刻の桜
赤石かばね
プロローグ 少年と桜の木
……この町に伝わる昔話をしてあげようかね——。
昔、この町に一人の少年がいたそうな。
少年は、裏山を持つ、ごく普通の家庭に産まれました。
少年の父は、少年が産まれた日に裏山の山頂に記念の桜の木を植え、少年は、毎日桜の木に水をあげ、笑顔を見せに行きました。
桜の木にとって、少年の笑顔を見ることが毎日の楽しみであり、生きがいなのです。
しかし、少年はすくすくと成長するにつれて桜の木に会いに行くことが減っていきました。
桜の木は独りぼっちになり、途方にくれ、もし、涙が流せるのならば、涙が枯れるくらいに悲しんだのです。
桜の木はいつかこんな時がくるということはわかっていましたが、実際にその時が訪れたら桜の木はその現実を受け入れることができず、少年が会いに来ることをいつまでも待ち続けていました。
そのころ、少年は大人になり、時計工場を営み、毎日汗水垂らして一日中仕事をして、桜の木に会いに行けるような状態ではなかったのです。
しかし、桜の木がそのことを知るよしもありません。
それから時間はどのくらい進んだだろうか、少年は工場の経営がうまくいかず、工場を畳むことになったのです。
そして、桜の木は今まで少年とその家族以外が来ることが無かった山頂で一人のおじいさんと出会いました。
「久しぶりだね、ずっと会いに行くことができなくてずっと独りで待たせてしまっていたね」
おじいさんはあの時の少年だったのです。
桜の木はおじいさんから少年の面影を感じていました。
「僕は君の友達なのに、会いにいけなくて本当にごめんね……」
おじいさんは桜の木に涙を流しながら何度もあやまりました。
「どうやら僕の命はもう長くはないらしいんだ、だから、君に会いに行くことももうじきできなくなってしまうんだ、だから、僕と君が友達でいた証として、君の花を使って何か作りたいんだ」
桜の木はまた独りになると思うと、悲しみました。
桜の木はおじいさんと一緒に過ごすうちに、おじいさんといつまでも一緒にいたい、もう独りはいやだ。と思えるようになっていたのです。
「少しのあいだだけ、また独りにしてしまうけれど、僕は絶対に戻って来るから……」
おじいさんはそう言ってから、桜の木から花を二輪摘んで帰っていきました。
それから時間が経ち、おじいさんが二つの懐中時計を持ってきて、一つを桜の木の一番高い枝にぶら下げ、もう一つはおじいさんがズボンのポケットにしまいました。
その懐中時計は一輪の桜が施されている、おじいさんが作った世界に二つだけの懐中時計で、桜の木はとても喜び、それと同時に複雑な気持ちになりました。
なぜなら、桜の木と少年の仲はこのようなものであらわせるようなものではないと桜の木は思っているため、少年のこの好意を素直に喜べなかったのです。
しかし、おじいさんと過ごす日々はとても楽しく、それ以上のものは無いと思い、今、この時を楽しむこと、そしてこの時を忘れないことが自分と少年が友達であった証だと桜の木は考えました。
——この時間がいつまでも続けばいいのに……。
と桜の木は願いました。そんなことが起きるわけがないと知りながら……
それから、おじいさんと桜の木は共に過ごしました。
しかし、不思議なことにおじいさんが余命宣告を余儀なくされた時は来ない。
不思議に思ったおじいさんは毎日、町の人達に日付を訊ねることにしました。
すると、町の人は何度訊ねても皆、同じ日付を答える。
なんと、桜の木が願ったことが現実になり、おじいさんと桜の木はずっと同じ時間を過ごしていたのです。
「今、僕達はずっと同じ時間を過ごしているんだ、だから僕が死ぬことはない。しかし、僕達がいつまでも同じ時間を過ごしているということは、僕達のせいでこの世界はいつまでも時間が進まないということでもあるんだ。時間が進まない限りはこの世界はいつまでも眠っていることでもある。それは不自然だし、本当はあってはならないことなんだ。時が動けば僕はもうじき死んでしまうけれど、生まれ変わったらまた君に会いに行くから、それまでその懐中時計を僕だと思って待ってて。君が忘れない限り、僕はいつまでも君の心にいるから、そのことを忘れないで……」
それから、おじいさんは懐中時計を桜の木の根元にそっと置き、身を任せるように永い眠りについた。
そして、桜の木はおじいさんの懐中時計を守るように根で覆いました。親友だった少年のことをいつまでも忘れないために。少年と再会するその時のために——
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