第09話「別離」

「理由、聞かせてくれるんだろうな」


 ユリーシャは有無をいわせない形相でずいと迫ってくる。

 幽鬼のようにたださえ白っぽい肌が死人のように蒼褪めている。

 ここに至って語って聞かせることはない。


 隣をすり抜けようとすると、強い力で肩を掴まれた。身長差があるので、自然、見上げるような形となった。大柄なハリーとならば並んで格好がつくが、と我ながら情けないことを考えてしまって自然と頬がほころんだ。


「なにを笑っているんだ! 私は怒っているのだぞ!」

「ハリーはどうしたんだ。いっしょじゃなかったのか」

「い、今はそんなこと、関係ないだろう」


 ユリーシャはたちまち歯切れが悪くなると、視線をあちこちにさまよわせた。


 ……もう咎めだてする必要もないか。


 思いきりが悪いのは、生まれつきのねちっこい性格のせいで、もう改善することはどうにもできそうにないのが悔やまれる。


「なんで、あんな、村人の信頼を裏切るような真似をしたのだ。ジラルドらしくない」

「ミーシャはどうしたんだよ」


「おまえと話があるからハリーに預かってもらったんだよ。それよりも――」


「わかった。腹を割って話すよ。おまえは馬鹿じゃないからな。けど、村の人たちは……これは悪意味でいってるんじゃないんだぜ。彼らはとにかく俺や周囲の善意を妄信し過ぎている。たとえ援軍を頼んだとしても、貴族は救いになど来ない」


「……けど」

「な? もう答えは出ているじゃないか。だいたいが、彼らが自分の街を放棄してこの旨みのない村を助けに来る理由がないんだ。それに、俺にはできることなんてなにもない。俺は、本当につまらない人間だからな」

「だから、なんでそうやって自分を貶めるようなこというのだっ! 私は、私はジラルドを信じているのにっ」


「それが重荷なんだよ」


 ユリーシャが「ひっ」と悲鳴のようなものを飲み込んだ。

 じりじりと、ランタンの油が焦げて煮詰まってくる。

 こんな話をこれ以上続けても不毛だし意味がない。


「なら、早くいっしょに逃げようっ。エンペイロの村までなら、すぐ近くだっ」

「その前にだな。最後に一杯つき合っちゃくれねぇか……な」


 俺が机の上にあった最後の酒瓶を持ち上げると、ユリーシャは仕方ないなとようやく幾らかくつろいだ表情になった。


「ほんの一杯だけだぞ。時間もないし」

「ここは、俺たちが出会って暮らした家だ。どうせ、ユーロティアの連中が攻め寄せてくれば、全部焼かれちまうに決まっている」


 俺はカップに半分ほど酒精をつぐとユリーシャに手渡した。彼女は目を細めると、躊躇せずそれをぐいとひと息に呷った。


「あの暴言も。村の人たちに抗戦を諦めさせる手立てだったのだろう? ジラルド。次からは、もう少し上手く――はれ?」


 カップを置いたユリーシャががくりと大きく膝を折った。俺は無言のまま崩れるのを必死でこらえる彼女から目を離さなかった。たぶんこれが最後になるから。


「おま――ジラル、ド。なに――を?」

「虎もぶっ飛ぶ眠り薬だ。って、たぶん後遺症の危険はないはずだが、勘弁してくれよな」

「う、にゅ」


 崩れてくる彼女をそっと抱きかかえると、長く美しい銀色の髪に顔を埋め鼻孔一杯に甘いような香りを吸い込んだ。どこか懐かしく、目頭が熱くなりそうだったので思い出すことはやめにする。


 きい、と扉が開く音がした。

 想像通りそこには旅支度を整えたハリーが両眼を見開き、俺が抱いているユリーシャを見て身体を硬直させる。


「隊長、これは――!」

「別に構わない。逃げるんだろう。ほら、ユリーシャを運ぶから手伝ってくれ」


 土壇場でいいわけする男は情けないぜ。ってか、この場で事実をはっきりさせない俺もたいがいなんだが、そこのあたりはもう、すべてを超越しはじめていると思って目をつむってくれい。


