第25話;目には見えない真実、目に写る偽り

「博之さん、お久しぶりです。そちらでの暮らしには慣れましたか?」

「こっちは不便が多くて…今も慣れません。」

「まだ慣れませんか?それはそれは…。頑張って下さい。」

「ありがとうございます。」

「………。」

「………。」

「………。」

「………?」


 懐かしい声を堪能し合った後、沈黙が流れた。


「博之さん…。長い電話になるかも知れませんが…宜しくお願いします。」

「…?はい。」

「……。」

「…?」

「……。」

「……?どうかしましたか?」

「博之さん…。私はもう、長くは生きられません…。」

「!?どうしたんですか!突然!?」


 突然の告白に、驚きを隠せなかった。高校3年生になってからは、母親とも会える機会が少なくなった。だけど地元を離れる僕を見送ってくれた時の彼女は、今の話を理解出来るほど悪いとも思えなかった。


「驚かせて申し訳ありません。しかし…分かっていた事です。私は多分、この先1年も持たないでしょう…。」

「何があったか知りませんが、気を確かに持って下さい!」

「私の事は、私が一番知っています…。それよりも博之さん、私の話を聞いて下さい。」

「……?」


 見えない彼女の姿が僕を不安にさせた。容体が気になる。どんな顔色をしているのだろう…?今、何処にいるのだろうか?要らない挨拶をしてしまった。何の事情も知らないで…。


「小百合を…そしてこれから話す事を…どうか信じて下さい。」

「お母さん、今、何処ですか?電話をしてても良いんですか?」


 電話も辛い状態なら、今直ぐにでも止めさせたかった。


「私は今、家にいます。電話も出来ます。直ぐ逝く訳でもないですから。」


 彼女が気丈な声を放つ。だけど顔色も分からない僕は、そんな冗談に付き合う余裕なんてない。


「博之さん…信じて下さいね?小百合は今でも、妖精に会えると信じています。私はそんなあの子を応援し、そして信じています。博之さんも、これから小百合の事を信じ続けてやって下さい。」

「勿論です!…ご免なさい。こんな時に僕は…。直ぐ近くで、助けてあげる事も出来なくて…。」

「あなたはあなたの人生を、一生懸命に生きて下さい。」


 話は、嘘や冗談ではなかった。そもそも彼女はこんな事をする人じゃない。不安がる僕を他所に、彼女は続けて気丈な素振りをする。…『生きて』と言う言葉が、これほど重く感じた事はなかった。


「必ず、必ず小百合ちゃんを信じ続けます。だから、お母さんも元気になって下さい。」


 隙を見ては彼女を励ました。


「私に時間は残っていません。…小百合を身篭る覚悟をした時から、分かっていた事です。」

「………。」


 彼女の持病に関しては、今でも何も知らない。肺の病気と聞いたぐらいだ。


(病気の原因は…小百合ちゃんの出生と関係があるのか…?)


 「博之さん…。私はあなたに、『信じる人』になってもらいたい…。あなたには信じ続けて欲しい。例えこれから何が起ころうとも、信じ続ける心を持って欲しいのです。」


 話が見えてこない。それよりも早く電話を終わらせ、休ませてあげたかった。


「私は今…風の音を聞いています…。」

「……はい?」


 しかし彼女が、突拍子もない話を切り出した。僕は耳を疑った。…そしてこの疑いは、これから続く不思議な会話の間、ずっと消えなかった。


「私は今…風の音を聞いています。」

「お母さん。突然、何を言うんですか?僕には何の話か分かりません。」


 申し訳ないが、『気は確かか?』と尋ねたかった。だけど彼女は、同じ調子で話し続ける。


「お願いします。聞いて下さい…。私は今、風の音を聞いています…。宜しいですか?」

「……。はい。」

「そして波の…海の音を聞いています…。」

「……?」


 苛立ち始めた。彼女は一体、何が言いたいのだ?


