進化と食と精神或いは脳について
最近哲学書を読んで触発され思索に潜ることがあったので、今後のためのメモ書きとして残しておきます。
私が好きな小説に『虐殺器官』があるのですが、著者の伊藤計劃さんは件の作品でも『ハーモニー』でも、人は目の前のものに飛びつくことに触れています。
……『虐殺器官』ではそうだったっけ? ちょっと曖昧です。
『ハーモニー』では明確にそれを取り上げ、人間の価値判断について結構な文量を割いていました。
そして、それこそが人間なのだという方向性が見えました。
なるほど人間も目の前のものに飛びつかなければ次いつ食べられるか分からない、生物とはそういうものだということです。
一見すると野生に結び付けて論じればだいたいそんなものかもしれない、となるのですが、私はどうにも違和感を持たずにいられませんでした。
最近になり、ようやくその違和感が明確になったので記しておきます。
人が目の前のものに飛びつく習性があるというのは、それは狩猟採集の考え方です。
しかしながら、人はもう何千年も前から農耕牧畜にシフトしました。
農耕牧畜はすぐ食料が手に入るものではなく、中長期的な考え方で行われるものです。
こうして食糧事情は次のステップへシフトしたのに、「目の前のものに飛びつく習性が人間である」と結論付けることが、どうにも齟齬があります。
その齟齬を感じながら今の社会はどうかと見てみると、目の前のものに飛びつく人が多数派であるものの、少ないながら中長期的な考えを持つ人もいると思われます。
この混在状態は何か?
その謎に対する助けになったのは、進化のスピードでした。
進化とは何万年とか、そういった単位で見ていくものです。
進化の途中だからか。
その仮説に基づいて思索を進めてみました。
そうした場合、色々な事柄が見えてきます。
人が目の前のものに飛びつく習性があるというのは、それが人間だからということではなく、狩猟採集に脳を適応させていった結果ではないか。
とすれば、現代ではその名残が残っている状態と言える。
食糧事情のステージは既に農耕牧畜に進み、農耕牧畜に脳を適応させた人間も出始めている。それが中長期的な考えができる人であるものの、進化のスピードがゆっくりであるためまだその数が少ない。
目の前の旨みに飛びついて、より大きな損害を出す。そんな光景をよく見かけますが、昔はこれは精神性の問題だと思っていました。目の前のものに飛びつく人は、幼いまま大人になってしまったのだろうと。
しかし今回の思索を踏まえると、これは精神性というよりも、脳の作りの問題ではないかと思うように変化しました。狩猟採集に最適化された脳では、成長したからといって中長期的な考えができるようになるわけではない、仕様上無理。そう認識した方が、精神性と捉えるよりも、より確からしい感触があります。精神性と捉えている内は、失敗から学べばまだ何とかなるんじゃないかとか、そうした希望的な見方もしていたのですが、現実問題として、色々な人を見てきて、そうした希望は無いと感じています。今回の思索の方が、仕様上無理というロジックなので、より確からしいと思えるのです。
食糧事情はもう次のステージも始まっています。
農耕牧畜の延長上にあるものですが、次は創造です。
遠い未来には体内生成のステージに行き着くと予想されます。
まあ、他にも幾つかのまだ見ぬステージがあるかもしれませんが。
食糧事情のステージが変われば、それに適応した人も出てくる。
今は中長期的な考えができる人が少なくても、いずれはそれが主流になり、更に次のステージに適応した人が出てくる。
幸運なことに、私は創造のステージの始まりを生きています。
このステージに適応した人がどんな思考をするのか、楽しみです。
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