雨のあと

ムノニアJ

第1話雨のあと


 カウルは、尖塔の天使だった。


 尖塔の天使は、「尖塔」と呼ばれる超巨大建造物の内部で活動し、その労務を全うするために生きる人々の総称だった。ある一面において説明すれば、天使たちは尖塔で産まれ尖塔で死ぬ。また、ある一面においては、全人口の約三割と定められた社会的必要人員とされており、また、ある一面においては、社会システムに貢献する「神聖なる」人々であって、また、ある一面においては、受精卵選別以前の無作為抽出の落とし子だった。

 つまり、カウルは尖塔の天使である必要など、最初からなかったのだ。

 けれど、彼は実際、現在、その総人口が六億に及ぶとされる、尖塔の天使のひとりだった。

 その末端だった。



    ◆



 あまりにも突然の声だったので、驚いた。

「なに、見てるんだ」

 と、声を放ったブロンが、カウルの背後に立っていた。


 月明かりが、圧縮睡眠室の小さな窓から差し込む、静かな夜だった。


 窓の前に立つカウルが、ブロンに振り向いた。

 おぼろげな月影が、硬い床の上で踊った。

 脊椎接続された神経調整用ケーブルが、カウルの尾骨のあたりから、床にだらりと垂れている。動物の尾のように。ブロンも、他の天使も同様だ。

 尖塔の天使たちは、この圧縮睡眠室においては、衣服の何もかもを着けない。その必要がなかったからだ。室内環境は適正に保たれているし、不要な菌の一匹すら決して通しはしない。


 あくまで落ちついた声音で、ブロンが、繰り返した。

「カウル、なにを見ている?」

 ブロンは、カウルより生育期間が一年長い。体格は痩せっぽちのカウルよりもずっとがっちりとしていて、その表情筋は「なにか外に面白いことでもあるのか?」と告げていた。

 夜闇の中で、ブロンの両の眼は、奇妙な熱気を残しているように見えた。

 数夜に一夜、ある仲間内で楽しまれる「賭け事」の帰りのようだった。なにを研究するでもない「研究室」なる尖塔のあるエリアで、そうした行為がなされている。すべての天使の上腕に着けられた労務自立支援機たちが、賭けのような禁止行為を見逃すはずがないのだけれど、なぜか何も警告しないのも、カウルは知っている。

 賭けの対象は、参加者の「想像上のコイン」である。

 前述のとおり、そもそもギャンブルなど天使のルールでは厳禁だった。徹底的な使用制限のあるクレジットは使用できるはずもないし、労務に使う道具などを担当エリア外に持ち込むことは尖塔中のセンサー群が決して許しはしない。代わりに髪やら爪やら血液やらの天使の肉体の一部を扱うにしても、尖塔は肌の表皮一片すら無駄な存在を許さず、すべて浄化水槽と熱風で洗浄してしまうから、結局頭の中の、皆の想像の中のコインを賭けるしかないのだという。

 カウルは、そうした天使の賭け事が好きではなかった。妄想のチップを肴にスリルを享受して、それが一体、どうなるというのか。なにを生むというのか。

 ブロンが、ずい、と歩み出て、カウルの隣に立った。

 カウルの触覚と嗅覚が、ブロンの存在をわずかに感じ取った。

 カウルは、他人の体温があまり好きではなかった。


 横に並んだ、カウルとブロンの視界。

 圧縮睡眠室の小さな複合ガラス窓の奥は、

 星の見えない、本物の夜空と、満月に近いおぼろげな月と。

 「駅街」の、尖塔よりもずっと低い建築物の群れが、地平線まで、ひたすらに存在していた。

 地をうごめくように、それぞれの建築物固有の光芒を、わずかに漏らして。

 カウルは、「駅街」を、そこに生きる人々についてを、よく知らない。すなわちそれは、尖塔の天使の大半が知らないことを意味している。

 ただ、尖塔の天使の無作為抽出に漏れた、「祝福されざる人々」が、その生を営んでいる、と教えられている。

 「不要な感情と、欲と憎悪に穢れた、悲しき街」なのだという。


「僕は、」

 カウルは、最小限の言葉を扱うために、一度言葉を区切った。無用な言葉を人に使うのは嫌いだったし、そう教育されてもいるから。

「僕は、あれを見ている」

 右腕をゆっくりと持ち上げて、広大な街の中の、ある一点を指差した。

 カウルの上腕に装着された労務自立支援機――人間のそれらなどよりも圧倒的に優れた各種センサー群が、装着した労務支援対象者の、何もかもを見て、知って、記録して、考えているのだという――が、月光に映えて、僅かにきらめいた。