「波の音を聞いています…。」

「…はい…。」


 彼女が僕に確認を促す。返事をする声は、既に苛立っていたはずだ。


「そして私は、近くにある井戸の水を汲み、右手を濡らしました。」

「…?はい??」

「井戸の水を汲み、右手を濡らしたんです。分かりますね?」

「お母さん、一体何を…」

「お願いです。信じて下さい。」


 僕の言葉に被せるように、彼女が確認を促す。だけど僕は、首を縦に振る事が出来なかった。


「お母さん、あなたは一体何を仰っているんですか?僕には、全く分かりません。」

「どうか迷わないで下さい。私の言葉に…疑いを抱かないで下さい。」

「お母さ…」

「お願いです!信じて下さい!何かを疑わず、何かに惑わされず…。私の言葉を…信じて下さい!」


 我慢が沸点を越えた。数年振りに話した彼女の存在は、やはり何も変わっていない。


「信じられる訳がないでしょ!?一体何の話をしてるんですか?全く分かりません!そもそもあなたは今、自分の家にいるはずだ。だったら井戸の水なんて、汲み取れる訳がない!」

「………。」

「…お母さん、返事を下さい。あなたは一体、何を言ってるんですか!?」

「だから私は、井戸の水を…」

「そこが井戸な訳がない!あなたは今、自分の家にいるはずだ。あなたがそう言ったんだ!」


 初めて、彼女に大きな声を上げた。それ程までに話の内容が理解出来なかった。幻覚症状に陥っているのか?ならば正気を取り戻してあげたいとも思った。

 すると電話の向こうから、今度は悲しそうな声が聞こえた。鬼気迫る雰囲気も漂わせている。


「……。何故…何故、信じてくれないのですか…?私はあなたに、信じて欲しいとお願いしました。」

「…ご免なさい。本当に、おなたが言っている事が分からない…。」

「…あなたには何故、私の言葉が分からないのですか…?」

「言ってる事がおかしいからでしょ!?部屋にいると言ったあなたが、井戸の水を汲める訳がない!波の音だって…僕らのマンションから聞こえるはずがないじゃないか!?」


 苛立ちは更に大きくなり、同時に彼女の悲しみも一層大きくなった。だけど、それ以上に僕は苛立っていた。死期を悟った人間が人の心配を余所に、理解不能な事を話し続けているのだ。怒鳴りたくもなる。それが幻覚症状のせいなら、気を確かに持って欲しかった。

 だけど彼女は言葉を続けた。その内容もまた、理解不能なものだった。


「…それでは博之さん。私が、1つだけ嘘をついたとしましょう。…私の嘘は何ですか?」

「…いい加減に…」

「お願いです!答えて下さい。…私がついた嘘は何ですか?」

「………。それはあなたが、井戸水を汲んだと言う事です。」

「……。」

「お母さんは、風の音を聞いたと言いました。それは窓を開けると聞こえる音です。そして、波の音を聞いたとも言いました。それは、テレビやラジオから聞こえる音かも知れません。だけど、井戸の水を汲む事は不可能です。」

「何故、不可能なのでしょうか?」

「!!あなたが今、自分の家にいるから!」


 繰り返される理解不能な言葉に、僕は爆発寸前だった。


「私が家にいるから…井戸の水は汲めないのでしょうか?」

「家にいるなら当たり前でしょう!?」

「それでは…私の嘘が『家にいた』と言う事でしたら…博之さん、あなたはどう考えますか?」

「………。」


 今の言葉は理解出来た。『家にいたのが嘘』だったとしたら、彼女が外にいたのだとしたら…他の言葉は全て都合が合う…。体調を考えるとあり得ないけど、井戸がある海辺にいるとしたら可能な話だ。

 だけど、嘘を当てたところで話は進まない。未だに、彼女が言いたい事が何なのか分からない。


「博之さん…。あなたは何故、信じられないのですか…?」


 突然、彼女がすすり泣き出した。


「私は、いつもお世話になる知人宅で養生させてもらっています。ここは自分の家も同然です。海が近く、庭に井戸がある家です。」

「……。」


 こんなやり方は反則だ。彼女は、何の説明もなしに質問を繰り返した。分かるはずがない。それよりも何故、こんな話をするのかが分からない。


「博之さん。私は嘘をついていません。説明が足りなかったかも知れませんが…嘘はついていないのです。自分の家でなくとも、私は家にいるのです。あなたには…それが分からなかった。」

「………。」

「仮に嘘をついたとしても、『家にいる』と言う嘘と『井戸水を汲んだ』と言う嘘が、それほど差があるものなのでしょうか?」

「……。」

「あなたは、私が『家にいる』と言った事に捕らわれました…。マンションの事を言っているのだと…勝手に決め付けたのです。だから私の、『井戸の水を汲んだ』と言う言葉を信じられなかった。博之さん、悪いのはあなたなのです。」