 外には案の定、ハリーが乗ってきた商売用の荷馬車があった。

 この期に及んで物欲へとさすがに執着はしなかったのか、荷は最低限を残してほぼカラッポにしてあったのは及第点だ。商人としてはマイナスなんだろうがな。


「隊長、早くあなたも乗ってください。どうせあんなことしたのだって、わざとなんでしょ!」

「その心は?」


「あんたみたいな凄腕の軍人が本気でオレをぶっちめていれば、一週間はベッドから起き上がれないですよ。音は凄かったし、あちこち痛むけど、急所はすべてはずしてある。あれは、村の人たちを逃がすために芝居を打ったんでしょうがっ。ほら、早くっ」


「いいとこをついているが、満点はやれないな……」

「は?」


 ユリーシャを車の上に落とし込むと、毛布にくるまっていた小さな影がごそごそと動き出した。


「おかーしゃ……おとーしゃんっ!」


 ミーシャは目をこすりながらも犬耳としっぽをぴんと張ってすがりついて来ようとする。


「来るなッ」


 心を鬼にして止めた。


 こんなかわいい娘に怒鳴るなんて、胸が張り裂けそうなほど痛かった。なんの罪もないのに怒鳴りつけられた憐れな子は、泣きながら、それも叱りつけられた俺になんの恐怖も抱かず、ただ悲しみを露わにして顔をこすりつけようとし、落ちる寸前をハリーに抱き止められた。


「隊長、あなた、まさかひとりで――無茶だ! ありえないっ!」


「ハリー。ひとついいことを教えてやる。軍人は与えられた命令をこなすとき、決して無理だと自分では決めつけないものなんだ。腹の底からやれる、と叫ばなければ、戦う前から負けてしまう。俺はやれるさ。いつだって、どんな相手でもね。ロムレスの騎士はどれほど敵が強大でも民のためなら命を捨ててかかる。それが俺の誇りで、生きてきたすべてなんだ」


「なんで、それをみんなの前でいわないんですかぁ……」


 決まってる。死にたがりはこれ以上いらないからだ。


「奥さんは、ユリーシャさんはどうするつもりなんですか」

「すまんとしかいえん」

「あなたは誤解しているっ。オレと彼女はそんな関係ではないんだ」

「いまさら、だって……知ってるんだ……会ってただろ?」


「あれは、あんたのことを相談されてたんだよっ。酒量が減る薬はないかって! 隊長さん、彼女に苦い茶淹れてもらわなかったか? あれは、酒がまずくなる薬なんだよ。体質的に合わなかったみたいで、すぐに切り替えたんだけど……こそこそしてたのは謝るよ。けど、誓っていえる。彼女は夫を裏切ってしゃあしゃあとできるほど器用じゃない」


 あ――えぇと――ああ。

 すとんと、なにか重い枷がはずれたような気がする。


 確かにユリーシャはこいつのいうように、ふたりの男を器用に渡り合えるような性格ではない。


 安心しなかったといえば嘘になるだろうが、俺は人さまの話をそのまま鵜呑みにできるほど若くはなかったし、本質的には、そのあたりは蒸し返しても意味がないのだ。


 確かにわかっていることはただひとつ。

 もう、俺とユリーシャが人並みの幸せをともに歩むことは不可能だということ。


「ユリーシャは清い身体のままだ。俺は夫としてもひとりの男としても彼女に釣り合うような人間じゃなかった。だから、頼むとしかいえない。ほら、早くいってくれ。この俺の気が変わらないうちに」


「あんたは……馬鹿だっ! 大馬鹿だっ! ここで逃げたって、誰も隊長さんのことを笑ったりしないよっ。わかんねぇ……ぜんっぜんわかんねぇよっ。なんで、なんでだよ……なんで、これから死ぬってのに、そんなふうに笑うことができんだよっ!」


