クラーケンの飼育員
真瀬真行
第1話
今日は、尊敬するお笑い芸人がコンビを解散した日で、僕が生まれてから二十五年経った日になる。それから、僕が夢を諦めた日でもある。
僕はいつものように、朝早く起きた。朝食を作るわけでもなく、コーヒーを煎れるわけでもない。いつもと同じように、ノートに向かう。キンと冷たい空気の清々しい朝で、スズメなのか鳩なのかとにかく生き物が鳴いていた。夢を諦めてから二年経っても、僕の人生は劇的に変化しない。伯父さんの手伝いのバイトをして、たまに映画を見に行って、帰ってからは誰に見せるでもなくノートに落書きをする。夢を諦めても明日はやってくるし、僕はバイトに行かなければならない。
「行ってきます」
耳の遠くなったばあちゃんに声をかけても、彼女は反応しない。若いアイドルのドラマに夢中なのだ。字幕を追うのに必死のばあちゃんの様子に安心しながら、両親の遺影に挨拶をして、それから僕は家を出る。僕の家の前はもう海だ。
潮の匂いがする町に住んでいれば、もう海なんて嫌いになるんじゃないかと思う。僕は、海は嫌いだ。海から運ばれる温い風が僕の前髪をかき上げて、あちらこちらへと導いていく。引き込まれる様に見上げた空は、白い。海の近くから見上げる空は、大抵こんな色だ。ペンキを雑に塗ったような白が薄まったり、所々黒くなったりしている。何かに似ていると思ったが、ああそうか。あの空は彼の肌に似ている。
「正宗」
僕は漕いでいた自転車を停めて、声に振り返る。冬がこの島に居座ってもう数カ月経つと言うのに、Tシャツに薄汚れたジーパン、靴だけはピカピカと光る革靴を履いた男が立っていた。
「裕也」
くたくたになったTシャツは十年前解散したお笑いコンビのライブTシャツだ。僕の部屋の箪笥の一等地に同じものは眠っていた。捨てたのは去年だ。
「よ」
格好はアンバランスでみすぼらしいのに、僕の親友だった男、大橋裕也は男前だ。整った鼻梁に切れ長の目が、俳優みたいねと昔から近所中にもてはやされていた。
「なんだよ」
ぶっきらぼうに僕は聞く。慣れたように裕也は頷いて、自転車の鍵をポケットに突っこんで歩き出す僕の横を歩く。
「いや、なあ正宗」
「だからなんだよ」
振り返った僕の鼻先に、茶封筒を差し出して親友は笑った。
「お誕生日、おめでとう。ハッピーバースディートゥー正宗。お前は最高の相方だ」
親友の手から封筒を毟り取り、中を見てみる。現金ではなかった。
「何だこれ」
味気ない茶封筒の中に、リニアのチケットが一枚。東京行き、と大きく書かれていた。
「リニアの切符」
「……日付今日じゃん」
「そうだよ、よく気づいたな。なあ正宗」
「んー」
親友は毎朝、僕に決まってこういうのだ。
「正宗、一緒に東京に行こうぜ」
少しだけ逡巡してから、裕也はいつものように言った。僕はその言葉を無視して、歩き続ける。
「正宗! なあって!」
声に振り返らずに、歩き続けていると、僕の右斜め上から光が射した。雲間からようやく、朝の儚い光が落ちてくる気になったらしい。
「もう来るなよ」
「何で、俺はお前とがいいんだよ。俺たち、昔からいっつも話していただろ」
「夢は夢だろ。お前もいい加減、現実見ようよ。な」
まだお日様が真上に駆け上っていないような時間に、Tシャツとジーンズと革靴でやってくる元親友は僕を情けなく見下ろした。肩を落としても男前だ。
「じゃあ、仕事、あるから」
「正宗! 化け物の世話なんかして、夢捨てる気かよ!」
「その化け物のおかげでこの町はもってるんだろ。お前もいい加減大人になれよ、な」
言い捨てる様に、その男前を錆びた門の向こう側に置いて閉めた。捨てられた子犬のような顔をして、裕也は僕を見ている。僕は、踵を返して、歩く。何処までも行けるんじゃないかと、思うくらい歩くと、錆びた周りの風景とはまるで異質な白い四角い建物が現れた。巨大な角砂糖みたいな建物に、扉は一つしかない。