「………。」

「どうして…どうしてこんな簡単な事も信じてもらえないのでしょうか?何故あなたは、自分の先入観を鵜呑みしたのでしょうか?それに捕らわれ、他の事が見えなくなったのでしょうか?…こんな簡単な事も分からないのに、どうして小百合を信じる事が出来るでしょうか?これから起こり得る事を、信じ抜く事が出来るでしょうか…!?」


 話が進む度にすすり泣く声は大きくなり、最後は、絶叫に近い声で僕を責めた。反論出来なかった。…話の意味を、少しずつ理解出来たからだ。僕は…未だに『信じる人』にはなれない。偏見や先入観、固定観念で物事を判断してしまった。


(………。)


 通話は終わった。彼女は最後に笑ってくれたけど、言いたかった事を言えずに電話を切った。僕が、話したかった事を受け止められないと判断したのだ。

 それからずっと、彼女からの電話を待った。それまでに、頭の中にある不必要なものを取り除こうと努力した。だけど彼女からの連絡はその日以来…来なくなった。同時に…小百合ちゃんからの連絡もなくなってしまった。僕も僕で…2人に電話をする勇気が持てなかった。


 やがて…その時の電話を忘れてしまうくらい忙しい毎日を送るようになった。就職活動も近付いていた。


 大学生活はそれなりに楽しみ、白江と橋本が、わざわざ遊びに来る事1回。橋本は、短期大学を卒業した後、バイトでお金を貯め、今はアメリカで留学をしている。本気で英語に夢中…


『アメリカは、超能力の先進国なの!警察が犯人探しに超能力者の協力を得ているのよ?』


 いや、超能力に夢中なのだ。英語を猛勉強していた理由はここにあったのだ。僕らが卒業する頃には戻って来る予定だと言う。白江も相変わらずの調子だ。医学を専攻した彼は大学で、数え切れない程の実験を繰り返した。それに紛れて悪魔召喚術や、おぞましい魔術の実験も繰り返したと聞いた。動物を使った臨床実験もあっただろう。実験の犠牲になった動物の内の数匹は、いや数十匹は、彼の個人的な実験の生贄にされたはずだ。


 小百合ちゃんからの連絡は、回数を取り戻していた。ただ、掛かって来る電話番号は深川さんのものだった。彼女は今、深川さん宅でお世話になっているのだ。子供がいない深川さん夫婦も、それを望んだだろう。旦那さんが、彼女の個性を受け止めてくれたかどうか心配だけど…多分、大丈夫だ。深川さんは愛情に満ちた人で、あの人の旦那さんなら問題ない。母親の話は聞かされなかった。勿論、僕も聞く事が出来ない。未だに田舎でお世話になっているのか、それとも…。


 大学生活中に、1度だけ地元に戻った。就職活動も落ち着き、内定の連絡を待っていた頃だ。白江も同じくして地元に帰っていたので、久しぶりに会う事にした。お勧めの中華食堂がある。彼を、僕の地元まで呼び出した。


「『信じる人』になれたのか?」

「………。」


 ラーメンをすすりながら、白江が尋ねる。彼からそんな言葉を聞くのは始めてだった。

 彼は、相変わらず魔術に夢中だ。橋本はアメリカで留学中だけど、英語の勉強はしていない。行って分かったらしい。現地で、わざわざ勉強をする必要はない。普段の生活をしていれば勝手に上達するのだ。留学も延長になった。今は霊能力の研究に没頭しているそうだ。理由は勿論、超能力と関係しているから…。彼女の関心と意欲は、尽きる事がないのだ。


「美味かった。ご馳走さん!」


 食堂を出て、礼を言う白江と別れる。彼の質問には、答える事が出来なかった。大学では勉強とアルバイトの連続で…忙しい毎日を送っていた。ファンタジー好きは4年間お預けだった。本も実家で封印されている。だから、『信じる人』になる事もお預けだったのだ。…言い訳だ。


 実家に戻り、久し振りに自分の部屋で過ごす。下の階には、いや、隣の家には小百合ちゃんがいる。分かっているのに、インターホンを押す勇気が持てなかった。



 大学を卒業し、再び実家に戻って来た。但し、直ぐにここを出て行く。就職先が実家から通える距離にない、製薬会社の販売部なのだ。当分は社員寮で暮らす事になる。…何故か…嫌な予感がした。