 血の吐くような叫びに、はじめて自分が微笑んでいることに気づき、無精髭でザリザリする頬を平手で撫で上げた。


 なんでかなぁ、ハリー。そんなことは自分にもわからないのさ。


 ハリーはエンペイロやレイジニアの城主にかけあって必ず援軍を送ると涙ながらに語って馬車を発進させた。 


 遠ざかる車輪の音を掻き消すように、ミーシャが物悲しい遠吠えをほとばしらせる。

 切なく響く鳴き声は、ただ寒々しく俺の胸にぽっかりと空虚な穴を広げるしかない。


 俺は闇に溶けてゆく家族の姿を、ほんの少しだけ眺めると、誰もいなくなった村へと脚を運んでいった。






 愁嘆場は終わった。ここからは頭を切り替えていかなければ、なんの成果も残せず消えゆくことになる。


 それだけは許せない。それだけはいけない。そもそも残された時間は残り少ない上、こちらは徹底的に孤軍なのだ。


 こと、あの会議の前に、周辺領主や土豪たちへと一応「東征安鎮将軍」の名を使って合力を頼んだが、この期に及んで影も形もない。


 ということは国境線の長城は味方側からも完全に放棄されたと考えて差し支えないだろう。


 問題なのはユーロティア軍のほうだ。落ち着いて考えると、この長城がもぬけの殻であることは少々間諜を送ればすぐ判明するはずである。これほど大規模な軍事行動を起こしておいて、それがまったく彼らの作戦要綱に入っていないとは考え難い。


 最初から高を括っていたのか。


 それとも、長城を落とす気はなく、ただ国境線ギリギリをゆく示威行為なのか。


「いや、ないな」


 最初から頭の片隅にあった嫌な事実がチラリと掠めてゆく。

 ロムレス側に内通者がいる。


「今はそんなことを考えている場合じゃないか」


 俺は無人になった村内を足早に通り過ぎると詰め所で、先ほど斃した偵察兵のユーロティア製軍服に着替えて偽装し、夜陰に乗じて敵陣に乗り込んだ。


 散星号を駆って複雑な地形を移動する。この地には七年も住んでいる。塞外から離れているとはいえ、敵兵よりも俺のほうがよほど詳しい。


 前陣である騎兵軍団からやや距離を開けた場所に本営は築かれていた。 十五万をはるかに超える大軍団である。


 ぐるりと柵を築いてあるが、かなり多数の傭兵や、それらを充て込んでの移動商人や娼婦たちが無数に寄り集まっているいるせいか、それほど警戒は厳しくない。


 なかに易々と潜り込めたことにちょっと拍子抜けした。考えても見れば、ユーロティアは内乱の続いたロムレスと違って、もう長いこと大規模ないくさを行っていなかったらしい。


 俺が若い頃は、ユーロティアの第三軍といえば精鋭中の精鋭と知られていたが、軍紀の乱れは目を覆うほどだ。が、なにもこれは敵軍だけの問題ではない。


 万余を超える軍団には、それと同数ほどの輜重隊が必要とされるし、万余を超えれば我がロムレス軍もさほど変わりはないのだろう。


「やけに傭兵が多いぜ。やっぱし」


 俺は上手く柵のなかに潜り込むと、飲めや歌えの前祝いをしているテントとテントの間にできた盛り場のような通りを足早に通り過ぎた。


 どうやらユーロティアは数千からなる多数の傭兵部隊を混在させて駐屯させているらしい。


 どの男も安っぽい娼婦の肩を抱いて景気がよさそうだ。耳をすませれば戦闘の前にかなりの賃金を前払いしたらしい。士気は低くない。


――なら、ここいらで一発出鼻をくじいてやらにゃならんな、と。


 ガラの悪い男たちの間を縫って移動すると、途端に検問が厳しくなった。


 紺色の軍装はユーロティアの正規兵で、さすがに傭兵と違って酒の匂いをさせたり顔を赤らめている者はいない。


 ここでビクついたり変にせかせかすると気づかれる確率が高くなる。平静を装ってなんとか敵どもをやり過ごすと、軍需物資を満載し荷馬車や、それらが山と積まれたテント場にたどり着いた。


