係ない! 何人死んだ、俺の所為で!』


 唯一鮮明な右目に、チラつく赤いものが見えた。

 炎だ。

 そう認識しているのに、体は一歩も動かない。


「……さま!」


 誰かが、何かを叫んでいる。今度は幻聴ではない。

 しかしその声は、ショウタものではなかった。

 慌しい足音が、パチパチと言う音に交じって聞こえてくる。


 いつの間にか、部屋は炎で満たされていた。

 バン、と何かが弾ける音に交じって、天井が落下してくるのがスローモーションのように見えた。

 今度こそ死ぬのだろうか。

 煙った視界の中に、男の姿と天井が同時に見えた。

 知っている顔だ。あれは、家で使っている下男だろう。

 全身が濡れた男が、唖然とした姿でそこに立ち、そして。


「ショウタ様!」


 そう叫んだのだ。タカシではなく、彼は、ショウタの名前を叫んだのだ。

 分厚い天井が落下していることに、それが自らの頭を目掛けてきていることに、ショウタは漸く気づいたようだった。


「危ない!!」


 下男の声がやけにゆっくりと響く。

 熱風が頬を煽る。窓ガラスがパンと音を立てて爆ぜる。耐熱強化ガラスもこの熱には耐えられなかったのだろう。

 一気に入り込んだ酸素に、炎が一段と大きくなるのを感じた。

 ゴウゴウと燃え盛る炎。そして、落下する天井の一部。

 タカシは咄嗟に落下物を避け、そしてなんとか危険を回避した。


「ショウタ様!」


 落下した天井材と床に挟まれたショウタは、ぺちゃりとつぶれ動かなくなった。


「どけ!」


 下男がタカシを突き飛ばす。

 なにもかもが判らない。

 下男がここに居る理由も、彼がショウタを優先する理由も、ショウタの意味不明な呟きも。

 頭が痛む。割れるように痛んで仕方がなかった。



「ショウタ様、ショウタ様!!」


 ショウタの手はだらんと力をなくし、返答が無かった。

 呆気に取られたままのタカシは、ぼんやりとその様子を見つめるしかない。

 剥がれ落ちた天井材をどけ、なんとかその体を救出した下男は、ショウタの頬を二度ほどぶったが反応はない。


「ショウタ様! 起きなさい、ショウタ様!」


「……痛い……!」

 

 幾度かの張り手で、漸くショウタは目を覚ましたようだった。


「……なんで、ここに居るの」


 呻くような声の後、ショウタがか細い声で尋ねた。


「この爆撃です! なにかあったら……、怪我をされているじゃないですか!」


「……平気だよ」


「平気なわけがありますか!」


「平気だって。こんなの、治せばいい」


「皮膚が裂けてます」


「大丈夫だよ。治せるもん。あー……、骨、折れたかも」


「だから……! 貴方は無茶をしすぎる! 歩けますか?」


「うん、平気」


 熱風立ち込める部屋、タカシはただアホのように立ち尽くしていた。

 下男に支えられる少年はショウタで、ショウタを支えるのは下男。そのどちらともが見知った人間であるはずなのに、まるで知らない人間のようだった。


「全部取り替えになるかな」


「どうでしょう、すぐに技師に見せましょう」


「うん。ねぇお前、この炎の中歩けるの?」


「歩けるわけないでしょう。何故早く避難されなかったのですか」


 二人はタカシに構うことなく不可思議な会話を続けていた。まるでタカシなど居ないかのように。


「実験、してたんだ」


 ショウタの視線が漸くタカシに向けられた。いつもより幾分も穏やかな目は、タカシの知るショウタのそれでは決してなかった。

 警笛が鳴っている。なにかがおかしいと、この世の終わりを告げるようにけたたましくなっている。


「だめだよ。も失敗」


「……そうですか」


 ふいに、なにか光るものが目に留まる。

 ショウタの手だ。右の手の、肘から下、手首までの皮膚が思い切り裂けていた。

 しかし不思議なことに、そこからは僅かな血液がもれ出ているばかりで、見た目に反してその出血量はきわめて少量であった。

 そしてその皮膚の中身。それが光っているのだと、タカシは鈍った思考で確認した。


「回収しますか?」


「うん。当たり前じゃん」


「判りました……、お前」


 下男がタカシに向かってそう呼びかけた。『お前』と。


。これはだ」


 途端に体が機械仕掛けのように勝手に動き出す。

 これはなんだ。いつの日か、下男の罵声によって体の動きが不自然に停止した時と似ていた。

 自分の体であるにもかかわらず、その一切に関しての自由が奪われるような、異常な感覚だ。

 ――これは、なんだ。

 言われるがままに、タカシは下男の背後一メートルほどの距離に立った。抵抗の言葉は紡げないし、体の自由は利かない。

 ――これは、一体なんなのだ。


「ねぇ、関節から取り替えようかな。なんか最近無茶な体勢ばかり取った所為か、ギシギシいうんだ」


「私では判りかねますから、医師と技師にご相談なさってください」


 ショウタの腕は、光っている。その皮膚の内部は、見事なメタルカラーだ。

 彼らは、一体なんなのだ。タカシは全身が粟立つのを感じる。


「やだなぁ、医者のセンセにまた怒られそう」


「おいたが過ぎるんですよ、は。悪い遊びもほどほどになさらないと」


「うん……」


 おおよそ火事の現場に似つかわしくない、朗らかな会話は続いてく。

 得たいの知れぬ二人は、只管会話を続けた。


「危ない!」


 下男が突如叫ぶ。

 柱が倒れ、それからショウタを庇うように下男は動いた。

 かなりの重量があるのではないかと考えられる柱の衝撃を、下男は易々と腕と、そして頭部で受けた。


「……うわぁ……お前、それ大丈夫?」


「ああ、平気ですよ。お前、大丈夫か?」


 下男が振り向きタカシにそう尋ねた。

 下男の頭部は、拉げていた。

 陥没した頭部、そのあたりの皮膚は、柱からの摩擦で一部がこそげ落ちている。

 額から右眼窩の下までズルリと落ちた皮膚が、頬の下にぶら下がっていた。

 そして覗いたのは、ショウタの腕と同じメタルカラーの金属で。


「おい?」


 むき出しになった眼球がキョロキョロと動く。

 ああ、彼らは、彼らは。


「おい、大丈夫か?」

「あーあ、放心してるよ。回収できるかな」

「大丈夫でしょう。ちゃんと『催眠』を掛けてありますから」

「あ、そう。早く行かないと。俺まで燃えちゃう。ねぇ、抱っこ」

「仕方がないですね」

 

 タカシは自由にならぬ体で、声にならぬ悲鳴を上げた。

 そしてそれから暫くの記憶が、タカシにはない。

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そして彼らはひとり記憶の荒野に立つ 春野 @_haruya_

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