皇帝の暴言

 皇帝は最高権力者である。余人とは異なる唯一の人である。


 どのような我侭も希みも叶えることができる権力を保有している。


 ただ、その権力にも翳りが見える。帝国は明確な衰退している。とは言え、理由もなく崩壊することはない。百年以上の威光があるのだ。帝国に恩義を受けている人間は、たとえ賄賂を受け取り国家を蝕んでいたとしても、心の奥底では国家の繁栄を望んでいるのだ。


 考えてみればわかる。腐敗した国家が無くなり困るのは汚職官僚だ。新しい国家が興り、清き政治が行われるとき、一番困るのは国家に寄生していた人間たちだ。立場が利用できなくなり、余財を蓄えるのが困難になるだけではない。最悪の場合、今までの罪を咎められ自分の頸の血を見る羽目になるだろう。


 故に、後ろめたさを持っている人間ほど国家に対して媚び諂う。甘い言葉を投げかけて皇帝を骨抜きにしていく。


 だから、皇帝が勘違いしたのも無理はない。周囲から煽てあげられ、現状を認識できなくなったのだ。


 ただ、それだけならまだよい。皇帝は、実際に軍隊を動かす権力を有している。国民を軍隊の力で自分の望むがままに動かすことに慣れ親しみすぎていた。


 だから、竜吉公主が反発することに驚いたのだ。全ての人がかしずいて皇帝のために働くことが当然のことと疑うことすらなかったのだ。


 だが、それは下界での話だ。皇帝の権力に逆らうことができない人間界の話である。


 仙界では下界での権力は関係ない。例え自らの親衛隊を引き連れてきたとしても……。


「な、何が起こったのだっ!」


 皇帝は門から出ると大声を出す。大きく口を開いたまま周囲を見回し、崑崙山特有の霞状となった雲の破片をかき分ける。おかしい。朕の兵士たちがいるはずだ。皇帝は真紅の裾で額の汗をぬぐいながら、軍隊を探し求める。しかし、雲の破片をかき分けてもかき分けても、見えてくるのは屋敷を取り囲む白壁と薄茶けた地面だけだ。


 諦めずにこの謎を解かねばならぬ。そのような忍耐を持ちえない皇帝は、数刻にて屋敷に戻ろうとした。一人で禁城に戻ることはできないから、竜吉公主に案内させようとしたのだ。


 顔を赤く紅潮こうちょうさせながら、門を再び潜り抜けようとしたその時、一人の男が門前に立っていることに気付いた。


 注意不足だったわけではない。男は、水面に浮かび上がった泡のように忽然と現れたのだ。


「そこを退け燃燈道人」


 皇帝は燃燈道人と呼んだ男に向かって命令を下す。だが、彼は石像のように動かない。屈強な筋肉を見せつける軽量な着物をまとい、背中に一本の剣を吊るしている。燃えるような赤毛に強烈な眼光を放つ彼は、雑兵との格の違いを見せつけている。


 皇帝の言葉など意にも解さぬとばかりに、自己の持つ智勇への自信をみなぎらせている。


「朕の言葉が聞こえぬか!」


 皇帝が声を荒げるほど滑稽に見えてくる。誰もが感じるはずである状況で、皇帝本人だけは理解できていない。雅らかな装いで本人に華があるからこそ道化になる。


「兵士たちはぬぞ」


 燃燈道人は一言だけ告げると門を閉ざそうとする。


「待て、お前は朕の兵を殺戮したのかッ?」


 皇帝の不躾な問いに燃燈道人は眉をひそめる。


「殺戒を破らねばならぬ理由などない」


「ならば、何故、朕の兵が消えた」


「単なる人がどうして消えるか。去ぬのみ」


「何を言っているのだ! お前が……」


 皇帝は、燃燈道人の背後に駆け寄ってくる人物を認めて口を噤む。義務を果たすために、竜吉公主が来たに相違ない。そう考えて薄霞の中から現れる人物に視線を集中させる。


「陛下、もうお気づきになられたと思いますが、兵士たちは燃燈道人の仙術で地上へ送り返されました」


 現れたのは赤雲女だった。事務的な表情を見せている。


「違うぞ赤雲女。壁を破壊しようとした兵士を打ち倒し、残っていた兵士に去ね。と告げただけだ」


「赤雲女。朕に対してそのような口のきき方をして許されるとでも思っているのか」


 皇帝は話に割り込んでくる。自己の主張を押し通そうとしている。目は吊り上り呼吸は荒くなっている。単なる憤りのためだけではない。竜吉公主の屋敷は、崑崙山の中でも高所にあるため地表よりかなり酸素が薄くなっているからだ。