 四人ほど見張りがいる。ユーロティア人らしく、肩幅が広くて背が高い警備兵はいかにも勇猛そうだが俊敏さは欠けているようだ。


 素早く動いて剣を使った。最小限のスピードと力で充分だ。俺の剣は男たちの、甲冑からわずかに覗いている喉元をかまいたちのように抉り取るとまばたきの間に絶命させた。


 さあ、ようやくお仕事に取りかかれる。俺は軍隊行李の積まれたムシロへ魔術で次々と火を放って、ばれにくいようかがり火の台を押し倒し、失火を装った。


「き、きさま――! いったいここでなにをやっているかっ?」


 クソ真面目な番兵もいたもんだ。男は俺が昏い目で火つけに勤しんでいるのを発見すると有無をいわさず槍を突き込んできた。


「ったく。こっちは悪い火遊びの最中だ。邪魔すんなって!」


 パッと槍のケラ首を掴むと長剣を走らせ穂先を叩き落した。恐怖に目を見開いた男の喉元に剣を埋め込むと、素早く腰のあたりを蹴って剣を引き抜く。


「そんじゃあ地獄のショウ・タイムといこうかね。ユーロティアの皆々さまがた」


 軍を軍足らしめているのは、食料や武器、旗指物に馬のかいば、衛生材料などの膨大な物資だ。


 たいてい、糧道を確保し、丁寧にロジスティクスを整えるよりも、進軍した先であらゆる物資を強奪するほうが手間がかからず、かつ敵に深いダメージを与えることになるので一石二鳥というところだ。


 反撃力のない無辜の民から財産・生命を奪って領主の権限を失墜させ、自軍の兵の飢えや懐を満たすのはいくさの醍醐味である。


 そして兵たちも将校から雑兵に至るまでそれを当然の余禄として考えているの天地自然の理といっていいだろう。


 火を見ると人間は本能的に恐怖を感じる。また、このとき、俺は十年に一度あるかないかというほどツキがあった。


 戦場では理知を際限まで突き詰めて行動するのは当然であるが、やはり最後にものをいうのは運だろう。


 ツキはなかなか侮れないものがある。軍隊では異様にゲン担ぎを気にする人間は多いし、日頃ついていないやつのそばというのはやはり敬遠されがちだった。


 風。強烈な風が、深更、この丘に吹き荒れた。それなりだった火勢は烈風にたちまち煽られると、あっという間に化け物に育ったのだ。


 こうなればこちらで指示しなくても、誰もが慌てふためいて騒ぎ出す。酒がたっぷり入っていた上に、今、娼婦を天幕に引き込んでお楽しみだった傭兵たちの混乱具合は特に凄まじかった。


 俺は、懐から鳥型に切り抜いた紙を引き抜くと、まじないでかりそめの命を与え、火でできた小鳥の使い魔を十数羽作り出した。


「さあ、おまえたち。今夜はパーティーだ。好き放題踊って構わない」


 燃え盛る火炎の小鳥たちは口々に叫びながら、陣屋のなかを飛び回って、火と混乱をバラ撒き出した。


「傭兵たちが裏切ったぞ」

「やつらはあちこちに火をつけて回ってる」

「ロムレスの内応者たちだ」

「裏切者が暴れているわ」

「そっちにいったぞ」

「誰か助けて」


 たとえば、俺ひとりが騒ぎまわったとしても、声が一種類では冷静な人間が人為的に起こした混乱だと読み取ってしまうかもしれないが、こうして火の小鳥たちが種々の人間の声色であちこあちを飛び回り叫び続けばその可能性を減らすことができるのだ。