角砂糖の中に入り込むために、僕はさらに歩く。中途半端に手入れされた森林に囲まれた角砂糖へは、右足と左足を順番に動かせばたどり着く。
「ああ、正宗君」
角砂糖の入り口で、眠そうな顔見知りの警備員に会釈して、ようやく僕は足を止めた。ふと見上げた天井は、とても高い。白く、丁寧に塗られたペンキのように、つるんとしている。
「正宗君、今日は昼から来客の予定だよ」
警備員に言われて、珍しいなと思った。この角砂糖を訪れる人は少ない。
「整備する人が来るっていう、話だけど」
「整備」
「そう、ここも、古いからね」
頷いて、僕は警備員さんに挨拶を返した。角砂糖の右側の角に扉がある。中に入って少し長い廊下を歩くと、また扉がある。鉄のとびらだ。つるんとして、なんの取っ手もない。急に行き止まりになっているような感じだ。どこにも隙間がないように思えるのに、右側の少し凹んだ辺りにセキュリティカードを晒せば、ようやく角砂糖の中央空間に僕は立てる。
「正宗君」
空間の中央で座っているのは、ぽんちゃんだ。
彼は、正しくは、座っているとは言えないのかもしれない。立っているのかもしれないし、彼の身体としては、床に張り付いているだけなのかもしれない。人間の僕からしてみたら、彼の格好はとても礼儀正しく座っているように見えた。本当は海を泳いでいるような姿をしているのに、四角い箱のような空間の中央で、座っている。それには理由があるのだ。
「おはよう、ぽんちゃん」
人は彼のことを、クラーケンと呼んだ。伝説の海の化け物と同じ名前で呼ばれているのは訳がある。それはあだ名だ。彼らは、海の中を移動する生物兵器だ。特殊な器官を震わせて、人間のある感情を煽って戦争に利用する。
クラーケンという呼び名は数年前に終結した戦争で彼ら生物兵器への侮蔑の籠った言い回しで、僕は彼のことをぽんちゃんと呼んでいた。
ぽんちゃんは、残念なことにいいやつだ。人間以上の知識と礼儀と、気品と優しさを持っている。彼はいつも僕に決まってこういうのだ。
「待っていたよ、話したいことがあるんだ」
彼はいつも対話を求めていて、それは僕が思うにさまざまなものに対する謝罪の気持ちと直結しているものかもしれなかった。だから僕は答える。
「うん、いいよ」
部屋の端に設置された端末に近づく。端末たちはすべて、ぽんちゃんの体調を監視している。あらゆる数値をチェックして、何か不備があれば報告する。数値の変化もあまりないし、データを転送するのもいつもの作業なのですぐ終わる。終わったら僕らはいつも、向かい合って座って、たわいのない話をする。それから、決まって僕が持ってきた映像データを見るのだ。
「今日はコントの三大巨匠を制覇しよう」
僕は、ポケットの中から映像投影装置を取り出した。あらかじめ入れておいたデータを精査する。ぽんちゃんはお笑いが好きだ。
「いいねえ、正宗君、私は今とても幸せを感じているよ。ついでに、私の好物のアン肝があれば文句はないんだけどなあ」
ぽんちゃんはアンコウの肝が好物らしい。ずいぶんと前、クリスマスプレゼントに缶詰を贈ったらとても喜んでいた。
「この二つ目のネタが最高なんだ」
ぽんちゃんが座っている少し横に僕が座り、正面の壁に投影する。データが重いので少し動きが悪いのに、ぽんちゃんはとても嬉しそうに眼を細める。僕が両手を広げてもぽんちゃんの大きな瞳を覆うことはできない。ぽんちゃんはとても大きな瞳を使って僕に気持ちを伝えた。
僕は彼の雄弁な瞳から色々なことを考えて、想いを共有して、それから笑い合う。ぽんちゃんは大きな口を揺らして笑う。まるで楽器みたいだと思う。
「ぽんちゃん」
僕は、笑いながらついぽんちゃんに聞いてしまう。
「面白いと思わない? ね? 今のネタ最高だよね?」