「――ん、」

 ブロンが、カウルの指さす方向と「駅街」の光景を交互に睨んでから、じっと街を見つめて、

「……あれか? あそこの、白茶けた建物の左にある、道路の上の、赤っぽい、絵。えっと、ロード・アート・グラフ、ってんだっけか?」

 カウルが、ブロンに振り向きもせずに、ゆっくりとうなずいた。

 ――女だな、若い女だ、好みじゃあないがね、

 と、ブロンがつぶやいている間も。

 カウルは、じっと、それを見つめている。


 カウルの視線の、遥かに先にある、終着点――広大な「駅街」の隅の裏路地に存在していたのは、抽象的なタッチで描かれた、ひとりの人物のロード・グラフだった。

 隣に立つフランチャイズ・ホテルの、過剰なまでの照明の一端が、その小さくはないグラフィティを照らし出していた。

 黒いアスファルトの上に、描かれていた。


 ブロンの言うとおり、それは「若い女の絵」だった。

 ただ、少女という表現が、より正確であろう。

 古風じみた純白のローブを、その薄い身に纏っている。揺れる鎖のネックレスの蒼い宝石の光輝が、整った顔立ちを照らし出していた。栗毛色の癖っ毛が空気の流れに揺れる。そして周囲を彩る、橙色の刺々しい炎。

 死を暗示するような火炎の渦に飲まれながら、

 絵の中の少女は儚げな表情で、ここではないどこかを見つめている。


 カウルが知るはずもないが、この一枚の絵の制作に使用されたのは、七色の溶剤型アクリル絵具と、スプレーガンと、ささやかな技巧だった。

 特に社会的価値があるわけでもない、「駅街」においても風紀取り締まりの対象となる、簡潔に言えば「くだらない落書き」だった。描いた人物の正体や、その絵に込められた意図なども、もちろんカウルが知る由もない。

 昨晩に、窓の外の「駅街」を眺めていると、見つけた。

 ただ、それだけだった。


 二十呼吸ほどの、沈黙ののち。

 カウルが、

「きれい、だと思う」

 と、言い放った。


 隣に立つブロンの、やや訝しげな視線を気にもせずに、

「僕も、ああいうのを、いつか、描いてみたいと、思う」


 ――言葉は、最小限に控えようと思っていたのに。

 そう教育されているのに。

 止まらなくなってしまっていた。

 話しながら、カウル自身が信じられないでいた。


「……こんな感情は、生まれて初めてなんだ。あれを見て、描いてみたいと思った。僕は、尖塔の天使で、だから、何も、何も知らないけれど、どうやって描いたのかも、描いた道具についても、それをどう学ぶのかも、さっぱりわからない、けれど、あの絵のようなものを、描いてみたいと、思ったんだ。どうして、僕が自分がそう思うのかもわからない。でも、いつか、ああいった絵を、描いてみたい」


 闇と静寂の支配する、圧縮睡眠室。

 おぼろげな月が陰影を生む、ふたりの天使の神経調整用ケーブル。

 小さな複合遮断ガラス窓の先の、遥か下界の街の片隅の、一枚の少女のロード・グラフ。

「……よく、わかんねぇや、俺には。そういうのは」

 と、はにかみながら、ブロンが言った。

 ――だがまあ、いつか描けたら、教えてくれや。できれば、もっと可愛らしくて、よくわからん服飾品とかのないハダカで、あともっと、本能に訴えるモノならいいなあ。へへ。

 ブロンは話しながら、眠たげになった目をしばたたいて、自らの圧縮睡眠チェンバーへと去っていった。彼の尾骨あたりから伸びる灰色の神経調整用ケーブルが、ずるずると床を這い、影の中に溶けていく。