 灰のなかの熾火と同じである程度かき回してやれば、あとは勝手に熾ってくれる。


 たちまち猜疑心に駆られた者たちがあちこちで同士討ちをはじめた。

 特に傭兵たちの暴れようは見ていて憐れになるほどだ。


 数えきれないほどの傭兵団を歩兵の一部に組み入れ尖兵として使い潰すつもりだったのだろうが、それがモロに裏目に出た。


 怒声と悲鳴。逃げ惑う娼婦のドレスに火がつき、ひと儲けを企んでいた欲深な商人たちの荷馬車は紅蓮の炎で舐め上げられ、混乱と恐れで口からあぶくを吐き出し、手綱を放れて走り回る馬たちは下着姿で転げる雑兵たちを馬蹄で踏みにじった。


「落ち着けっ。これはタダの失火なのか……!」


 部下を指揮して混乱を収束させようとする将校がいれば片っ端から斬り伏せた。武器庫から奪った弓を使って的も絞らず矢を放つ。なにせ自分以外は全員敵。誰でもいい。ひとりでも多く傷つけることによってユーロティアの軍威を徹底的に貶める。


「げっ。やっべ……ここにいたら俺も煙に巻かれちまう。そろそろかな」


 火ではなく黒煙で喉をやられた兵たちが、テントの合間へ無数に転がっている。経験からいえることなのだが、こういった煙を長く吸うと、火傷を負わなくてもころりころりと人間はすぐに死んでしまう生き物なんだ。


「きさま……! 逃げずに消火を手伝わんかっ」


 もじゃもじゃした髭のやたらに偉そうにした将校が、三人ほどの兵士を連れてゆく手を遮った。


 無言のまま火球を作り出すと、ポカンとした顔でこちらを見ている兵たちの顔面へと間を置かず叩きつけた。


 兵たちは絶叫を上げながら地に転がって火を消そうと苦悶し、四肢を躍らせる。ようやく目の前の人物が敵だと理解したのか、髭の将校は瞳を憎しみに燃え立たせながら手にした剣で斬りかかってきた。


「何者だあっ――!」

「ロムレスの将、ジラルドだ」


 抜く手も見せず剣をひらめかすと襲いかかってきた髭の喉笛をすらと斬り裂いた。


 どっと赤い血が男の喉からあふれ出て、重そうな勲章を着けた小奇麗な軍服は地に落ちた。


 軍営の混乱は猖獗を極めていた。俺は軍馬の繋いでいる厩に移動すると、未だ持ち場を守っている十人ほどの小隊へ有無をいわさず斬りかかった。


 左右に素早く動いてふたりを斬り伏せる。槍を抜いた男が突っかかってきたが、ギリギリを見極めて穂先をかわすと、柄の半ばを割ってバランスを崩したところで顔面に刃を叩きつけた。男の顔に朱線が走って血塗れになる。


 すかさず前に出てロクな動きも取れない年若の馬丁たち。彼らの喉首を立て続けにふたりほど抉った。遮二無二三人ほどが勇ましくも斬りかかってくる。俺は軽々と男たちの剣を撥ね上げると、斬撃を見舞って革鎧ごと叩き斬った。逃げようとした男の背中に剣を埋没させ、尻もちを突いて命乞いをする男の頭部を唐竹割りにすると、繋がれていた馬たちを解放して、混乱さながらの火のなかへと送り込んだ。


 百匹ほどの馬が狂ったように軍営のなかに駆け込んでいく。


「もっと、もっとだ。もっと混乱しろ」


 頃合いを見計らって陣を抜け出そうとしたところ、背後から一隊が追いかけてきた。


 数は、十四、五といったところか。たちまちに矢を射かけられたが草むらに伏せてしまえば早々に見つからない。


 無警戒に近づいてきたところで呪文を詠唱し火炎の雨フレイムシャワーを浴びせてやった。


 唸る炎の雨を突如として喰らって、敵の一隊はかがり火に落ち込んだ蛾のように絶叫を上げて踊り狂った。肉や髪が焦げた嫌な臭いがあたりに漂った。


 足早に走ると隠しておいた散星号に跨って、赤々と燃えていく敵本営をジッと凝視した。


 思った以上に火の回りが早いのは、折から吹き荒れた強風に助けられたものだ。


 黒々とした闇のなかに咲く満開の躑躅の花のように赤い。


 これならば遠くの村々からも異常事態がわかるだろう。周辺の村々に通達は出したが、果たしてどこまで俺の意図が通じているかは疑問だ。


 この火を見て、ひとりでも多く遠くへ逃げ延びて欲しい。パッと見て敵陣はかなりの痛手を被ったはずだと思うがなにせ数が違い過ぎる。ときを稼げて半日というところだろうか。


