第9話

ピピ、ピピピピ…

控えめな目覚まし時計を押し、寝ぼけ眼をゆっくりと半目だけ開ける。外はもうほとんど白んでいて、遠くで鳥の声が聞こえる。一人暮らしを始めたのは大学の頃からだから、早起きとまではいかなくとも、遅刻するような時間に起きることはしたことがない。大抵目覚ましで指定した時間には起きる。

そろそろ支度しなければ。体を起こすと、昨日の酒がまだ抜けていないのか、どこか体が怠く感じる。昨日思わぬ再会を思い出すと酒の力ではないなにかで頭痛がする気がした。

再会したときには最悪以外の言葉が思い浮かばなかったが、今はどうだろうか。まあ最高の気分、とまではいかないが、田宮が優秀な社長であり、絶大なコミュニケーション能力を携えていることはペーペーの俺でもわかる。プライベートはもはや触れないでいても、仕事面では申し分ない取引先であるのだ。そしてなぜだか俺に向けた笑顔がなんとも頭から離れない。

結局昨日は明日も仕事があるだろうと、きっちり2時間ほどでお開きとなり、お断りはしつつもやはりというべきか、ご丁寧に送っていただいた。もっとグイグイこられるのかと思いきや、俺が嫌がることはせず、車の中でも彼は紳士的というか…ただただ俺との会話を楽しんでいるようだった。幾らか年下であろう俺と話をして何が楽しいのだろうか。彼は笑顔を絶やさなかった。

あんな出会い方をしなければよかったなぁとある意味思う。というか、あの日は俺は何をしてたんだろうか。あの日の出来事は俺の中でのパンドラの箱だから、触るな危険の案件であるからして、そのことについて考察する時間も設けなかった。

電車をホームで待ちながら、スマホをいじるスーツ姿の社会人や話好きな女子高生たちをぼんやりと見ながらそんなことを考えて、いつものように電車に乗り込んだ。



「おはよう〜!津島くん昨日はどうだったの?うまくいったんでしょ?聞いたよ〜」

「おはよ、佐竹」

出社すると隣のデスクに座って鞄をひろげる佐竹がいた。昨日の取引先とのことを早速聞いてきたのだ。同僚であるし昨日の取引先とのことを朝一の話題に出すのは当たり前といえば、当たり前だ。まあ、俺だって?普通の相手だったら雄弁に語ってあげますとも。しかしそれが普通の相手ではないんだよ。佐竹の言う通り、結果として商談はうまくいったのだけれど…課長に昨日電話で結果だけは告げて大層喜んでもらえたから、まあ職場の人間で知っている人がいるとは思ったが…ここまで早いとは。だからこそ変に隠すのもおかしい。嘘をつく必要はないが、ほんとのことを全部話す必要もないと思う。


「うん、うまくいったよ」

「おめでとう〜いや〜さすが新・津島凛太朗だね!すごい〜」

「や、やめろって!恥ずかしいなぁもう」

そうやって満面の笑顔で両手を握ってぶんぶんと握手する同期の素直さに、俺は気恥ずかしくなった。どこかドライさを感じていた同期の佐竹が、意外と俺に対して友好的に接してくれてたんだと、このタイミングで気づいたから嬉しくて、恥ずかしいのかもしれない。俺はもしかしてすごいことをしたのかも、と錯覚してしまう。

それから程なくしてほかの社員からもお祝いの言葉をいただき、頑張れ!との激励も受けた。課長に至っては涙目で俺を抱きしめてくれたが、すぐに「恥ずかしいですよ」とやんわり引き離した。だって俺はまだ桂木に殺されたくはないからだ。今だって目からビームが発射されそうなほど俺を睨んでいる。そんなに羨ましいなら課長に思いの丈をぶつけろってもんだ。まあ、そのクールな同期には怖いから直接言えやしませんけどね…


就業時間が始まるとさすがに皆それぞれの持ち場について仕事を始める。さて、今日も1日頑張るか。カフェオレを一口飲んで、気合を入れる。





12時15分。昼休みのチャイムが鳴る。俺は午後からは一人で外回りの仕事なので、昼はどこかで食べようかなと思っていた。男の寂しい一人暮らしは俺もご多分にもれず、コンビニ弁当や外食で済ませてしまうことがほとんどだ。上司に一声かけて、俺は部署をあとにする。


下のエントランスで昼の日差しの強さに、スーツでは暑くなりそうだと思いながら、ふと入り口付近に見知った影が見えた。

………いや、いやいやいやありえない。

不運なことにクールビズな我が社は空調節約のため、出口は一つしか開放していない。というか、その影は二つあるが、その二つともがこちらにむかって歩いてくるような気がするのだが。

待って、超逃げたい。社食いこうかな、と思った矢先。

「津島さん!よかった!会えた」

キラキラとイケメンオーラを隠そうともしていない、あの社長が俺に手を振ってズンズンと長い脚で足早にこちらに駆け寄ってきたのだった。

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