ぽんちゃんは、瞳を閉じていた。
「あれ? ぽんちゃん?」
「ああ、すまない。少し目が疲れているんだ」
「ふうん?」
クラーケンは視力がとてもいい。彼の視界は300度近くあるし、ほとんどの情報を視覚からとらえているらしい。
「正宗君」
「ん?」
「海は……今日の海はどんな感じだったかな」
ぽんちゃんは、たまにこんな質問もする。海の憧れが強いのだとぽんちゃんは言う。きっとそれだけではないので、僕は曖昧に頷く。僕の様子に、ぽんちゃんは少し気を使ってくれたのだろう。僕とぽんちゃんは、ちょっとの間だけ口を閉じた。
「正宗君、君のポケットから何かがはみだしているよ」
ふいに、沈黙の後ぽんちゃんは僕に聞いた。僕はポケットを見て、しまったと思う。仕舞い込んだはずなのに裕也から渡されたチケットだ。
「リニアのチケットだね」
「凄いよな、東京行きのチケット。……これ高いんだ」
くしゃくしゃにするつもりだったのに、リニアのチケットは高いなりに素材がしっかりしているのかぴんとして僕の手の中で出発時刻を光らせていた。そうか、勝手に光る素材なのだ。ぴかぴかと、僕が夢を諦めた日付を見せつけてくる。
「今日の、最終発だ。行くのかい正宗君」
「行かないよ。これは、俺のじゃないから」
言ってしまってから、僕はふいに外の天気が気になった。外は晴れで、世界はいつも僕らを包んでいる。それだけのことだ。
「ぽんちゃん、いつもの通信が来ているかもしれない」
僕は、誤魔化すようにポンちゃんに言った。彼は頭のいいクラーケンなので、僕の言葉にありがとうとそれだけ言った。
ぽんちゃんは、戦場に彼を送り出した博士と毎日通信をしている。一度だけ、彼らの通信を聞いたことがあるけれども、博士は一方的に喋って切ってしまう。ポンちゃんは何か言いたそうにして、それからさよならを言う。僕は知っている。
博士はもうこの世には居ないのだ。ポンちゃんはそれを知っているだろうに、僕に聞こうとしないし、こうして通信に応じる。
「正宗君」
「うん?」
「よければここに居てくれないか」
控えめな提案に、僕は首を振った。彼らの会話を盗み聞きする趣味はないし、僕は何だかぽんちゃんの悲しそうな様子に耐えられそうになかった。
僕らにふいに沈黙が落ちると、警備員さんが僕を呼ぶ声が聞こえた。こちらに警備員さんは入ってこれない。僕しかここには入ってこれないのだ。
「そういえば、お客さんが来るって聞いたけど。数値を取りに来る研究所の人か何か?」
僕はあくまで雇われバイトなので、詳しくは知らない。伯父さんに聞いても、クラーケンの研究に熱心ではないことだけは分かった。クラーケンは、先の戦争の遺物だと、新聞や電子版は言う。僕の住んでいるこの区画は使われなくなった大きな港だった。電子版が言うには、この土地はクラーケンを閉じ込めるには絶好の立地で、彼らの終の棲家になる予定らしい。あくまでも予定だ。先のことはなにも分からない。
「誰も来ないよ」
僕はぽんちゃんの元を訪れるようになってから、客人には一回もあったことが無かった。数値は取っているけれど、ぽんちゃんの調子があまりよくなさそうでも、誰も来ない。僕が心配して元気が出る様にお笑いの映像データを見せるぐらいだ。
もう一度、警備員さんが僕を呼んだ。僕は映像の再生を止めて、扉に向かった。
「正宗君、誰も来ないよ。今日は、誰も来ないはずなんだ」
ぽんちゃんはそう言って、僕を引き留めたがったけれど、ともかく声の方へ向かった。扉の向こう側に出てしまえば、そっけない廊下に出るだけだ。
「どうしたんですか」
警備員さんがここまで来るのは珍しい。彼はぽんちゃんに近づこうとしないからだ。
「お客様みたいだよ」
「お客様? 伯父さんですか?」