 就職が決まった知らせを兼ねて、白江と橋本に連絡を取った。橋本は、そろそろの帰国を考えていると言う。また彼女から、新しい訓練をさせられるかも…。


(次の訓練は、霊能力か…。)


 少し、期待をする僕がいた。

 白江も就職が決まった。就職先は…実家から通える距離にない、製薬会社の研究部だ。彼も、当分の間は社員寮で暮らす事になったと言う。嫌な予感が的中した。橋本の訓練を必要とせず、僕は既に超能力か霊能力を身に着けてしまったようだ。




 そして年月は町に越してから、ちょうど6年が経った。僕は、引っ越しの準備に追われていた。部屋は、完全に空き部屋になる。若しくは弟の部屋になるだろう。

 本棚の奥に、隠すようにしまっていた例の本と訂正ノートを取り出す。小百合ちゃんとはもう、勉強会が出来ないかも知れない。だから本とノートを、彼女に預けようと思った。でも譲る気はない。

 殆どの荷物を整理出来たので、渇いた喉を潤す為に1階の自販機へと足を運んだ。ここで何かを買うのも久し振りの事だ。ラインアップが少し変わっていた。好きだった炭酸飲料の姿が見えない。仕方なく、見た事もない炭酸飲料を購入する。炭酸好きは、未だ衰えていないのだ。蓋を開け、いつものように一気で飲み干す。


「あっ!お兄ちゃん!」

「!!!」


 その声に、飲んでいた物を全て逆流させた。大きな咳を繰り返し、顔を真っ赤にした。決して、挑戦した炭酸飲料が不味かった訳ではない。


(………。)


 僕はこの場面を、1度経験している。6年前に…僕と、もう1人の誰かと…。僕の背中で、咳が止むのを待っているその人と…。

 咳を止め、背筋を伸ばして深呼吸をする。後ろで、こっちを見て笑ってくれているだろう彼女…。超能力がなくても分かる。溢れる笑みを抑えられないまま後ろを振り向いた。


「小百合ちゃん!」


 しかし、そこに彼女の笑顔はなかった。


「??」


 顔を少し上げると、見たかった笑顔が写った。


「大きくなったね!?元気だった!?」

「お久しぶりです!この前も電話したじゃないですか!?私は元気ですよ!」


 電話連絡は続いていた。でも、声を聞くのと顔を見るのとでは、喜びの度合いが違う。

 彼女は…とても大人っぽくなった。残念ながら身長は高くない方だけど、すっかり大きくなり、言葉遣いも変わっている。もう、あの頃の小百合ちゃんの姿はない。でも笑顔には、あの頃の面影が残っていた。真っ直ぐに僕を見つめて笑ってくれる彼女は、あの頃と何も変わらないのだ。


 広場のベンチで再会を楽しむ。昔話に花を咲かせ、止まっていた4年間を取り戻そうとした。彼女は今年で、高校2年生になる。初めて出会った時、僕がその歳だった。しかし彼女は僕と違い、偏差値が高い…どころではなく、地域で名門とされる公立高校に入学していた。

 そして彼女は深川さん家に…正式な養女として迎えられていた…。電話の番号はいつの日からか、居候している家のものではなく、彼女の家の番号になっていたのだ。


「お母さんは…1年程前、天に帰りました。」

「………。」


 空気が急に重くなった。切なかった。たまに掛ける電話では、母親の話題は重くて出せなかった。小百合ちゃんからも報告を受けていない。勇気がない僕の身勝手だけど、教えてくれなかった小百合ちゃんに少し失望した。


「それよりもお兄ちゃん…。」

「?」


 彼女は、母親の話の後にも気丈だった。亡くなって、もう1年以上が経つと言う。長い闘病生活は、僕が越して来る前から続いていた。小百合ちゃんには覚悟があったのだろう。辛い出来事は過去になりつつあるのだ。それなのに僕が落ち込んでいたら、彼女の負担になる。なるべく心を強く持って、出来るだけの笑顔で彼女との会話を続けようとした。


「今から、冒険に出掛けません!?」

「!!?」


 やっと気丈になれた、その矢先の提案だ。彼女が突然、僕を冒険に誘った。違った意味で、強く持った心を折られた。


「冒険って…何処に!?」

「裏山!そこにまだ、妖精がいるかも知れないんです!」


 少し背が高くなった彼女だけど、相変わらず思い立ったが即、行動だ。


(今でも、駆け足をするんだろうか…?)