「当然でございます陛下。ここは禁城ではございません。竜吉公主様の屋敷でございます」


「何を言っているのか。朕は皇帝である」


「ここは仙界でございます」


 赤雲女の反論に皇帝は反論しようとする。しかし、ケッっと擬音を吐き捨てて一歩前に出る燃燈道人に威圧され、言葉を発することができない。


「赤雲女。面倒だと思わないのか。この皇帝に何を言っても無駄だ。力づくで帰ってもらうのがお互いの時間の節約じゃないか」


「そうおっしゃられましても……」


 赤雲女は躊躇ためらいを見せる。なるべく穏便に事を済ませたいと顔に描かれている。


「面倒だ。深く考えることはねぇ。皇帝にはさっさと帰ってもらう。地上と仙界は今までと同じようにお互いには干渉しない。それでいいじゃねぇか。なぁ皇帝さんよ」


「燃燈道人。朕に向かってその態度、無礼であるぞ」


 皇帝は文句を言う。だが、燃燈道人の精神圧力に押されて今までより声が小さくなっている。


「だから、ここはあんたの支配している国じゃない。別に頭を下げる言われはないんだ。そもそも、結婚話を破棄したのはあんたのせいじゃなんだろ。そのことで溜まった俺の怒りをどう発散させればいい?」


 燃燈道人の言葉に皇帝は眉間を寄せる。


「何を勘違いしている。正室とならずとも、後宮に来たからには朕に力を貸すのが当然であろう」


 皇帝が呟くと、さすがの赤雲女も目を大きく見開く。


「な、何をおっしゃるんですか。陛下が……」


「元々、朕は一緒にこの国を治めて欲しいとしか言っておらん。それに、人は何かを決めてから大事な存在に気付くということもある」


 皇帝は悪びれもせずに言い放つ。


 赤雲女も燃燈道人もさすがに上手い言葉が出てこない。あまりの意味不明な言い分に頭の中が混乱しているのだ。


「二人も竜吉公主に問題があったことを説明して禁城に連れ戻してほしい。多くのことが停滞して困っているのでな。そうだ。今、禁城に戻るならば寛大にも何も罪に問うまい。」


 皇帝は言い終えると意味不明にも嗤う。大声でわざとらしい嘲笑を繰り返す。


「それは、わらわを役人として雇ったつもりだったということかの?」


 笑い声を止めるような竜吉公主の声が響き渡った。


 皇帝は、燃燈道人と赤雲女の背後に竜吉公主と碧雲女がいることに気付いた。だから嗤うことを止めて真剣な表情になる。


「勘違いしてもらっては困る。当初は后とする意思もあった。だが、気付いてしまったのだ。婚約の儀を執り行った時点で本物の愛は何かということに。一番大事な人は誰かということに。仕方がなかろう」


 皇帝は高慢に言うと、その場の空気が冷え込んだことを感じた。


 一番冷気を放っている竜吉公主が両手を前に突き出した。周囲の靄が晴れていき、水の渦が掌を中心に渦を巻き始める。


「何をする気だ!?」


 皇帝が訊くと竜吉公主はとても嬉しそうに微笑む。


「安心せい。水の防壁があるから死ぬことはないはずじゃ」


 竜吉公主の言葉に合わせていたかのように、水流が皇帝を襲う。避ける時間はない。有無を言わさず皇帝は濁流に飲み込まれる。しかし、不思議なことに呼吸は苦しくない。全身を包み込んでいながらも、口と鼻だけは空気と接触している。


 皇帝は水の力に弾き飛ばされていることを知った。放物線を描きながら崑崙山から離れていくが、恐怖は感じない。漠然と、これは霧露乾坤網の力だろうかと考えながら、空中遊泳を楽しんでいた。

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