「ああいや、博士のお友達ではあるみたいなんだけど。入館許可証を持っているわけでもないし。困ったな。通報した方がいいかな」
「僕が、会いましょうか?」
「そうしてくれるかい」
角砂糖を出ていくと、外はぽんちゃんの肌と同じ色をしていた。あれほど寒い空気を纏っていたはずなのに、急に温く感じるのはどうしてだろう。空を見上げようとして、振り返ると裕也が立っていた。
「お前かよ」
裕也は、先ほどとは違って、ジャケットを羽織っていた。彼の一張羅のジャケットだ。縦の縞がはいっているグレーの生地で、彼憧れの漫才師が好んで着用していたメーカーと同じものだった。
「正宗、お前は狡い」
出会いがしらに言われる台詞じゃないなと思いながら、僕は頷いた。
「そうだな。……ていうかその荷物どうしたんだ」
裕也は、バックパックを背負って、両手に鞄を持っていた。片方はいつも彼が通勤用に使っていたもので、もう片方は旅行用のものだ。
「正宗、俺は本気だ」
「うん、まあお前はいつも本気だよな」
僕らは、幼馴染だ。幼い頃から裕也は、いつも自分の夢に夢中で、いつも必死にノートにネタを書きこんでいた。
「お前は狡い。なんだよ、夢を諦めるって、俺たちずっと、お笑いを目指してやってただろ?」
「……そうだな」
子供の頃から、僕たちはお笑い芸人になろうと何故だか決め込んでいた。君たちはお笑い芸人になるのです、と誰に言われたわけでもないのに、二人でお笑いう世界に夢中だった。
「それを、なんだよ急に。俺の目指したコンビが解散したので、俺たちも解散しようって。ふざけてるのかよ」
「それだけじゃないよ。ばあちゃんも心配だし」
「お前のばあちゃん、施設に預けようって話があったって言ってたじゃないか! 伯父さんが面倒見てくれるって」
「でも、ばあちゃん家に居たいって」
「お前が、そういう様に仕向けたんだろ。ばあちゃんは、昔から言ってたじゃないか、正宗の行きたいところに行って、生きなさいって。男に生まれたからには、大陸の女を目指せって」
「意味違ってくるだろ」
「……それを、何で」
裕也は、唇を噛んだ。ああ、昔からの癖だ。どうにもならないことがあると、彼は唇を噛みしめる。赤くなって、後で血が出るのに、噛みしめて、僕に訴えるのだ。
「今の世の中じゃ、お笑い芸人なんて、きついだろ」
「それがどうしたよ」
「……夢だけじゃ、生きていけないんだぞ、裕也」
「それでも、夢がなくちゃ、俺たちはうまく生きていくことができないじゃないか。……だろ?」
裕也の言うとおりだ、僕は、毎日が味気ない。けれども、現実は残酷だ。数年前の戦争で、全てが変わってしまった。
「あの化け物が悪いんだ」
「言うなよ」
「笑戦争って何だよ……何なんだよ。あの化け物がいたから、俺たちは」
「言うなよ!」
僕が大きい声を出すと、驚いた顔をして、それから裕也はもってきた荷物を急いで持ち上げて僕に宣言した。
「俺は本気だ。……そのリニアのチケットは俺からの餞別だと思って……」
裕也の声を遮るように、警備員さんの声が響いた。
「森君! 森君!」
その声に被さるように、警報が鳴る。僕は上方を見上げて、耳を澄ませた。空が高い。湿った空気が僕の頬を撫でた。
「何だ、この音」
「警報だ。……この施設はぽんちゃんの生態エネルギーに反応して、形状を変える」
「エネルギー? は?」
「クラーケンは、カナリアで戦争を支配したんだ……でもぽんちゃんによれば、クラーケンが生成するエネルギーはあれだけじゃない。その研究をするための施設が、ここだったんだよ」
警備員さんは、顔を真っ青にして僕に中を見る様に言った。
「急に意識が遠のいて、気づいたらあの化け物がモニタから居なくなっていたんだ……森君、見てきてくれないか!」
僕は頷いて、走って角砂糖に向かった。角砂糖は、どろっとした表面のちょうど鉄板に乗せたホットケーキみたいな形になっていた。