 それはとにかく、頑固な性格は変わってないのだろう…。降伏するしかなかったのか、久し振りの再会と冒険が楽しみだったのか、彼女と山に向かう事にした。


 数年の内に、山は姿を大きく変えてしまった。切り崩して作られた道路は、辿って来た道の更に向こうに伸び、その先では、今でも道路工事が行われていた。

 無くなった山の真ん中を通り過ぎ、新しい道路を渡って、とある場所に到着する。ここ一帯は傾斜が激しく、昔のままの姿を残していた。そう…ここは僕らが2回目の冒険に出掛け、辿り着けなかった目的地だ。


「工事が終わったから、この辺も少し落ち着いたんです。だから、それなら妖精が戻って来たかな…?と思って…。こっち側は、昔のままの姿で残っているから…。」


 小百合ちゃんは最近になって、この一帯での冒険を始めたらしい。


(だから6年前、ここで妖精を探すべきだったんだ。挨拶だって受けてたのに…。)


 昔を思い出しながら、彼女がまだ方向音痴なのだろうか?と考える。


「ここからなら、山へ登るのが楽なんです。」


 彼女は、もう少し歩いた場所から山に登り始めた。後を追って山を登ると急な坂道を避けた獣道が現われ、周囲は木々に囲まれていた。その隙間から外の様子は伺えたけど、外からこちらを確認する事は難しそうだ。雪の妖精と出会った時の感覚を取り戻した。


「この上に、登って行けたら良いんですけど…。」


 彼女が、上を見上げて呟く。大きな岩があって、向こうに林が確認出来る。


「ここで、少し休憩しましょ?」


 何度か岩登りにチャレンジした後、彼女は何も敷かずに地面に腰を下ろした。野生的なところも全く直っていない。


(…方向音痴はどうなったんだろう?)


 僕も腰を下ろし、一緒に休憩を取る。

 岩に足止めされたけど、ここまでの道程も楽ではなかった。6年前、ここに訪れたとしても冒険は不可能だった。あの頃の彼女が、足を踏み入れるには難しい。人間嫌いな妖精の性格を思い出す。工事が忙しかった間も、もしかしたら彼らはここ一帯には住み続けていたかも知れない。

 小百合ちゃんは休憩を取りながら、辺りを見回していた。挨拶を待つのも良いけど、ここで彼らが通り過ぎるのを待ってみるのも1つの方法だと言う。色んな意味で、彼女は成長したようだ。


(…方向音痴はどうなったんだろう?)


 橋本が、そろそろ日本に帰ってくるはずだ。彼女に小百合ちゃんを会わせたら、高校時代の自分を思い出すだろうか?また、6年後の小百合ちゃんは今の橋本に似るのだろうか?


「そろそろ戻りますか?」


 妖精を探す事も忘れ、昔の話に盛り上がった。既に夕方を過ぎてしまった。立ち上がり、歩き出す彼女に声を掛ける。


「…だったら小百合ちゃん、帰り道は…こっちだよ?」

「あっ…。」


 未だにあの頃のままの小百合ちゃんを確認した。


(駆け足はどうなんだろう…?)



 マンションに戻り、一緒に18階まで上がる。彼女の家は僕の家の隣で、名前も『深川小百合』になっていた。一旦は実家に戻った僕だけど、お誘いで、彼女の家にお邪魔する事になった。深川さんの家にお邪魔するのは初めての事だ。