 明日早朝の攻撃が昼以降に伸びるくらいで、それ以上の遅延はないだろう。


 このあたりでもっとも高い地形に陣取っていたおかげで、軍営の後方に伸びてゆくポツポツとした小さな灯りの点を認めることができた。おそらく期を見るに敏な移動商人たちが物資を満載したパン焼き部隊を逃がし出したのだろう。ユーロティアの軍勢はハナから持参した食料は少ないと、荷駄隊を見れば見当がついた。


 あれを放っておくという手はないだろう。


「散星号。残党狩りだ。ロートルのおまえにゃ夜仕事はきついがもちっと踏ん張ってくれ」


 俺の言葉に相棒は棹立ちになっていなないた。相変わらず心強い野郎だぜ。

 手綱を握って散星号を走らせ、荷駄隊が退いていく真横につけた。

 それほど深くない川を挟んで伸びきった隊列が無防備な横腹を晒している。


「馬鹿なやつらだ。これじゃあ、襲ってくれといわんばかりだぜっ!」


 俺は火属性魔術でも、もっとも飛距離があって破壊力にすぐれた火炎砲弾フレイムキャノンを唱えると、荷駄隊の横合いから片っ端に打ちつけていった。


 どおん、どおん、と。地響きのような炸裂音が天地を揺り動かし、敵の荷馬車を粉微塵に破壊していく。


 こちらの魔術攻撃に気づいた敵兵は盛んに応射してくるが、こんなヘロヘロ矢なぞ怖くもなんともない。


 そもそも、狙いも定まらず有効射程距離からはるかに遠い場所に位置するのだ。


 俺は散星号に騎乗したまま位置を変えつつ、やたらめったら術を撃ちまくった。


 一方的な殲滅戦だ。が、川の水深はそれほど深くないので、業を煮やした兵たちが土手を駆け下りそろそろ向かってくるだろう。


 しばらく小荷駄隊を屠ることに専念していると、数百の松明の群れが川に向かって近づき出した。


 そろそろ退くか。そう判断を下そうとしていると、荷馬車の隊列から、ワッと歓声が上がった。


「なんだ、同士討ちか?」


 こちらに向かおうとしていた兵たちの動きがとまどったように遅くなった。俺は目玉に魔力をぶち込んで強化すると、対岸で起きている騒動を凝視した。


 そうか! 新手は内乱でも同士討ちでもなく、ここいらあたりに巣くう野盗の群れが、無防備な軍の荷物を狙って荒稼ぎをはじめたのだ。


 国境付近に蟠踞する野盗の群れは、ときには数千を超える大部隊にもなる。


 彼らはユーロティアの軍勢に乱れありと見て取ると、命を捨ててお宝をかっぱぎにかかったんだ。


 幸運にほくそ笑んでいる暇もなく、俺は川から上がってきた部隊とまもなく交戦するハメになった。


 ざあざあと矢が雨のように降りかかってくる。素早く魔術を唱えて火弾を敵中に叩き込んだ。蒸発した川の水煙が闇のなかで次々と立ち昇る。


「馬鹿なやつらだ。さあ、来やがれっ。たっぷり川の水を飲ませてやるぜ!」


 小競り合いを空が白みはじめるまで続けていると、本隊からの増援が到着したのか敵勢が生気を取り戻してゆく。


 まだ、ここで決戦を行うつもりはない。俺は挑みかかってくる敵兵を灼き殺しながら、散星号に鞭をくれると、とっととその場を退散した。






 夜が明ける前に村には戻れた。散星号を厩に繋いで、詰め所の椅子にどっかと腰を下ろした。


「いちち……くそ。一発喰らってるし」


 俺は左肩に刺さっていた矢を引き抜くと、血みどろになったそれを床に投げ捨て治療をはじめた。


 火属性に特化した俺は治癒魔術など一切使えないので、常人並みの応急手当で対応するしかない。矢は、先っちょが刺さっただけで動きに支障はないが、こういうのを放っておくとあとで腐ってぐずぐずになるのを戦場で何度も見てきたので、消毒は念入りにやっておく。