「何だこの建物」
「だから、ここは生態エネルギーに反応して……なんでお前までついてくるんだ」
「いいからいいから」
僕と裕也は急いで元角砂糖、現ホットケーキミックスの中に入り込んだ。いつも僕とぽんちゃんが挨拶を交わすその場所は、がらんとしていた。
「何だ、ここ。機械以外なんもねえのな」
「ああ、うん。……ぽんちゃんは私はがらんとしている方が好きでねと言っていて」
僕は、ぽんちゃんがいつも座っていた場所に立つ。少しくぼんでいて、ぽつんと僕が贈ったアン肝の缶詰が置いてあった。
「ぽんちゃん」
僕は、くぼんでいた場所を撫でた。こんなさびしい場所に、ぽんちゃはずっと座っていたのだ。
「ポンズ」
声が響いた。振り返ると、僕がいつも映像を投影させる場所に、博士が投影されてこちらを見ていた。いつものポンちゃんの通信相手だ。世紀のマッドサイエンティストと言われた博士は、僕のばあちゃんと同い年くらいの人だろうか。立派な白いひげに、頭は少し剥げている。白衣はよれていて、優しそうに笑っていた。
「ポンズ、お前と歌を唄を歌いたかったんだ。分かるだろう……分からなくてもいいんだ。明日は晴れるだろう、お前が嫌いな晴れだ。明後日は、雨かもしれない。そうだろう、ポンズ……」
博士は同じ台詞を何度も口にした。いつもの通信と様子が違う。いつもは、もう少しいかめしい顔をして一方的に短い報告めいたことを言って、切ってしまう。ああ、そうかと僕は思った。
「これは、別れの言葉だ」
「何のこと?」
「ぽんちゃんはついに、博士がもうこの世に居ないと、悟ったんだ」
「ええ?」
僕は辺りの機械端末を立ち上げて、数値を見比べる。ついさっきまで、機械たちはぽんちゃんを計測していたらしい。
「こんなところから、どうやって逃げたんだろう」
「ぽんちゃんはクラーケンだ。彼にとっては、簡単なんだよ」
僕は、置き去りにされた缶詰をポケットに突っこんで、建物の外に向かった。
「おい、正宗、どこに行くんだよ」
「ぽんちゃんはクラーケンだ。……ぽんちゃんがもし、本当に悲しくてどうしようもないなら、きっと海に向かうはずだ」
「だから、何で!」
「ぽんちゃんがクラーケンだからだよ! 数少ない、カナリヤを発動した、戦争を引き起こしたクラーケンのうちの一匹だからだよ」
「いや、意味がわかんねえから、だから、正宗!」
僕は、走った。ぽんちゃんの為のこの建物は、海岸公園に隣接して建てられていた。そこに、建てた人間の真意が読めて、僕はいつも嫌な気持ちになっていたものだ。
公園に入ると、あちらこちらから日常を楽しむ人々の笑顔が見える。犬を散歩しているもの、子供を連れたがお母さんたち、ジョギングをする若者。花壇には花が植えられていて、木々が優しく揺れている。
「なあ、異様にみんな笑顔じゃないか?」
公園の掃除のおばちゃんまで、にこにこ笑顔だ。それらを見渡しながら、裕也は気味が悪そうに唇を歪めた。
「テーマパークみたいで変だぞ」
「ぽんちゃんが、カナリアを鳴らしたんだ」
「カナリヤ?」
数年前、戦争が起きた。僕らは、その戦争のことを、笑戦争と呼んでいる。笑いが、戦争を支配したからだ。人々が、腹を抱えて笑い、全てを投げ捨てる。人間らしい生活も、食事も、眠ることさえ忘れて笑うのだ。笑う人々はやがて、死に至る。
「クラーケンはカナリヤを鳴らして、人々を笑顔にする」
その笑いを引き起こしたのが、クラーケンと呼ばれる遺伝子操作を施された海洋生物だった。巨大なイカに似た彼らの口部には特殊な器官がついていて、その器官を鳴らすと低周波が起きる。人の笑いを引き起こす低周波だ。その器官のことを、ぽんちゃんはカナリヤと呼んでいた。
「ぽんちゃんは一度カナリヤを酷使したから、少ししか鳴らせない。だから、他のクラーケンみたいな殺処分を免れたんだ。……少しだけの間なら、笑顔になるだけだ。にこにこと、嬉しくなる。注意力が散漫になって、幸せになる」