「博之さん!お久しぶり!」


 インターホンを押し、扉を開けてくれたのは深川さんだった。すっかり健康な顔になって、体型も昔ほどの細さではなかった。若返ったようにも見える。


 小百合ちゃんに応接間へ案内され、空白だった4年間の思い出話や、記念写真を堪能する。写真の中には、彼女を知る前の写真も混じっていた。


「…?」


 そして、彼女が写っていない写真も見つけた。とても古臭い写真で、かなり色褪せたものだ。若い2組のカップルが、4人で楽しそうに食事をしている姿が写っている。


「…あれ…?これは…」


 よく見ると、写真に写る人物2人に見覚えがある。2人の女性に、見覚えがあるのだ。


「私のお母さんと、今のお母さんの写真です。隣にいるのは私のお父さんと、今のお父さんです。」

「!?」


 小百合ちゃんが、数年振りに爆弾発言をする。こんな性格も変わっていない。僕は驚いた顔で深川さんを見た。


「実は…今まで言えなかったんですけど…私の夫と小百合の父親は、昔からの知り合いだったんです。これは小百合の両親が結婚する直前に、4人で小さなパーティーを開いた時の写真なんです。」

「ええっ!?」


 深川さんが、詳しい話を教えてくれる。写真の男性2人は大学時代からの先輩後輩で、小百合ちゃんの父親は深川さんの旦那さんを、本当の弟みたいに可愛がっていたそうだ。とても仲が良く、一緒に探検に出かける事も多かったとの事。とは言っても僕らが行うものとは違って、密林や秘境などに、研究チームとして派遣される本格的なものだ。

 そこまでを聞いて、今更ながらにはっとした事が1つ。深川さんの旦那さんは、テレビでも見かける有名な教授だった。話には聞いていたけど、名前と顔が一致しなかった。そして昔の推測通り、小百合ちゃんの父親は事故に遭い、早くに亡くなられたらしい。小百合ちゃんはその時、まだ母親の胎内にいたと言う。それから2つの家族は疎遠になったけど、深川さんがここへ越して来たのをきっかけに、女性同士の縁は戻った。深川さんの旦那さんは今でも世界各地を飛び回っていて、家に帰る事が滅多にないそうだ。

 小百合ちゃんもこの話を、1年前…つまり実の母親が亡くなる前に聞かされたらしい。それまでは父親の事も、深川さん夫婦との関係も知らされなかったと言う。


「………。」


 突然知らされた事実に、目を丸くするしかなかった。


「小百合が大きくなるまで黙っておこうと思ったんですが…この子の母親が危険な状態になってしまって…。それで本当の事を話したんです。」

「………。」


 小百合ちゃんを見る。気丈にも笑っていた。本当に芯が強い子なのだと思った。



 誘われた夕食を断り、家に帰る事にした。2人に手を振り、扉を閉める。実家の扉を開けようとしたら、隣の扉がもう1度開き、深川さんが顔を覗かせた。


「博之さん…。明日の昼にでも…少しお時間、大丈夫かしら?」


 顔だけを扉から出し、明日のスケジュールを確認する。『さん付け』に慣れない僕に、深川さんの言葉は遠慮がちだった。明日も、特にする事はない。構わないと返事し、家の扉を開いた。


 次の日、昼を過ぎた頃に深川さんの家に向った。小百合ちゃんは、友達と会うと言って不在だった。


(なるほど…。そう言う事か…。)


 てっきり彼女もいるのだろうと思っていた僕は、深川さんに呼ばれた理由が気になった。そしてピンと来た。小百合ちゃんも、そろそろ年頃である。いい加減に冒険を止めさせ、普通の女の子として育てるつもりなのだ。深川さんは僕に、協力を願いたいのだ。


「博之さん。いつも小百合の面倒をみて頂いて、本当にありがとうございます。」


 彼女は既に、小百合ちゃんの事を小百合と呼び、小百合ちゃんもまた、彼女の事をお母さんと呼んでいる。不思議な感覚だったけど、それだけ2人の絆が強く、また、小百合ちゃんの気丈さがそうさせたと思った。

 小百合ちゃんは、本当に立派に育った。でも、あの笑顔と冒険好きな性格は昔のままだ。それが愛くるしい。…だけど、それも今から聞かされる話で次第に奪われていくのだろう。仕方がない。彼女には、もっとまともな人生があるのだ。冒険とは、さよならしなければならない時のだ。


「小百合には…1年程前、あの子が知らない事を全て話しました。あの子はとても素直な子で、私が言う事を理解してくれました。」


 ところが…深川さんから聞かされた話は頭の中を、これまでにない程の困惑でいっぱいにさせるものだった。到底、信じる事が出来なかった。


「…今から…今から私が言う事を…信じてもらえますか?」

「………。」


 切実な表情をする深川さんがいた。僕は彼女の言葉と口調に、数年前に起こった出来事を思い出した。

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