 その間も、ずっと、ずっと、カウルは、「駅街」の隅にある、ひとつのアート・グラフを、見つめている。

 おぼろげな月が、圧縮睡眠室をかすかに照らしていた。



    ◆



 それから、ある程度の時間が過ぎて、

 カウルは、ある程度の努力を積み重ねて、

 その間に、ある程度のことを、学んだ。


 そして、一度、激しい雨が降って、止んだ。



    ◆



 その夜は、果てなく暗かった。


 圧縮睡眠室の小さな窓辺に、ひとりの、痩せっぽちの尖塔の天使の姿があった。


 天使は。

 カウルは。

 例のロード・アート・グラフィティを、

 いや、

 それがかつてあった、「駅街」の単なる裏路地の一角を、

 眼を見開いて、じっと、見つめている。

 

 かたかた、と。

 その裸身が細かく揺らいでいることに、彼自身も気がついてはいまい。


 かつてから、

 うっすらとは、わかっていたのだ。

 わかっていた。


 結局、

 ロード・アート・グラフィッカーは、「駅街」のありふれたうるわしい生育環境と、専門のテクニカル教育と、同等もしくはそれ以上の技巧を有する仲間や友人たちと、尖塔の天使よりもはるかに縮小された労務に囲まれた、単なる「神聖ならざる、駅街の一般人」にすぎず、

 しかし、ただ、カウルは、

 カウルは、

 尖塔の天使で、

 これからも、

 死ぬまで、

 ずっと、

 だから、


 ひとりの尖塔の天使が、高い高い尖塔の中ほどにある、暗い圧縮睡眠室のひとつの小さな窓から、「駅街」の裏路地の、何もないアスファルトの路面を、じっと、見つめている。


 カウルの視線は、かつてのそれとは、一線を画していた。



    ◆



 この断片的な物語の、なにもかもの、間。

 ――その一機の労務自立支援機は、自らの労務支援対象者である尖塔の天使、すなわちカウルを、常に、観察していた。彼の右上腕において、持ちうるセンサーの、すべてを惜しみなく使用して。

 実に、つまらなかった。

 支援機は、とっくに結論を出している。

 ありふれた話だ。

 カウルが羅患した一種の精神的異状は、彼の年齢が比較的幼い故に発生しうる、これもまた、実に普遍的な状況なのだった。カテゴリーとしては、「問題」ですらない。

 対策は、簡単だった。

 ただ、待っていればいい。

 いずれカウルは、一機の労務支援対象者は、彼が精神的異状を催したもっとも大きな一因と思しきロード・グラフの、委細の形状を、かならず忘却するであろう。雨に消えたロード・グラフの周囲にあった炎の棘の先は、一体何本だったろうか? 少女の首元のアクセサリーをつなげているのは、紐、あるいは鎖だったか? さらにもうしばらくすれば、カウルはその色彩すら忘れてゆく。少女をとりまく炎の渦の色は、あざやかな赤だったろうか、もっと青みがかっていたか、あるいは黄色に近かったか? いずれ時が経てば、いずれカウルは、少女の顔を忘れるであろう。その表情は微笑んでいたか、無表情だったか、あるいは怒っていたのか――? そうして、何もかもを忘れてしまうまでに、さほど時間は掛かるまい。そこに少女のロード・グラフがあったことすら、いずれカウルは忘却する。材料は揃っていた。既に機体は演算を終えている。ロード・グラフの存在が、カウルの大脳の表層記憶処理体から失われるまでに、212日プラスマイナス93日、確度100パーセント。

 絵を描こう、などという無益な意欲も、やがて同様に消滅する。

 終わりない尖塔の労務の中で、義務の数々と圧縮睡眠と無意識下の神経調整の中で、この尖塔の大いなる渦の中で、すべては忘却の彼方へと沈んでいく。いずれカウルは、より熟練された、より従順かつ能率的な天使に羽化するであろう。かならず。

 労務自立支援機の思考は、リアルタイムに解釈プロセスが連動する「尖塔」の中央演算システムのそれでもあった。

 この類の事例には、「尖塔」の永い歴史においても、ことかかない。

 平常運行。

 持ちうるセンサーの、すべてを惜しみなく使用して。

 労務自立支援機は、自らに割り振られた対象である、ひとりの天使を、観察している。



    ◆



 その夜は、果てなく暗かった。


 ひとりの尖塔の天使が、高い高い尖塔の中ほどにある、暗い圧縮睡眠室のひとつの小さな窓から、「駅街」の裏路地の、何もない、何もないアスファルトの路面を、じっと、見つめている。


 【完】

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