カナリヤは聞きすぎると、人間を壊してしまう。ぽんちゃんは悲しそうに言った。
「ぽんちゃんは、博士と一緒に、人々を笑顔にしたかっただけだったんだって、言っていたんだ……そうすれば、世界が平和になるからって」
「何だ、それ。でも、結局笑戦争は起こって、お笑いは規制されたじゃない」
「博士もぽんちゃんも、悪気はなかったんだよ。こんな風になるように思ってなかったんだ」
ふいに、裕也は僕の腕を掴んだ。
「お前ちょっとおかしいよ」
「何が」
「そのぽんちゃんとかいうクラーケン、狡くないか」
「何で」
「あの戦争で、多くの人は笑いを失って、日本は領土の一部を失ったんだぞ。その責任から逃げてるだけじゃないのかよ。お前を憐れませて、同情させて、なんかおかしくないか……」
「ぽんちゃんは逃げてるわけじゃないんだ」
僕は空の様子を見ながら、海岸を目指した。潮の匂いが強くなるたびに、空の雲の量も増えている気がする。
「最初はさすがにさ、クラーケンがどれくらいひどいことをしたか、腹が立ったよ。俺たちから夢を奪ったやつなんだ、責めてやろうと思ったんだ。……でも、ぽんちゃんはいい奴だったよ」
僕がお笑いの映像を見せるたび、ぽんちゃんはよく笑ったふりをしてくれた。カナリヤを鳴らすために、クラーケンは笑えないらしい。はっきりとぽんちゃんに聞いたことは無かったけれど、伯父さんが教えてくれた。
それからもう一つ、カナリヤを鳴らすためにぽんちゃんが捨てたものがある。僕はポケットの中の缶詰を意識した。ぽんちゃんは研究室で生まれたらしい。だから、本物の海というものを戦争でしか知らないと言っていた。
「ぽんちゃーん!」
僕が走って向かった海岸の入り口には、白い砂が溢れていた。生き物の骨や死骸で海はできているんだよと言ったのは、ぽんちゃんだった。その死骸や骨の上で、いつものように座ってぽんちゃんは海を見ていた。
「良かった。ぽんちゃん」
「ああ、正宗君」
「うお、グロイ」
僕の後を追っていた裕也も追いついて、それからぽんちゃんの姿を見て少し驚いたようだった。確かに、ぽんちゃんは大きくてテラテラしていて、巨大なイカみたいな見た目をしている。少しタコっぽい要素も入っていて、僕が幼女なら泣き出していただろう。けれども、僕は彼の心が誰よりも優しいことを知っているのだ。
僕は、裕也のようにぽんちゃんが傷つく反応はもうできなくなっていた。
「海に入らなかったんだね、ぽんちゃん」
「何故だかね。……もう、終わりにしてもいいと思ったのにね」
僕は、ぽんちゃんに近づいて、隣に座った。風が強くて、妙に温い。それから、遠くの空が青かった。
「ぽんちゃん、忘れものだよ」
僕がポケットから缶を出して見せると、ぽんちゃんは少し瞬きを繰り返した。
「アンコウの仲間、チョウチンアンコウがどうやって海底の暗闇の中、餌を探すか知っているかい」
「……光を出すんだっけ。頭からこう伸びた、触覚みたいので」
「……海底はどこまでも闇で、仲間に合う確率は何万分の一しかない。ましてや、餌を見つけるのも大変だ。けれどもチョウチンアンコウは、自分でともした光を頼りに、強かに生きていくんだ。私の知らない真っ暗な暗闇を、小さな光だけで、生きていくんだよ、正宗君」
「うん」
ぽんちゃんは、ゆっくりと立ち上がった。
「私は、海に帰ろうと思ったんだ」
「帰ればいいじゃん」
いつのまにか隣に裕也も座っていた。
「お前なんで居るんだよ」
「……話したいと思ったんだよ、お前が好きなクラーケンと」
僕らと同じように海を見つめながら、裕也は言った。
「そうか。それはありがたい。君は正宗君にリニアのチケットをあげた人だね」
「そう。裕也っていうんだ、よろしくね、ぽんちゃん」