 酒のなかでも一番きついやつを取り出して吹きつけ、軟膏を塗り込んで包帯を巻いておけば血はそのうち勝手に止まった。


 酒瓶に残った酒精をぐいぐいと呷ると、喉が焼けるよう火が走った。かれこれどのくらい戦っていただろうか。水を飲む暇もなかったので、さすがにこいつは効いた。


「かあっ。こたえらんねーな」


 腹が減ってはいくさはできぬということで、詰め所に残っていた干し肉やら、固くなったパンやらを無理やり胃に詰め込んだ。


 外に出ると世界は水色の染まりかかっていた。間もなく夜が明けるのだ。ユーロティア軍は予期せぬ夜襲を受けたので、陣をさらに後方に移し再編成を余儀なくされているから、今すぐここに攻め寄せてくることはないだろうが、油断は禁物だ。


 いざいくさとなれば、俺は三日四日寝なくてもいいように若い頃から身体に叩き込まれているので眠気は一向に差してこない。


 ジッとしていても仕方ないので、村のあちこちを見回ることにした。


「そういえば、こんなとこに七年もいたんだよなぁ……」


 十八からの七年間。人生でももっとも貴重なときを、俺は怠惰に過ごした。それは誰もせいでもなくすべて自分が選び取った結果だったのだ。考えてみれば、やるべきことはいろいろあったのに、破棄をなくした俺はのんべんだらりと無駄に過ごしてしまった。


 家に戻ってそっとなかを除いてみたのだが、当り前のようになかには誰もいなかった。


 ――おとーしゃ、おかえりなさいっ。

 ――ジラルド。お勤めおつかれさま。さあ、スープが冷める前に食べてしまって。


 ここには、もう俺を迎えてくれるものは誰もいない。


 でも、確かにここには少しだけど人間らしい生活を思い出せてくれた大切な記憶があったんだ。


 胸のなかが熱くなってくる。苦しい。思わずテーブルに手を突いて、崩れ落ちそうになる。


「くそっ。んだよっ……! 泣くな、こんなことで泣いてんじゃねえっ!」


 なっさけないな。自分で決めておいて、本当女々しい野郎だぜ、俺は。

 ここにいてもセンチメタルになるだけだ。


 家をあとにすると、幾度も通った散歩道やユリーシャとミーシャを抱いて歩いた散歩コースを知らず、たどっていた。


 いつしか、彼女たちと一度だけ来たことのある草原で俺は座り込んでいた。


 朝日がきらめいて、草木が緑に萌えている。

 そうか、もう春が来ていたんだ。


 ここで寝転がって、飯を食って、ミーシャに花飾りの冠を作ってやったっけ……。


 しばらくぼうっとしてから、長城の城壁に上って丘の彼方をジッと見つめた。


 どのくらい経っただろうか。再編成に手間取ったのだろう。ようやく俺が待ち望んでいた最後のときが土煙を上げて近づいて来た。


 旗、旗、旗、と。ユーロティアの青地に白竜の紋章が整然と並んでいた。


 手にした酒瓶にはまだたっぷり酒精が残っている。

 口をつけようと思ってやめた。

 最後の瞬間くらいはシラフで戦ってやりたい。

 もう逃げることはできない。誤魔化すことはしない。

 だって、俺が選んだこの道は、絶対に後悔しない真実なのだから。


「やっと酒がやめられたみたいだ」


 手にした酒瓶を放り投げると、それはくるくると宙を舞って城壁の下へと落ちていく。


 目の前には二十万の軍勢が地を覆わんばかりにひたひたと世界を埋め尽くし迫っていた。




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