僕らの前を、妙に温い風が通り過ぎた。
「君たちは、どうしてお笑い芸人になりたいんだい」
「人を笑わせることが好きなんだ。純粋に、人と繋がっている気がする。お笑いを通して、人と対話している気がするんだ」
「ああ、博士も同じようなことを言っていたよ。人を笑わせたいとね、そのために魔法の歌を歌おうと私に教えてくれた……裕也君。けれども私は気づいたんだ。笑いだけでは対話にならないんだよ。怒りや悲しみ、相手に嫉妬したり、疑ったりするから対話ができるんだ。そこで心の摩擦をして、ようやく交わすことができる。……博士はついにそのことに気付かなかったのかもしれない」
ゆっくりと、ぽんちゃんは海に近づいて行った。
「博士は間違えたんだ。笑うことだけじゃ、人生は続かない。人は笑って怒って、蔑んで泣いて嫌悪して、生きていくんだ。……ああようやく、私は海底を見れるんだ。研究室で生まれたからね、本物の見たことがないんだ。博士が見せてくれた映像では、海の中では微生物が踊りだしてまるで雪のようだった。今は時期ではないから、彼らの踊りは見れないかもしれないけれどもね」
僕は、ぽんちゃんを止めようと思えなかった。ぽんちゃんにとって、今の方が幸せかもしれない。ふと思ってしまったからだ。
「ん? 正宗、ぽんちゃんさんは、海に入るとどうなるの? 仲間とかが迎えに来るの?」
「クラーケンは、カナリヤを発動すると、深海に潜れなくなる。彼らの身体は深海でしか適用できない様にできているから……もう二度と海には入れないんだ」
「どういうこと? それって、こっから海に入ったら死ぬってこと?」
僕とぽんちゃんは、二回春を迎えた。桜が見たいというぽんちゃんに、僕は映像データを持ち込んで桜を見せた。外に連れ出す許可を出すなんてことはできないと分かっていたから、映像データを二人で座りながら見て、桜が舞う世界はきっと美しいんだろうとぽんちゃんは言った。
「ぽんちゃんが決めたことだ。……僕は、止めることはできない」
隣で急に裕也は立ち上がった。それからまた、僕に言った。
「お前は狡い」
言い終えるとすぐに、裕也はぽんちゃんの元に走り出した。海とぽんちゃんの間に立って、通せんぼをするように両手を広げた。
「どいてくれないか、裕也君」
「いーや、俺は退かないね」
それから裕也は、男前なだけの顔面を歪めて僕とぽんちゃんを交互に見た。
「お前らは狡い」
裕也の声は、しんと辺りに響いた。
「聞いてるとさ、確かに大変そうだよ。ぽんちゃんさん。あんなところに押し込まれて、体を調べられてさ。でも、あの戦争はすげー酷いことになった。一回目は分からなかったかもしれないけど、二回目はなんだよ、あの戦争のとき、クラーケンは何度も笑いを起こした。三回目ではどうなるかを分かってて、そのカナリヤとかいうのを鳴らしたんじゃないのかよ。自分がどれくらい哀れで、大変で悲しかったかしか、今ぽんちゃんさんは俺に言ってない。ぽんちゃんさんはさ、どんなことが起きたか、どれだけの責任があって、『当事者』だったかを俺にちっとも分からせようとしてない。あんたはさ、前の戦争の『一部』だったはずだ。責任があるはずだろ、罪は償わなきゃいけないんだ。何逃げようとしてるんだ」
僕は、裕也の声に耳を澄ましながら、唇をかみしめた。あの時、桜が見たいと言ったぽんちゃんから、僕は逃げた。すぐそこの、施設の脇に咲く桜くらい、見せてやれたのに、僕は逃げたのだ。
「お前は、言い訳を探しているだけだ。正宗。必死に責任逃れをしようとしているだけだ。逃げても、何にも産まれない。何にも、叶わないんだ、正宗」
「……平和で居られる。少なくとも、必死に生きなくていい。ネタのために睡眠時間を削ったり、誰に見せる予定もないのに、必死にノートを買わなくていい……」
桜が咲く前に、僕の敬愛するお笑いコンビが解散した。僕の誕生日の日に。笑戦争からお笑いへの規制が厳しくなって、政治をネタに盛り込む彼らは、どこにも居場所がなくなった。だから僕は、彼らのようになりたくなくて、平和に生きる毎日を過ごしたくて、夢を捨てた。
「それで幸せなのかよ」
「……俺は」
僕は必死に言葉を探した。それから唐突に、本当に唐突に、気づいた。僕は孤独だった。ぽんちゃんもきっと孤独だった。
狡さと孤独は強力に結びついていて、救いに変換されるためには正面から受け止めなければならない。自分の狡さを素直に認めたものが、周りに理解されて孤独感を拭えるのかもしれない。
「俺は……寂しい」
「逃げては何にも産まれないんだよ、正宗」
「でも、裕也。夢は叶わないじゃないか」
そうだ、夢は叶わない。泣きながら、願いながら、望みながら、怒りながら、人は夢を追い続ける。けれど、叶わないんだ。夢はかなわない。
「だから、追い続けるんだよ」
「叶わないのに?」
「叶わないからさ。希望がそこに産まれるんだ。結論がないからこそ、希望があるんだ。余白に光が射すんだ」
「……みじめだ」
「誰が。叶わない自分が? そんなことはないだろ。全然、そんなことはないんだ。叶わないからこそ、一生懸命していたからこそ、誰よりもかっこいいじゃないか。そうだろ、さみしくて、かっこ悪くいるよりずっといい」
「夢はかなわないのに」
僕の言葉に、裕也は言った。
「夢が叶って何になる。次の夢が生まれるだけだろ」
「でも、叶えたいじゃないか」
「なんのために。自己満足の為に?」
「自分の存在の為に、自分がここにいるための、答えが分かるじゃないか」
温い風が僕の前髪を浚う時に、ぽんちゃんは僕を振り返った。
「そんなものは、夢が叶ったぐらいじゃ推し量れないよ。存在理由は、他人との摩擦で、ようやく形作られる。君や私みたいに、人から逃げちゃ何にも分からない。自分がここに居る理由は、対話から生まれるんだよ正宗君。だから、逃げちゃ駄目なんだ。叶えたいと思うなら、努力するんだ。そのリニアのチケットを持って、あるべき場所の、居るべき場所の隣に立つんだ。人と話すことを恐れたり、逃げちゃ、駄目なんだよ正宗君。私も君も、逃げちゃ駄目なんだ」
その時ふいに、僕らの目の前にちらりと白い影が通り過ぎた。なんだろうと、僕は視線を上に動かすと、が僕らを覆うように白い粉のようなものが振り落ちてきていた。
「雪だ」
みぞれ交じりのその雪が顔に当たるたびに、音がする。髪の毛からつるりと落ちるたびに、冷たいものが僕の首筋まで伝った。
「ああ……綺麗だ」
ぽんちゃんはしきりに上方を見上げて、口を開けたり閉じたりした。ぽんちゃんの前に立っていた裕也は一張羅だった上着はよれよれで、そういえば持っていた荷物はない。
「まるで、深海みたいだ。……そうだろう正宗君」
「……うん、そうだねぽんちゃん。……そろそろ、帰ろうか」
ぽんちゃんは、ようやく僕の隣に近づいて、それから素早く手腕を僕のポケットに伸ばして、チケットを掴んだ。
「まだ、十分間に合うんだろう? 正宗君」
差し出されたチケットを掴むと、裕也が笑った。僕も笑うと、待っていたかのようにおーいと声が聞こえた。あれは警備員さんの声だ。迎えに来てくれたんだろう。そういえばと、もう片方に突っこんでいた缶詰を取り出してぽんちゃんに渡した。ぽんちゃんは器用に缶詰を開けて見せた。そういえば、賞味期限は去年だった。
僕らはもう一度笑って、歩き出すことにした。空からは、白い埃みたいなものが降り落ちてくる。僕の鼻は潮の匂いを捉えて、耳では波の音を聞いていた。
クラーケンの飼育員 真瀬真行 @masayuki3312
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